目次
- プロローグ スイングバイ
- 第一話 砂漠を進む英雄
-
第二話
鋼 と宝石- 1. COLORFUL RELATION
- 2. TAKE ON THE MISSION
- 3. CITIZEN AMONG MONSTERS
- 4. REMOTENESS
- 5. HOWL OF SORROW
- 6. MASTER AND SERVANT
- 7. FIRED
- 8. TIPSY ALONE TOGETHER
- 9. STEEL VERSUS JEWEL
- 10. FAIR AND AGGRESSIVE
- 11. BREATHLESS
- 12. SAVAGE PLAYMAKER
- 13. SHARP TONGUE AND RIGHTEOUS
- 14. BIG SERVERS
- 15. MACHINE’S OVERLOAD
- 16. COMMON KING
- 17. EUPHORIA
- 18. WILD-GOOSE CHASER
著者プロフィール
- 壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】
-
沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。
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第二話
6. MASTER AND SERVANT
八重洲大は第九戦で
最終日第十一戦、Aコート第二試合で督修館を下して三連勝を飾り、十勝一敗で秋季リーグを終えた。黒星は慧明につけられた一つで踏みとどまった。
総合順位はまだ確定せず、直後にはじまるAコート第三試合、九勝一敗の横体大と十勝中の慧明の直接対決の結果にゆだねられた。
「まだ最終結果待ちだけど、秋リーグお疲れさまでした。じゃあA3見に行く奴はダウンしてから行くように」
廊下で短いミーティングがあり、
「それと、三年──」
と、
「三年は早めに次期主将と幹部の候補を決めておけ。全カレと天皇杯が残ってるけど、全カレ終わったら引き継ぎする。
高梁の視線をなぞって太明は振り返った。集団の一番後ろに距離をあけて立っていた破魔がかすかなモーター音が聞こえてきそうな首の動きで高梁を見返した。
「……はい」
応えた声も平板な機械音のようだった。
ミーティングがばらけると四年はスタンドに試合を見に行き、一、二年たち下級生はA3の審判としてコートに戻ったり、閉会式後の帰陣のためあらかじめバスに荷物を積み込む仕事に散った。
三年はなんとなく顔を見あわせて廊下に残り、「そっか。もう引き継ぎかー」とざわざわと話しだした。
どちらかというとぼやき口調なのは最終学年になることへのプレッシャーゆえだ。雑務が多い下級生でもなく、最上級生の責任も負っていない三年というのは四年間の中では一番気を張らなくていい学年だったのである。
仕切りを任された破魔に同期の注目が集まり、その発言を待った。
破魔の目の焦点は同期の特定の誰の顔にもあっていなかった。同期全員を視界に入れていたが、心を持たない防犯カメラがただフレームに入るものを録画しているだけのような表情のまま、結んでいた口を開いた。
「主将には
破魔の発言にささめきが起こった。
八重洲の主将は原則としてコートに一番長く入っている中心メンバー──ひらたく言うと「一番強い奴」がやるのが代々の慣習だ。そして上一が「一番強い奴」と見なされることが多い。上一は学年内で身長順で「上から一番目」の者を指す。もちろん身長が全てではないにしろ、早くから期待されてコートに入ってきた者が多くなる。
つまり太明が主将になるのは八重洲の原則からは大きく外れる。
しかし選手も、
「
その中で納得顔ではない少数派に、候補に推された太明本人が直接訊いた。訊かれた二人が目を泳がせ、
「普通だったら破魔だと思う。けど、来年も代表に呼ばれたら留守にすることが多いと思うから……」
と、消極的な賛成を表明した。「わかった。ありがとう」と太明は二人に頷き、
「みんながいいならおれがやるよ」
さらっと言うと裕木にあきれられた。
「っておまえ、
「誰かが引き受けなきゃいけない責任ならおれが引き受けるよ」
「じゃああとは太明が進めてくれ」
破魔が早々に議長を放棄した。最上級生となる来年、チームの中心に踏み込む気持ちが破魔の中から完全に引いているのが見て取れた。立っているだけで圧倒的な存在感を持つ破魔の身体がなんだか今は透けて見えそうだった。
「おれがやるのはいいよ。ただ一つ話しとくことがある。破魔、神馬、大苑。ちょっと待って。まだここに──」
人里をそっと離れる獣みたいに三人が気配を消してその場を離れようとしていた。慌てて呼びとめたとき、廊下の角を走って曲がってきた一年生が破魔の腹に飛び込みそうになった。「あっすいません」危うく身体を引いて謝ってから目の前の壁の正体に気づいて「ぎゃ! すいませんでした!」と膝に額をつけるくらいの勢いで謝りなおし、がばと頭をあげて、
「第一セット、横体が取りました!」
目の前の破魔と廊下の先にたむろしている太明たちを交互に見て、どっちに向かって言えばいいのか戸惑いつつ報じた。
「おっまじで?」「まだわかんなくなってきたな」「横体応援しにいくか」「って自力優勝ないからってあからさまに横体応援したらうちのハクが傷つくぞ」途中経過を聞いた三年たちが声を明るくしてざわめいた。
「じゃあ大物感だしてどっしり構えて圧で横体応援しようぜ」
太明も明るく言った。破魔たちの後ろ姿は廊下の角に消えていた。
全試合終了後に閉会式・表彰式があるため今日は全十二大学の部員がまだ会場に残っている。スタンドに試合を見に行くと他校の部員もAコート寄りに集まってフロアを見下ろしていた。
総合優勝を左右する慧明対横体大、第二セットは慧明が取ってセットカウント1-1とし、意地のぶつかりあいが続く。
試合を見ている人々の中に破魔も神馬も大苑もいないことをたしかめると太明はスタンドを離れた。各大学が荷物を置いているバックヤードのどこにもあの大きい三人は見当たらず、体育館の外へでた。
まだここにいてくれ──さっき廊下で言いかけた。あの場だけのことではなく、それ以上の切実な感情が、あのとき太明の頭にはあった。
今日繋ぎとめなければ完全に破魔の心を手放すという予感に駆り立てられていた。まだ大学には丸一年以上在籍するのに、自校の順位に興味も持てなくなったのだとしたら、どこに帰属意識をもって仲間と勝敗に一喜一憂するのか?
八戦目後の夜の同期ミーティングを立ち聞きしていたのは今となってはあきらかだ。とはいっても“ターミネーター”の鉄の心があの程度の言葉で傷つくなんて思うか? インターネットの向こうにいる素性不明の人々からの心ないコメントにしてもそうだ。自分より力のない下々の人間の嫉妬まじりの愚痴や批判などふんぞり返って鼻で笑えばいいだけの実績も自信もありそうなものだろう。
誤解してた……。だってあいつ心臓に毛が生えてそうななりしてるし。
強かったり、有名だったり、盤石な立場や実績があったりすることと、心の壁の厚さはまったく別だ。自分なんか強くも有名でもなく立場も実績もないのに神経だけは図太いと思っているし。
駐車場の大型車専用エリアに駐まっている“八重洲ブラック”に塗装された観光バスに近づいた。部員を会場に送り届けると帰陣する時間まではどこかで休憩しているらしい運転手がもう戻ってきて運転席にいるようだ。前方ドアがあいている。
長い車体に沿って窓の中に目を凝らすと後方に大柄な影が見えた。
「こんにちはっ」
何食わぬ顔で運転手に元気に会釈し、タラップをのぼってバスに乗り込んだ。
あえて車内に聞こえるように声をだしたので最後部の五人並びの席に一人で座っていた破魔がはっとして目をあげた。持っていたスマホをでかい手でとっさに包むのが見えた。
「いやなに、ネコバスにトトロ乗ってんじゃん!って外から見てすげぇウケた」
笑いながら太明は通路を奥へ進んだ。
「あ、先週置いてってくれたドリアンチップス、意外とイケたよ。うまかった。知らなかったけどタイ土産の定番なんだってな」
「そうなのか……?」
と、破魔が逆に今知ったという反応をし、
「正解だったのか。よかった」
「ん? なんの正解?」
「カンガルージャーキーはよろこんでもらえたから」
いや別にカンガルージャーキーをそんなによろこんだわけでもなかったんだが。申し訳ないけど袋がでかすぎてむしろちょっと困ってるし。
なるほど……額面どおりに受け取る奴か。
次もよろこばれる土産を買って帰らねばならないと破魔の中でハードルがあがって、プレッシャーになってたのか。ウケ狙いかとか勘ぐったことに罪悪感が芽生えるほど至極真面目な理由だった。めちゃくちゃ真剣に悩んでチョイスしたのがドリアンチップスっていうのはまあまあ面白いが。
「トトロ、ってなんだ?」
破魔の重い舌がぼそぼそとまわりだした。急に距離を詰めすぎると警戒されそうだったので距離感を測って太明は破魔の斜め前、最後列から二列目の席の肘掛けに尻を乗せ、
「トトロ知らない? まじで? 毎年一回はテレビでやってんじゃん。ちゃんと見たことなくてもうっすらとは知ってるだろ?」
「テレビはほとんど見ない」
「もしかしてターミネーターも本人元ネタ知らねえのにあだ名になってんの?」
「それはうっすらと知ってる。言われてるのを知ったときに調べたら、CMかダイジェストかなにかがでてきた。さすがにおれはあれほどマッチョじゃない。あれじゃあジャンプできない」
「調べたんかよ……」人からなんて言われてるか人並みに気にする奴なんだよな……。「あれ新作公開されたの知ってる? びっくりしたわ」
「ずいぶん古い映画だろう?」
「そうそう。シュワちゃんじいさんになってたけどやっぱかっけーの。たぶんネット配信で見れるから今度一緒に見る? 実はおれも2しか見たことないんだけど。破魔が見つけたのも2かもしれない。一番有名なシーンあるから」
「へえ……」
破魔の目がまたたいた。興味がないと一刀両断はされなかった。
「おまえはなんだか……意外と博識だったんだな」
トトロとターミネーターを知ってる程度で博識扱いされるのでは思った以上に重症だ。
「いやもうつきあい三年目じゃん。なんで今さらこんな話してんの」
二人で話すのがほとんど入学以来だ。入学早々の自分の不用意なリアクションで怒らせて以来親しくなるタイミングがなく、部の活動上最低限必要な会話以外のプライベートな会話を破魔としたことがなかった。
「まあおれは部で色物だったからなあ」
「今はチームの中心に融け込んでる」
と、破魔が太明の髪をチラ見し、気まずそうにまた目を逸らした。
「だから主将に推したのは、おまえがなるのが一番いいと本当に思ってるからだ。おざなりに言ったんじゃない」
「主将は引き受ける。ただ、それには一つ問題がある」
自販機へ行っていたらしくペットボトルを手にした神馬と大苑が駐車場に入ってくるのが見えた。二人で親しげに喋ってペットボトルで小突きあっている。破魔もコートの外では口数の少ない男だが、三人でいると気易くふざけているのを見ることもあった。
バスをまわりこむ途中で二人が窓を見あげ、破魔のほかに窓の中に人影があるのに気づいた。太明はシートに膝立ちになって窓辺で手を振った。
困惑顔を見あわせた二人をにこやかに手招きし、
「おれはリベロに移る。
と、膝立ちのまま背もたれ越しに破魔がいる最後列を振り返った。
「ライトは大苑がいるし、直澄がレフトを本職にしたいって堅持さんに希望だしてるそうだから、レフトは神馬と直澄──来年のサイドのベストメンバーは基本的にそれで固めたい。ってことで、どうかな……おれに背中は預けられないか?」
背もたれに腕を預けて破魔の目を覗き込む。虹彩の色が薄く灰色がかっている。この色が“ターミネーター”の無機質な瞳を印象づけているのだろう。
リベロへのコンバート自体に破魔は驚きを示さなかった。
「いや……向いてると思う。視野が広くて指示力もある。粘り強いし、ムードメーカーだ。戦術理解度も今年は伸びた」
率直な評価を並べられ、太明のほうが驚かされて目を丸くした。
破魔がチームにいるときに太明が試合にでたことはほとんどない。つまり離れているときもリーグの配信をかなり見ていたことが知れた。破魔のでかい手に包まれているスマホの中では第三試合が今も配信真っ最中のはずだ。
本当に
しばしの沈黙を別の意味に受け取ったのか破魔がはっとなり、
「また上からだと思ったか……」
と俯いた。
「いや。ありがとう。破魔にそう言ってもらえたら自信もってやれる。大学最強・日本代表ミドルブロッカーのお墨つきだもんな」
他の誰に言われるよりこんなに心強い評価はない。
神馬と大苑が戸惑いながら乗り込んでくると二人の体重で大型バスが揺れた。ネコバスにトトロが三匹に増えたじゃんと太明は一人でおかしくなる。
「ただ、おれがリベロで主将もやるなら一つ問題があるだろ?」
リベロは六人制バレーボールにおいて「六人」の外に置かれる特殊なポジションだ。後衛のプレーヤーの誰か一人と交代して「自由 (Liberty)」にコートを出入りできることから「リベロ(Libero)」というポジション名がついた。サーブの順番を持たず、バックアタックを打ってはならない。またセッターのようにフロントゾーンでオーバーハンドでスパイカーにセットアップすることを禁止されている。自チームの得点に直接絡むことがほぼないポジションだ。
そしてもう一つ、プレー関係とは別に許可されていないことがある。
試合ではコート上で審判と話す権利を持つ代表者として「コートキャプテン(ゲームキャプテン)」を一人指名せねばならない。チームの主将がスタメンなら原則的にコートキャプテンも務めるが、リベロをコートキャプテンに指名することはできないのだ。
なので。
「キャプテンマークは破魔に預けたい」
破魔の目が軽く見開かれた。
「けど、誰もおれには……」
「八重洲大学の顔は大学日本一のミドルブロッカー・破魔
あの夜、破魔は途中で部屋の前から立ち去ったのだろう。太明が同期に話したことはやはり聞いていなかったようだ。
“七勝してきたメンバーっていうけど、破魔も神馬も大苑も当然そのメンバーだろ。功績はかっ
太明の言葉に、
“くっ、黒髪に正論言われると反論できねえっ”
などと裕木が表情筋を引きつらせて頬を染めていたことを笑って話した。
「おまえは……堅持監督からおれたちがいないチームの柱を任されたんじゃないのか。なんでおれたちのことを気にするんだ……」
破魔はまだ真意を探るような顔をしている。
「堅持さんからおれが引き受けたのは、代表に選ばれた三人が
破魔の瞳の奥が揺れた。鉄の色の壁が軟らかくなった隙に、そこに隠れた感情を捕まえるように太明は急いで言葉を継いだ。
「背中はおれが守る」
──ぷくり
と、破魔の下瞼に水滴が浮かんだ。コンピューターグラフィックスで綺麗なまん丸に描いたみたいに膨らんだその水滴が、すうっとひとつ、がっしりした輪郭の頬を滑り落ちた。
予想外すぎて「うおっ!?」と素っ頓狂な声がでてしまった。「ちょっ、えっ、おれ!? なに!? どうした!?」これが鬼の目にも涙か!?
「初めて言われた……」
直径二十一センチのバレーボールをハンドボールのごとくわしづかみにする手のひらで頬を拭うともう涙の痕はなかったが、骨太のバス・バリトンがいつもに比べてかぼそく聞こえた。長いつきあいの神馬と大苑ですら目を丸くしている。
「おれは昔から、味方には頼られるか、対戦校には倒す敵とみなされるかだった……だから……“守る”とは、誰にも言われたことがなかった……」
ミドルブロッカーの役目は最前線で自陣を守る楯だ。
破魔はいつも味方を「守る側」だった。
一方で対戦するチームの人間にとっては打倒すべき強大な敵だ。慧明の弓掛が高校時代から破魔に勝って日本一になることを掲げ、接近するたびぎらぎらと燃える
今日も頼りにしてる。勝ってくれ。頼む。なんとかできるか? 破魔がいれば。次は倒す。破魔がいなければ。おっかねえー。破魔とあたらないでよかった。
いろいろな言葉が破魔の耳を通過してきただろう。
破魔の長いバレーボール歴の中で、なのにその平易な二文字の言葉をかけた者が一人もいなかったなんて、思いもしなかった。
「──守るよ」
繰り返した。誠心誠意をこめて。
「破魔、神馬、大苑──おまえら三人の背中はおれが守る」
「最終順位でた!?」
駐車場から息せき切って体育館に戻ってくると部員がスタンドで寄り集まっていた。気を揉んで見守る部員たちの中心には三人の部員──
太明は裕木の座席の後ろから身を乗りだし、電卓を叩いてはクリップボードに挟んだスコアブックの裏紙に数字を走り書きしている裕木の手もとを覗き込んだ。
第四セットが三十点超えのデュースまでもつれた末、セットカウント3-1で横体大が慧明に競り勝った。その結果、総合優勝の行方に波乱が起きた。
八重洲に負けた横体大が慧明に勝ち、慧明に負けた八重洲が横体大に勝ち、横体大に負けた慧明が八重洲には勝ったという、ヘビとカエルとナメクジの三竦みのごとき構図になり、十勝一敗で三校が並んだ。全十一戦を合計した得失セット率でも三校とも同率。勝敗が同率になることは珍しくないが、得失セット率でも差がつかないことはそうそうない。
勝率で並んだ場合はセット率で上位が決まる。セット率でも並んだ場合は全試合を合計した得点率で──
「得点率でも決まらなかったらどうなるんだっけ?」
「今話しかけんなってっ」
裕木に問いかけると苛立たしげに肘で押しのけられた。
「裕木さん、でましたか?」
表計算ソフトで先に結果をだした越智がパソコンから顔をあげて裕木に訊いた。クリップボードにかりかりとシャーペンを走らせた裕木が「OK!」と、勢いがあまったように最後に芯の先で強く点を打って斜めに線を撥ねあげた。
和久、越智、最後に計算を終えた裕木が三人で数字を突きあわせ、視線を交わして頷きあった。
「公式結果は運営の発表待ちだけど、三人で突きあわせたからまずミスはないだろ」
と和久が裕木のクリップボードに追加でメモし、「主将」と高梁にクリップボードを手渡した。
ちょうどそのころ下のフロアでは最終戦を白星で終えた横体大の選手が安堵の表情でスタンドの応援団から喝采を受けていた。悔しい黒星で終えることになった慧明は言葉少なに荷物をまとめて引きあげていく。
ユニフォームを汗だくにした弓掛がスタンドの上方に固まっている八重洲の集団に気づき、一度足をとめた。
“小さい恐竜”を想起させる、試合終了後もまだぎらついた光を失わない
太明の背後に破魔がぬうと立ってともに高梁の発表を待っていた。
廊下から無言で立ち去ったときの、冷え固まった鉄のようだった瞳に光が灯っていた。
高梁がクリップボードに目を通してからおもむろに読みあげる。八重洲の部員だけでなくまわりにいた他大学の部員たちも耳をそばだてた。
「横体、十勝一敗。セット率2・667。得点率1・159。
慧明、十勝一敗。セット率2・667。得点率1・146。
八重洲、十勝一敗。セット率2・667。得点率、」
高梁がぴたりと言葉を切った。高梁を取り囲んでつい前のめりになっていた部員たちがつんのめりかけるのを悪戯っぽく見まわし、続きを言った。
「──得点率、1・207」
コンマ一桁の数字を聞いた瞬間にはもう地響きが突きあがるように男声ばかりの歓声があがりだした。太明も満面の笑みになって目の前の裕木の肩を揺さぶった。
「八戦目までは競ったセットが多かったから得点率では負けてた。最後の三戦で点差つけたおかげで数字伸ばしてすり抜けられたって形だな」
和久の補足説明に、太明は背後を振り向いて頷きかけた。破魔の硬質な顔が安堵したように和らぎ、目尻を下げて頷き返した。
「一位八重洲。二位横体。三位慧明──」
高梁がクリップボードを高く振りあげた。
「総合優勝ー!!」
スタンドの一角で起こった黒いジャージの集団の歓喜の爆発により、「総合優勝は八重洲」の報が会場中に知らしめられ、どよめきと拍手が広がった。
*
春に失ったリーグタイトルを奪還して関東王者に返り咲き、全国王者三連覇が懸かった全日本インカレを残した十月末、次年度の幹部候補について三年で話しあった総意を堅持と高梁に報告した。
「主将・太明。副将とコートキャプテンが破魔。主務が裕木、だな?」
高梁が部室に並んだ三人の顔を順に見て確認した。
後ろ手を組んで直立した太明を真ん中にし、左右に破魔と裕木がついている。この報告の場の正解がなんなのか実のところ三年のあいだでは知られていなかった。椅子に座った堅持とその傍らに立つ高梁の次の言葉を待つ。参考意見として受理されるだけで最終的にはトップダウンで指名されるのではないかとも予想していたのだが、
「じゃあ来年の八重洲を三人で中心になって引っ張ってってくれ。全カレ前からちょっとずつ引き継ぎしてくから、責任感持って頑張れよ」
と、素通りで承認されたので拍子抜けした。「候補を決めろ」とのことだったが、最初から決定権は当事者の学年にあったようだ。
「監督、なにかありますか」
高梁が堅持の意を伺った。
「いや。なにもない」太明の顔をじっと見て堅持が答えた。「よくこのメンバーをまとめた。……なにも、文句はない」
最大級の承認と受け取って、太明はめいっぱい晴れやかに笑った。
「髪、もうそのまま戻さないのか」
部室を辞して体育棟の廊下を歩いていると破魔がふいに訊いてきた。
「戻す?」意味を捉えかねて訊き返してから、「ああ」と黒に戻っている髪を片手でさわり「茶髪に戻さないのかってこと?」
「黒髪になってバレー選手らしくなったと思ったのは、おれが狭い世界でしかやってこなかったからでしかない。前の色のほうがおまえらしいし……髪の色がなんでも、おまえはもうバレー選手らしい」
「おいおい、破魔ん中で突然すげぇ株のあがりようだな」裕木が
「そのうち戻す気ないわけじゃなかったけど、主将やることになったからなー。茶髪の主将がプログラムに載るのはさすがにまずくね?」
リーグのプログラムには各大学の主将の挨拶文が大判の写真とともに掲載される。伝統校八重洲大学の主将があきらかな茶髪で載ればお偉方やらOBやら多方面から顔をしかめられそうである。
「なにか言われたらおれが説明する。学連も一年経験したし折衝力はついたからな。髪の色くらいでおまえが築いた信用はもう変わらねえよ」
「裕木先生、大丈夫? 熱あんじゃね?」
太明にしてみれば破魔の変化よりよほど裕木の態度の変化が驚愕だった。
ふんっと裕木が強気に鼻を鳴らし、
「上一じゃないって時点で例外的な主将なんだ。どうせなら前代未聞の八重洲の主将になれよ」
「破天荒なのがおまえらしい」
と破魔まで裕木を後押しするようなことを言った。今までぜんぜん仲良くなかったはずなのにこの二人のラインまで急に繋がんなよ……。
「おいおい、無茶振りだろ……なんにも考えてなかっただけでおれは破天荒が主義なわけでもなんでもないって」
*
翌日の練習にさっそく髪を染めて出席した。堅持にはじろりと睨まれただけでなにも言われなかったが裕木にはぶつぶつ文句を言われた。
「てめー昨日の今日かよ。躊躇ねえのか」
「自分でけしかけたくせに……」
「全カレのプログラム用の写真、まだ提出期限あるから撮りなおす。明日一眼レフ持ってくるから集合写真撮ろう」
「なんだただのツンデレか」
裕木に憤怒の形相でヘッドロックをかまされそうになったので笑いながらその腕をすり抜けて、
「あ、ちょっと待って。まだ期限あるなら撮るの来週でいい? 一週間あけたい」
と、以前と同じくらいの明るさに戻った髪をつまんだ。
「……? まあまだ大丈夫だけど、なにを一週間あけんだよ?」
その一週間後の朝──。
続々と食堂へ朝食に向かう寮生の流れの中に破魔の大柄な背中が容易に目につき、後ろから声をかけた。
「おはよー破魔」
「ああ。おはよう──」
滑らかな動作で首をまわして振り向いた破魔が、途端ギシッと音を立てて固まった。
「わ。誰かと思ったら
かける言葉を失ってフリーズしている破魔にかわって比較的冷静に驚く声が後ろから聞こえた。寮内用のスリッパを涼しげに鳴らして歩いてきたのは浅野だった。
「おはよ、直澄。どう、綺麗に色入ってる?」
「綺麗ですけどすげぇ」
浅野が苦笑を浮かべて素直な感想を言った。
「それくらい明るいのって一回じゃできないやつじゃないんですか?」
「そうそう。何回かかけて色抜きながら色入れなきゃだから。昨日二回目やったけどあと一、二回やりたいから、全カレの頃には──」
「たいめえええええええええッッッ!!」
と、怒鳴り声とともにどがどがどがと雷鳴のような足音が接近してきたかと思うと、
「てめえええええッ!!」
スウェットの部屋着姿で廊下を全力疾走してきた裕木がカンフー映画もかくやという跳躍をした。左右のスリッパが回転しながら跳ねあがり浅野が「わー。すげー」と天井を仰ぎみた。
「うおっと!」
裕木が繰りだしてきた跳び蹴りを海老反りでかわす。よろけつつ振り返った先で裕木がしゅたっと着地し、猫のように身を低くしてこっちにまた向きなおった。
「何気にすごいな、裕木先生!? 選手に戻れんじゃね!?」
「パツキンにしろとまで誰が言った!? なに考えてんだ大ばか野郎っ!!」
「破天荒でいいって言ったじゃんかよ」
「ものには限度があんだろーが!」
「破天荒に限度設定すんなよ……」
まだ途中段階なので最終的にはもっと明るくなる予定なのは内緒にしておいたほうがよさそうだ。裕木の脳の血管が切れても困る。浅野に向かってこっそり唇の前で人差し指を立てた。
「うちは関東一部の陣頭に立って歴史を築いてきた伝統校だぞ。国立だぞ。パツキンの主将なんて受け入れられるわけねえだろっ」
「だからだよ。主義をもっておれは
茶髪に今まで主義はなかった。しかし今回、初めて主義をもってこの髪にした。
「髪の色くらいでもう信用は変わらないんだろ?」
悪びれずに言うと、自分が先週
フリーズを解かれた破魔が真顔でいわく。
「いや……。主義がなくても否定はしないが、主義があるならより尊重する」
「全肯定しすぎだろっ。服従すんなっ」
裕木が若干泣きそうになって浅野に視線を向けたが、淡泊に微笑んで三年のやりとりを眺めているだけの浅野がどちらかに
「……くそおっ、ばかあっ!」
裕木が悪態をつき、頭を掻きむしって喚いた。
「そうだよ、変わんねえよっ! どうなってもサポートするよっ!」
著者プロフィール
- 壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】
-
沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。
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