『おれのおばさん』
(集英社文庫/本体450円+税)
単身赴任中の父が横領で逮捕。都内有数の進学校に通う中学2年生の陽介は、札幌で児童養護施設を切り盛りする「おばさん」に預けられることに。初めての集団生活に放り込まれた「おれ」は戸惑いながら、自分の生きる道を見出していく。
(解説・中江有里)
中学生ばかりが暮らす札幌の小さな児童養護施設・魴鮄舎(ほうぼうしゃ)。率いる恵子おばさんはいつだって真っ向勝負、エネルギッシュな変わり者で、彼女の情熱にたくさんの子どもたちが生きる道を見つけてきた。その魴鮄舎が閉鎖の危機にさらされているという。東北地方を襲った未曾有の震災から一年、耐震性が問題視されたのだ。今は魴鮄舎を離れ仙台の高校に進んだ陽介、青森の高校でバレーボール選手として活躍する卓也はすぐにおばさんのもとに駆けつける。が、当の恵子おばさんはなぜか「無理する気はない」と宣言。必死の思いで存続活動を始める陽介だったが、ある日、春高バレー進出を決める大事な試合を前に卓也が寮を飛び出したとの連絡が。卓也はどこへ向かっているのか? そしておばさんの真意は?
児玉清さん、北上次郎さん、中江有里さん、斎藤美奈子さん、尾木直樹さん…たくさんの熱い支持を得てきた青春小説ベストセラー・第26回坪田譲治文学賞受賞『おれのおばさん』シリーズ待望の最新刊、感動の第一部完結編!
■子どもは「親を乗り越え」なくたって、いい
それでも、最後の最後にはこの人は裏切らないだろうと信じられる大人がいることは何よりありがたいですよね。さらに、お互いがお互いに対して気を抜いたら大変なことになりそうだというふうに思える仲間がいる幸せ。陽介や卓也たちがこれから世の中をわたっていくにあたって、どこかの局面で花ちゃんが登場してくるんじゃないかというのがあって、なんとなく、まだ出るときじゃないから出てこないんだろうと勝手に思ってるんです。
――花ちゃんのおばさんへの鋭い批評が出てくる前に、まずは陽介と卓也にもう一段、おばさんを越えさせようと?
〈越える〉というのではないんですね。この後藤恵子という人は、子どもたちの前で平気でジタバタしてみせたり、およそ聖母といったイメージではないのですが、子どもたちの方も、この人は、どうも自分たち以上に傷ついたり苦しいことをたくさん抱えているらしいというのを感じている。いわゆる〈大人はわかってくれない〉というのとは真逆で、もしかすると子ども以上に傷ついているのかもしれないという気持ちを起こさせる。要するに、この歳まで後先考えずにひたすら勝負に出ていくという恵子おばさんの姿を間近に見ていると、乗り越える乗り越えないということとは別の地平が開けてくるわけです。 『おれたちの約束』に入っている「あたしのあした」の最後で、恵子おばさんのほうでも卓也や陽介に負けたくないと思って、「負けてたまるか。人生は競争じゃないけど、やっぱりおくれはとりたくないじゃないか」と言う。ぼく自身も、「そうだよな。おくれはとりたくないよな」と思いながらキーボードを叩いていたんです。ですから、越えるのじゃなくて、おくれはとりたくない、引けはとりたくないという感じじゃないでしょうか。乗り越えたり、批判したりしようと思うと、どうしてもさっきの〈父殺し〉になってしまう。恵子おばさんと陽介たちのあいだには、〈父殺し〉にならない存在の仕方がつくられつつあるんだろうと思います。
今度の『おれたちの故郷』では、卓也がバレーボール選手としてすごい活躍をしているので、陽介は少し気おくれがするんですけど、いざ会ってみたらやっぱり卓也は卓也だと。卓也も陽介の前では素の弱さをいっぱい出して、おばさんがいなきゃだめなんだと言ってぼろぼろ泣く。こいつの前であれば自然に自分の中にあるいろいろな感情が全部出てしまうけれど、そのうえでつき合っていける相手であるとお互いが確認する。そうした関係でありつづけながら、この子たちは年月を経ていくんじゃないかと思ってるんですよね。
ぼくも『牛を屠る』などで父親について少々批判的な見方もしていますが、子どもが親を乗り越えなきゃいけない理由はない。ぼくの子どもたちはいま大学一年と十歳ですが、〈乗り越える〉〈乗り越えられる〉という関係ではなくて、自分が三人になった気がしています。自分と似たような環境で育ち、ある価値観を共有している人間が三人いて、それぞれ年齢は違うけれど、いろんな分野に飛びはねていっているという感じなんです。きっと恵子おばさんも、魴鮄舎から巣立っていった子どもたちがいろんな世界で活躍しているのをそんな感じで見ているんじゃないかと。
――まだ途中経過ではあるけれど、『故郷』のラストのクリスマスパーティーは、そういう感じがよく出ていて、美しい場面です。
舞台が北海道だというのも一つみそになっているんですね。何しろ百二十年前ぐらいに新しく開拓された場所ですし、おばさんも大学生になってから札幌に来たわけです。ぼくもそうですが、大学から北海道へ行った人間はいつまでもよそ者扱いで、屯田兵から四代目みたいな人たちからすると、他所から来てうまいところばっかり持っていく、みたいな感じの存在として見られる。
――でも、その屯田兵にしても近代以降ですからね。
そうなんです。でも、その方々たちの先祖は大変な苦労をして、原野を開拓したわけですからね。あとから来た者としては、そこのところはわきまえておかなければならない。
■親子、夫婦、家族、そして故郷。
――クリスマスパーティーの席で、おばさんが「故郷は自然にできるものじゃない。まして、お金で買えるものじゃない。そこで暮らしているひとたちの日々の努力があるから、故郷はかろうじて故郷たりえているんだ」といっている。この「故郷」という言葉を、夫婦とか家族とか親子とかに置きかえてみると、佐川さんのこれまでの小説すべてに当てはまるフレーズだと思います。自明なものをそのまま受け入れていれば成立するというのではなく、みんな一所懸命それを成立させるために大変な思いをして、辛うじて成り立っていたり、ひび割れたりしていく。安定し切ったものは何もなくて、みんな実は懸命にやってるんだよと、佐川さんの小説はデビューのときから一貫してそれをおっしゃってるんじゃないかと思っているのですが。
重松さんはぼくの二つ年上でいらっしゃいますが、ぼくが大学に上がった頃はフェミニズムやニューアカ(ニューアカデミズム)が流行っていて、家族という形態を解体する方向に推し進めるみたいな傾向が強かった。男女関係についても、いわゆる〈ラブ・アンド・ピース〉時代ほど先鋭的ではなかったけれど、ステディーな一夫一婦制を、それこそ上野千鶴子の言う〈一穴主義〉といった感じでばかにする風潮があった。しかし、ぼくは家族を解体しようとするほうには行かなかった。
わが家は、組合活動をしていた父親が途中でうつ病になったものだから、解体どころか、なんとかして家族みんなで協力しながらやっていかなくてはならなかった。北大の恵迪寮でも、寮生たちが必死になって運営していかないと自治寮を維持できなかったし、大宮食肉でも、懸命に働きながらどうにか毎日の仕事をこなしていたわけです。そんなわけで、実際に人々の暮らしを支えている共同体をばかにしていいとはまったく思わなかった。
ぼくがデビューしたのは二〇〇〇年ですが、その頃でもまだ、家族や夫婦を大事にしていく話というのは純文学の世界ではほとんどなかったんです。『生活の設計』の次に、二作目として『ジャムの空壜』を書きました。それは不妊に悩む夫婦が子どもが欲しいと願う話ですが、子どもが欲しいという設定自体がばかばかしいみたいな批判を平気で書かれました。しかし、ひと組の夫婦が成り立っていくためには、二人のあいだで実に多く事柄が調整されなければならない。まして子どもを産むということにおいては、ものすごく綱渡り的な場面もある。不妊症に苦しんだ者として、それをきちんと書きたいと思ったんです。
――『ジャムの空壜』の評価が、いわゆる純文学界でどうであれ、少なくとも一般の読者、一般の生活者にとっては、とてもリアルで切実な物語でした。まだ不妊治療の問題をいまほど大っぴらにいえなかった時代に、不妊治療をしている夫婦をしっかりと書いてくださったことで救われた読者はたくさんいたんじゃないかと思います。
そうだとありがたいですね。
■出会いが年輪を太くしていく物語
――年齢を経て成長していく、樹木でいえば、背丈が伸びていく成長も成長ですけど、年輪が太くなっていくのも成長だと思います。中二から始まって高二までの三年間で、北海道の札幌の世界があり、仙台の世界があり、東京の世界があり、というように世界が広がっていく。たとえば、「おれ」を強めていって主人公の内面にどんどん入って背丈が伸びていく物語がこっち側にあるとすれば、この「おれのおばさん」シリーズは、人と出会うこと、人と関係を持つことによって年輪が太く成長していく物語なんじゃないかと思うのですが。
中上健次さんの一連の小説を称して「紀州サーガ」といったりしますが、そういうサーガ的な物語があります。サーガの正確な定義が何かはわかりませんが、一子相伝みたいな形で受け継がれるべき大切な精神みたいなもの、中上さんでいえば「路地の王」という形で受け継がなければならない精神を語っていくことだとすると、この「おばさん」シリーズはまったく違う。さきほど重松さんがおっしゃられたように、そもそもが魴鮄=HOBOですし、おばさん自体、一子相伝的な精神とはまったく無縁な人です。
これは、自分の子どもたちを育ててきた中で感じたことですが、うちの長男が保育園に通ってきたときに、一緒に遊んでいた女の子が息子の名前を呼んだんです。その声がとてもきれいで、ぼくは感激してしまった。つまり、その女の子は、うちの息子をダイレクトに見ているわけです。ぼくたち夫婦から息子は発生したけれども、息子が生きていく中で見ていく世界や接触していく人たちは、ある意味無限じゃないですか。ぼくたちのあずかり知らないところで彼の無限のつき合いが広がっている。
「小石のように」では、陽介もおばさんも知らないところで、卓也は大竹と一緒に旅に行く。『おれたちの約束』では、おばさんも卓也も知らないところで、陽介は仙台でいろいろなことを経験する。そして、おばさんはおばさんで、陽介や卓也の知らないところでたくさんのことをしている。そういう形で物事が起きていく。ですから、この物語の子どもたちのあり方というのは、ぼくが子どもを育ててきたときに感じていたこと、そしておそらく十八歳で北海道に向かったぼくに対して遠くから父親、母親が感じていただろうことに根差しているのだと思います。
「ここではないどこかに理想的な世界があるわけではなく、人生にはこれを達成したらOKという基準もない。そうではなくて、今ここで一緒に暮らしている仲間たちのなかでどうふるまうのかがすべてなのだ」と、「おれたちの青空」で陽介は思います。ぼくは親元を離れたあと、恵迪寮や大宮食肉で、まさに「腹の底から」そう感じました。これから先、陽介も卓也も精いっぱい生きて、成長していくんでしょう。その姿を描いていくことが、最初に重松さんがおっしゃられた〈ライフワーク〉になってくれたら、どんなにうれしいか。
それでも、最後の最後にはこの人は裏切らないだろうと信じられる大人がいることは何よりありがたいですよね。さらに、お互いがお互いに対して気を抜いたら大変なことになりそうだというふうに思える仲間がいる幸せ。陽介や卓也たちがこれから世の中をわたっていくにあたって、どこかの局面で花ちゃんが登場してくるんじゃないかというのがあって、なんとなく、まだ出るときじゃないから出てこないんだろうと勝手に思ってるんです。
――花ちゃんのおばさんへの鋭い批評が出てくる前に、まずは陽介と卓也にもう一段、おばさんを越えさせようと?
〈越える〉というのではないんですね。この後藤恵子という人は、子どもたちの前で平気でジタバタしてみせたり、およそ聖母といったイメージではないのですが、子どもたちの方も、この人は、どうも自分たち以上に傷ついたり苦しいことをたくさん抱えているらしいというのを感じている。いわゆる〈大人はわかってくれない〉というのとは真逆で、もしかすると子ども以上に傷ついているのかもしれないという気持ちを起こさせる。要するに、この歳まで後先考えずにひたすら勝負に出ていくという恵子おばさんの姿を間近に見ていると、乗り越える乗り越えないということとは別の地平が開けてくるわけです。 『おれたちの約束』に入っている「あたしのあした」の最後で、恵子おばさんのほうでも卓也や陽介に負けたくないと思って、「負けてたまるか。人生は競争じゃないけど、やっぱりおくれはとりたくないじゃないか」と言う。ぼく自身も、「そうだよな。おくれはとりたくないよな」と思いながらキーボードを叩いていたんです。ですから、越えるのじゃなくて、おくれはとりたくない、引けはとりたくないという感じじゃないでしょうか。乗り越えたり、批判したりしようと思うと、どうしてもさっきの〈父殺し〉になってしまう。恵子おばさんと陽介たちのあいだには、〈父殺し〉にならない存在の仕方がつくられつつあるんだろうと思います。
今度の『おれたちの故郷』では、卓也がバレーボール選手としてすごい活躍をしているので、陽介は少し気おくれがするんですけど、いざ会ってみたらやっぱり卓也は卓也だと。卓也も陽介の前では素の弱さをいっぱい出して、おばさんがいなきゃだめなんだと言ってぼろぼろ泣く。こいつの前であれば自然に自分の中にあるいろいろな感情が全部出てしまうけれど、そのうえでつき合っていける相手であるとお互いが確認する。そうした関係でありつづけながら、この子たちは年月を経ていくんじゃないかと思ってるんですよね。
ぼくも『牛を屠る』などで父親について少々批判的な見方もしていますが、子どもが親を乗り越えなきゃいけない理由はない。ぼくの子どもたちはいま大学一年と十歳ですが、〈乗り越える〉〈乗り越えられる〉という関係ではなくて、自分が三人になった気がしています。自分と似たような環境で育ち、ある価値観を共有している人間が三人いて、それぞれ年齢は違うけれど、いろんな分野に飛びはねていっているという感じなんです。きっと恵子おばさんも、魴鮄舎から巣立っていった子どもたちがいろんな世界で活躍しているのをそんな感じで見ているんじゃないかと。
――まだ途中経過ではあるけれど、『故郷』のラストのクリスマスパーティーは、そういう感じがよく出ていて、美しい場面です。
舞台が北海道だというのも一つみそになっているんですね。何しろ百二十年前ぐらいに新しく開拓された場所ですし、おばさんも大学生になってから札幌に来たわけです。ぼくもそうですが、大学から北海道へ行った人間はいつまでもよそ者扱いで、屯田兵から四代目みたいな人たちからすると、他所から来てうまいところばっかり持っていく、みたいな感じの存在として見られる。
――でも、その屯田兵にしても近代以降ですからね。
そうなんです。でも、その方々たちの先祖は大変な苦労をして、原野を開拓したわけですからね。あとから来た者としては、そこのところはわきまえておかなければならない。
■親子、夫婦、家族、そして故郷。
――クリスマスパーティーの席で、おばさんが「故郷は自然にできるものじゃない。まして、お金で買えるものじゃない。そこで暮らしているひとたちの日々の努力があるから、故郷はかろうじて故郷たりえているんだ」といっている。この「故郷」という言葉を、夫婦とか家族とか親子とかに置きかえてみると、佐川さんのこれまでの小説すべてに当てはまるフレーズだと思います。自明なものをそのまま受け入れていれば成立するというのではなく、みんな一所懸命それを成立させるために大変な思いをして、辛うじて成り立っていたり、ひび割れたりしていく。安定し切ったものは何もなくて、みんな実は懸命にやってるんだよと、佐川さんの小説はデビューのときから一貫してそれをおっしゃってるんじゃないかと思っているのですが。
重松さんはぼくの二つ年上でいらっしゃいますが、ぼくが大学に上がった頃はフェミニズムやニューアカ(ニューアカデミズム)が流行っていて、家族という形態を解体する方向に推し進めるみたいな傾向が強かった。男女関係についても、いわゆる〈ラブ・アンド・ピース〉時代ほど先鋭的ではなかったけれど、ステディーな一夫一婦制を、それこそ上野千鶴子の言う〈一穴主義〉といった感じでばかにする風潮があった。しかし、ぼくは家族を解体しようとするほうには行かなかった。
わが家は、組合活動をしていた父親が途中でうつ病になったものだから、解体どころか、なんとかして家族みんなで協力しながらやっていかなくてはならなかった。北大の恵迪寮でも、寮生たちが必死になって運営していかないと自治寮を維持できなかったし、大宮食肉でも、懸命に働きながらどうにか毎日の仕事をこなしていたわけです。そんなわけで、実際に人々の暮らしを支えている共同体をばかにしていいとはまったく思わなかった。
ぼくがデビューしたのは二〇〇〇年ですが、その頃でもまだ、家族や夫婦を大事にしていく話というのは純文学の世界ではほとんどなかったんです。『生活の設計』の次に、二作目として『ジャムの空壜』を書きました。それは不妊に悩む夫婦が子どもが欲しいと願う話ですが、子どもが欲しいという設定自体がばかばかしいみたいな批判を平気で書かれました。しかし、ひと組の夫婦が成り立っていくためには、二人のあいだで実に多く事柄が調整されなければならない。まして子どもを産むということにおいては、ものすごく綱渡り的な場面もある。不妊症に苦しんだ者として、それをきちんと書きたいと思ったんです。
――『ジャムの空壜』の評価が、いわゆる純文学界でどうであれ、少なくとも一般の読者、一般の生活者にとっては、とてもリアルで切実な物語でした。まだ不妊治療の問題をいまほど大っぴらにいえなかった時代に、不妊治療をしている夫婦をしっかりと書いてくださったことで救われた読者はたくさんいたんじゃないかと思います。
そうだとありがたいですね。
■出会いが年輪を太くしていく物語
――年齢を経て成長していく、樹木でいえば、背丈が伸びていく成長も成長ですけど、年輪が太くなっていくのも成長だと思います。中二から始まって高二までの三年間で、北海道の札幌の世界があり、仙台の世界があり、東京の世界があり、というように世界が広がっていく。たとえば、「おれ」を強めていって主人公の内面にどんどん入って背丈が伸びていく物語がこっち側にあるとすれば、この「おれのおばさん」シリーズは、人と出会うこと、人と関係を持つことによって年輪が太く成長していく物語なんじゃないかと思うのですが。
中上健次さんの一連の小説を称して「紀州サーガ」といったりしますが、そういうサーガ的な物語があります。サーガの正確な定義が何かはわかりませんが、一子相伝みたいな形で受け継がれるべき大切な精神みたいなもの、中上さんでいえば「路地の王」という形で受け継がなければならない精神を語っていくことだとすると、この「おばさん」シリーズはまったく違う。さきほど重松さんがおっしゃられたように、そもそもが魴鮄=HOBOですし、おばさん自体、一子相伝的な精神とはまったく無縁な人です。
これは、自分の子どもたちを育ててきた中で感じたことですが、うちの長男が保育園に通ってきたときに、一緒に遊んでいた女の子が息子の名前を呼んだんです。その声がとてもきれいで、ぼくは感激してしまった。つまり、その女の子は、うちの息子をダイレクトに見ているわけです。ぼくたち夫婦から息子は発生したけれども、息子が生きていく中で見ていく世界や接触していく人たちは、ある意味無限じゃないですか。ぼくたちのあずかり知らないところで彼の無限のつき合いが広がっている。
「小石のように」では、陽介もおばさんも知らないところで、卓也は大竹と一緒に旅に行く。『おれたちの約束』では、おばさんも卓也も知らないところで、陽介は仙台でいろいろなことを経験する。そして、おばさんはおばさんで、陽介や卓也の知らないところでたくさんのことをしている。そういう形で物事が起きていく。ですから、この物語の子どもたちのあり方というのは、ぼくが子どもを育ててきたときに感じていたこと、そしておそらく十八歳で北海道に向かったぼくに対して遠くから父親、母親が感じていただろうことに根差しているのだと思います。
「ここではないどこかに理想的な世界があるわけではなく、人生にはこれを達成したらOKという基準もない。そうではなくて、今ここで一緒に暮らしている仲間たちのなかでどうふるまうのかがすべてなのだ」と、「おれたちの青空」で陽介は思います。ぼくは親元を離れたあと、恵迪寮や大宮食肉で、まさに「腹の底から」そう感じました。これから先、陽介も卓也も精いっぱい生きて、成長していくんでしょう。その姿を描いていくことが、最初に重松さんがおっしゃられた〈ライフワーク〉になってくれたら、どんなにうれしいか。
1965年2月8日生まれ。東京都出身、茅ヶ崎育ち。北海道大学法学部卒業。出版社勤務を経て、大宮の食肉処理場で働く。2000年「生活の設計」で第32回新潮新人賞を受賞。2002年『縮んだ愛』で第24回野間文芸新人賞受賞。『ジャムの空壜』『家族芝居』『虹を追いかける男』『静かな夜』『鉄童の旅』など著書多数。ノンフィクションに『牛を屠る』。2011年『おれのおばさん』で第26回坪田譲治文学賞受賞。
『おれたちの青空』
(集英社文庫/本体500円+税)
魴鮄舎(ほうぼうしゃ)に暮らす中学生たちも受験の季節。陽介とともに施設で暮らす同級生・卓也も受験を前に自らの出自に苦しんでいた。ある大雪の日、とうとう家出を敢行する…(「小石のように」)、「あたしのいい人」、表題作の全3篇を収録。
(解説・木皿泉)
(集英社文庫/本体500円+税)
魴鮄舎(ほうぼうしゃ)に暮らす中学生たちも受験の季節。陽介とともに施設で暮らす同級生・卓也も受験を前に自らの出自に苦しんでいた。ある大雪の日、とうとう家出を敢行する…(「小石のように」)、「あたしのいい人」、表題作の全3篇を収録。
(解説・木皿泉)
『おれたちの約束』
(単行本/本体1200円+税)
札幌を離れて仙台の高校の寮へ入った陽介。中国からの留学生、政治家の息子、芸大志望の変り種、など新しい仲間もできた。しかし、秋の学園祭の日に大地震が起きる。学校の再開まで仙台に留まり復興を担う決意をした陽介は、出所した父と再会を果たすが…。
(単行本/本体1200円+税)
札幌を離れて仙台の高校の寮へ入った陽介。中国からの留学生、政治家の息子、芸大志望の変り種、など新しい仲間もできた。しかし、秋の学園祭の日に大地震が起きる。学校の再開まで仙台に留まり復興を担う決意をした陽介は、出所した父と再会を果たすが…。
高見陽介
17歳。仙台の新興進学校・東北平成学園の特待生として寮暮し。中学2年のとき、銀行員だった父親が横領して逮捕。母の姉である恵子おばさんが切り盛りする札幌の児童養護施設・魴鮄舎に預けられた。
おばさん(後藤恵子)
魴鮄舎代表。親の反対を押切り福井から北海道大学医学部に入学するも、中退。ともに劇団を立ち上げた後藤善男との結婚・離婚を経て、児童養護施設の運営を始める。ひとり娘の花は東京で看護師として働く。陽介の母の姉。
柴田卓也
陽介の親友であり魴鮄舎での同級生。複雑な生い立ちを背負い小学6年生にあがる前に魴鮄舎に入り、陽介と出会う。現在は、青森大和高校バレー部で才能を開花させ、U-19の選抜選手としても活躍する。
17歳。仙台の新興進学校・東北平成学園の特待生として寮暮し。中学2年のとき、銀行員だった父親が横領して逮捕。母の姉である恵子おばさんが切り盛りする札幌の児童養護施設・魴鮄舎に預けられた。
おばさん(後藤恵子)
魴鮄舎代表。親の反対を押切り福井から北海道大学医学部に入学するも、中退。ともに劇団を立ち上げた後藤善男との結婚・離婚を経て、児童養護施設の運営を始める。ひとり娘の花は東京で看護師として働く。陽介の母の姉。
柴田卓也
陽介の親友であり魴鮄舎での同級生。複雑な生い立ちを背負い小学6年生にあがる前に魴鮄舎に入り、陽介と出会う。現在は、青森大和高校バレー部で才能を開花させ、U-19の選抜選手としても活躍する。
後藤善男
恵子おばさんの元夫。東京でグループホームを運営している。東京へ行った陽介が世話になったことがある。
陽介のお父さん
副支店長として単身赴任中、愛人のため横領、逮捕。離婚せず、ともに借金を負った妻に支えられ、出所後の現在は群馬の老人ホームで働く。
陽介のお母さん
夫の逮捕後、陽介を姉に預け借金返済のためがむしゃらに働く。魴鮄舎では「ほうおばさん(優しいほうのおばさん)」と親しまれている。
大竹徹
陽介、卓也の中学校時代の同級生。父親の失業で、仙台に引っ越した。卓也とは中2の冬、お互いが学校をさぼった日に偶然会い、ちょっとした旅をした。
波子さん
陽介が中二の夏休みに奄美大島で出会い、父への複雑な思いを打ち明けた相手。陽介とは、以来文通やメールで交流を続けている。東京在住の高校二年生。
中本/菅野/周
東北平成学園の陽介の同級生。中本は政治家志望、菅野は芸大志望の変わり種。周は、中国からの留学生。
ありさ/奈津
魴鮄舎での同級生。乗り鉄として恒例の夏休み合宿のときに大活躍。
野月
魴鮄舎の第一期生。
恵子おばさんの元夫。東京でグループホームを運営している。東京へ行った陽介が世話になったことがある。
陽介のお父さん
副支店長として単身赴任中、愛人のため横領、逮捕。離婚せず、ともに借金を負った妻に支えられ、出所後の現在は群馬の老人ホームで働く。
陽介のお母さん
夫の逮捕後、陽介を姉に預け借金返済のためがむしゃらに働く。魴鮄舎では「ほうおばさん(優しいほうのおばさん)」と親しまれている。
大竹徹
陽介、卓也の中学校時代の同級生。父親の失業で、仙台に引っ越した。卓也とは中2の冬、お互いが学校をさぼった日に偶然会い、ちょっとした旅をした。
波子さん
陽介が中二の夏休みに奄美大島で出会い、父への複雑な思いを打ち明けた相手。陽介とは、以来文通やメールで交流を続けている。東京在住の高校二年生。
中本/菅野/周
東北平成学園の陽介の同級生。中本は政治家志望、菅野は芸大志望の変わり種。周は、中国からの留学生。
ありさ/奈津
魴鮄舎での同級生。乗り鉄として恒例の夏休み合宿のときに大活躍。
野月
魴鮄舎の第一期生。