試し読み

青少年のための小説入門

LESSON 1

登さんから葉書が届いたのは、ぼくが二度目のデビューを果たして四年目のことだ。打ちあわせにやってきた担当の編集さんが、お見せしようかどうか迷ったんですけど、と前置きして、革のトートバッグからそれをとり出した。
「気持ち悪かったら、こちらで破棄します。ちょっと変な葉書なんで」

そう言って渡された葉書は、確かに変だった。

表書きに、出版社の所在地と、ぼくのペンネームが記されている。ボールペンで書かれたその字が、異様に汚かったのだ。字を形成する個々のパーツの配置が、でき損ないの福笑いみたいにバランスが悪い上に、すべての線が何度もなぞりなおされ、てのひらでこすれたらしく、あちこち黒ずんでいた。

しかし、字の汚さより、差出人の名前にあっと思った。無意識に声が出て、編集さんに怪訝そうな顔をされた。
「どうなさいました」
「いや、これ、よく知ってる人から」

葉書を裏返し、たった一行の文面をながめていたら、
「失礼ですけど、なにか障害をお持ちの方ですか」

あまりの字の汚さに、そう考えたのだろう。顔を起こし、逆にこっちから質問した。
「ぼくが昔、倉田健人っていうペンネームで一度デビューしたのは知ってます?」
「はい、インタビューで読みました。コンビで活動なさってたとか」
「田口登さんは、そのときのパートナーです」
「ああ、そうなんですか」

ぼくは初めて見る登さんの字に、あらためて目を落とした。
「登さんはディスレクシアなんです。学習障害の一種で、自由に読み書きできない。これ一枚書くのも、ものすごく苦労したと思いますよ」

それから、ディスレクシアについて説明した。脳の情報処理システムが通常と異なるため、字がゆがんだり、動いたり、いくつも固まって見えたりして読むのが著しく困難なことや、手本と首っ引きで書いても、しばしばありもしない字になってしまうことなどを。
「最近は補助的な学習ツールも出てきましたけど、当時はこの障害の存在自体、ほとんど知られてなかったですから」
「ディスレクシア。そういうのがあるんですね」

打ちあわせに移っても、ぼくは登さんのことを考えていた。葉書の裏には大きく、インチキじゃなかったぜ、と書かれていた。

それから間もなく、ぼくは葉書にあった住所に手紙を送った。表に押された消印は今年の日づけなのに、裏に記された日づけは、再デビュー作を刊行した三年前のものだった。なぜ今年になるまで出さなかったのか引っかかったけれど、うれしさが違和感を吹き飛ばした。

最初のデビュー作でお世話になった編集さんは、現在は同じ出版社で出版部門の統括部長を務めていて、二度目のデビュー作でまた一緒に仕事ができた。登さんの感想を聞くことはあきらめていたが、ちゃんと読んだ上に、障害をおしてわざわざ葉書までくれたのだ。

二週間ほどして、手紙を送った住所から、ゆうパックの箱が届いた。葉書とは異なるきれいな字で、田口カナと署名されている。奥さんの代筆だろうと思って箱を開けると、カセットテープが大量に出てきた。すべてのケースに桜のシールが貼られ、インデックスカードには「『百年の孤独』① ガブリエル・ガルシア=マルケス」とか、「『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』① 村上春樹」とか、二〇年以上前のぼくの字で記してあった。

箱には手紙も入っていた。読み始めて愕然とした。登さんは三か月前に亡くなっていたのだ。

読み終えると、夜一一時を回っていた。遅すぎると思いつつ、末尾に記されている番号に電話をかけた。出てきたカナさんは、ハキハキした話し方と、登君という呼び方がちぐはぐで、若そうな人だった。遺品を整理する過程で、出さなかった葉書を見つけ、出版社へ送ることにしたという。登さんの口真似をしたのか、カナさんはぼくをペンネームではなく、本名で呼んだ。
「一真さんの本は全部そろえてました。登君ってほら、障害あるじゃないですか」
「ええ」
「一真さんのデビュー作を渡されたとき、初めて聞かされたんです。二人で一緒に本を出したことがあるって。読み書きできないのにまさか、って思いました。嘘でしょってその場でググっちゃったりして。あの。ひとつ聞いてもいいですか」
「はい」
「本を一冊書くのって、どれぐらい時間かかるんですか」
「作家と、作品によります。ぼくはかなり時間がかかる方です。作品によっては、数年がかりになるかもしれません」
「そっかー」

カナさんがため息まじりに言った。
「楽しみにしてます。二人の本」
「え?」
「登君、言ってました。自分が死んだら、一真さんが二人の本を書くからって」

返答できなかった。そんな約束をした覚えがなかったからだ。そうそう、とカナさんが声の調子を変えた。
「朗読、上手ですね。テープ聴きました。ていうか、聴かされました。しつこく言うんですよ。一真さんはすごく朗読がうまかったって。死ぬほど読んだ、なんて言ってましたけど。そんなにたくさん読んだんですか?」
「読みました。何百冊も」

話しながらぼくは、当時のことをありありと思い出した。

たぐちは、町の駄菓子屋だった。踏み切り通りと呼ばれる道路に面した角地にあり、歩道にせり出した赤い日よけに、白いペンキでたぐちと書かれていた。日よけの下にアイスケースとジュース用の冷蔵庫が置かれ、おもちゃや文房具も扱っていて、小中学生のたまり場だった。

陳列ケースが並ぶ土間からあがった茶の間の掘りごたつで、白髪頭のおばあさんがいつも店番をしていた。子どもたちの名札に目をとめ、勝手なあだ名で呼びかけてきたが、ぼくが小学六年生のとき、何か月もシャッターがおりていたことがあって、再び店が開くとおばあさんはうまくしゃべれなくなり、右半身が麻痺していた。

そのころから、おばあさんがブザーを鳴らして奥へ引っこむあいだ、若い男性がかわりに店番をするようになった。それが登さんだ。

暴走族の幹部で、何度も鑑別所に送られたとか、ヤクザを半殺しにして、少年院に入れられたとかいう噂は、そういう世界とは無縁なぼくでも耳にしていた。身長はたぶん、一八〇センチちょっと。目もとがつり気味の、わりに整った顔立ちだった。形のいい頭に短めの髪をなでつけたオールバックで、血色のいい肌がつやつやしていた。

普通の子にとって登さんは、絶対にかかわりたくない存在だった。ところが、中学二年生になって間もなく、事情が変わってしまった。

きっかけは、クラスに神原という男子が転校してきたことだ。始業式の四日後にあらわれた神原は、がっちりした体に変形学ランをまとい、きついアイパーをあてて、眉を剃り落としていた。

ひと目見るなりげんなりした。クラスには、一度も登校しない女子もいた。噂によると、欠席が多すぎて進級できず、二年生にすえ置かれたという。

ぼくが通った区立中学はマンモス校で、一学級あたりの生徒は五〇人に迫り、ひのえうまの学年以外は一三クラス以上あった。それだけ人数が増えれば、いわゆる落ちこぼれも増える。くわしい事情は知らないけれど、神原と不良がかった連中のあいだで、ひとしきりいざこざがあったらしい。一週間もしないうちに、神原は顔中あざだらけになり、それと引きかえに学校での地位を確立していた。

そのあざが薄れてもいないある日の放課後、神原がぼくに声をかけてきたのは、とり巻きになった二人組から、情報を仕入れたせいだろう。ぼくは中学受験に失敗し、高校での巻き返しを目指していた。成績は常に学年トップクラスで、そこに自分の存在価値を見出していた。そういう生徒は目をつけられやすい。おい、と呼びかけてきた神原の横で、二人組はニヤニヤしていた。
「……なに?」

おっかなびっくり答えたら、小柄なぼくにのしかかるように、神原がグッと顔を近づけてきた。
「ツラ貸せよ」

連れこまれたのは、中学校と線路のあいだに広がる空き地だ。のちに二七階の高層マンションが建つそこは、サッカー場くらいの面積があり、大人の背丈を超すセイタカアワダチソウが、一面の雑草のあちこちに群生していた。その陰に入って、三人でぼくをとり囲むなり、神原が切り出した。
「お前、たぐちで万引きしてこい」
「えっ」
「やらねえとこの場でシメる」

二人組がうれしそうに言った。
「神原君、マジ鬼」
「田口さんにつかまったら、殺されるよこいつ」

神原がせせら笑った。
「殺すだけの根性ありゃ、いまごろムショだ。たかが駄菓子屋の店番だろ。そんなやつまくってやる」

突然、ぼくの太ももに容赦ない膝蹴りを入れてきた。
「おら、行くぞ」

神原たちに連行されて踏み切りを渡り、たぐちの前の歩道に立った。ガラス戸のむこうに雑然とした店内が見える。茶の間にいるのはおばあさん一人だった。

二人組と左右にわかれて立ち、行け、というように神原があごをしゃくった。姿が見えない登さんより、目の前の神原がこわかった。仕方なくガラス戸を引き開け、中に入る。おばあさんがもつれる舌で声をかけてきた。
「いらっしゃい」

中途半端に頭をさげておばあさんに背をむけ、陳列ケースに目を落とした。なるべく見えにくい店の隅へ移動し、チラッと肩越しにうかがう。おばあさんは座椅子にもたれかかり、音量を絞ったテレビをながめていた。

箱に入った梅ジャムをつまみあげ、開けっぱなしのガラス戸へむかう。そそくさ外へ出ようとした瞬間、二人組が店内にむかって声をそろえた。
「あー、七中の入江一真君が万引きしてるー」

その直後、背後でビーッとブザーの音が鳴り響いた。ぼくは飛びあがり、やみくもに逃げ出そうとした。が、数メートルはなれて歩道の左側に神原が、店の横の路地に二人組が立ちふさがっていた。逃げられるのは警報器を鳴らしている踏み切りの方しかない。そっちへむかって駆け出したけれど、たどり着く前に遮断機がおりてしまった。少しまごついてから、線路沿いの道を駅とは反対方向へ走り出した。ぼくは駅の上のマンションに住んでいた。自分の住まいを知られたくないという、犯罪者特有の心理が働いたわけだが、どのみち無駄なことだった。

のぼり電車とくだり電車が真横を走っていたせいで、近づいてくるサンダルの足音に気づかなかった。いきなり、斜めがけにした通学カバンの肩紐を引っ張られた。ガクッとのけぞり、びっくりして振り返ると、Tシャツにジーンズ姿の、長身の男性が見おろしていた。
「お前か、入江ってのは」

意外に高い声だった。登さんだ。恐怖で答えられずにいたら、
「なんとか言え」
「ごめんなさい」

反射的に謝ってしまった。電車が通過して、あたりが静かになった。握りしめていた梅ジャムをおずおずさし出すと、登さんはそれをひったくってジーンズのポケットにねじこみ、目を細めた。
「おれが店番するようになってから、万引きしたのはお前が初めてだ。いい度胸してんじゃねえか」
「違うんです、わけがあるんです」
「言ってみろ」

見逃してくれるかも、とかすかな希望を抱きつつ、万引きを強要されたことをしゃべった。すると、登さんの表情が変化した。瞳の明度が急に落ちたのだ。それにあわせたように、声まで低くなった。
「名前」
「え?」
「そいつらの名前。紙に書け」

ぼくはうろたえた。三人の名前を知った登さんが、そのままで済ませるとは思えない。登さんにやられたら、神原たちの怒りは告げ口したぼくにむけられるだろう。

どうしていいかわからず立ちつくしていると、登さんがゆるい詰襟の首もとに手を突っこんできた。強い力で引きずり寄せられ、つま先立ちになった。
「とっとと書け。泣かされてえのか。あ?」

暗いまなざしが間近に迫る。横を通行人が行き来するものの、見て見ぬふりだった。そのとき、明瞭に理解した。

ぼくは神原たちの名前を言わされる。そのせいで三人にやられる。

だから区立はいやだったんだ、と思った。思ったとたん、涙がにじんできた。登さんが冷たく言った。
「まだなんもしてねえだろが。お前みてえなやつは、私立行けよ」
「……受けたけど、落ちた」
「あ?」
「滑り止めしか受からなかった」

破れかぶれになって打ち明けたら、涙があふれてきた。神原たちの名前でもなんでも言ってやるつもりになったが、なぜか登さんからリアクションがない。すすりあげながら上目づかいにうかがうと、なにか考えているようだった。いまの話のどこかに興味をひかれたらしい。再びかすかな希望を見出し、早口にしゃべり始めた。
「ぼくは滑り止めの学校でもよかったんだけど、ここからだと二時間くらいかかっちゃうから、中学は地元の区立にしなさいって、お母さんが」
「お前、頭いいのか」
「塾では御三家確実って言われてた」
「なんだ、御三家ってのは」
「麻布、開成、武蔵。三つとも超難関校」

値踏みするような目でぼくをながめていた登さんが、思い立ったようにきびすを返し、詰襟を引っ張って踏み切りの方へずんずん歩き出した。歩道に移り、たぐちの日よけをくぐると、ガラス戸は開けっぱなしのままだった。登さんに引きずられて入ってきたぼくを見るや、おばあさんが茶の間からまくし立てた。なにを言っているのかさっぱりわからない。ばあちゃん、と登さんが気安い調子で呼びかけた。
「返すぜ」

ジーンズのポケットから出した梅ジャムを箱に戻し、ぼくを追い立てて土間を移動すると、茶の間の前で立ち止まり、声をかけてきた。
「あがれ」

怪訝そうな顔をしたおばあさんに、登さんが話しかけた。
「こいつ、万引きさせられたんだと。使えそうなら許してやってもいいと思ってよ」

使えるってなんだ、と戦々恐々とするぼくと対照的に、おばあさんはその説明で納得したみたいだった。せかされて学校指定の運動靴を脱ぐと、登さんに茶の間へ押しあげられた。背中をぐいぐい押され、おばあさんのうしろを通って奥へ進む。部屋の隅に台に載った黒電話があり、台所に通じる鴨居の上には、色あせたおじいさんの写真がかかっていた。登さんはその手前でぼくのむきを変えさせ、せまくて急な階段をのぼらせた。

のぼりきった先に短い廊下があり、登さんに押しこまれたのは、踏み切り通りに面した六畳の和室だった。真横に大きなファンシーケースがある。南と西の窓から日光が射しこみ、明るい。そこには先客がいた。真っ赤なワンピースを着た女の人が、網戸にした窓の枠に座り、たばこをすっていたのだ。
「お帰り。なにその子」
「万引き小僧」
「なにー、万引きしたのー。駄目だよー、犯罪だよー」

ゆるい調子で言い、女の人が煙を吐いた。登さんが通学カバンをつかんで強引にぼくを座らせてから、あぐらをかき、顔を寄せてきた。どんな目にあわされるのかと全身がこわばった。すると登さんが、予想外なことを言い出した。
「お前、朗読うめえか」
「え」
「学校で読まされんだろ。うめえのか」
「……まあまあ」

登さんがあぐらをかいたまま長い腕を伸ばし、女の人の足もとに転がっていた文庫本を拾いあげて、こっちへ放った。あごでうながされて拾いあげると、夏目漱石の『坊っちゃん』だった。
「頭っから読め」

登さんは無表情だった。灰皿でたばこを押し消した女の人は、おもしろそうにぼくを見ている。とにかくつかえたらまずい、と思った。『坊っちゃん』は幸い、ジュニア版で読んだことがあった。本文の一ページ目を開き、慎重に読み始めた。

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出して居たら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時……
「ストップ」

大きな声がかかり、ギョッとした。顔をあげたら、登さんが満足そうな表情を浮かべていた。
「うめえじゃねえか」
「すごーい」

女の人が窓枠からおりてきて、ぼくの隣にペタンと座った。きつい香水のにおいが鼻を突き、たじろぐ。女の人がお構いなしに顔を寄せ、文庫本をのぞきこんだ。
「読めない字たくさんあるから、あたしなんかすぐつかえちゃう。これとかこれとか」
“譲”“居”という漢字を指さし、“小学校に居る時分学校の”という箇所をなぞった。
「ここなんかわかんなくて、トキワケガッコウって読んでたもん。なんかさっき、違う読み方してたよね。なんだっけ」
「……小学校に居る時分」
「自分だったら字違くない?」
「その自分とは違う。小学校にいるころ、って意味。読点が入ってないから、読みにくいかも」
「なに、トーテンって」
「文章につける点とか丸の、点」
「あれ、トーテンっていうんだ。へー」
「おい」

登さんが女の人に呼びかけた。
「こいつとサシで話あるから、帰れ」
「えー、せっかく来たのにー」
「あとでな」
「あとって、いつ?」
「一〇時すぎ」
「じゃあ、こないだと同じ店に一一時。いい?」
「おう」

あとでねー、と女の人が部屋を出ていった。トントンと階段をおりる音が遠ざかってから、登さんがぼくにむきなおり、軽い調子で切り出した。
「とり引きしようぜ」

来た、と思った。警戒心をつのらせてたずねた。
「どんな」
「簡単だ。朗読すりゃ、万引きはチャラにしてやる」
「『坊っちゃん』読めばいいの」
「最初はな」
「最初って……え?」
「そいつが最初の本で、あとはおれがいいって言うまで読むんだ」

わけのわからない命令に、いっそう警戒心がつのる。震える声でつぶやいた。
「悪いことなんでしょ」
「あ?」
「なんか悪いこと手伝わされるんでしょ」
「なに言ってんだ、お前」

眉をひそめている登さんにむかって、懸命に訴えた。
「うち、母子家庭で、ぼくが犯罪者になったりしたら、お母さん悲しむから」
「待てこら。朗読のどこが犯罪だ」
「……ほんと?」
「なにが」
「ほんとに朗読だけ?」
「とりあえずな」

やっぱりなんかたくらんでる、と思った。悪事の片棒をかつがされ、深みにはまっていく自分の未来が目に浮かんで、また涙がにじんできた。登さんが舌打ちした。
「いちいち泣くな、めんどくせえ。説明してやる。お前あの」

言いかけて言葉を切り、急に思い出したように、意外な人名を口にした。
「田中康夫って知ってっか」
「え」
「あれだ。あー、なんとなく、なんとなく……」
「クリスタル」

登さんが、お、という顔をした。
「知ってんじゃねえか」

前年に刊行された田中康夫の『なんとなく、クリスタル』は、一〇〇万部を超すベストセラーで、一種の社会現象になっていた。
「読んだか」

かぶりを振ると、
「おれは読んだ」

登さんがまじめな顔つきで言った。
「クソつまんねえぞ、あんな本。おれなら一〇〇倍おもしれえのが書ける。で、作家んなることにした」

唖然とした。登さんがこともなげに続けた。
「ただおれは、字が読めねえし、書けねえ」
「えっ」
「つーか、すっげえ時間かかる。康夫の本も女に読ました。小説とはとんと縁がなかったから、どんなもんかつかめるまで読む気でいたが、そろいもそろって、女どもが使えねえ。つっかえまくりだし、わかんねえとこ適当に読むし、聞いててさっぱり頭に入ってこねえ。使えそうなやつ、さがしてたんだ。おれが話つくって、お前が書く。難しい私立受けたってんなら、文章もそこそこ書けんだろ」

ぼくが受験した麻布中学は、御三家の中でいちばんの記述校だ。が、返事をするのはためらわれた。登さんの話を聞いたぼくは、ひそかに知的障害を疑っていた。これ以上つきあわされるのは、災難以外のなにものでもない。なんとか断われないかと考えていたら、
「お前、名前は」
「……入江一真」
「一真。明日っから毎日うちへ来い。でもってガシガシ朗読しろ。タダとは言わねえ。好きな駄菓子、一〇〇円まで買ってよし」
「えっ!?」
「おれが作家んなるまで、おごってやる」

たぐちでの買いものは一〇円単位が基本で、一〇〇円も使えることはめったになかった。これにはクラッと来た。要するにぼくは、まだ子どもだったのだ。登さんが勢いよく立ちあがった。
「出かけんぞ」
「え」
「グズグズすんな」

続きは本編でお楽しみください!

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