試し読み

「もう一度、君と」

 それは、夜光虫の燈だったのでございます。

 女が、鼻緒のほつれた下駄を脱ぎ、境の曖昧な夜の海にいざ踏み入らんとしたところ、突如わっと目の前の闇が青く光り、それが女には盆の人魂めいて見えたものですから、女ははっと驚き立ちすくみまして、ずっとその、此岸と彼岸の狭間じみた光景に、怖気づきながらも魅入られていたのでございます。

 不知火を見た、と女は思いました。

 しかしそれは誠にただの、夜光虫の繊弱な燈だったのでございます。ですが、信心深い女は──今は貧しい身なりでございますが、その褪せた文様入りの白小袖の召し物は、富貴な武家か商家の出と窺わせます──そこで雷に打たれたように畏まり、暗い浜波に素足を洗わせつつ、その摩訶不思議な青い燈明が明滅するさまを粛として眺めるほかありませんでした。

 薄月夜でございます。

 空には御簾のような雲が掛かり、そのぼやけた墨色の天井は、明け始めた東の側から徐々に紺碧に澄み渡ってまいります。

 あたりには、ざざあ、ざざあと、小豆を洗うような潮騒の音ばかりが響きます。じっとりと濃い潮の風が、女の髪を撫ぜ、こねくり回し、粗暴に打ち捨てては過ぎ去ります。

 うみゃあと、海猫が明闇の中で叫びました。

 その瞬間でございました。女の顔がひどく歪んだのは。波間に揺れる青い燈に心奪われていた女は、そこで初めて我に返ったように、顔に苦渋の色を浮かべました。骨と皮ばかりに瘦せさらばえた手が、くたびれた腹帯あたりをまさぐります。荒れた唇が、声もなく開き閉じを繰り返します。

 女はそのまま腹を押さえて蹲りますと、着物の裾を黒い潮水に浸しつつ、嗚呼……と小さな声で喘ぎました。

 嗚呼……。

 女の口から洩れた呻きは、しかし打ち寄せる波と潮風の音にあえなく搔き消されました。するとその声を耳ざとく聞きつけたように、今度は海の闇から再び、うみゃあ、と海猫の声が返ります。

 嗚呼、嗚呼……と、うみゃあ、うみゃあ……と互いに呼びかけ合うような人と鳥との応酬は、いつ終わるともなく続きました。

 いつしか女の頰は涙でしとどに濡れておりました。女にはその海猫の叫びが、まるで赤子の産声のように聞こえたのでございます。

 女は小半刻ほど、そうして喘いでおりましたでしょうか。そのうちに東の空が白み、海の沖にいくつか舟影が見えてまいりました。朝の漁を終えた材木座村の漁師たちでございます。女はそれに気付くと、諦め顔で立ち上がり、のろのろとまた下駄を履き直しました。そして海に背を向け、朝日から逃れるように浜辺の松林のほうへ歩を進めます。

 やがて空が明け、浜に漁師たちの野太い笑い声が響きました。しかしそのころにはもう、当の女の姿は影も形もございません。

 そこにはただ波と砂と、朝まずめの中で早速今日の狩りを始める海猫や鳶、そして申し訳程度の足跡が残るだけでございます──。

 人工現実体験装置に没入中の私の視界の端に、ポンとメッセージが表示された。

 VR鑑賞中の通知設定をオフにし忘れていた。己の不注意を呪いながら指を振ると、仮想の鎌倉の朝焼けを描いた美麗なグラフィックの中心に、無粋な四角い窓が現れる。

 中にカエルのキャラクターが表示されていた。会社の同僚、三橋──の、分身キャラクター。いわゆる「アバター」だ。

「今、いいか?」と、カエルが喋る。

「ああ」と、私は答える。

「悪いな、休職中に」

「いや」

「体調はどうだ?」

「まあまあ──そっちはトラブルか?」

「ああ。例のWシリーズ、米国向けマンモグラフィーの診断人工知能だが、現開発バージョンが品質テストの最終段階で弾かれた。このままじゃ来月頭に控えている米国食品医薬品局の審査を通らない」

 私は眉をひそめる。思った以上に重大なインシデントだった。マンモグラフィーのWシリーズは、元はカメラメーカーとして生まれ、今は医療機器メーカーに転じた我が社の主力製品だ。それが米国の保健機関であるFDAの承認を通らないとなると、売上の三割を占める米国向け輸出が再審査待ちで数か月は滞ることになる。業績への影響は甚大だろう。

「過学習じゃないか? パラメーターを調整して再学習させたらどうだ」

「だと思うんだが、そのチューニングができる人材がいなくてな……。三日でいい、業務復帰してくれないか? 尻拭いさせて悪いが」

 私は仮想現実の朝焼けに目を向けた。私が休職したのは現バージョンの開発フェイズに入る前だから、今回の開発には直接関与していない。しかしWシリーズの初代バージョンを設計したのは私だし、その基本構造はそれほど変わりないはずだ。

「わかった。対処しよう」

「恩に着る。サーバーはいつもの開発系を使ってくれ。給与はひと月分で出すよう経理にかけあっておく」

「了解」

 私は軽く手を振り、速やかに通信を切った。

 灰色のウィンドウが消え、眼前には再び息を吞むほど美しい暁天の空が広がる。

 この時を止めた世界にこのまま浸っていたかった。が、そういうわけにもいかない。私はため息とともに手指を動かし、ログアウトのジェスチャーをとる。

 魔法が解け、白い壁が私の視界を遮った。

 窓さえない、簡素な四畳半ほどの小部屋。

 それが私を取り巻く現実だった。人工現実体験装置は四隅を柱で支えた箱状の物で、私の体は上下から伸びたワイヤーに操り人形のように宙づりにされている。私はそのワイヤーとつながったグローブやブーツから腕や足を抜き、頭に嵌めたフルフェイスのヘルメット──映像と音を伝えるヘッドマウントディスプレイ──を脱いだ。その他、身に着けた細かいバンド類を一つ一つ外していく。

 装置から降り、モニターに表示された今のVRソフトのタイトルを見やった。

 雪之下飴乞幽霊──。

 鑑賞型VRソフトの人気シリーズ、「鎌倉怪談」の中の一話である。

 脚本家は守善名秋。主に江戸時代以前の日本を舞台にした、抒情的な作風で知られる。

 VRが一般的な娯楽として普及したのは、ここ最近のことだ。

 もっとも主流なのは目と耳のみを覆う視聴覚系のVRで、今私が体感していたような全身没入型の装置はまだまだ少ない。が、それでも従来の映画やテレビなどの二次元コンテンツとはその臨場感において比べものにならないので、今や娯楽産業はVR花盛り、といった状況である。

 この「鎌倉怪談」を買ってきたのは、妻だった。

 そもそもこの「全身没入型人工現実体験装置」を欲しがったのも妻だ。どこか夢見がちで、地に足のつかない妄想を楽しむ性癖のあった妻には、このVRという娯楽はまさにうってつけだったのだろう。

 あるとき私は、妻がなぜそんなにVRが好きなのか訊いてみたことがある。

 すると妻は答えた。

 ──だってこんなこと、現実じゃ絶対に経験できっこないじゃない。

 また私は、妻がなぜ一人でVRを楽しまず、必ず私を誘おうとするのか訊ねたこともある。

 すると妻は少し間を置いてから、

 ──一人だと、少し怖いの。

 と、ぽつりと答えた。

 二つ目の答えはわかるようでわからなかった。ただ彼女のVRソフトのコレクションにはホラーものが多かったので、一人でホラーを観るのが怖いという意味だろう、とそのとき私は解釈した。

 特にこの「鎌倉怪談」シリーズは彼女のお気に入りで、新作が出るたびに私は長い上映会に付き合わされた。数時間は立て続けに見るので、始まる前に「トイレは済ませた?」と妻から訊かれるのが恒例の儀式のようなものだ。

 そんな妻の趣味が私を不満にさせるということは一切なく、それは夫婦の潤滑油のようにうまく機能した。在宅勤務の私が書斎から休憩に出てくると、リビングでうずうず顔で待っている妻の姿がある。そして彼女は私の肩などを揉みつつ、「気分転換でもしない?」と、言葉巧みにVRの世界へと誘ってくるのだ。安全で安心、かつ費用も初期投資以外は大してかからないこの安価で慎ましい娯楽を、私たちは心の底から楽しんでいた。それは私たちの生活の潤いだった。

 だが──。

 私は部屋の入り口で立ち止まると、中に並んだ二台の装置を解せない思いで振り返る。

 ではなぜ妻は、この「飴乞幽霊」を観たあと、忽然と失踪してしまったのだろうか。

<続きは本編でお楽しみください>

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ベーシックインカム井上真偽
遺伝子操作、AI、人間強化、VR、ベーシックインカム──
来たるべき世界に満ちるのは、希望か絶望か。
「未来」に美しい謎を織り込んだSFミステリ短編集。

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