RENZABURO
あらすじ
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又吉さんによるまえがき
 子供の頃から、俳句に対する憧れはあったものの、どこか恐ろしいという印象があり、なかなか手を出せないでいた。
 なにが恐ろしかったかというと、難しくて解らないことが恐ろしかった。
 自分なりに俳句を鑑賞し、感じたことを正直に、「この句はこうだ」と勇気を持って解釈を披露したとして、俳句に詳しい人から、「お前、なに言うてるん? お前の解釈めっちゃダサいやん!」などと言われるのではないかという恐怖である。これは、僕にとってはあらゆる恐怖の中でもかなり上位に来るスペシャルな恐怖である。
 突然、占い師を任命され、自分なりに全力を尽くし、慣れない水晶をそれらしく睨みつけたりなどしているうちに、ぼんやりとなにかが見えて来て、列を作る人達の未来や内面を自分の感覚に正直に思った通りに告げる。
「もう一度、引き出しの中を捜してみてください」
「彼氏の前世はウサギですので、浮気してます」
 などとやっているうちに、自分でも、それなりに占えているような気になり、暗い照明の中で眼を閉じたまま話すことにも抵抗がなくなった頃に、「お前の言ってることは出鱈目だ! 全然合ってない!」と大勢の人間に詰め寄られ、袋叩きにされる羞恥とほとんど同じ水準の恐怖だ。
「定型ってなんやろう?」
「季語ってなんやろう?」
「や、かな、けり、って呪文かな?」
 という調子で、とにかく俳句が怖かったのである。
 そういう意味でいうと、野外や名所などに出掛けて行き、見た景色や動植物や誰かの行動を、その場で詠む吟行や、複数で寄り集まり匿名で俳句を提出し、選評しあう句会などは、最も恐ろしいものであった。
 それでも、なぜか俳句に対する興味は薄れることがなかった。俳句を理解し奥深さを堪能できれば楽しいのは間違いないだろうし、自分で自由に俳句を作ることができたら一生の趣味になるだろう。それに、俳句に親しむことによって、今まで遠い存在だった古典文学などを読み解くヒントになるかもしれない。母国語である日本語で表現されたものを理解できないというのは寂しくもあった。
 なにより、十七音という限られた字数の中で、あらゆる事象を無限に表現できる可能性を秘めている俳句を心底格好良いと思った。
 考えれば考えるほど、俳句に憧れるのであるが、それでも手が出せなかった理由は先にも述べたとおり恐怖によるものだった。俳句を趣味とするには、過酷な山登りを体験したり、滝に打たれたり、雪の道を何日も歩きつづけなければならないなどと極端な印象を持っていた。
 俳句を恐れる一方で、子供の頃から言葉を使った表現には、自分から積極的に関わっていった。例えば、小学生の時にTHE BLUE HEARTSの『リンダリンダ』という曲の歌詞に衝撃を受けた。
「ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから」
 この冒頭の言葉は僕の心を捉えて離さなかった。聴いた途端に胸がドキドキしていた。この詩はどういう意味だろうかと立ち止まって考えさせられる魅力に満ちていた。
 たとえ、汚く不要とされているものであっても、懸命に生きている命には揺るがない美しさがある、ということだろうと僕は解釈した。その言葉は、鬱屈としたエネルギーを解放するような、「リンダリンダ リンダリンダリンダ」という絶唱へと繫がって行く。
 その時、少年だった僕の解釈は単純なものだったし、見当違いだったかもしれない。それでも、たとえ間違えていたとしても、僕の中に生まれた熱の塊のようなものは消滅しない。もう僕だけの特別な意味を持ってしまったのだ。そこに、恥などという感覚はない。僕は言葉に対して、このように触れてきた。小説に対しても、随分と自分本位で鑑賞してきた。
 本書は、堀本裕樹さんから俳句の基本的な決まりを優しく丁寧に御指導いただき、僕の俳句に対する恐怖を取りのぞき、臆病だった僕が、正直な感覚で俳句に向かえるようになるまでの二年間の軌跡をまとめたものである。
 いまの僕には、『リンダリンダ』を初めて聴いた時と同じように純粋な気持ちで俳句を楽しもうという心構えができた。
 最終的には、悪魔を見るように恐れていた吟行も経験したし、地獄だと怯えていた句会にも参加した。どちらも、他では得られない喜びに満ちた想い出になった。俳句を教わる前よりも、僕の世界は鮮明になった。大袈裟な言い方かもしれないけれど、世界を捉える視界の幅が広がったように思う。
 基本的なルールはあるものの、俳句も自分なりに鑑賞していいということが解った。そして、自分以外の誰かの解釈に数多く触れることによって、さらに俳句は面白くなるということが解った。堀本さんに俳句の話を聞かせていただくたびに、俳句が好きになった。
 自分を苦しめる存在のように思っていた、「定型」も「季語」も「や・かな・けり」も敵ではなく、自分を助けてくれる頼もしい味方だと解った。
 たしかに、俳句は奥深い。
 堀本さんという素晴らしい師匠を得て、恵まれた環境で俳句に入門した僕ではあるが、いまだに歳時記と国語辞典を開きながら、うーん、と眉間に皺を寄せ時間をかけて句の意味を考え込むことも多々ある。これは恐らく一生続くだろう。元々がアホだということも影響しているのかもしれない。
 それでも俳句は、限られた人だけのものではなく、誰に対しても開かれているものだということを本書で皆様にお伝えしたい。
 きっと、あなたは僕よりはるかに上達が早い。

又吉直樹
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又吉直樹/堀本裕樹 『芸人と俳人』刊行記念対談
芸人と俳人が出会って、世にも珍しい俳句入門書が誕生しました。
俳句を教えてくれるのは、気鋭の俳人、堀本裕樹さん。教わるのは、芸人として活躍するとともに小説家デビューを果たした、ピースの又吉直樹さん。本書は、お二人の対談形式で展開していきます。
講義は毎回、堀本さんが用意するレジュメをベースに行われました。又吉さんから俳句に関する疑問や不安が投げかけられると、それに対して堀本さんの手取り足取りの解説が。例句も豊富で、お二人それぞれの解釈を読むことが、そのまま俳句鑑賞の力を高めてくれます。ときに、俳句とお笑いの類似点に話が転がることも! 俳句の世界へいざなう本は数あれど、俳句講師と生徒の掛け合いに笑ったり、納得したり、意表を衝かれたりしながら、俳句の奥深さを知ることができるのは本書ならではです。
又吉さんの初定型句、そしてその後の上達ぶりもお楽しみに。本書は、俳句を通した成長物語でもあります。
構成=井上佳世/撮影=前康輔



断崖絶壁からパラシュート?
堀本 二年間にわたって続けてきた俳句講義が、今回『芸人と俳人』という一冊にまとまりました。又吉さんが生徒役、僕が先生役という位置づけでしたから、一応、先生のような顔をしてやっていましたけども、僕としては友達に「俳句おもしろいからやろうよ」と誘って、自分なりに伝えていたという感じだったんです。

又吉 最初の頃、定型句をほとんどやったことがない僕は、すごく怯えていたんですよね。僕は堀本さんにパラシュートを背負わされ、断崖絶壁から「行け!」と命令されて、毎回飛び降りる。講義を何かにたとえるとしたら、そんな感じでした。堀本さんとしては、「一回行ってみたら気持ちいいよ」ということを早く伝えたかったんでしょうけど、こっちが「ちょっと待ってください」と言ってるのに、後ろから目一杯押してきたと(笑)。

堀本 「又吉さん、この句をどう解釈しますか」と迫る場面が、講義中、何回もありましたよね。僕は、まず又吉さんに俳句のおもしろさや奥深さを伝えなければダメだし、その向こうにいる読者にも、僕らのしゃべっていることを理解してもらわないといけないから、一生懸命だったんです。結果として、又吉さんを問い詰めることになった(笑)。

又吉 俳句をいくつか知ってるとか、俳句に関係する本を何冊か読んだことありますという、ほぼ素人の人間が、会議室の一角で、俳人さんに紹介された句をその場で読んで、「どう思いますか」と訊かれるというのは、なかなか怖いものがありました。

堀本 無茶ぶりしてるな、とはわかってたんですけどね。

又吉 わかってたんですか(笑)。

堀本 はい。「又吉さんだったら、何かしら返してくれるだろう」と信頼していました。そして本当にすべての球を見事に打ち返してくれましたよね。そのうち、「又吉さんは、この句をどういうふうに読むんだろう」と、返ってくる球が楽しみになってきました。「へぇ、そういう切り口で解釈するんだ!」という発見がものすごくあって、僕も勉強になりましたよ。

又吉 講義では毎回、いろんな俳人さんの句をたくさん教えてもらいました。その中で、上田五千石さんのようにとても惹かれる俳人さんが出てきたり、もともと好きだった尾崎放哉の句を改めて読み直すことができたり。ひと目で意味がつかめる句だけでなく、ちょっと難しいと感じる句も、自分なりに「こういうことを言うてんのかな?」と考えながら読むのが、最近どんどん楽しくなってます。

堀本 そう言っていただけるのが、僕は一番うれしいです。



「堀本さんは歳時記のような人」
又吉 対談した後、そのまま二人で飲みに行ったこともありましたね。

堀本 普段の日でも、僕が声を掛けたら、忙しい中、時間を作って付き合ってくださいました。僕は、又吉さんからお笑いの話を聞くのが楽しみで。

又吉 酔うてきたら、後半、僕が太宰の話をするというのがいつものパターンになってきた。ほとんど生い立ちから知ってるくらい、いろんなことを話してきましたよね。僕からしたら、堀本さんは知識が豊富で、どんな質問にも答えてくれるし、安心できます。歳時記を開くときに、歳時記のことを「間違ってんのちゃうか?」って疑う人はいないじゃないですか。僕にとって堀本さんは、歳時記みたいな感じなんです。このあいだ長嶋有さんと雑誌の企画でお話しさせてもらったときも、「俳句をやる人の中でも、堀本さんほどちゃんとした人はいないからね」って、おっしゃってました。

堀本 いやいや。

又吉 最近、文庫小説を携帯するように、いろんな俳人の句集を持ち歩いてるんですけど、実は一番よく読んでいるのが堀本さんの句集なんです。普段はめちゃめちゃ気さくで、優しい堀本さんですけど、句集を読んだら素晴らしい句ばかりで怖くなります。芸人もそうで、どんなに優しい先輩でも、ネタを見たら、「絶対になめたらあかん人やな、この人は」とわかるときがある。自分がその人を恐れるか恐れないかというのは、プライベートの面よりも、やっぱりどんなもんを作ってるかというそっちの面でですよ。それで言うと堀本さんは、僕にとって怖い人ですよ。

堀本 いやいや、全然なめきってくれてかまわないですけど(笑)。

又吉 僕、ずっと聞きたいことがあったんです。堀本さんってすごく男前じゃないですか。フラれたことあるんですか?

堀本 ありますよ(笑)! なんですか、どうしたんですか!?

又吉 いや、これまで堀本さんに俳句を教わってきた感じからすると、俳句っていうのは、感情をバーンッと出すというよりは、自分が見たものに気持ちを投影させるような表現が多いですよね。でも、いろんな句を読むうちに、俳人の人生とその人の作品は切り離せないものだとわかってきたんです。ただ、そういうものは背景として置いておいて、俳句自体の雰囲気は健全というか、私生活のごたごたを切り離してる気がするんです。僕は、その私生活のごたごたを切り離して、芸人として劇場に立てないタイプなんですよ。しんどいときは舞台上で「今日しんどいんですよ~」と言っちゃうし。でも俳句ってごたごた感があまりないから、もしかしたら俳句に没頭することによって、そういうことから離れられるのかなとか、反対に引きずっていくのかなとか、堀本さんはどうしてるのかなって思ったんです。

堀本 なるほど。

又吉 俳句に比べると、短歌って恋愛ものが多い気がするんです。俳句はあまりそういうことをやらんほうがええんですか? やらないほうがいいなら、やらないなりに代表的な句があったりするのかなと思って。

堀本 俳句と短歌ということでいうと、短歌のほうがより作者の心情がストレートに出やすいですね。俳句は季語に心情なりを託す表現方法だから、又吉さんが言うところのごたごた感が省略されて、健全さが際立つのかもしれません。でも、恋を詠んだ俳句はたくさんありますし、まだ又吉さんが気づいてないかもしれないけど、僕ももちろん書いてますよ。たとえば、「火急なる恋ありにけり百日紅」とかね。

又吉 ああ、なるほど。

堀本 鈴木真砂女さんは波瀾万丈の人生で、たくさん恋の句を残しています。「羅や人悲します恋をして」は、代表的な句ですね。羅は夏の季語で、薄く織られた単衣の着物のことです。「人悲します恋をして」というのが、意味深ですね。それから、黛まどかさんとかね。「ソーダ水つつく彼の名出るたびに」など、ちょっとポップな感じです。又吉さんがお好きな上田五千石さんも、書いていると思いますよ。これまでは、恋の句にはあまり触れる機会がありませんでしたけど、今後は又吉さんにそういう句も読んでほしいし、作ってみてほしいですね。

又吉 いや、僕は失恋や別れを何回も経験してきていますし、季節が変わるたびにそういうのを思い出してしまうし……。

堀本 又吉さんは、ワクワク感よりも自虐的な表現で恋愛を書かれるのかもしれませんね。そこにもやっぱり、又吉さんの世界がありそうです。見てみたいなあ、又吉さんの恋句。今度、「恋の句縛り句会」、いかがですか?

又吉 そんな怖いことを言わんといてください。やっと歳時記の引き方や季語を覚えて、定型句を作るのが怖くなくなってきたばかりやのに。



初の定型句の秘密
堀本 今回、書籍にお互いの句も載せましたね。一月から十二月まで、季節ごとに十二句。どうでした?

又吉 大変でしたよ~。ひと月ごとの季節の違いって、体感ではわりとわかりますけど、季語を使って十七文字にまとめるとなると、違いがビミョーですし。

堀本 でも、どれもおもしろかった! 六月の句なんか、又吉さんらしさ全開ですよね。やっぱり太宰で来たかと! 連続講義では毎回最後に、復習の意味も込めて、互いに一句作りましたね。その中で、ああ、これは又吉さんらしいなと感じたのは、「爪切りと消ゴム競ふ絵双六」です。対談の中で又吉さんが、「歳時記を開くと思い出がよみがえってきたり、子どもの頃の気持ちに戻ったりする」と言っていましたけど、この句にはそういう趣があります。なんとも言えないおもしろみもあって、さすが芸人さんやなぁと感じました。あ、そういえば、僕も一つ聞きたいことがあります。連続講義中に、初めて定型句に挑んでもらったとき、又吉さんが作ってくれたのが、「廃道も花火ひらいて瞬けり」。「花火」という夏の季語を使われたんですよね。そして、今春、小説家デビューされた作品が『火花』。又吉さんが作品を作ろうと思ったとき、その一発目に出てくるのは、花火とか火花とか、そういうモチーフなんだなと。又吉さんの中で、花火や火花に思い入れがあるんですか? 『火花』を拝読してから、ずっと気になっていたんです。

又吉 初めての定型句で「花火」を使ったのは、歳時記を引いて夏の季語の中から自分が好きなもので、俳句にできそうなものを選んだんです。花火って、たとえば花火大会があるとしたら、そこに集まった人全員が見れるくらいでかいじゃないですか。無差別感というか、平等感があるんですよね。初めての定型句で僕が表現したかったのは、花火が上がると、普段はあまり使われていない廃道のような暗いところや、陰になっているところにも明かりが届いて照らされているというイメージです。

堀本 『火花』は、祭りの簡易舞台で主人公が必死に漫才をやっているけれど、お客はみんな花火の観覧場所へ移動しようとしていて誰も聞いてくれない、というシーンから始まりますね。花火が華やかに上がっている情景と、花火の陰で漫才をしているまだ売れていない主人公。光と影がすごく対比的に描かれているんですよね。又吉さんの初の定型句「廃道も花火ひらいて瞬けり」の魅力はなんと言っても、「花火」と「廃道」の取り合わせです。これも華やかなものと、廃れたものとの対比。『火花』の冒頭数ページで、僕は又吉さんのあの句を思い出して「ああ!」と思いましたよ。

又吉 ああ、確かに構造は一緒ですね。でも、意識してそうなったわけじゃないんですよね。小説が出た後、いろんな取材でよく聞かれたのが、「ピースを結成する前のコンビ名が線香花火だから、小説のタイトルも火花なんですよね」ということです。でも、「線香花火」の延長線上に「火花」があるのではなくて、「線香花火」も「火花」もそれぞれ僕と一本の線で個別につながってるもんなんです。

堀本 そして、俳句の「花火」もまた同じように、又吉さんから一本の線で個別につながっているものだと。

又吉 そうなんですよね。俳句の「花火」のことをさっき堀本さんに言ってもらって、「やっぱりそうやったんや!」と、自分で確認できましたね。自分の中から何か出そう、表現しようとすると、コンビ名は線香花火になるし、俳句作ったら花火になって、小説書いたら火花になるんですよ。花火大会の花火は何度も上がりますけど、一瞬を裂いて、そして消える。あれって美しいですよね。でも、あの美しさだけじゃなくて、やっぱり花火の無差別感みたいなものに僕は惹かれてるんすかね……。根本のところで、僕はずっとそういうことを考えてるんだと思います。

堀本 小さい頃に花火大会に行ったとか、花火の原体験のようなものはあるんですか。

又吉 花火自体は好きだったんですけど、あるときを境に花火がすごく怖くなりまして。花火大会って、みんな友達や彼女彼氏と連れ立って行くんですよね。でも僕は、一緒に花火大会に行くやつがおらん。そもそも、花火大会があるよっていう情報を教えてくれるやつがおらん。花火大会の夜に花火の音が聞こえてきたら、すごく憂鬱になるんです。だから、花火の音が聞こえへんところまで逃げるんですよ。上京してから今でも、ずっとです。たまたま街中にいて、「なんや今日は人が多いな」と思っていたら、実は花火大会の日だったとわかったときは最悪です。やばい、やばい、やばいって感じで、花火の音が聞こえないところまで行くんです。連続講義の中で、尾崎放哉の句集を読む回がありましたよね。あのとき、今まで目に留まったこともなかった「花火があがる空の方が町だよ」という句がすごく気になりました。あの句を詠んだ放哉は、たぶん花火大会の場所から結構離れたところにいたんだと思います。街のほうには人が集まっているけど、放哉はそこに参加せずに、どこかにいる。誰かと一緒なのか、一人なのかはわからないですけど、そういう情景を想像してグッときました。

堀本 遠くの花火は「遠花火」という季語にもなってるんですけど、又吉さんが花火大会から遠く離れるというのは、一瞬を裂く、美しい花火を厭いながらも乞うみたいな矛盾した気持ちがありますよね。

又吉 愛憎ですね。めちゃめちゃ好きな女の子が、他のやつと遊んでるところを見せつけられているような感覚になるんですかね(笑)。

堀本 そこに自分は入っていけないとなると、それは離れたくなりますね。

又吉 なりますよ。音も聞きたくないですから、逃げますよ。

堀本 やっぱり、「恋の句縛り句会」やりましょうか(笑)。

又吉 そこに話、戻しますか。



俳人的生活を始めよう
堀本 『芸人と俳人』では、又吉さんが定型句とは何かということから学び始め、毎回テーマや季節を決めて作句に挑んでくれた過程が収録されています。さらに季節ごとの十二句もプラスしましたけど、きっと読者はもっと又吉さんの俳句を読みたいと思うはずです。それは、僕自身もそうだから。

又吉 僕からしたら、堀本さんが「せっかくここまで俳句を身につけてきたのに、ゼロに戻ってしまったらもったいないから、ぜひ一緒に続けていきましょう」と言ってくださったのが、すごくうれしかったです。ホンマに、季語なんかほとんど知らない状態で始めたわけですからね。

堀本 毎回、「今日は何の講義をするんだろう?」と、不安な部分もあったと思うんですよ。教える側としては、どういう内容をどういう順番でやっていこうかというビジョンは見えていますけど、講義を受ける側は未知なわけですから。それに、又吉さんがひと仕事もふた仕事も終えた後、夜の九時から対談が始まることもあって、お疲れだろうし、大変だったろうなと思います。その大変さをみじんも見せずに、真摯に耳を傾けてくださって。本当に素晴らしい生徒さんだったなと思っています。

又吉 「俳句っておもしろそう、でもどうやって学んだらいいのかわからん」っていう、僕みたいな人はいっぱいいるだろうなと思っていたので、もう素のまま講義を受けていただけです。

堀本 又吉さんが僕の言うことをちゃんと吸収してくれていることが、講義を重ねるごとに伝わってきました。常に自分のペースで前進していましたよね。又吉さんは気づいてないかもしれないけど、講義と講義の間の時間、又吉さんなりにいろいろと俳句のことを考えていたんじゃないですか。作句するまではいかなくても、仕事の移動中に句集を開いたりして、鑑賞を深めていたのでは?

又吉 意識はしてませんけど、散歩しながら「これって季語かな」と考えるようなことは、以前より増えたと思います。

堀本 そういう小さいことが、俳句に生かされてくるんですよ。僕の生徒さんにも、「句会のために俳句を作るのもいいんですけど、句会がないときの過ごし方のほうが大切です」ってよく言うんですよ。普段の生活でどれだけ俳句のことを考えて、どれだけ俳句を鑑賞し、どれだけ自分で作っているか。日頃の過ごし方が、句会に反映されるんですよって。期せずして又吉さんは、お忙しい中でも俳句に触れてくれていたんだと、僕は確信していますよ。

又吉 僕はまだ俳句の楽しさを知ったばかりですけど、やればやるほど奥深さはわかってきましたね。そして、やってみたらそんなに怖くないこともわかってきました。

堀本 読者にも、又吉さんと一緒に学んでもらえたらと思います。俳句の鑑賞は自由で、一つの正しい答えだけがあるわけではないので、自分だったらこう解釈するなと、自分なりの鑑賞をしながら読まれるといいかもしれませんね。

またよし・なおき芸人。1980年大阪府生まれ。お笑いコンビ「ピース」として活躍中。著書に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(以上せきしろとの共著)、『新・四字熟語』(田中象雨との共著)『第2図書係補佐』『東京百景』等。2015年に初の長編小説『火花』を刊行。 ほりもと・ゆうき俳人。1974年和歌山県生まれ。國學院大学卒。「いるか句会」「たんぽぽ句会」を主宰。第36回俳人協会新人賞、第2回北斗賞等受賞。著書に『十七音の海 俳句という詩にめぐり逢う』『富士百句で俳句入門』、句集『熊野曼陀羅』、小説『いるか句会へようこそ! 恋の句を捧げる杏の物語』等。

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