内容紹介 推薦コメント スペシャル対談 vs 児玉有里さん スペシャル対談 vs 児玉清さん スペシャル対談 vs 尾木直樹さん
佐川光晴さんの新刊『おれのおばさん』の主人公は中学二年生の高見陽介。陽介は過酷な受験競争を勝ち抜き、東京の名門私立に入学するが、単身赴任中だった父親が愛人のために横領し、逮捕される。借金返済のために家は差し押えられて、陽介は札幌で中学生ばかり十四人が暮らす児童養護施設「魴ぼう舎」を営む母の姉・恵子の許に預けられる。突然、集団生活の中に放り込まれた陽介は戸惑いを隠せないが、エネルギッシュな「おばさん」や同世代の仲間たちと暮らしていく中で、徐々に自らの生きる方向を見出していく――。
佐川さんのデビュー作「生活の設計」からその作品に注目していたという児玉清さん。読書家で無類の読み巧者でもある児玉さんが佐川作品の魅力を存分に引き出してくださいました。

構成=増子信一/撮影=隼田大輔

おれのおばさん

『おれのおばさん』


佐川光晴・著
定価:450円(本体)+税




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ナイーブな肝っ玉母さん

児玉 読ませていただきましたが、とにかく引きつけられましたね。実に平易な文章で淡々と書かれているんですけど、とても気持ちが引かれる。主人公の陽介は、父親のせいで突然それまでと違った環境に放り込まれてしまう。しかし、そこで折れることなく、しっかりと大人の世界を見すえて子供として成長していく。こういう小説というのは、近頃の日本ではあまり見かけない気がします。昔のことで恐縮ですが、我々が少年時代に読んだ佐藤紅緑の『ああ玉杯に花うけて』とか、ああいうものを思い出しました。

佐川 陽介もそうですし、彼のおばさんである恵子も、自分に恃(たの)むところがあるんですね。世の中の流れに合わせて生きていこうというんじゃなくて、自分で何事かをなして世の中に強く打って出たいという。つまり青春の驕傲ですね。おばさんも陽介も一度はその自信を見事にへこまされるんですけど、自分の驕傲、自信を棄てずに、何とか世の中に食らいついて生き延びていこうとする。そういう姿勢は、たとえば『赤と黒』のジュリアン・ソレルなどの近代小説の主人公に見られる典型で、それは佐藤紅緑とも通じるところかもしれません。
 最近の日本の小説ではそういう主人公をなかなか立てにくいところがある。だから今回ぼくは、陽介や仲間の卓也たちが否応なく抱え込んでしまった失敗、不幸、不運によって悪いほうへ流れていくのではなく、それを超えて何とか生き延びていくという物語をあえて書こうと思ったんです。

児玉 陽介の母親と父親に対する思いというのは、ほんとうに読んでいて胸を打たれます。彼は、父親が逮捕されたことで、それまでは知らなくても済んでいたことを無理矢理覗かされてしまうわけですね。その中で彼は、どうすれば真っ当に生きていくことができるかを真剣に考えていく。

佐川 ぼくも中学生のころに父親がうつ病になって家庭が大分ややこしくなったんです。その父の姿を見ながら、自分はどうやって生きていくんだろう、この世の中はどういう世界なんだろうということをうんと考えた。それがちょうど陽介と同じ中学校の二年生でした。

児玉 今の日本の風潮では、人生とは何か、死とは何か、友だちとは何かということを若いときにあまり深く考えずにすっと大人になってしまうところがありますね。でも陽介は徹底的に考える。その考えるときに、大きな支えになるのが、おばさんなんですね。

佐川 このおばさんは、ある意味学生時代の経験に祟(たた)られているわけですね。せっかく医学部に進んだにもかかわらず、演劇の魅力に囚われて通常のコースを逸脱していく。そのときの高揚感を彼女は忘れられずにそのまま引きずってますから、当然痛い目にあっていく。

児玉 しかし、おばさんのものごとに対する処し方というのは見事ですね。結果においては自分を痛めつけるようなこともあるんだけれど、全編を貫いている潔さみたいなものは読んでいて感じました。

佐川 それ以外に仕様がわからなかったのだと思います。もしそれと違うことをしてしまえば、自分が生きていく意味がなくなるし、これまでやってきたことも全部だめになってしまう。そういう中で彼女は一所懸命やってきのだと思うし、それはまたぼく自身の感情でもあるわけです。

児玉 今回、この『おれのおばさん』をお書きになろうというのは、どの辺りから?

佐川 ぼくは今四十五で、若いころはまさにバブルの時代でした。全体的にはただ浮かれていた時代だったと総括されてしまうんですけれども、それだけではなかった。あの時代にも戦いというのはきちんとあって、それを後の世代に「こういう戦いがあったんだ」と伝えたいという思いが一つ。
 もう一つ、「ぼくのおじさん」という話は結構世の中にあるんですね、ジャック・タチの映画とか長谷川四郎の小説とか。だったらこっちは「おれのおばさん」でいこうかと(笑)。おじさんというと、適度な距離感が保たれているかんじなんですけど、おばさんとの関係では、もっとせっぱ詰まったものが出てくるだろうという予感があって、「おれのおばさん」という題をつけた瞬間に、わっと物語が流れてきた感じがあるんです。

児玉 このおばさんは肝っ玉母さんみたいなところがあるんだけど、同時にすごくナイーブなところもある。そこが読む人間の心を救うというのかな。おばさんに愛しさを覚える。単に強いだけの人ではなくて、彼女の何ともいえない繊細さみたいなものが見えてくる。そこが、とてもいいんですね。


逃げ口上は許さない

児玉 ぼくが佐川さんにお目にかかりたいと思っていた理由の一つは、『牛を屠る』、『生活の設計』といった作品で、生きること、働くことの壮絶感みたいなものを、自分の胸元にいきなり匕首(あいくち)を突きつけられたようなところがあったからなんです。我々がのほほんとして肝腎なところを見過ごしてきたことを、佐川さんに教えていただいたといいますかね。

佐川 ぼくが大宮のと畜場に飛び込んだのは、ある偶然なんです。そこで働いてもかまわないとなったときに、ぼくにとって大事なのは、それを選んだ理由よりも拒まなかったということの方なんです。と畜場で働くという選択肢を拒まないだけの根拠がぼくにはあった。それは児玉さんが偶然ではあれ役者という道を拒まずに続けたのと似たようなことかもしれません。

児玉 いや、ぼくの場合は、拒んだけど行っちゃったんですよ。

佐川 しかし、決定的には拒んでいない。

児玉 たしかに。『おれのおばさん』にも、声高に訴えてはいないけれど、あなたが体験したことが裏側から見えてくるところがありますよね。そういうものが読む人間たちに対してグッと迫ってくるものがある。それは意図的なものなのですか、それとも?

佐川 それ以外書けない。

児玉 それはすごいことだ。でも書くことによって、あなたの中に何か生まれるものがあるんですか。

佐川 生まれるというか、こいつら頑張るなあ、でも苦しいのはしようがないよなという共感みたいなものは書きながら思います。それからもう一つ、「ひどい目にあえ」ってことですね。自分の力量に恃むところがあると、世の中をばかにしますよね。このおばさんも、親が苦労して大学に行かせてくれたのに勉強をほっぽらかして、芝居にはまってしまう。そういう驕傲は、存分にしっぺ返しを食らえ、存分にしっぺ返しを浴びろ、と。

児玉 いい言葉ですね。

佐川 そこで初めて、自分が何者なのかがわかって、何から逃げられないのかもわかる。それに、そうした痛い目にあってきたのは自分だけじゃないんだから、頑張ろうっていう。

児玉 ここに出てくる人たちはみんないいね。陽介が好きになる波子もいいし、卓也もいい。みんな大変個性的だけど、本質的に許せないやつじゃない。嫌なやつがいても、それはそれなりの理由があって嫌なやつになっていることがわかる。

佐川 みんな必死なんですよね。

児玉 必死だね。相手の心にどこまで踏み込んでいいのか、あるいはどこからは踏み込ませないかといった境界線を日々のぶつかり合いの中で懸命につくっていく。ところが今は、そういう形で境界線をつくることをせずに、最初から我関せずみたいなところがある。

佐川 それを、映画なり舞台なり小説なりで見せていかなきゃいけない。最初から逃げ方を教えちゃだめですよね。逃げ口上をつくっちゃいけないんです。

児玉 逃げ口上は許さない。これはすごく納得できる。『おれのおばさん』は、そこら辺のところがまともに食い込んでくる。こういう本は、少年はもちろんだけど大人にも是非読んでもらいたい。「まじめに人生を説く」なんて言葉にするとうそっぽくなるけど、そういうまともさみたいなのを、みんな嫌がったり、ダサイと思うような風潮があるじゃないですか。そうした中で、逃げるのは許さない、真っ向正面から体張って向き合うみたいなことは、今一番必要なんじゃないかと思うんですけどね。


他人(ひと)に迷惑をかけていい

児玉 「親とは、子供を育てるためにひたすら耐える存在でしかないのだろうか。いや、そんなはずはない。子育ての中でしか味わえない喜びはあるはずだし、自分が親にしてもらったように子供にもしてやることで、人は代々つながっていくのだ。なるほどそうだと納得しながらも、それなら親は子育てだけをしていればいいのかと疑問がわいて、おれはまた考えつづけた」と陽介が考えるところがありますね。一方的なものの見方をしないで、絶えず相手の立場に立って他人に心を置く。こういう考え方は、現代の子供たちにはものすごく欠けていますよね。

佐川 陽介は、それまでは都会っ子のぼんぼんで、勉強もできて、これからいい人生を歩んでいくぞみたいなふうでいたと思うんですけれども、父親がこけたことで、おじいちゃん、おばあちゃんのことを知り、自分はこういう人たちがつないできた人生の中で生きているんだということに初めて気づく。
 ひとりの人間を考えていくときに、だれから生まれて、どんなふうに育てられてきたのかというのはとても大事なことで、最近の小説はどうもそこをほっぽらかしてしまう。そうかと思うと、育ってきた環境を神話的なトポス、あるいは非常に磁場の強い場所として書いてしまうことが多い。そのどちらでもない形が近代小説にはあったと思うんですけれども、そこをもう一度きちんとやりたいという気持ちがとても強かったですね。

児玉 もう一つ、この全編を通じて「思いやり」ということが大きく浮き上がってくるように私は思ったんです。生きていく中にはさまざまな人との出会いがあるのだけれど、結果において思いやりの中で生き合う。魴ぼう舎という特別な施設にいることを強いられた人たちだからこそ、思いやりがより切実なものとしてあるのだろうけれど、やはり、おばさんという存在が、みんなを開放的にもさせているんですね。それと同時に、生きていくには何かに耐えなくてはいけないということもみんな知っている。

佐川 それは、おばさんも自分の親に耐えさせたからですよ。漁師をやってた親にさんざん迷惑かけて、とんでもなく心配させた。だから自分も心配をかけられることを引き受けるわけですよね。いつの世でも、生きていけば迷惑をかけ合うしかない。自分が迷惑をかけたんだから、迷惑をかけられることを受け入れていかなくてはいけない。

児玉 そこですよ、そこです。

佐川 そのときにあるのが、最初にいった、青春期にどうしても持ってしまう驕傲感ですね。ついつけ上がってしまいそうな自分というのを隠すことで、いびつな自尊心が高まってしまうわけですけれども、それを社会的に表に出していく中で、初めてコミュニケーションが始まっていく。そこから悲劇や喜劇がさまざまに起こるわけですけれども、だからといって、若者が育っていく中から出てくるエネルギーというものを抑え込んでは世の中が成り立たない。そこは恐れずに使え、そうして、痛い目にあえ、と。

児玉 他人に迷惑をかけていい。

佐川 いくら迷惑をかけたくなくてもかけてしまう。

児玉 かけることによって他人の迷惑も受け入れられる自分ができてくる。あなたのご本を読ませていただいていると、その辺りのところを実に深くえぐっていますよね。
 最後のほうで、恵子の元亭主で介護施設を経営している後藤が、「(自分が相手にするのは)所詮は婆あどもがくたばるまでのことで、高が知れてるんだよ。ヤツらはここ以外に行き場はないんだし、人生は九分九厘終わってるからな。ところが恵子の相手は中坊たちだ」というところがありますね。ぼくくらいの歳の人間には、この台詞がものすごく心に落ちるんですよ。

佐川 元旦那が、自分よりもおまえのおばさんのほうが大変だと陽介にいうんですけど、人はだれでも自分が一番大変だと思いたいじゃないですか。

児玉 思いたいよね。

佐川 だけど後藤は、別れた女房のほうが大変なんだといえた。恵子と別れたことは、この男にとっても成長だったわけですね。

児玉 しかも、この台詞を聞いた瞬間に、後藤とおばさんとの関係がわかって、すっと心が洗われるというのかな、ものすごくうれしいものをここで教えてもらった感じがしたんです。ともに青春時代を過ごし、何かに向かって突き進んでいた二人が途中で別れて、しかしなぜか、どちらも養護と介護の仕事についている。そういう相手に対して、妙ないたわりの言葉ではなくて、一種荒々しい言葉、虚飾を嫌った言葉が生き生きと口をついて出ることに、とても感嘆したんです。ほんとうにいい作品を読ませていただきました。

佐川 ありがとうございます。ぼくもこれは書いていて楽しかったんです。

児玉 今、すでに取り組んでいるものはあるんですか。

佐川 これの続きというか、スピンオフで、卓也と同級生の大竹が出てくる話を今書いています。

児玉 それは楽しみですね。




こだま・きよし
俳優。1934年東京都生まれ。
テレビ・映画・舞台等の出演をはじめ、司会者、書評や文筆活動も手がける。
著書に『寝ても覚めても本の虫』『負けるのは美しく』『児玉清の「あの作家に会いたい」』等。


さがわ・みつはる
作家。1965年東京都生まれ。
1965年東京都生まれ。2000年、「生活の設計」で新潮新人賞を受賞して小説家デビュー。
著書に『ジャムの空壜』『縮んだ愛』(野間文芸新人賞)『家族芝居』『虹を追いかける男』『牛を屠る』等。



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