「ロボトミー」試し読み 桜庭一樹

 

「ロボトミー」試し読み 桜庭一樹

 ぼくとユーノの結婚披露宴のときいちばん泣いていたのは、お義母さんだった。
 咆哮のような恐ろしい泣き声を、今も鮮明に覚えてる。まったくわけもわからないまま、忘れることもできずに、夜中に思いだしてはっと目を醒ましてしまうことさえあるのだ。
 それは披露宴が始まってすぐ。真っ白なドレスに身を包んだ花嫁とぼくが登場した辺りからだった。猫が踏まれたような、ぶにゃっ、にゃっ、という声が、小刻みなビートを刻みながら始まった。ぼくは、ストロボの光や、職場の同僚や友人たちの遠慮ない祝福の声の合間に無遠慮にはさまってくるそれに気づいて、これっていったいなんだっけ、ときょろきょろ見回した。でも最初はわからなかった。席について、ストロボも収まり、司会者が景気よく話しだしたときに、親族席から聞こえてくるのだとようやく気づいた。
 ユーノはこのとき、まだ若くて、美しくて、それにぼくが臆面もなく自慢したのですでにだいぶ広まっていたことだが、十代の終わりごろに歌手としてプロデビューした経験まであった。四人組グループのメインボーカルだったのだ。そのグループは二年ほどで解散してしまったのだが、名前を出すと、あぁ、あの、と覚えてくれている人もけっこういた。だから披露宴に集まったぼくのほうのお客さんは、みんな噂の元歌手の美人花嫁を目撃するのを楽しみにしていた、はずだった。
 でも実際には、ぼくらが華々しく登場したこのときから、みんなの視線はユーノではなく、隣ですごくうれしそうにしているぼくでもなく、親族席で唸り始めた着物姿の熟年女性に集中していた。
 ユーノのママは、初めは声を必死で押し殺していた。うつむき、肩を震わせながら、どうやら懸命に泣き声を堪えてくれているようだった。それがときどき漏れて、ぶにゃっ、ぐにょっ、ぎにっ、と小動物が上げる抗議の鳴き声みたいな響きで、会場の高い天井に向かって上がっていった。ユーノの結婚に対する、抗議の細い狼煙みたいに。その声がなぜか次第に高くなっていって、上司による乾杯の音頭や、二人のなれそめを語る司会者の声に対する伴奏みたいに切れ目なく流れるようになってくると、ぼくは本格的に困り始めた。みんなの好奇の目が、お義母さんに、それからなぜかユーノではなくぼくのほうにまでむいているような気がしたからだ。
 隣に座るユーノを、ちらっ、と見る。
 完璧と感じるほどうつくしい横顔がそこに在った。目は二重でおおきく、鼻筋は通って、唇はとても薄い。この薄さが、顔のバランスとしてはもしかすると惜しいのかもしれなかったけど、潔癖で穢れない感じがぐっと増して、好きだった。ユーノは確かに美人だけれど、浮わついたところがなく、落ち着きのある人なのだ。
 ユーノは笑顔だった。この日の彼女は文句なく幸福そうだった。
「大丈夫、かなぁ」
「えっ?」
 不思議そうに、こっちを見る。いったいなにが、というように小首をかしげている。すると白いレースのヴェールがユメのように揺れた。
「お義母さんだよぉ」
「うん?」
「ずいぶん、泣いてらっしゃるよね?」
 するとユーノは、気にもしてないように、非常にまっすぐに笑った。
 ぼくは、あれっ、自分の戸惑いのほうがおかしいのかしら、と途端に自信がなくなった。
 ユーノの家は、お義父さんとお義母さんの三人暮らしだ。御挨拶に伺ったときも、普通よりすこし裕福な、しかしごく普通の家、という印象だった。たぶん。……いや、たぶん、というのはけっして向こうのせいではなくて、ぼくのほうに原因がある。つまり、ぼくには判断できないのだ。なぜかというと、こちらは施設育ちで、親の顔も家族のことも満足に知らないままだったから。高校までは集団生活をし、奨学金をとって大学に進み、その後はずっと会社の独身寮にいて。
 披露宴が進むにしたがって、お義母さんの泣き声は、遠慮なく、どんどん大きくなっていった。声が漏れないようにと気を遣うのも、もうやめてしまったようだ。どうにも気になって、ときどきちらりと見ると、お義母さんは上品に着物を着付けたほどよく肉付きの良い体を、大きな楽器のように震わせ、本当に身も世もなく泣き尽くしていた。このぶんでは、控室でご挨拶したときには美しく施されていた化粧もとっくにはげてしまっているのだろう。自分でも説明できないのかもしれない悲しみと、慟哭。彼女の恰幅の良い体は、披露宴のあいだにまるですこしずつ溶けて減っていってしまうようだった。
 キャンドルサービスのときに、ようやく、ぼくにまで向けられていた好奇の目の理由がわかった。思いもかけなかったから、気づいていなかったのだ。それどころか、家族を知らないから、自分だけがあの慟哭の意味をわかってないんじゃないかと内心悩み始めていたぐらいで。
「おまえ、やったろー」
 遊び人の上司が、困った息子を褒めるような目で、言う。凄まじい胆力で泣き崩れているお義母さんのほうを、目線で指す。
 頰がやらしくほどけている。
「いやぁ、いい女だしなぁ」
「ち、ちっ、ちがいますっ」
 ぼくは焼けたトタン屋根の上に裸足で立たされたように、その場で小刻みに飛び跳ねた。
「脂ものってる。肉厚で、いいよな」
「ちがいますってばっ。やめてくださいよっ……」
 このキャンドルサービスのあいだに、ぼくのなけなしの気力と体力はほとんど使い尽くされてしまった。友人席では、大学からの女友達の梨子まで、お義母さんのほうをちらっと見てみせて、
「あのねぇ、鷹野……」
「ちがうよ!」
「あんたっ、最低っていうか」
「梨子……。だったらまだいいよ!」
「は?」
「それなら、まだ、あんなに泣いてる理由がわかるからさぁ……」
 あぁ、と相手がうなずいて、なにか言いかけた。
 でもそれ以上はもう話せなくて、ぼくはユーノと並んで、ボーイさんの先導に従ってまた歩きだした。炎が燃えている奇妙な棒を、花嫁と一緒に持って、のろのろと。
 今日はおめでたい日で、生涯でいちばんというほどのハイライトのはずで、ずっと楽しみにしていたのに、まるでなにかの罰ゲームみたいじゃないか。家庭や親子のことでどうしてなのかわからないことがあるたびに、ぼくは文化のちがう外国に一人きりで投げだされた人みたいに、知恵を絞っては、理解し、順応しようと努力してきた。でもこれは難問すぎる。周りの人の反応を見ようにも、みんなだって不思議がっているありさまだし、かんじんのユーノに教えてもらおうにも、彼女だけはなぜか気にもしてないのだ。いつものことよ、とでもいうように。
 お義母さん……。
 この、謎の、生き物……。
 赤子のように、理由もわからず、凄まじいエネルギーで、ひたすら泣き続ける、この……。この……。
 結婚の挨拶に行ったときには、反対するでもなく、ユーノがやるのとよく似た如才ない笑みを浮かべていたのに。こっちに身寄りがないこともそう気にせず、別居とはいえ養子に入ってくれるのならありがたいとも言ってくれた。情緒の不安定な女性には見えなかったのに。
 怯えながら、親族の席に近づく。
 ユーノはにっこりと微笑んで、
「お母さんっ」
 と声をかけた。
 いまやアリアを歌うオペラ歌手のように、立ちあがり中腰の姿勢でテーブルの端に片手をついて深く濃く長く唸り続けているユーノのママが、本当にオペラのワンシーンのように、芝居がかって見える仕草で、こっちに……いや、ユーノ一人に両腕を伸ばしてきた。
 会場の照明に照らされて、母娘の姿が、光る。
 着物の袂から、白くてむっちりとした二の腕が覗けた。
 ゾクッとする。
 もうだいぶ年を取ってしまった女の人なのだと思いこんでいたけれど、その艶めかしさは、このとき、生きて、息づいて、恐ろしい感情を秘めている、生々しい女の人のそれだった。
 あらかた化粧のはげた顔は、大きな目と、高い鼻筋と、皮膚の薄い頰が露わになると、おどろくほど娘のそれと似ていた。この二人の顔は、どうやら年齢と普段の化粧法がちがうだけだったらしい。化粧を落としたユーノの顔を見たことがあるぼくにとっては、気味が悪いほど身近な顔。
 でも薄い唇だけは、隣でほぼ気配もなく座っているだけのお義父さんのほうから譲られたものらしい。お義母さんは、分厚くて肉感的な、そして脂のようなてかりのある唇だった。
 その口が半開きになって、呻き声が低く漏れる。
 ユーノがまた笑って、ぼくに火を預けると、自分のママを両腕でしっかり抱きとめた。
 恋人どうしみたいな仕草で。
 ぼくではなく、娘のほうに慟哭をぶつけてる姿を見て、なんとなくだけど、会場を覆いつつあったおかしな誤解も自然と解けていってくれたらしかった。ユーノが困った娘を抱きとめる若い母親みたいに、初老近いママをきつく抱いたまま、こっちを振りむいて、
「ママったら、ね。一昨日、あたしと心中しようとしたのよ?」
「へぇっ?」
 ぼくはばかみたいな返事をした。
 ほんの一瞬、ユーノの顔を、助けて、と大人にすがりつく幼い少女のような、でもこの人じゃ無理かなぁ、というような、絶対的な絶望みたいなものが、不吉にスーッと通り過ぎたような気がしたけれど。どうだったんだろう。
 わからない。
 わからない。
 ただこのときは、娘にすがりつくお義母さんの姿は、母親に頼るほかない、哀れなほど無力な若い娘のように見えたし。ユーノのほうも、強くつかまれて途方に暮れているか弱い少女のように見えたし。つまりは、どっちも、いますぐ保護者が必要なだめな子供どうしみたいな感じで。ぼくにはそれもまた理解できないことだった。
 ぽかんとして、みつめかえす。
 でもつぎの瞬間には、ユーノはいつもの、如才なく、物静かで、賢げな大人の女の人の笑みにもどってしまっていた。昔の仏像がやってるやつ。あの時を超えたあいまいな微笑だ。
「あたしを手放したくないって。いつまでもこの家で、わたしだけの娘でいてほしいって、駄々をこねて」
「えっ」
「家に火をつけようとするから、パパが止めたの」
 お義母さんの泣き声が、アリアが、高らかに響き渡る。
 絶望の、悲しみの、女の人の声。
 まるで怪獣だ。
 披露宴の終わりに、花嫁が両親に向けて書いた手紙を読むことになる。まだまだ泣き続けるお義母さんの前で、ユーノは落ち着いた笑顔で、感謝の言葉を述べた後、
「これまでもずっと、あたしとママは大の仲良しだったんです。結婚してからもずっと友達親子でいられると思います」
 泣き声がすこし静かになった。
 ユーノが微笑んで続ける。
「ねぇ、ママ。いつまでもあたしのいちばんの親友でいてね?」
 その瞬間。
 お義母さんがうつむいたまま、ちろっ、とぼくの顔を盗み見した。
 なんだか牛泥棒みたいな、小狡そうな、舌なめずりするような、なんともいえない、どうにも忘れられない顔つきだった。

『美人のお母さんは、美人の法則。女どうしでも見惚れちゃったよー。優埜さんもきれいだけど、お義母さんのほうもタレントみたいだったね!』
 その夜。
 おめでとう、が乱舞するツイッターのタイムラインに、女友達の梨子の言葉も紛れこんだ。
 ほかの友達も、それにからんで、
『ねぇ、「なめたらいかんぜよ!」の女優さんみたいじゃなかった?』
 などと話しかけてきた。
 あの身も世もないにもほどがある号泣についても、
『昔は、花嫁の父が泣くって言われてたみたいだけど。最近は母のほうが泣くってのも聞くよね。お母さんと仲のいい女の子、多いもんね』
 などと、ぼくを気遣ってか穏やかな意見が舞っていた。
 ……ぼくがそうして、新婚一日目の夜に、のんきに携帯電話でツイッターなどを見ていたのは、ユーノのほうの携帯電話がずっとばかみたいにサイレンみたいに鳴り通しだったからだ。
 お義母さんからの電話だった。
 夜になっても、一度切ってもすぐまたかかってくるので、ユーノは延々、ママと話し通しだった。やがて夜が更けてくると、ユーノは電話を握ったまま、新居のソファの下の床で眠りこんでしまった。毛布を掛けてやり、すぅすぅと響く寝息をかわいいなぁと思いながら、そっと手の中から携帯電話を取った。
 ユーノのやつ、眠ってしまったようなのでもう切りますよ、と言おうとして、電話を耳に当てる。すると、ユーノが立てているのとまったく同じと聞こえる規則正しい寝息が、電話の向こうからも聞こえてきた。女の寝息の輪唱のように。
 ぼくはへんなぐらいゾッとした。
 電話を切る。
 さて寝るかぁ、と吐息をついたとき、ユーノの携帯電話がピリピリ、ピリピリとまた鳴り始めた。まるでサイレン。ママちゃん、と不吉な表示が出た。ぼくは飛びあがり、もういい加減に腹が立ってきて、人の電話だが勝手に音声を切ってしまった。
 まったく、新婚だというのに、いちゃいちゃも子作りもさせないつもりなのか。挨拶に行ったときは、孫の顔が早く見たいのよとうれしそうに話していたくせに。
 ユーノを抱きあげて寝室に運ぶ。
 するとユーノは、この夜、実体のない人みたいに軽かった。
 羽毛のように。もしくは空気のように。
 結婚する前とはちがって感じる。
 もしもユーノがこの新居にはこなかったのなら、実体は、つまり魂はいまどこにあるというんだろう、とぼくは不吉でわけのわからないことを考えだしてしまい、いやな気持ちになった。
 顔を洗い、歯を磨き、さて自分ももう寝ようとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。
 ぼくは慄き、壁の時計を見上げた。
 もう夜中の二時だぞ。
 玄関のインターホンモニターを、固唾を吞んで覗く。
 着物を着崩したお義母さんが立っている。
 襟足も、腰も、崩れ方が奇妙なほどセクシーだった。あぁ、あれだ……。『天城越え』を歌うときの、あの色っぽい初老の女性歌手みたい……。
 じーっと立っている。
 オバケ。
 モンスター。
 でも、なんの? なんに恨みを持って出てくる生霊?
 さっぱりわからない。
 と、奥のエレベーターが開いて、お義父さんが転がるように走ってくるのが見えた。お義母さんのほうは、分厚くて色っぽい口を半開きにし、優埜、優埜、と頭がおかしくなったように呼び続けている。その腕をお義父さんが引っ張る。優埜、あぁ、あと……わたしの優埜、わたしの優埜、と言ってるのかな。お義父さんが猛獣使いみたいにお義母さんと格闘している。その顔は、結婚の挨拶に行ったときにはぼくに見せなかった、厳しく、苦しく、重たいなにかに長らく耐えてきた人のそれだった。
 ぼくは怯えて、それに腹も立って、モニターの前から足音もなく後ずさった。
 家族をもってこなかったから、だから、よくわからないし。こんなことは、映画でもホームドラマでも観たことなかったし。友人の話でも聞いたことないし。こういう狂乱がとくべつおかしなことなのか、家という密室の中では意外と日常茶飯事なのかも、だからわからないし。
 お義父さんがお義母さんを引きずって、むりやりエレベーターに乗せる。
 お義母さんは眉間に色っぽいたてじわを刻み、切なそうに、肉感的な腕を伸ばしてまだなにか叫んでいた。
 あぁ、隣の住人が顔を出したぞ。騒ぎに気づいたのだ。ぼくは頭を抱えた。
 ようやくエレベーターの扉が閉まってくれる。
 帰ってくれ。頼む。帰ってくれ。頼む。帰ってくれ。頼む。

 ソファに座りこむ。緊張で筋肉を使ったのか、自分の体をえらく重たく感じた。もう鉛のかたまりみたいだった。
 まったく。これでも新婚初夜かぁ。
 体を引きずって歩き、寝室に顔を出す。
 枕元においたユーノの携帯電話が、着信を告げて赤く光りだしたところだった。
 血の色だ。
 そして、炎の色。
 ママちゃん、と表示されている。
 切れては、かかる。
 そのくりかえし。
 永遠に続きそうな、この着信っぷり。
 サイレン。サイレンだ。
 それを無気力になってぼけっと見ていた。
 と、眠っていたユーノが、うぅぅん、とかわいい声を上げた。「タカノぉ……」ところりと寝返りを打つ。胸が少し高鳴った。
 そうだ、ぼくにはユーノがいる、と自分をむりに鼓舞した。なんとかうまくやっていくんだ。だってこの日をずっと夢見ていたのだから。いつかは人並みに結婚して、奥さんや家族を作って、夫や、父になると。ようやく叶ったこの夢。
 ぼくはユーノの横に滑りこむと、でも力尽きてがっくりと目を閉じた。力が抜ける。無力感が押し寄せてくる。
 窓の外から風の音が聞こえる。
 唸っている。
 静かな寝室。
 そのとき、ユーノが弱々しく寝言を言った。

「ママぁぁ……」

 ぼくは布団を頭からかぶって、手のひらで両耳を塞いだ。

 結婚生活が困難だった、と言いだしたら、ぼくはおおげさなやつになる。披露宴の日がわけのわからないおかしな様子だった割には、その後の生活は、一見、平和に過ぎていってくれたのだから。
 朝は台所からかすかにユーノの歌声が聞こえてきて、それで、幸せな気持ちで目が覚める。なんたってプロだったのだ。ユーノは音楽がとても好きだし、音楽もユーノのことがまぁまぁ好きらしくて。たくさんのレパートリーから、その朝の気分にあった曲をうまくみつけては小声で歌いあげていた。
 そうして一緒に朝ごはんを食べて、ぼくは会社へ。
 すると入れ替わりにお義母さんがやってきて、ユーノとともに家事をしたり、お昼ごはんを作って食べたり、デパートに買い物に出かけたりするらしかった。映画鑑賞や観劇のこともあった。
 夜。ぼくが帰ってくるころ、お義母さんは自分の家にもどる。ユーノもお義母さんもそれぞれの家でそれぞれの夫の食事を作って、仲良く食べる。
 という、まぁまぁ平和な生活だった。
 といっても、最初のころは、晩ごはんの前ぐらいからまたお義母さんからのサイレンが続いて閉口したものだった。用件はその時によって、作りすぎた料理をおすそ分けするから取りにきて、だったり、お義父さんの健康状態がさいきん心配な話だったり、確かに、よかれと思っての申し出や、話す必要のある話題ばかりだった。それにしても、よくもつぎからつぎへと用件を思いつけるものだな、と、ぼくはお義母さんが秘めているそのわけのわからない熱量と持続力を、おそれた。
 テーブルで、食事が冷えていくのだ。
 せっかくユーノが作ってくれた、ポークソテーが、スープが、炊きたてのごはんが、冷めて、硬くなって、食べ物じゃない冷え冷えとした灰色の物体みたいに変わっていってしまうのだ。
 そして、夜が更けてもサイレンはやまないのだ。
 新婚十日めぐらいのある夜。ユーノが小さな声で、ついに、
「……ねぇ、ママ? あたし、もう結婚したのよ? 主婦よ? 大人よ? ママもだんだんわかってくれるかなぁって、思ってるけど。あたし、ママのこと信じてるから」
 それに答えてなにかを言い募っているらしき母親の声に、めずらしく、被せるように続けた。
「あたしとタカノで新しい家族を作ってるところなの。……早く子供も欲しいしねっ。でしょ? ねぇ、ママだって、孫の顔を見るのが楽しみでしょ」
 ユーノが、反論、というか、ママに向かって自分の意見を言うのは、ぼくもこのとき初めて聞いたし、これはもうよくよくのことなのだろうと考えた。
 それで、ぼくから命じられたということにして、夜の電話は控えてくれとお義母さんに頼むようにしたらどう、とアドバイスした。ユーノはなるほどとうなずいて、その通りに伝え、それでも変わらず夜が更けるまでサイレンは鳴り続けたけれど、ぼくは携帯電話を取りあげてさくっと電源を切ってしまった。するとそのときユーノがほっとしたように短く「タカノったら……」とつぶやいたのを、よく覚えている。
 こうして夜の電話交戦がついに終わった。ユーノは、朝と夜はぼく、昼から夕方はお義母さんと一緒に過ごすだけになった。ぼくも、昼間働いているときのことはわからないし、家にいるときは、もう苦労もなかったし。
 でもユーノのほうは、もしかしたら、ぼくとママとの板挟みで、昼も夜も気が休まらなかったのかもしれない。それももうわからない。このころからだんだん、ユーノは、やけにぼーっとしていて話しかけてもしばらく返事がないことが増えた。「……あれっ」「どうしたの、ユーノ?」「タカノ、あたしいま、なんか目が見えなかったの」「なんだよ、それっ。すぐ病院に……」「えー。もう治ったし、いいよ」ということもあったし、いつも疲れてるように見え始めた。
 そう、だから……。結婚生活が困難だった、と言ってもいいのは、朝も夜もおいしいごはんを食べさせてもらって、家のこともすべてやってもらって、流れてくる素敵な歌声に耳を澄ませて、毎晩、清潔なシーツでユーノと熱く抱きあって、あぁ、これが夢見てきた家庭なのだ、理想の人生を手に入れたのだぞと、まぁところどころへんとはいえ、概ね満足していたぼくじゃなくて……。ユーノのほうだったのかも、しれない。
 ユーノの新婚生活は、もしかすると、辛かったのかもしれない。

 ユーノのお義父さんが倒れて、救急車で運ばれた、と騒ぎになったのは、結婚してそろそろ半年という夏の夜だった。ユーノの携帯電話の電源は落とされていたので、ぼくのほうに連絡がきた。ユーノはあわてて、半袖のTシャツに部屋着の綿のスカートのままで火の玉のように飛びだしていったけれど、ついていこうとするぼくのことは、明日も仕事が早いだろうから大丈夫よ、と気遣ってくれた。
 妻のいつもの歌声も、気配もない家で、ぼくは、ぼけっとした。
 そういえば、一人の時間を過ごすのなんて久しぶりだった。施設ではずっと大部屋暮らしだったし、大学の寮は二人部屋。会社の独身寮で初めて一人暮らしを経験したとき、ものすごく寂しく感じた。宇宙空間に投げだされて、一人漂ってるみたいに。そのへんな寂しさにもようやく慣れたころ、縁あってユーノと出逢い、結婚した。そして、もう二度と一人暮らしはいやだなぁとしみじみ思っているぼくがいた。
 手持無沙汰なので、お風呂に入ってから、ジャージにサンダルというだらしない恰好で出かけて近所のラーメン屋に入った。瓶ビールと、ザーサイと、チャーハン。ユーノの手料理に慣れてきたせいか、外食なんて高い割にはそんなにうまくもないじゃないかと感じた。お義父さんのことは、そりゃ心配だけど。こっそり勝手なことを思えば、妻に一刻も早く二人の家に帰ってきて欲しかった。
 マンションにもどり、エレベーターに乗る。
 部屋の前で止まる。
 ふっ、と振りむく。誰もいない。そりゃそうだ。でも、なんだか、ふわりと妻の匂いがしたような気がしたのだ。そんなはずはないよな? と、鍵を開ける。
 扉を押して室内に入ろうとしたとき、山猫か、風か、不吉ななにかのようにぼくの横をすり抜け、先に入っていったものがあった。
 お義母さんだった。
 ぼくは立ち尽くして、「へっ?」と思わず聞いた。
 この人と会うのはじつは披露宴以来だった。ユーノはしょっちゅう実家に顔を出していたけれど、そんなとき、ぼくのほうはずっと遠慮していた。あの日さめざめと号泣していた姿を思いだすたび、どうにも恐ろしかったし、それに向こうだって、娘はともかくぼくのことはそう待ってもいないだろうという気がしていたのだ。
 お義母さんは、今日は洋服姿だった。
 長い髪が生き物のように背中にべっとり垂れていた。黒っぽいワンピースだ。お腹まわりの肉が気だるくぼってりして、着物姿のときよりも年相応に老けて見えた。じーっとこっちを見ている目つきは、わけがわからない。艶やかで色っぽいとも、頭がおかしそうとも、酔っぱらいかなにかとも見えて。
「えっ、えっ、えっ。お義母さん? ど、どうしたんですか?」
「鷹野さんが心配だって、優埜が何度も言うもんだから」
「いやー、大丈夫です。明日も仕事ですし。あっ、病院に行かずにすみません! お義父さんは……?」
「明日、手術らしくて。いまは優埜がつきっきりで見てるのよ。……どっこいしょ!」
「へっ?」
 ソファに勝手に腰を下ろして、また、じーっとこっちを見ているので、ぼくはあわててサンダルを脱いで、上がった。
「あ、あのぉ……」
「鷹野さぁん」
「お茶、いれましょうか」
「あらぁ、飲んできたのぉ?」
「はぁ……」
 気味の悪い時間が続いた。
 お義母さんは、見れば見るほどユーノと顔がよく似ていた。かもしだす匂いも、なんだか同じで、年を取ってからの妻を見てるようで、でも唇だけは、ぼくの好きな潔癖そうに薄いあれじゃなくて、ぼってりしていて、へんに分厚く、赤く、なにかを強く主張していて。
 そして。
 気のせいじゃないと思う。
 ……ぼくは、お義母さんに、誘惑されたと思う。
 すっかり怖れをなしてユーノに電話したけれど、病院にいるからか電源が切られていた。お義母さんがこっちにきてるんだけど、と必死でメッセージを残して、でもいったいなんでだろう、夫が入院しているのに、と考えながら、ぼくは隙を見て寝室に逃げこむと内側から鍵をかけた。
 そうしたらもうどこにも逃れられなくなった。って、落ち着いて考えてみたら、むしろ家から外に出るべきだったのかもしれないけれど。っていうか、こんなに怯えるなんてそもそもへんだろう。こっちは男で、腕力で敵わないはずないのに。
 寝室の外の廊下を、右に、左に、ゆっくりと歩くお義母さんの足音が、静かに、重く響く。
 怖くて、気づくともう声も出せなかった。
 これじゃ、肉食獣から逃れようと気配を殺してる子リスかなにかみたいだ。
 電気を消して、布団の中で携帯電話を握った。何度かけても、もちろんユーノは出てくれない。
 ツイッターのタイムラインのほうに、梨子がいてくれた。
 ほっとした。現実の存在に出逢えて、体温を感じたように思えた。ちいさな携帯電話の中なのに。おかしなことだな。
『梨子もさぁ、お母さんと仲いいの?』
 唐突に質問してみる。
 披露宴でのお義母さんのあの狂態に、梨子たち、女の子がみんな、なんとなく理解がありすぎたような気がしていたのだ。
 梨子は昔、学生結婚して、卒業して就職した後に離婚していた。だから若いけどいちおうバツがひとつついてる。
『仲、悪いよっ』
 と、すぐ返事がきた。
『なーんだ』
『鷹野のところは、奥さん、友達親子だよねぇ?』
『ん』
『大変そう』
『えっ?』
『旦那さんも。なにより、奥さん自身も』
 ……あぁ、やっと梨子の本音がすこし聞けた。ぼくは安堵した。披露宴の直後は、気を遣って、幸せに水を差すまいとみんなぼくになにも言わなかったから。
『仲いいほうが、大変なのかな? 梨子、どう思う?』
『うーん、どっちも。親が子離れしてないと、どっちにしても大変だよね。うちもさ、母と仲悪かった割に、結婚するとき、ぜんぜんほっといてくれなくて。まぁ、仲悪いってのも、娘を自分の思い通りに動くロボットみたいにしようとして、失敗して、ケンカが絶えないっていう親子だったからさ。結婚しても、すっごく干渉されて。だからさ、親に反発するあまり早まった結婚に、やっぱり失敗して、たったの三年半で離婚したときにね。あたしがいちばんほっとしたのは、結婚で親の籍をいちど抜けてるから、自分からそっちにもどろうとさえしなければ、今度は自分個人の戸籍を持てるってこと。気が、楽だったよー。……って、話がずれちゃたね! もともと、鷹野の嫁の話だよねぇ』
 べつの女の子が、
『えー、うちの母親、ぜんぜんそんなじゃないよ』
 と、やりとりに入ってきた。
『ま、人によるよね』
『だよね。いい母親もたくさんいるもん』
『梨子んちのママはね、パワフル!』
『ほんっとだよぉ』
 と、そのとき。友達でも誰でもない、たまたまそのやり取りを見ていたらしき知らない誰かが、
『母が生きてる限り、誰とも結ばれない』
 と、とつぜん話しかけてきた。
 えっ、と思った。
『本当の意味では、わたしは誰とも伴侶になれない』
『あの人が、死んでくれたら』
 ロボトミー、というへんな名前のほかは、プロフィールもなにも公開してない人だ。たぶん女性らしい。でもそれきりその人はタイムラインの海のどこかにまた隠れてしまってみつからなくなる。
 というわけで、明日も会社だというのに、ぼくは夜が更けるまでずっと、ツイッターの中で誰かと話して、聞いて、を繰りかえしていた。結婚について、母親について、そして自分の新婚生活について。意味があるのかないのかよくわからない長いディスカッション。
 ときどき、布団の中から顔を出す。
 すると照明がつきっぱなしの廊下からの灯りがドアの下の隙間からこっちに伸びてきているのが見える。
 灯りの真ん中に長い影がある。
 ドアの前に、立っているのだ。
 お義母さんが。
 ずーっと。
 娘婿が出てくるのを待ってるのか。なにが、なんだか。やっぱり理解できない相手だった。
 ぼくはゆっくりと揺れているその影を、まるで悪い夢のように思って、むしろ携帯電話の中での仲間たちとの会話のほうを現実だと思いたくて、震えながらまた布団に潜りこんだ。

「ママと、寝たでしょ!」
 翌日。
 寝不足のまま会社に行き、なんとか仕事を終えて、しかしまだ悪い夢の中にいるようなおかしな気分のままでふらふらと帰宅すると、ユーノがもう帰ってきていた。
 お義父さんの手術は、どうやら無事に終わったらしい。
 親戚の人に付添いを替わってもらって、もどってきたところ。
 いつもと顔つきがちがうな。
 単刀直入に聞かれたので、鼻を鳴らして笑って、
「そんなわけないだろ!」
 疲れも混乱もあって、答えるぼくの声もいつもよりつめたかった。
 ばからしい、というのが本音だ。
 でもそのときのユーノは、まるで真剣な子供のような顔をしていた。あのとき……披露宴のとき、両腕を伸ばしてきたお義母さんを抱きとめて、助けを求めるようにこっちを振りかえったときの顔つきとよく似ていた。
 新婚一日目、抱きあげた彼女の体が、結婚前とちがって、羽毛みたいに、空気みたいに、あまりにも軽かったことを思いだす。
 実体は、魂は、いったいどこに置いてきたのかな、とおかしな疑問が浮かんだことも。
 ぼくがみつけて、愛して、つきあってきた、あの若い女性のユーノは、結婚する前に誰かに捕まってしまい、それきりどこかに監禁されてしまっているのかな。だったらこの部屋で一緒に暮らし始めた、歌って、ごはんを作ってくれて、夜は一緒に寝ているユーノはいったい誰なのかな。とへんなことを考えた。
 でも、あの披露宴のときには助けを求めてぼくをみつめていたはずのユーノは、この日はぼくをかたきのように睨みつけてくるばかりだった。
「あのなぁ、ユーノ……」
 ぼくはあきれて、強い声になった。
「常識で考えてよ。君と結婚してて、なんで君のお母さんと寝るのさ? ていうか、もうばーさんだし。ねぇ、なんで?」
「だってぇ、ママが……」
 ユーノの声は急に小さくなった。
 披露宴で泣いてたときのママみたいに、中腰で、キッチンテーブルに手をついて小刻みに震えている。
 と思ったら、泣きだした。
 これじゃ、あのときのお義母さんとますます似てしまう。いやだな。ぼくはふっと逃げ腰になった。
「子作りしたいって、あたしが言ったの、覚えてる? 電話、で……。まだ、夜にときどき電話がかかってきてたころに」
「ときどきじゃないだろうがっ。十分置きに、夜中までだろっ。二人でごはんを食べるひまもなかったし、おまえ、お風呂にまで持ちこんでたし。携帯、一度それで壊れたろっ」
「そんな、おおげさな……。タカノ……」
「ユーノっ!」
「とにかくっ、あのときっ、ママが言ったの。子作りもしたいしって話したら……」
「なんて?」
「あら、そんなのわたしが産んであげるわよ。って」
「……はぁぁ?」
「優埜が産むのは、たいへんでしょ、まだそんなのに耐えられる齢じゃないしねって」
「って、おまえもう三十だろ」
「……つまり、だから!」
 ユーノはぼくを睨みあげた。
 なんというか、たった一晩のことで、昨日のいまごろまではまだ仲が良かったのに、もうなにかが変わってしまっているなんて。どうも会話から察すると、お義母さんが、お義父さんの手術中に、昨夜、あなたの夫と関係を持ったわよ、ととつぜん言いだしたらしい。
 そしてユーノが部屋にもどってきたら、お風呂場にも、ソファにも本当に母親が泊まった痕跡が残っていたという。ぼくは今朝、なにしろ慌てふためいて飛びでていったからそんなところまでは見なかった。つまり、お義母さんが部屋のあちこちになにか細工して帰ったということだろうか。
 ぼくは言葉を尽くして、そんなはずはないんだ、落ち着いて考えてくれ、と説明し続けた。やがて言葉が涸れて、ユーノも疲れ切って、黙ってみつめあう。
 そのときいいことを思いだした。昨夜、お義母さんと熱く抱きあっていたと誤解されているころ、って、そう仮定するのさえかなり気持ちが悪いけど、そのころぼくはツイッターでいろんな人とわぁわぁ話していたのだ。初めは梨子たち会社員の子たちと。彼らが寝てしまった後は、学生や自由業の友達、つまり宵っ張りの子たちと。朝まで飽きずにいろんなディスカッションをしていた。
 ぼくは携帯電話を取りだして、そのやりとりの一部始終をユーノに見せた。時間もちゃんと確認してもらう。
 ユーノは長いあいだ、ぼくと梨子たちのやりとりを読んでいた。ちょっと長すぎるぐらいの時間だった。そして顔を上げたときには、青白い、いやな膚の色をしていた。
「ほらっ。わかったろ?」
「あたしと……」
「んっ?」
 ぼくはキレ気味に、短く返事をした。
 とにかく眠くて、だるかった。
 もういやでいやでしかたなかった。
「あたしと、ママのこと、こうして話題に、するのってさ」
「えっ、悪い? なにしろさんっざん苦労してきたからね。この半年、ずーっと。信頼できる誰かの意見を聞くのって悪いことかなぁ? えっ? えっ?」
「ほかの、女の人たち、とさ……」
「はぁっ? なにか、悪い? えっ?」
 そのとき。
 今でも、思いだせないのだが。
 むりに記憶を揺り起こそうとすると、ぼやっとなって。
 どうしても出てこないのだが。
 ユーノが、とにかく、ぼくになにかを言った。とてもいやなことをだ。つまりぼくの魂の気に障るようなことをだ。
 人と人が愛しあって暮らしていれば、そういう瞬間もあるだろう。きっとぼくもこの日ユーノに同じことをしたのだろう。お互い様だ。ユーノだけが悪かったなんてはずはない。でもそのとき、ぼくにはそんな判断力はまったくなかった。気づくと腕を振りかぶってユーノの顔を正面から殴りつけていた。
 ユーノは打撃の衝撃でキッチンテーブルの前から三メートルほど瞬間移動し、同じポーズのままでリビングの床に、いつのまにかすっくと立っていた。と思うと、スローモーションで、爆発の風に巻きこまれたように吹っ飛んでいき、ついで仰向けに床に倒れた。しゃれたタイルの床で頭を打つものすごい音がした。
 ぼくはしばらくユーノを睨んでいたが、気が落ち着くのを待って、ゆっくりとリビングに歩いていった。仕留めた獲物を値踏みするように。乱暴に足蹴にして揺らす。相手が物であるような、失礼な態度で。でも起きあがる気配がまるでない。ちっ、と思った。
 でもそのうち急に正気にもどってきて、
「……あっ、ユーノ?」
 膝をついて座って、頰を叩いたり名前を呼んだりした。
「ごめんっ。ユーノ? ユーノ? ユーノ?」
 頰が、つめたい。
 ぼくは救急車を呼んだ。
 三度も嚙んで、住所がなかなか言えない。
 早くきて。誰か。頼む。早くきて。早く!

 そして、その夜が……。
 ぼくの妻としてのユーノを見た最後になった。
 救急隊員には、妻が転んで頭を打った、と説明したけれど、事態がはっきりするまでは隊員が救急病院から去らなかった。脳震盪から意識を取りもどしたユーノが、夫に殴られた、と話したのかもしれない。隊員がいちおう警察に通報して、それからすこしだけ面倒なことになった。
 ユーノはそれきり二人の部屋にはもどってこなかった。それがぼくに殴られたからなのか、それともママとのことを疑い続けているからなのかも、確かめることはできなかった。やがて弁護士からの内容証明が届いて、おとなしくユーノとの離婚に同意しない場合は協議離婚のための簡易裁判になり、ドメスティックバイオレンスを原因として訴える、そうなると貴方は社会的な制裁をも受けることになるだろう、とあった。
 ぼくはしばらくのあいだなにも考えられなくて、その手紙もほったらかしにして、黒い雲の上を歩いてるようにぼやっと生きた。
 すると、ある日、なんと会社にお義母さんが乗りこんできた。
 これがまたすごい騒ぎになった。上等な訪問着に身を包んだ、どちらかといえばうつくしい初老の女が一人、まるでミュージカルスターのようにフロア中を駆けて、叫んで、娘はこの男に殴られて負傷したのだと訴えた。そのうちどんどん尾ひれがついて、そのせいで娘には障害が残ったとか、廃人になってもう再婚もできない、などと勝手に付け足し始めた。後輩たちが三人がかりでようやく取り押さえて、とりあえずいちばん隅の応接室に放りこんだ。と、上司が代表して話を聞いてきてくれた。あの、いい女だなぁと披露宴で感心していたほうはちょうどいなくて、べつのおとなしいほうの上司だ。
 その夜、感心していたほうも合流して、上司二人と、会社から離れた場所にある妙に高い居酒屋に行った。
「暴力は、だめだぞ」
 と言われても、ぼくは最初はぴんときていなかった。
 施設では、普通のことだったから。言うことを聞かない、大人の腹を立てさせてしまう子供は、叩かれたり重いものを長い時間持たされたりするものだった。それが、常識だ。結婚する前につきあっていた女の子のうち、何人かのことも、ぼくは急に叩いたことがあった。もちろん、あんなに思いっきりではないけれど。彼女たちは怒ったものの、それでぼくを捨ててしまうということもなかった。だからそれをいけないことだとはあまり思ってこなかった。ぼくは上司たちに、先生が出来の悪い生徒に教えるように繰りかえし諭されているうちに、世間ではこうなのだ、ドメスティックバイオレンスとはよくないことなのだ、と納得して、注意深く記憶した。
 離婚には同意したほうがいいだろう、と二人とも言う。
 まだ半年しか経っていないのに、とぼくは思った。
 だって、これじゃ……恋人同士がただつきあって別れるみたいに、あんまり簡単じゃないか。結婚っていうのはもっとたいへんなことで、そうそう別れたりしないものじゃなかったのか。あの日、たった半年前のあの夜は、この幸せがずっと続くのだと思いこんで、覚悟もしていたのに。ぼくの想像の中の、ずっと、つまり数十年とは、なんて薄っぺらで非現実的な空想の産物だったのか。半年か。ほんとうに。ほんとうに。ほんとうに。
 ぼくは上司の手前もあり、おとなしく離婚届に判を押した。
 上司がそれを、会社近くの喫茶店まで取りにきたお義母さんの手に、渡した。色っぽいと褒めてたほうの遊び人の上司だ。上司たちもお義母さんも、どちらもまるで未成年の保護者みたいな活躍ぶりだった。大人と大人の結婚のはずなのに、だからぼくとユーノは、最後に顔を合わせて話しあうことさえさせてもらえなかった。
 とことこと歩いてもどってきた上司が、ぼくの肩を妙に気弱に叩いた。それからお義母さんが指定した喫茶店のことを、
「おい、コーヒー一杯が千円近くしたぞ。いいランチが食える値段だよなぁ。でっかい花瓶に鬼百合が飾ってあって、クラシック音楽もかかっててさ」
 するともう一人の上司が、顔を上げ、妙に文学的な返事をした。
「あの人は、そういや、花でたとえると鬼百合のような女性だねぇ」
「うん?」
「華やかで、大きくて、強い花、さ」
「……はぁぁ?」
 お礼を言おうと頭を下げかけていたぼくの口から、疑念の息が声になって漏れた。
 奇怪に思って、そっと顔を上げて様子を窺うと、二人とも夢見るような目つきをして、それぞれ壁やら窓の外やらをぼんやり見ているばかりだった。あのお義母さんがわけのわからない妄執と慟哭と恫喝の怪獣と見えているのは、この世でぼくだけなのだろうか、とふいに絶望した。それから、あの新婚初夜、うちの玄関で、優埜、優埜、わたしの優埜、わたしの優埜、と叫び続けるお義母さんを迎えにきたときのお義父さんの、静かに鬼気迫っていたあの顔つきを思いだした。正しくは、ぼくと、あの人、だけ、か。
 ふっと女友達が話していたことを思いかえす。夫と離婚したとき、実家の戸籍から抜けて自分個人の籍になることを選んだ、と。ぼくの妻だった人は、でも、実家の戸籍にもどっていくような気がした。
 おそるべき母の娘に。
 ユーノの歌声が、それにしても、恋しい。
 この日の帰り道。駅のホームでぼくは、妻がよく歌っていた曲を力なくすこし口ずさんだけど、ばかみたいだからすぐやめた。

 こうしてぼくとユーノ母娘との縁は意外と早く切れた。
 そう、思われた。
 そして音楽もなく、恋もほぼなく、愛もまったくなく、ただ月日は流れた。



*続きは、桜庭一樹『じごくゆきっ』でお楽しみください。

 

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