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story 内容紹介著者からのことば
  上京して10年が経ち、そろそろ東京を描きたいなぁと思うようになりました。なかでも、「これは東京に住んでみないとわからないことだった」最たるものが、東京には貴族がいる、ということでした。
「下から慶應」がどれだけ特権階級的なステイタスなのか、上京してきた人には感覚としてよくわからない。そういう一部の人たちが、世襲で政治家になって日本を動かすのが「普通」であるのも、地方出身者からすると斬新に思えたのでした。階層の固定化とはこのことか、と。
東京のお金持ちを2年ほど取材して回りましたが、知れば知るほどその世界は、テリトリーも人間関係も狭くてとても保守的。彼ら特有の「地元に居続けてる」感は、わたしがよく知るいわゆるマイルドヤンキー的なものと、根っこの部分は似ている気がしないでもなかったり……。
ゲスな好奇心で上品な世界を描きましたが、同時にこれが女性たちにかけられた呪いを解く、新たな物語であると感じていただければ幸いです!


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profile 著者プロフィール



book-review 書評
原田曜平氏(「小説すばる」2016年12月号より) 私たちは何を持っていて、何が欲しいのか?
   今、目の前にあることを書く。誰も触れないけど、確実にそこにあることを山内マリコは書く。タイトルから、女同士のマウンティングとか、格差がどうとかそういう内容を期待するかもしれない。けれど、これは、まったくそういう話ではない。
 東京に生まれ、渋谷区の松濤に持ち家があり何不自由なく暮らす華子は、結婚相手を探す段になり、自分は自分と同じハイクラスの人間としかつきあえない、わかりあえないと感じる。逆に、ハイクラスの男と付かず離れずで交際している美紀は、男が絶対に、庶民で利用価値のない自分とは結婚しないということを知っている。どんなに気が合っていても。
 東京には目に見えない階級があり、男も女もそれに囚われている。その階層の中での当たり前のルールに従い生きることが、一番安心な道なのだ、とハイクラスの人たちは思っている。華子もその一人だったが、理想と思える結婚をしても、そこで自分の心は置き去りにされてしまう。
 決まった階級やグループの中で、人に羨ましがられるような立場に立つとか、いい男と結婚するとか、そういうゲームの中でも人は普通に傷つくし、なにも感じないはずがない。感情や心が求めているものを無視しすぎると、空虚な毎日が待っている。そのことを登場する女たちは自分で悟っていく。そして階級や、ステイタスを持っている男を追いかけることではなく、自分で自分を肯定できる世界へと向かってゆく。
 経済的に恵まれていて、当たり前に教養がある女、逆にそんな余裕はまったくない庶民の女。お互いに、お互いが持っているものを持っていない。でも、自分が持っているもので、自力で自己肯定感を得るために、彼女たちは変わる。
 わたしたちは、どうすれば幸せになれるのか。ものすごく普遍的なテーマに挑戦している作品だと思う。山内マリコはいつも、今の普通の中の普遍を描いている。



*ご寄稿いただいた雨宮まみさんは、11月15日にご逝去されました。心よりご冥福をお祈りいたします。
雨宮まみ氏(「青春と読書」2016年12月号より)
   この小説は、フィクションとしてだけでなく、極めてリアリティの高いルポとしても楽しむことができる。慶應義塾大学の付属小学校である幼稚舎出身の幸一郎と、彼の妻となる名門女子大(明示されていないが恐らく聖心女子大と推測できる)出身の華子を中心とした、一般には見え難いものの、東京に確固として存在する「階級社会」、言わば東京版「ゴシップガール」の世界観が詳細に描かれている。「格差社会」がキーワードになる2000年代の遥か前から存在する、しかし恐らくは99%の日本人が知らない世界である。
 かくいう私も慶應大学出身。しかし、私には愛校心が少ない。何故なら、「私ごときが慶應生と名乗って良いのか」というコンプレックスがあるからだ。その源泉には、地方の漁師町出身で大学から慶應に入った登場人物・美紀のコンプレックスと同じく、慶應の「幼稚舎」という存在がある。
 私の大学時代、幼稚舎出身のゼミの同期の男子が「幼稚舎から友達の女子がどこの馬の骨か分からないやつと結婚することになって心配してるんだ」と言ってきた。てっきり相手は「半グレ」か何かだと思い「それは心配だね、相手はどんな人?」と彼に聞くと、「大学から慶應のやつで電通に就職したんだ」と真顔で言われて腰を抜かしそうになったことがあった。幼稚舎出身の彼からすれば、大学から慶應に入学した人は〝外〟の人で、私自身も彼に純粋な仲間と思われていなかったことに気づいた。
 このように、本作を読むと、この格差の時代に、その象徴である特権階級の実態を覗き見することができる。同じく特権階級を描いた太宰治の小説『斜陽』のように、彼らには庶民には分からない貴族ならではの苦しみや、没落することに対する大きな恐怖感があり、「恵まれた人たちも自分たちと同じように(或いは自分たち以上に)苦しんでいるんだ」と、庶民である読み手が大変勇気づけられる側面がある。
 大学から東京に出てきた美紀は、慶應、特に幼稚舎出身者たちにずっと憧れ続けるものの、終盤、特権階級である彼らが「東京の真ん中にある、狭い狭い世界」の住人であり、人間関係や出来事に何の変化もない生活に満足する、地元に残った「マイルドヤンキー」である弟たちと本質的には同じ存在であると感じ取る。そして、そのどちらでもない自由な立場にいる自分の方が幸せだと気づく。同時に、特権階級の〝中〟にいる華子も、〝外〟の世界で幸せを得るようになる。
 格差が広がり、徐々に階層社会になっている日本で、太宰とは違った切り口の現代版の『斜陽』は、我々が自身の今後の「幸せ」を考える上で大変意義深い材料と言える。
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editor's column 担当編集者より
  東京生まれの箱入り娘VS地方生まれの雑草系女子!? 東京の上流階級を舞台に、アラサー女子の葛藤と解放を描く、山内マリコ『あのこは貴族』。

  東京生まれの華子は、20代後半で恋人に振られ、名門女子校の同級生が次々に結婚するなか焦ってお見合いを重ねた末に、ハンサムな弁護士「青木幸一郎」と出会う。
一方、地方生まれの美紀は、美人ながら32歳で恋人ナシ、腐れ縁の「幸一郎」とのダラダラした関係に悩み中。ひとりの男をきっかけに境遇のまったく違うふたりが出会うとき、それぞれ思いもよらない世界が拓けて――。

著者は、デビュー作『ここは退屈むかえに来て』をはじめ、地方都市の郊外に住む女子のリアルを活写して人気を博してきたが、今作の舞台は初めての「東京」。

「苦労してないって、人としてダメですよね」――と華子。
「自分はお話にもならない辺鄙な場所に生まれ、ただわけもわからず上京してきた、まったくの部外者なのだ」――と美紀。
それぞれの葛藤を抱えながら幸せを捜し求める、アラサー女子の恋と人生の行方をぜひお楽しみください。

(担当AT)


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