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『みかづき』ドラマ化記念対談森絵都×高橋一生

物語と役が転がり出す時

月刊誌「小説すばる」で連載し、刊行後に大きな反響を呼んだ森絵都さんの『みかづき』が2019年1月26日からNHK総合で、ついに連続ドラマになります。
ドラマ化を記念して、吾郎を演じる俳優の高橋一生さんと、森絵都さんの対談が実現しました。
この日、森さんは初めて撮影現場を見学し、お二人の写真は、 吾郎の書斎で撮影されました。

構成=砂田明子/撮影=chihiro.

吾郎として
「ただ居る」ことが
できるか

本日、初めて撮影現場を見学させていただきました。高橋さん演じる吾郎は、最初は二十代で始まりますが、今日の撮影ではもう七十代になっていましたね。

高橋

はい、二十代の吾郎を演じている時から、森さんが現場にいらっしゃるのを、ずっとお待ちしていたんです(笑)。若い頃の吾郎も、ぜひ見ていただきたかったです。

すみません、執筆中の原稿がどうしても終わらずにいるうちに、若い時代が過ぎ去ってしまって(笑)。今、七十代という話をしましたが、『みかづき』は長い時間を描いた本で、二十代から七十代までの吾郎を書きました。ドラマは五回放送ということで、五回の脚本で表現するのは難しかったと思うのですが、水橋(文美江)さんはエッセンスを鋭く凝縮した素晴らしい脚本を書いてくださったなと、とても楽しく拝読できたんです。ただ、原作以上に、ドラマはどんどん時間が飛んでいきますよね。長い時間を凝縮している分、描かれていない空白の長い年月があるわけですが、演じるのは難しくありませんでしたか?

高橋

おっしゃる通り、昨日、子役がやっていた役が、次の日には大人になっている、という時間の流れ方ですが、不思議なことに、何の違和感もなく芝居ができました。連ドラなどで長い年月を演じた経験はあったとはいえ、ここまでのスピードで二十代から七十代を演じるのは初めてだったので、難しいかな、と最初は思ったんです。けれど実際に撮影に入ると、何でこんなにスムーズなんだろうと千明役の永作(博美)さんと話すほどです。

すっと吾郎に入っていくことができましたか?

高橋一生さん

高橋

これも不思議な感覚なのですが、台本を読み始めた時点で、吾郎にすぐフォーカスが合ったんです。そして、一度リハーサルを永作さんと一緒にやったときに更に鮮明になって、現場初日を迎えた時点では、もうブレや迷いがなくなっていたという感じです。

高橋さん、いろんな役を演じられていますが、それは珍しいことですか?

高橋

はい。今までにないくらいスムーズです。現場に入ってから、フォーカスを合わせて没入していくことは多々あるのですが、最初から、というのはなかなかないことです。時間が経つことに違和感を覚えなかったのは、吾郎として「ただ居る」ことを意識していたからかもしれません。演じるというよりも、吾郎としてそこに居ることができるかどうか。

ただ居る、その佇まいのようなものは、吾郎になりきることで醸し出されていくものなのでしょうか。それとも、役作りをされて?

高橋

吾郎を演じることで僕が役の影響を受けるのと同時に、吾郎という人物も僕の芝居からフィードバックされてどんどん変化していくんです。役と僕との間にフィードバックしあう関係が生まれて、どっちがどっちだかわからないようになっていくと、「ただ居る」ということができるようになるのだと感じます。

吾郎を演じて
訪れた変化

すぐに吾郎にフォーカスが合った、とのことですが、私も吾郎を高橋さんが演じてくださると聞いたとき、すっと吾郎と一致したんです。子供たちに勉強を教えている姿や、お母さんたちにモテモテの姿などが、目に浮かぶようでした。

高橋

吾郎と近い部分は多いかもしれません。人間関係において受け身なところとか。

そうなんですね。先ほど、高橋さんが塾の教室で子供たちと戯れているシーンをちらっと見させていただいたんです。高橋さん、子供といる姿がすごく似合うなと思ったんですが、子供たちとのシーンはいかがでしたか?

高橋

実は僕、前まで子供が苦手だったんです。自分の一番下の弟が、僕が十八歳のときに生まれたんです。

森絵都さん

かなり離れていますね。

高橋

そうなんです。兄というより親のような感覚で、母親が家を空けることも多かったので、実際にオムツを僕が替えたり、かなり子育てをしていました。母も若くして僕を産んだので、親にならなきゃいけない、という気持ちがどこかにあったんでしょう。それでかえって、子供への苦手意識をずっと持っていたのかもしれません。自分の思い通りにならない存在って、煩わしくもあり。

その弟も成人を迎え、何だか感慨深くなっています。この撮影現場では昨日子供だった人が次の日には大人になることが物理的に起きますけれど(笑)、現実の感覚もそれと同じであっという間だったなと。撮影初日が、学校のシーンだったんです。子供に勉強を教えたり一緒に相撲をとったりするシーンが、思いのほか楽しくて。

それは吾郎を演じていたからでしょうか?

高橋

それはあります。吾郎は孤独な人だったと思うんです。千明と塾を始める前に、学校の用務員室で働いていたのも、職業を選ぶ余裕がなかったからで、寂しさを感じて生きてきた人でもあると思う。ある意味、自分の人生を諦めている。だからこそ、可能性に満ち溢れた存在である子供が生きがいになったのではないか。そういう吾郎の感覚が、演じながら自分にフィードバックしてくるところはありました。子供に対する思いや愛情の注ぎ方を、吾郎を通して僕自身も体感し、取り入れたように思います。

と同時に、自分にとってもいいタイミングだったんだと思います。弟の子育てが終わって(笑)、心に余裕が出てきた頃だったからなんでしょう。自分にはコントロールできない、未確定で不安定な存在である子供が、たまらなく愛しく感じられるようになってきたんです。

それはすごく大きな変化だと思います。子供をどう捉えるかというのは。

高橋

ええ。僕は、お仕事でご一緒した方には、「高橋一生と仕事して楽しかった」と、できる限り思ってもらいたい。それと同じように、将来、もし自分に子供ができたら、「お父さんと生きて楽しかった」と言われたいなと。もちろん実際の子育ては悲喜こもごもだろうし、辛いこともたくさんあるだろうけれど、総括して楽しかったと言ってもらえたらいいなと、そういうことをとても考えた撮影でした。

役者は
「いつかなりえた
自分になる」

『みかづき』の舞台は塾ですが、高橋さんは塾に通われていましたか? 私自身は、中学三年生のときに近所の塾に通ったくらいです。勉強熱心でもありませんでしたから、塾に対して良いイメージも悪いイメージもなかったんです。

高橋

僕は通っていました。

周りのお友達も皆、通っていた?

高橋

小学校は公立だったのですが多くが私立受験をするような学校で、皆、塾には通っていました。

では進学塾ですね。

高橋一生さん

高橋

はい。学校の勉強を先取りする塾。けれど、そういう塾でも他の人と足並みを揃えなければいけないのは変わりないんです。勝手に先に進んだり、突出したりすることは許されない。たぶん、自我が強い子供だったので、つまらないなあと思うようになって、辞めてしまったんです。他にも、ピアノやエレクトーン、ドラム、ダイビングと、習い事はいろいろとやらせてもらって、そのひとつが児童劇団だった。結果的に、児童劇団だけが続きました。

一番ご自分に合っていた?

高橋

祖母が一番喜んでくれたのが児童劇団だったんです。発表会があると泣いて喜んでくれて、だったら続けようかなと。人が喜ぶからやる、という受け身なところも吾郎と似ているかもしれません。

ということは、お芝居を始めて長いんですね。

高橋

ただただ長いだけなんですが、自分の血肉になり過ぎてしまっている感覚はあります。

役を演じられるごとに、先ほどおっしゃったフィードバックが積み重なっていかれるわけですよね。自分がわからなくなっていく感覚はありませんか?

高橋

わからなくなります。なので感情的な部分にだけフォーカスを当てて、自分を保つようにしています。怒るとか、嬉しいとか、そういう生々しい感情でしか自分を掴めないようになっています。

自分が希薄になっていくような感じでしょうか?

高橋

はい、もともと自分なんてない、という感覚があります。他人の目を通してしか、自分のことを見ることができない。こうしてお話しするときも、本当の自分は操縦席にいて、話しているのは操られている自分のように感じるんです。普段は常に自分を客観的に見ているような感覚があるというか。それが、お芝居をしているときだけ、操縦席の外に出て、自分の主観になるんです。

ああ、お芝居のなかのほうが生きている実感が強い。

高橋

そういうふうになってしまったんです。昔、演出家の蜷川幸雄さんに、役者は「いつかなりえた自分になるんだ」と言われたことがあります。誰か全く別の人間になり切る、役にジャンプするのはそもそも無理で、「自分であったかもしれない」存在になるのが役者なんだと。この考えが僕の根底にあって、役づくりをするということにも懐疑的です。どこまでいってもこの肉体が自分であって、つくろうとしたってできっこない、という諦めからスタートしている。だから余計、自分の存在が希薄になるのかもしれないです。お芝居をしているときだけ操縦席から出てきて、なりえた自分になっている感じです。

物語が
転がり出すのは
「物理的な体験」

お聞きしていて、私も高橋さんに近いところがあると思いました。小説に自分自身を投影していくタイプの作家もいるんですが、私は反対なんです。自分が薄ければ薄いほど、物語が入ってきやすくなる。しかもいろんなタイプの物語が入ってくるので、普段は自分を希薄にしようと意識しています。頑丈な空っぽの箱でいることが理想で、中身はいらない。だからほとんど何も考えていません(笑)。小説を書くときだけ、自分のありとあらゆる根気や執念を絞り出すんです。で、その空っぽの箱の中に物語が勝手に入りこんできて、転がっていけばいいなというイメージがありますね。

高橋

転がっていくとおっしゃったのは、自分のコントロール外というか、止まらなくなるような瞬間があるんですか?

あります。物語って、背景や舞台を頑丈にしておけば、特に後半はそれ自身の勢いで動いていくところがあるんですね。私がコントロールしすぎないほうが、むしろいいんです。自分を明け渡すというか。

高橋

その感覚はお芝居と近いかもしれないです。僕も途中から役を手放してしまうことがあります。脳内で指示棒を振って交通整理をしている間は、どこまでいっても、結局は切り貼りした人間なんです。見ている方々にそうだと悟られない程度にはやるんですが、アウト・オブ・コントロールの瞬間が来て、気付いたら指示棒を手放していた、というお芝居のほうが見ている方にも、演じている自分も、面白いんです。

森絵都さん

わかります。小説はいろんな人物を出して台詞を書きますよね。最初は明らかに私が一生懸命書いているんです。しかもなかなか上手く喋ってくれない。でも書き続けているうちに、ある瞬間から、私が思いもよらなかったことを登場人物が喋り出すんです。そうすると、物語がうまく転がるようになっていきますね。

高橋

森さんはゼロから物語を創り出される方で、すでに用意していただいた作品に加わる僕との間には越えられない壁はあると思うんです。それでも、アウト・オブ・コントロールの感覚って僕にとっては大切なので、近いものがあるというお話を聞けてとても嬉しいし、心強くなりました。

そもそも「転がり出す瞬間」とか言うと、カッコつけやがって高橋一生、となるんです(笑)。そのためある種の共有や信頼の上でないと、こういう話はできないです。

ほんとうに。小説家だと、「降りてくる」みたいな表現をすると、オカルトっぽく受けとられたりします。そういうのが嫌で、私もあまり言わないようにしているのですが、実際はもっと物理的な体験ですよね。

高橋

ええ。詩的な表現と受けとられがちですが、違うと思う。

私の場合、物語が転がり始めて調子が良くなると、風景がくっきり見えるようになるんです。普段よりもあざやかに見えたり。

高橋

すごい。

季節がわからなくなることもあります。夏に冬の場面を書いていると、ちょっと出かけようというときに、厚い上着を着そうになるとか。

高橋

撮影している時、僕もそうなります。

だから、自分にとっては物理的な現象なのですが、ヘンな人と思われるので、できるだけ黙っていようかと。

高橋

今日はお話しできて本当によかったです。

血のつながりを
超えて
受け継がれて
いくもの

ドラマでは、吾郎の孫にあたる一郎が第1回から登場します。二人は似ているところがあるのですが、血はつながっていません。最初は千明と吾郎の話だけで終わる予定だったんですけど、書き進むにつれて、血のつながりを超えて受け継がれていくものがあるといいなと考えて、一郎も登場させました。

高橋

一郎に対しては、お芝居をしていて、ちょっと不思議な感覚があるんです。ふと、一郎は別次元に生きる吾郎、別世界に生きる吾郎なのではないか、という錯覚を覚えるんです。演出の片岡さんが意図的に一郎と吾郎の重なる部分を創り出していらっしゃることもあるし、時間の概念がだんだん曖昧になっていることもあって、僕は孫を見ているようで、自分を見ているような気がしている。お芝居のなかでこういうことが起きるのは面白いことです。

その感覚は面白いですね。

高橋

吾郎と一郎のつながりについて言えば、血のつながりは超えられないと考えられがちですが、僕はそうでもないなと思っています。

私もそうなんです。

高橋

僕の弟たちは異父兄弟で、血のつながりはあるけれど、半分なわけです。けれどやっぱり兄弟だな、と思いますから。

私の場合は姉がいて、仲はいいんですけど、容姿も性格もあまり似ていないんです。二人とも、牛のひき肉を炒めたにおいが嫌いという、取るに足らないところしか似ていない。血のつながりなんてその程度かなと思いますね。

高橋

どうしてもつながりを求めたくなるのはわかるんです。実際は個々が孤独な生き物だからこそ、血や家族というわかりやすい形で結びつけたくなるんでしょう。

そうですね。この本を読んでくださった方に、血がつながっていても、いなくても、人と人はつながり合えるし、何かを受け継いでいけると感じていただけたらうれしいです。

(「小説すばる」2019年2月号掲載)

森絵都(もり・えと)
'68年東京都生まれ。'90年『リズム』で講談社児童文学新人賞を、'95年『宇宙のみなしご』で野間児童文芸新人賞を、'99年『カラフル』で産経児童出版文化賞を、'03年『DIVE!!』で小学館児童出版文化賞を、'06年『風に舞いあがるビニールシート』で直木賞を、'17年『みかづき』で中央公論文芸賞を受賞。『永遠の出口』『クラスメイツ』『出会いなおし』など、著書多数。

高橋一生(たかはし・いっせい)
'80年東京都生まれ。俳優。映画、テレビドラマ、舞台などで活躍中。近年の主な出演作に、大河ドラマ『おんな城主 直虎』、連続テレビ小説『わろてんか』、ドラマ『カルテット』『僕らは奇跡でできている』、映画『嘘を愛する女』『blank13』『空飛ぶタイヤ』『億男』等多数。主演映画『九月の恋と出会うまで』が2019年3月1日公開。
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