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作品紹介
著者紹介黒名(くろな)ひろみ 1968年、香川県生まれ。同県在住。武庫川女子大学短期大学部卒業。脚本家を目指し10年間シナリオの勉強を続けた後、地元の小説教室に通う。2015年に本作で第39回すばる文学賞を受賞。 撮影/中野義樹
江國香織×黒名ひろみ 対談
えくに・かおり●作家。1964年東京都生まれ。著書に『こうばしい日々』(産経児童出版文化賞・坪田譲治文学賞)『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』(山本周五郎賞)『号泣する準備はできていた』(直木賞)『がらくた』(島清恋愛文学賞)『真昼なのに昏い部屋』(中央公論文芸賞)『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』(谷崎潤一郎賞)等多数。
小説には
行くべき場所がある
江國
まずは受賞、おめでとうございます。

黒名
ありがとうございます。受賞の知らせを聞いたときは、すごくうれしいと思う反面、現実感がなくて、ちょっと時間が経ってからじわじわと来ました。

江國
黒名さんの『温泉妖精』が受賞した理由は、まずは一番におもしろかったということ。それに何より自然発生的なエネルギーのある小説だったからだと思います。どの候補作もそれぞれに魅力的なところはあったけれど、中でも力が一番感じられた。それは著者の力というのではなく、小説の力を感じたということです。私は今回の作品に限らず、書き手の力を感じるものより、小説の力を感じるもののほうがいい小説だと思っています。これは少し抽象的な言い方なのですが、この作品には小説自体にエネルギーがあった。それが、私が一番に推した理由です。

黒名
そんなふうに言っていただけて、とてもうれしいです。

江國
候補作はいろいろありましたが、小説自体に力を感じる、魅力を感じるという作品は少なかったと思います。小説の魅力って難しい問題なんですね。なぜなら第一に明確な答えのない問いであるし、第二に、小説の魅力というのは書き手にもコントロールできないものだからです。私は、すべての小説には、行きたい場所、あるいは行くべき場所があると思っています。だからその小説が行きたい場所に向かって、その小説だけの道筋を切り拓いていけるかどうかにかかっている。作者がやるべきことは絶対にその邪魔をしないことなんです。その意味で、黒名さんの作品は、小説を一番野放図に解き放っていて、すごく魅力を感じたんです。


黒名
ありがとうございます。変な言い方ですが、こういうことを大切にして書いてもいいんだなということを、改めて教えていただいたようで、うれしいです。とくに江國さんが選評にも書かれていた「小説にはそれぞれ行くべき場所がある」という言葉はとても印象的で、これからもそういう場所にたどり着ける小説を書きたいなと思いました。

江國
この小説を書くのに、どのくらいかかりましたか。

黒名
この小説だけでなく、いつも一、二ケ月でばーっと書いて、その後に直していくという感じです。直しに時間がかかるので、結局一年近くかかりました。

江國
後で直すにしても、一、二ケ月で、とりあえず最後まで書き上げちゃうんですね。

黒名
ええ。最初は、もうわーっと勢いで書かないと最後までたどり着けないんです。途中で面白くないと思っても、とりあえず最後まで書いて、後で削ったり付け足したりしていきます。

江國
それはなかなかプロっぽいですね。偉いな。

黒名
そうなんですか?

江國
私は、今は小説を書くときは連載ばかりなので、後で直そうと思っても先に進まなければいけないんですね。逆に締め切りがないと書き上げられなくなってしまった。だから、書き下ろしをたまに受けると、もっといい出だしがあるんじゃないか、ちょっと退屈なんじゃないかと、途中で元に戻ってしまうので、思うように進まないんですね。

黒名
私は直すときは、いつも一ページ目から直していって、七、八〇ページまで直して、次もまた最初から直すので、前半部はいっぱい直しているんですね。そうやって直していくとだんだん最後のほうは直せなくなってきて、そのままという感じです。

江國
なるほどね。最後のほうが直せなくなるというのはよくわかります。真ん中を過ぎて、さらにその先まで行くと、その小説の行く場所がもうできているからだと思うんですよ。だから今の話はすごく腑に落ちる感じです。最初に一気に書くのは、小説の道筋を切り拓く作業なんでしょうね。

黒名
私自身は、これは面白いんだと信じているうちに書き上げないと、途中で挫折してしまうんですね。信じていられる期間が二ケ月くらいしかもたない。四ケ月経ってしまうともう途中放棄です。だからしんどくても短時間で一気に書くようにしています。

読み手の身体感覚を
ざわつかせる小説
江國
最初に申しあげた小説の力を別の側面から言えば、黒名さんの作品には、読み手の身体感覚をざわつかせるようなところがあるんですね。たとえば『温泉妖精』の主人公の絵里という女性は、何十万もかけて整形し、金髪にカラーコンタクトをして外国人の振りをしている、相当好感度の低い人物ですよね。彼女が温泉で出会う、影と呼ばれる元引きこもりの四〇代ブロガー男性も、嫌味たっぷりでこれまた輪をかけて好感度が低い(笑)。

黒名
はい、相当低いです(笑)。

江國
そんな好感度の低い登場人物たちなのに、妙な存在感があるんです。人間って、現実世界でも誰かを完全に理解することはできないでしょう。でも小説だと、作者が登場人物を理解してもらいたくて、ついこの人はこういう人だと説明してしまいがちなんですね。黒名さんの小説にはそれがない。わからないまま最後までちゃんと人が描けているので、その分、登場人物の存在感が強かったのではないかと思います。

黒名
好感度が低い人間が主人公ということで言えば、私は前から悪役が好きで……。

江國
悪役?

くろな・ひろみ●1968年、香川県生まれ。同県在住。武庫川女子大学短期大学部卒業。脚本家を目指し10年間シナリオの勉強を続けた後、地元の小説教室に通う。2015年に本作で第39回すばる文学賞を受賞。

黒名
ずうっと初めから悪い人って、ちょっといいところがあると、すごくよく見える。逆に、初めからいい人だと、ちょっと悪いところを見ただけで嫌になりますよね。だから初め印象が悪い人のほうが、かえって気になるんです。私自身がそうなんですけれども、仕事上いろいろな人とお会いして、最初すごく印象が悪くても、話しているうちに、あれっというところがある人のほうが気になるし、注目してしまうんです。小説でもそういう部分を書けたらという思いはありました。

江國
じゃあ、それは成功していますね。この作品の登場人物の男も女も最初は好感度は低いのに、読んでいくうちにどんどん惹かれていく。何だろうな、この感じ。そう、この二人にはこちらの身体感覚をざわつかせる異物感のようなものがあるのね。

黒名
異物感ですか。

江國
うん、その異物感がいいんだろうな。何かがしっくりおさまっていない、何もしっくりしていないという異物感。ざわざわするのはそのせいかもしれない。物語の設定や登場人物がしっくりしてしまうと、とたんにウソっぽくなる。そこを正論で考えない、ウソっぽくさせない力がすごく強いんだと思います。

黒名
自分ではあんまり意識していないんですが、とくに影という男のほうの人物が私の中で動き出すまで時間がかかりました。

江國
うん、この小説の登場人物は男も女も両方ともすごく過剰でしょう。女は整形したり変装したり、男は童貞で引きこもりで偏屈という過剰さがある。でも、その過剰さはただの登場人物の背景に過ぎない。そこで読み手を惹きつけるのではなく、小説自体で惹きつけている。人物の過剰さに小説が負けてない。そこが強かったと思います。

シナリオの勉強が小説の体力作りに
江國
きっと黒名さんは、すごい小説読みなんじゃないですか。

黒名
ええ、一〇代の頃は図書室にこもって小説ばかり読んでいました。

江國
やっぱり……。小説がしっくりし過ぎてつまらなくなってしまう罠っていっぱいあるんです。でも黒名さんはそれを避けて避けて書いていますよね。いいものを書きたいというよりは、つまらなくするのだけは避けたいというほうにエネルギーを割いている気がする。だから何かを目指して書くよりも具体的ですよね。これは陳腐、これはありふれている、これは気取り過ぎ、というように罠を避けていくほうが小説を書くのに実際的なような気がします。
黒名さんはシナリオの勉強を一〇年以上されていたそうですが、その勉強も実践面では役に立ったのではないですか。

黒名
はい。私、一〇代の頃は読書感想文や詩を書いたりするのがまったくだめで、一生懸命書いても評価されたことがなかったんです。でも、シナリオの勉強を始めて、起承転結やオチのつけ方を学んで、やっと少し書けるようになったというか……。やはり長いものを書くのには慣れた気がします。

江國
やっぱりシナリオの勉強で小説を書く体力をつけたんでしょうね。つまらなさを避けて避けてというのもそうだし、一遍にがーっと書いて、後から直すというのも、実践的だし、実際的ですよ。

嫌な子供が主人公の小説を書きたい
江國
もう次の作品、書いていますか。

黒名
ええ、書いています。書いていますけど、二作目を出すのが怖くて。やっぱりこいつ一発屋かとか言われるのがすごく怖いです(笑)。一応書いて編集者の方に読んでいただいたんですが、感想を聞くときはドキドキしました。

江國
楽しみです。テーマ的にはどういう小説なんですか。

黒名
今まで四つ書いてきたんですが、私の書く小説は小学生ものと二〇代女性もののツーパターンなんです。小学生ものはもともと好きで。

江國
小学生ものって、小学生が読むものではなくて、小学生が主人公?

黒名
はい、子供が主人公です。

江國
私も子供を書くのが好きです。子供を書くのはおもしろいですよね。お子さん、いらっしゃるんですか。

黒名
いえ、いません。

江國
私もいないんですが、子供を書くのは楽しいですよね。

黒名
楽しいです。でも私の書くのは、江國さんの小説に出てくる少年や少女とは全然違う。なんか、嫌な小学生なんです。

江國
それ、すごく読みたい(笑)。私の書いたものにも嫌な子いますけどね。

黒名
最近、小学生の子供たちと話をする機会がよくあるんですが、彼女たちの話にドキッとしてしまうんです。確かにわたしが子供の頃にも同じようなことを考えていた。でもそれって残酷だったなあと今さら思います。

江國
へえ、身近にそういう話が聞けると、いい小説のネタになりますね。今のお話を聞いても十分に実践的だし、もしかして、すごく書ける人を発掘出来ちゃったかも。

たくさん書けば
技術はついてくる
江國
黒名さんは、小説とご本人のイメージがずいぶん違う。小説は最後まで力強くエネルギーを吐き続けるのに、ご本人は静かで控えめで。高松在住ということですが、これからも高松で小説を書き続けるんですか。

黒名
はい、そのつもりです。

江國
じゃあ、高松の小川洋子になるかもしれない(笑)。小川さんもご自身はとてもたおやかなのに、強い小説を書く人です。

黒名
いえいえ、そんな……。ただ、江國さんの選評で、小説の企みの部分に欠けるというご指摘をいただいたので、これからはそういう部分も意識して書いていこうかと思っているんですが。

江國
それは気にしなくていいですよ。確かにまだ文体や構成に関しては、それほど完成度は高くないと思います。でも、そんなものよりずっと得がたい魅力があるし、かえって企みとか文体とかを持ち込んで、この感じが弱まったり、つまらなくなるほうが私は心配です。だから、今のままでいてほしいな。だって、小説の行くべき場所に関して、すでに注意深いから。そのままたくさん書けば、技術的なことは絶対ついてくると思います。

黒名
はい。江國さんはいつもどんな感じで書いていらっしゃるんですか。


江國
書くときも読むときも一緒じゃないかな。本を読むときは本の中に連れていってもらいたいわけだし、それまで見たことのないものを見たいし、行ったことのない場所に行きたいと思って読む。そのまま小説に連れていってもらいたい。書くときも同じです。読むときと同じような気持ちで書いています。私は黒名さんの書かれたものにも、そのような感じを受けました。小説の勢いを止めないとか、著者の都合で歪めないとか、それができる人は少ないと思います。ぜひ行ってみたい、その作品がどうなるか見たい、そしてどうなるか読者にも見せたいという、そういう小説についていく感じを忘れなければ大丈夫。

黒名
私も書くときは、自分でこうしようああしようということをまったく考えずに書いているんですが、今日、江國さんのお話を聞いて、改めてそうだなと得心が行きました。

江國
理屈に頼らず、小説の行きたい場所に行ってみてください。期待しています。

(この対談は「青春と読書」2016年2月号に掲載されました)
試し読み

 窓ガラス越しに見えるナトリウム灯のオレンジが、つながるように光の尾を引き飛び去っていく数を、薄目を開けて数えていた。
「逆走したトラックと正面衝突して、四人家族が全滅したニュースを昨日見たの」
 助手席の母がフルフラットになった後部座席を振り返った。
 絵里はあわてて目を閉じ、意識のないふりをする。娘が眠っている事を確認して、母は話を続けた。
「潰れて炎上した車は、ヤドカリみたいな形になるのね。鉄製の黒いヤドカリ。たとえ生きていたとしてもシートで圧迫されたり、ドアも歪んで開かないから外に出られなかったのよ。そのまま焼け死ぬしかなかったんだわ」
 中古のハイエースは震えながら走っていた。タイヤを新しいのに替えなきゃなと父はつぶやいた。
 絵里が眠るシートには茶色いシミが翼を広げた鳥のような形に広がっていて、それは動物の血痕に違いない。以前車の持ち主だった叔父は、猟友会に所属していたからだ。
「もう少しスピードを落としてよ。カーブを曲がった瞬間、目の前に逆走車が飛び出してきたらと思うと怖くなる」
 そんな事故など滅多に起こらないよと父はあくびをしながら笑ったが、絵里には疑問だった。感覚の鈍い父に、突然現れた逆走車をかわす技術などあるだろうか。
 夜の高速道路を箱型の車で走ると、洗濯機が脱水モードに入った時と似た音がする。突き上げるような振動を感じながら、脱水の音と事故の話を同時に聞いていたら、回転するパルセーターが作る渦に引きずりこまれていくような気分になる。
 両親の会話が途絶えた。
 窓の向こうではオレンジの点滅が続いている。ヤドカリに閉じ込められて焼死するのは嫌だったから、ハンドルを握る父が、居眠りして頭を揺らしていないか、できるだけ長く起きて監視しようとした。
「少し寒くないか? 温度を上げよう」
 古いエアコンの吹き出し口から送り出される風はカビ臭い。長い髪をピンクのスポンジカーラーで巻いた姉は、低い寝息を立てていた。里花のふっくらとした唇は、息の通り道から縁に向かって半分だけ熟れた桃の皮に似たグラデーションがかかっている。自分とはまったく違うその色が、うらやましくて憎らしかった。
 もし今、事故が起こって姉がシートに挟まり動けなくなったとする。車が炎上をはじめて一分一秒を争う場面だったとしても、助けるために努力するべきだろうか。
 姉は色が白く切れ長の目をしていて、台所に飾ってある日本人形のように美しい。だから動けなくなったらそのまま置いていこう。それが結論でスライドドアはいつも姉に開けてもらった。その後ろから乗り込んだ。
 彼女は奥の右側で、わたしは左。
 後部座席は左にしかドアがなかったからだ。
 山に囲まれた谷底の街を夕方に出発して、開通したばかりの県道で揺られ、高速道路のスピードに怯えた後に東京の夜明けを見る。それは月二度ある岡本家の家族行事で、絵里が小学三年生の九月から中学一年生まで続いた。
 初めて上京したのは、二学期が始まって数日後の土曜日だ。その前日の夜、夕食の最中に母が言った。
「明日、学校が終わってから東京に行こうね」
 母は退院したばかりだったから、そのお祝いで旅行するのだと思っていた。次の日に学校から帰ると、叔父から買ったばかりのハイエースに家族四人で乗り込み出発した。
 翌朝に生まれて初めて東京を見た。
 ウインドウフィルムが貼られた窓の向こうにある街は、空と高層ビルの境が曖昧で、薄い青色の霧に包まれているみたいだ。緑がはびこる暑苦しい田舎しか知らなかったから興奮して叫んだ。
「ママ! 東京ってすごく綺麗なのね!」
 母は笑顔でうなずいて、ほんとうに綺麗な朝ねと言った。
 車はクリーム色の建物の前で停まった。
 中には子供がたくさんいて、彼らに交じってわけも分からないまま発声レッスンを受けた後に、一人ずつ部屋に呼ばれ大人達の前で歌を歌わされた。絵里はその頃に流行っていた『アジアの純真』を選んだ。一番の途中まで歌ったところで髪の白い中年の女が、はいもういいですとさえぎって、冷たい表情で手元の紙に何かを書き込んだのを覚えている。
 一週間後に東京のタレント養成所から手紙が来た。
「二人とも合格。お姉ちゃんだけじゃなく絵里ちゃんも合格できたの。よかったわね」
 母は鼻の頭を赤くして、絵里を抱きしめた。薬の副作用で毛が生えかけのヒナ鳥みたいになった哀れな頭が、鼻先にあたってくすぐったかった。
 叶うはずのない夢は、中古のハイエースを五年間走らせ続けた。
 まだ快復の途中にあった母の体を気遣って、少し高めの温度に設定された車内は常に息苦しく、茶色いシミを避けようとすれば体勢は窮屈だ。 
 こんな車いらなかったのだ。前の赤い軽自動車が好きだった。頻繁に故障して修理に出されていた古い軽しかなければ、五年も東京とを往復せずにすんでいたかもしれない。
 深夜一時頃に、蛍光灯の光で白く映るトンネルを抜けて小さな池の脇にあるPAに寄る。父はそこで三時間の仮眠をとる。母は自販機で夜食を買ってくれる。今日も死なずにすみそうだとほっとしながら、二個で三百六十円のホットドッグを姉と分け合って食べる。油の匂いがきつく、おいしいわけでもないのにいつも食べていた。
 真夜中の駐車場はガランとしている。時々車は入ってきて、同じくらいの数だけ去っていった。ハイエースも出発する。白線に導かれて東京を目指す。いつ起こるか分からない事故の恐怖に怯えながら、長い夜を耐え続ける日々だった。
 旅をするのが好きだ。家族四人で過ごした夜を思い出すからかもしれない。

     *

 女は上瞼の縁にゴワついたフリルみたいな付けまつげをつけて、目の周りを太いアイラインで囲んでいた。
「いらっしゃいませ。お待ちしていました」
 申し訳程度に頭を下げ、宿泊者カードをカウンターに置いた後、上目遣いで絵里を見つめた。黒目勝ちすぎる穴のような目が、以前に映画で見た宇宙人に似ていた。彼らはテレパシーで会話して、地球人の頭の中など全てお見通しだ。部屋数が六つしかない、湿った畳の匂いが漂ってきそうな温泉旅館のフロントに、なぜ髪を盛った若い女が立っているのだろう。
 女の不自然な目を見ていると、自分の目が偽物の青だという事もばれているのではないかと指が震えた。カラコンをつけない年齢層は騙せても、使い慣れている同世代はごまかせない。瞬きをするたびに眼球の表面で上下に泳ぐからすぐに分かる。
 出されたカードには名前を書く欄があった。エリザベス・リンチと書くか、正直に岡本絵里にするか迷って、ペン先はしばらくうろついた。柱時計の針が、五時を指そうとしている。振り子の揺れる音が気持ちをせかす。
 決心して Elizabeth Lynch と記入することにしたが、紙に跡がつくだけで書き込めない。女は慌てて奥に引っ込み、別のペンを手に戻ってきた。そしてうわずった声で、ディス・イズ・ニュー・ボールペンと頭を下げた。
「ダイジョウブ。わたし、ニホンゴ、チョットしゃべれます」
 言葉を区切って、ゆっくりとたどたどしくこたえる。女は肩で息をつき、頰に両手を当てて恥ずかしそうに絵里を見上げた。
「外人さんは初めてだから緊張しちゃいました」
 それまでの緊張が一気に解けて、固まっていた節々の筋肉が柔らかくなった。アメリカ人がよくやる仕草で小さく肩をすくめ、サンキューとペンを受け取る。
 昨日髪をブリーチしてよかった。脱色剤を規定の時間より長くおいたせいで、静電気で逆立つほどパサパサの金髪になってしまったけれど、同世代に外国人だと面と向かって言われたのは初めてだった。わざと崩した筆記体でサインしてカードを返した。
 これで三日間をエリザベス・リンチと偽装して過ごせる。
 大抵三日だ。それ以上だと不安になるし、一泊二日だと物足りない。なりきり外国人として滞在する期間は三日が妥当で、そして宿泊地の選択が重要だ。年寄りが経営するド田舎の小さな旅館だとほぼ間違いない。
 設定は父親がアメリカ人で母親は日本人。ずっとサンフランシスコで暮らしていたが、今は第二の母国である日本を知るために全国を旅して回っている。青い大きな二重の目に高い鼻、金髪。分かりやすいマークで彼らは簡単に信じてくれた。田舎ではハーフというだけで特権階級のアイドルとして大切に扱われる。だからやめられない。
「ベッドじゃなくても大丈夫ですか」
「ダイジョウブ。アメリカでもフトン使っていました」
 嘘をつきながら、女の後ろについて急角度の階段を上がる。

――続きは、黒名ひろみ『温泉妖精』でお楽しみください。
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