『あのころの僕は』刊行記念対談 小池水音×又吉直樹「世界と自分のずれを描く」
幼いころに触れた言葉、目にした風景、過ごした時間……記憶されたそれらがようやく意味を持って立ち上がり始める、その軌跡を丹念に描いた『あのころの僕は』。著者の小池水音さんは、二〇二〇年に新潮新人賞でデビューして以来、同賞の選考委員を務める又吉直樹さんの言葉を創作の支えとしてきたという。このたび二冊目の単行本刊行を記念して、念願の対談が実現した。
構成/長瀬海 撮影/神ノ川智早
派手じゃないシンプルな文章の豊かさ
又吉 小池さんが新潮新人賞を受賞されたときの選考会のことはよくおぼえています。僕にとっては初めての選考の場だったのでめちゃくちゃ準備して臨みました。選考会自体もかなり長い時間かかったんじゃなかったかな。
小池 新潮新人賞史上、最長だったと聞きました。
又吉 ですよね。それくらい議論が白熱したんやと思います。僕はデビュー作「わからないままで」を読んだときから小池さんの文章がとても好きでした。読みやすいんだけど、ただ平易なだけじゃなく、含みがあるというか。文章には、情報がたくさん詰め込まれた濃密なものもあれば、力を抜いて情報を削ぎ落とすようにして書かれたものもあって、小池さんのは後者ですよね。だからこそ読んだあとに余韻が残る。それが気持ちよかったので、僕は受賞作に推しました。
その印象は新作の『あのころの僕は』を読んでも変わりませんでしたね。進化はしてるんやけど、これまで小池さんが書いてきた作品に通底しているものがちゃんとある。今回、小池さんは視点人物を五歳の天という男の子にしてますけど、小学校に上がる前の子どもが経験したことを一人称で書くのはとても難しいですよね。もちろん語り自体は天が後年、振り返ったときのものなんですが、言葉の不完全さを自覚しながら小池さんが小説を書いているのがよくわかります。頭のなかで考えたことを言葉に落とし込むときに、本来あったはずの情報や意味をいくつか捨てなきゃいけない。その意識で小池さんは書いてるから、こねくり回していないシンプルなものなんだけど、大きな魅力のある文章になっている。それはこれまでの作品でもずっとそうで、他の小説家にはない小池さんの良さなんやなと思いました。
小池 ありがとうございます。新人賞をいただいてから四年が経ち、ぜんぶで四作の小説を発表しました。でも、いまだに自分では自分の文章の魅力がなんなのか正確にはよくわかりません。だからこそ毎回、新しいことに挑戦しなくちゃいけないと思いながら書くうちに、何かが損なわれているんじゃないかという不安に駆られることもあって。だから、そうおっしゃっていただけると嬉しさと安堵の両方が込みあげてきます。
又吉 サッカーでやたらと派手なプレーをしたがる人っているじゃないですか。なんでそこでヒールキックすんねんみたいな人とか、ノールックでパスしようとする人とか。確かに成功すればうまく見えるし、使い方によっては有効なときもあるんですけど、でも失敗することも多い。だったら次の人がプレーしやすいようにインサイドで正確にパスを出した方がいいんですよ。シンプルに見えるけど、一つひとつのパスがちゃんとつながっていくから。
小池さんの文章はまさにそれなんですよね。力が入りすぎてないし一つひとつの速度も考え抜かれているから、前の文章を次の文章がしっかりと受け止められる。その結果、小説全体に調和が生まれていて、読んでいて、あぁ豊かな小説やなって思うんです。
小池 デビュー作の「わからないままで」は、一三〇枚くらいを一年かけてゆっくりと書きました。だからストレスなく自分を見つめられた時間も長かった気がします。とはいえ、時間を置いて読み返すとまだパスが強すぎる部分も見えてくるんですけどね。
内と外の速度の違い
又吉 今回の作品を書くにあたって、今、書くべきことはこれだなと感じたんですか?
小池 そうですね。デビューしてから年に一作くらいのペースで発表しているのですが、一作目から三作目まではそれぞれ近い問題意識を変奏させながら書いていました。物語の内容はもちろん違うものの、扱っている主題は同じで、それを小説のなかでじっくり考えてみようと思ったんです。決してやりきった感覚があるわけではないのですが、今回は別の物語のエンジンがほしいなと考えて「僕」という一人称の子どもの視点で書いてみました。おそらくそこに自分の求めていた小説の質感があったのではないかと思います。
子どもの視点で書くことが難しいものになることは、書き始める前からなんとなくわかっていました。どうしても大人である自分が子どもを模倣して書くことになるわけですから。ただ、「あのころ」を振り返るという語りで冒頭の場面を書いてすぐに、子どもだからここまで考えられないはずだとか、こんな細かいことは覚えてないのではないかといった留保はしなくてもいいんじゃないかと思うようになりました。記憶は思いがけないかたちで残りつづけるものなんじゃないか、と。
又吉 書いていくうちにそのことを実感したわけですか?
小池 はい。それと、大学生の頃に幼稚園でアルバイトをしていたときの経験も大きかったのだと思います。三年間、子どもたちと一緒に過ごしているうちに、自分自身の幼少期の経験をありありと思い出したことが何度もありました。記憶はすっかり消えてしまわずに、体内にいつまでも残っているものなのだとよくわかった。子どもの脳内に渦巻いている情報量ってすさまじいんですよね。表に出せていないだけで、子どもはたくさんのことを認識したり考えたりしている。それも大人の想像をはるかに超えるかたちで。あのときの経験があったので、手加減して子どもらしく書くよりも遠慮せずに明瞭に語らせた方がより良い方向にいけそうだ、という実感を得ることができたのだと思います。
又吉 その感覚、よくわかります。じつは僕も天と一緒でしゃべるのが苦手な子どもでした。頭のなかで考えていることはたくさんあるんだけど、それを取り出すのがうまくできないというか。僕には姉が二人いるんですが、二人ともおしゃべりが達者やったんですよ。三つ上と四つ上だから、僕は圧倒されてばかりいました。自分もしゃべりたいと思ってイメージを膨らませるんですけど、何をどう話せばいいか、言葉を選んでいるうちに会話がどんどん流れていってしまう。みんなが待っててくれても、なかなか言葉が出てこない。だから家でも保育所でも学校でも自分からはしゃべらん子になってしまったんです。そのせいでおとなしいとか無口とかよく言われてましたね。でもそう言われても、あまりピンとこないんですよ。頭のなかではめちゃくちゃしゃべってるから。
小池 自己像と合わないというか。
又吉 合わないんですよね。自分の内側ではいろいろしゃべってるんやけどなって。家では母親が無理に姉たちを黙らせて、今度は直樹がしゃべる番ねとか言ってくれるんですけど、そうするとまた緊張して話せない。
小池 ボールがまわってくるとドキドキしちゃってうまく蹴れないんですね。
又吉 そう。一人で蹴ってるときはうまくできるのに。でも、それはお笑いにしても小説にしても、自分が今やっていることにとって必要な時間やったんちゃうかなってよく思います。もし自分が他人の会話に入るのがうまかったら、立ち止まってそれについて考えることもなかったでしょうし。天にもあの頃の僕と近いものを感じました。近いというか、ほぼ同質かな。自分が置かれている状況を誰よりもわかってるんやけど、そこで感じたことの意味を確定させるのをすごく恐れている。この小説には彼なりに少しずつやってみようとする速度感がありありと表れているんですが、それこそが正しい時間の流れ方なんやと思います。
物語の中心にはもう一人、天が初恋をするさりかちゃんという女の子がいますよね。彼女はイギリスにずっと住んでたから、帰国して幼稚園に転入したばかりの頃はうまく日本語が話せない。おそらく英語でやったらたくさんしゃべれるんでしょうけど、最初の方はたどたどしい日本語で天たちと会話をしている。そういうテンポ感だから天とも仲良くなれた。でも、そんな彼女も三ヶ月くらい経つとすっかり日本語が達者になるじゃないですか。言葉だけじゃなくて、父親の不在も現実的に処理できるようになってる。さりかちゃんの生きるテンポが一気に速まるから天は戸惑うんですけど、だからって彼女が悪いわけじゃないんですよね。それはそれでポジティヴで素敵なことだし。
小池 天とは境遇が違うんですが、僕も又吉さんと同じく姉がいるのでその戸惑いはよくわかります。幼い頃、姉やその友達がすごい速度で話しているのを聞きながら、会話に入ろうとしてもうまくいかないことがよくありました。自分にも何か差し出せるものがあるんじゃないかと思って言葉にしようとするんですが、姉たちのスピードについていけない。自分のなかで経過している時間と、ほかの世界で進んでいる時間がずれているという感覚があったというか。
考えてみれば、そのことを思い出しながらこの小説を書いていたような気がします。世界と自分との時間のずれはこの小説にとってとても大きな要素だった。じつは前作を発表してから、なかなか新しい小説が書けない時期が続いていたんです。でも、「僕」という一人称と「あのころ」という過去の時制でいこうと決めて冒頭を数行書いたら、不思議としっくりきました。それがなぜなのかはわからなかったのですが、今、又吉さんのお話を伺いながらその理由がわかったような気がします。
まわりの世界とのずれ
小池 又吉さんにも子どもの視点で書かれた作品がありますよね。二〇一二年に『別冊文藝春秋』に書かれた「そろそろ帰ろかな」という短編です。又吉さん自身を思わせる少年が語り手で、さっきおっしゃっていたような家族の情景が描かれています。今回、僕が天を視座に据えたことで見えたものと似たものがこの小説に表れているような気がして、近いところで書かれている作品なのではないかと思いました。
又吉 だいぶ前に書いた作品なのでうろおぼえなんですが、確か自分が記憶していることを順番に書いていこうと思ったんですよね。自分の頭のなかにある最初の記憶って何かなって考えてみたら、なんか部屋の壁がはがれ落ちてる光景があるなと。そこから小説を書き出してみたらどうなるかなと思って書いた小説なので、ほぼ自分のことが書かれています。
その頃のことを僕はよく覚えているんですが、まわりの世界に違和感を覚えることが多かったんですよ。例えば、僕の父親ってかっこいいみたいなんです。だから、あの作品に書いたように沖縄に一緒に行ったときに、親戚のおばさんが父に「なんであんたはハンサムなのに直樹は十人並なの?」みたいに言ったことがあって。子どもだから「十人並」って言葉がわからなくて父親に聞いたら、「普通っちゅうことや!」って返ってきた(笑)。だけど普通であることがなんでいけないのかわからない。普通の何があかんのやろって思ってました。
保育所でも直樹くんはおとなし過ぎるとか、人の後ろにばかりくっついてるとか言われてたけど、いやいやちゃうやろって。俺は一人で遊びたいけどあなたたちがみんなで遊びなさいって言うから、渋々みんなの真似してんねんって思ってました(笑)。強制されて仕方なしに人の後ろについていくとなぜか自主性がないとか言われて、いまだに何があかんかったのかよくわからない。だけど卑屈になるわけじゃなくて、それを素朴に受け止めてましたね。
小池 まわりの世界とのずれがあったんですね。
又吉 そうですね。そういうのがいつも気になってて。ほかにも、うちの父親ってみんなに駄目な奴って言われるんですよ。母親はちゃんと働いてて優しいから褒められるんだけど、父親はむちゃくちゃだから姉たちにも嫌われる。なのに、その裏で父は不良に憧れてるような人たちから崇められてたりもする。これ、どういうことなんやろうって思ってました。
小池 あの作品ではお父さんとお母さんが別居するってなったときに、お姉さん二人はお母さんについていくのに対して「僕」はお父さんと沖縄に行くことを選びますよね。お父さんに味方がいないからって。
又吉 ほんとは母親の方に行きたいんですけどね(笑)。だけど、自分までお母さんの方についたら三対〇になってしまう。だから気遣って、お父さんと沖縄に行くことを選んだんです。
小池 じつは僕も全く同じ経験をしたことがあります。明らかに母親の方にシンパシーを抱いているのに、姉も僕も、二人ともそちら側についたら父親が一人になってしまう。自分の選択が全てを決めてしまうことの恐れのようなものを感じたというか。
又吉 子どもの自分がそれを請け負わなきゃいけないのはなんでなんでしょうね。
小池 先に選ばせてくれれば自由に選べたのに、なぜか最後に選ぶことになってしまうから追い込まれるんですよね。
小説を書き始めた理由
小池 又吉さんの最初の小説「夕暮れひとりぼっち」も子どもが視点の作品でしたよね。地味なタイプの少年がある老人と出会って、手品にハマる。そのうちに自分でもできるようになると、同級生が「見せてくれよ、友達だろ」なんて都合のいいことを言ってくる。そういう言い方をする同級生がいたし、そういう論理があったなぁと鮮やかに思い出させてくれる作品でした。
又吉 子どもの頃を振り返ると、なんでそんなことになるのかなってことの連続やったんですよ。さっき「ずれ」って話がありましたけど、別の言葉で言うと他人との間で摩擦を感じ続けてたというか。ずっと嫌がらせを受けているような、ほっといてくれへんかなって思うような、そんな感覚を大人にも同級生にもずっと抱いてて。だから最初の小説は、作中のできごとは実際に経験したことじゃないとはいえ、子どものときに感じたことを忠実に表現しようと思って書きました。とはいえ「そろそろ帰ろかな」も「夕暮れひとりぼっち」も、まだ自分の意思で小説を書こうと思ってなかったときの作品なので読み返すのは怖いですね。
小池 自分から積極的に小説を書こうとは思わなかったんですか?
又吉 小説自体はずっと好きだったんですけど、面白い小説を書く人っていっぱいいるじゃないですか。だったらわざわざ自分が書く必要あるんかなって思ってしまって。でも、声かけてくれる編集者さんはいたから、僕のこと説得してくれませんか? って頼んでました(笑)。それなら書かなあかんわみたいな気持ちになる理屈を自分で見つけたいんですってお願いしてました。
小池 そのうちに長いのも書いてみようかな、と?
又吉 そうですね。小説を書く必然性があると思えるだけの理屈を与えてもらって、それが積み重なった結果、書かずにはいられないという状態になればと思っていました。ちょうどそういう気持ちになりつつあったときに西加奈子さんの『サラバ!』を読んで、自分もここに描かれているように、自分のことを自分で決めたいと考え、小説を書きたいと思ったんです。
だからそれまでは読者はお金払って読んでくれるんやから、ちゃんと読むに耐え得るものにしたいって気持ちだけで書いてました。芸人として、舞台を見にきてくれた人を楽しませたいといつも考えているのと同じでしたね。
小池 そこから純文学の方に行ったあたりで、書くことの意識にまた変化があったわけですね。
又吉 そうでしたね。それ以降はもっと小説とは何かを掘り下げて書こうと思うようになったというか。小池さんはどうして小説を書いてみようと思ったんですか?
小池 じつは僕も二〇代の頃は小説を書きたいとは全く思っていませんでした。ただ、近しい人を亡くした直後に、本をたくさん読んだんです。大学の卒業論文でも、僕と同じように親しい人を喪う経験をした人たちが書いた作品をいくつか取り上げて論じました。小説だけじゃなく、亡くなった人との思い出を綴ったエッセイや、精神科医が仕事を通じて見聞きしたものを掘り下げていくノンフィクションまで、さまざまな作品を読んで喪失に対する向き合い方にはいろいろな方法があることを知りました。
だからといって、すぐに小説を自分で書こうとは思いませんでした。死や別れはいくら考えても理解しえないものなわけで、それを小説に書くことは自分にはできないと思ってましたし、今の自分が書いたら感情的に崩れたものになってしまうだろうと感じてもいました。けれどその後、それなりに明るく働いたり、誰かと遊んだりして普通に生活するなかで、何か違う時間を心のどこかで求めていたんだと思います。卒業論文から八年くらい経って、小説を書いてみようと思い立ちました。とはいえ、最初の作品に「わからないままで」というタイトルをつけるくらいなので、小説を書くことで喪失を解き明かせたという感じはもちろんありません。答えを出すというよりも、ただそばにいたいという感覚で小説を書いているような気がします。
わからないままでいるための筋力
又吉 必ずしも答えを小説のなかに提示する必要ってないんやと僕は思います。もちろん答えを確定させることの覚悟や潔さも大事やとは思うんですけど、時間が経ったり状況が変わったりすれば答えなんてまた違うものになるじゃないですか。それよりも僕はわからないという状態のまま理解することの方が意味があるんじゃないかと感じるんです。
わかってない状態で考え抜くっていうのはじつは一番筋力を使うんですよね。だからこそ、なるべくその筋力を使い続けていたいですね。何でも答えを知ってますみたいな人って世の中にたくさんいるじゃないですか。そういう人としゃべってても、あなたはトンネルの途中の非常口から抜け出ただけでしょって思ってしまう。わからないままもっと先に行ける可能性があるのに、なんかもったいないなって。僕が近代文学や純文学と呼ばれる小説を中学時代に読み始めたときも、その感覚が一番好きでしたね。想像力が豊かで、論理的に言葉を尽くして考える力を誰よりも持っている人たちがわからないことに悩んで苦しんでる姿がすごく信頼できたっていうか。
小池 小説は一文字一文字書いていくので、時間がとてもかかるものなんですよね。ある意味で、わからない状態を自分のなかでずっと持続させる装置でもあると思うんです。早急に答えを出すのでもなく、考えることを放り出すわけでもなく、そこにとどまり続ける。小説を書くというのはそういう経験なんだというのは一作目を書き終えたときに感じましたし、今回も書きながらそのことを実感していました。
又吉 『あのころの僕は』の中で、「ゾウのおばあちゃん」って天が呼んでる母方の祖母に「いつかきっと、いろんなことがわかるようになる」と言われますよね。あそこを読んで、めっちゃわかるなぁと思いました。天はそのときは意味を完全に摑みきれてないようなんですが、でも、きっとあの言葉を言ってもらって心強かったはずです。
小池 冒頭にもその言葉を出して、後半でそれがゾウのおばあちゃんの言葉だったことがわかるようにしたのですが、最初に書いたときは自分でもどういう意味を持つ言葉なのかわかっていませんでした。わからないまま、子どもの視点を通して見えてくるものを書き続けていくうちになんとなく理解できたんです。言葉がだんだん意味を持ってきたというのは初めての感触でした。
又吉 それが小池さんの小説の魅力的なところですよね。小池さんが書く文章は意味の広がりがあるんですよ。ディテールはもちろんしっかり書かれているんですけど、言葉を狭いところに閉じ込めていないというか。言葉ってみんなが使うものなので、ある程度、曖昧に設定されているじゃないですか。それなのに僕たちは無理に言葉にいろんなことを委ねるから、本質とずれてしまうんです。でも、小池さんが書く言葉には余白があるから、語義が広がる可能性もある。だからこそ、ほんとうのことへと近づくことができるんだと思います。
小説に投影される自己
小池 書かれていることは実体験ですかと聞かれることが多いのですが、僕は小説に自分を投影することはそれほど自覚的にやっているつもりはありません。だけど、書いているうちに自分に対して説得力を持ちうるエピソードを出す必要性を感じると、材料として自分の経験したことを使うことはあります。恥ずかしさはあるのですがそれが小説を書く上で有効ならばいいかな、と。
又吉さんの作品でも、ご自身が経験されたことが出てきますね。例えば『人間』で語り手が子どもの頃に父親から言われた「おまえ、あんま調子に乗んなよ」という一言は、又吉さんご自身にとっても重要なものだったとどこかに書かれていたと思います。
又吉 そうですね。あれは僕の人生を変えた決定的な言葉でしたね。小説ってどんなものでも必ず共感できるところがあるはずなんです。共感ゼロってことはないと思う。小池さんのこの小説だって、僕は天と年齢も置かれている境遇も全く違うのに彼に共感しながら読みました。自分の幼い頃の記憶と天が経験することは重なる部分が多くて、天の気持ちが手に取るようにわかった感じがしたんです。
そのように誰かが書いた本に共感してきたのに、自分が書いた作品に限って共感できる部分がないということはあり得ないんです。本質も面白さも手放して、自分が共感できない作品を書くということだけを意識すれば可能かもしれないですけど、そうしたいと思えないんです。ただ、僕の場合は芸人だからなのか、読者に僕自身の話として読まれてしまうことも多い。何を書いても僕として読まれるなら、そのことにいちいちストレスを感じてても仕方ないと考えるようにしてます。
小池 結果に作用しないわけですからね。
又吉 そう。必ず自分のことだって受け取られるわけだから。もちろんそうやって読むことは悪いことやないと思います。むしろそれが人間の性なんじゃないかなとも感じます。だったらそれすら活かして書くことも大事なのではと最近では考えるようになりました。だから『人間』では語り手に自分を投影させた上で、途中でもっと僕に似た人物を出してみたんです。どうせ僕自身の話として読まれることがあるならそれを逆手に使ってみようって。
小池 僕も最初の小説では自分の経験したことのパーセンテージが割と高いものを書きました。ただ僕の場合は、なるべく自分から遠いものを書きたいという気持ちもあるんですが、書いているうちに自分の持っている素材がゴロッと出ちゃうんです。
又吉 その感じもよくわかります。僕は小説以外にコントも書くんですが、けっこうぶっ飛んだ設定にするんですよ。僕がバケモノの格好をしてて、相方がその面倒を見ている男爵みたいなやつ。もう完全にフィクションの世界なので、さすがに「あれはお前自身の話だよね」って言われることはありません。でも、僕自身は意外と自分の実感に近いことを書いているつもりなんですよ。僕からしたら小説もコントも自分との距離感は一緒なんです。
文学の世界では、それが私小説であるのか、ないのかがずっと重要視されてますよね。だから小説で自分に近いことを書くと、作者本人の話として受け取られる。コントを書いても自分自身の話とは受け取られないのに。あれってなんなんですかね。作者の話として読むことってそんなに大事なんかなって思いますね。ここには又吉自身のことが書かれているとか言われても、何も言ってないに等しいんじゃないかなという気がしてしまいます。
文章に滲む人間の悪意
小池 僕は又吉さんの小説が読者の心の深いところを動かす理由の一つに、登場人物の言葉が聖母のような温かさで他者を許容するときもあれば、ナイフのように鋭敏な批評を誰かに向けることもある、それらのどちらに転ぶかわからない人間の一瞬一瞬の模様にあるんじゃないかと思います。例えば、『文學界』で連載されている「生きとるわ」でも相手を傷つける言葉を思考する場面がありました。読みながら、そっちに考えが広がっていかないでくれと思わされたのですが、そうやって読者がつい緊張する瞬間があちこちにあるんです。一人ひとりの人生という物語のなかに、さらに泡のように細かい一瞬の物語というものがある。そしてその細かな物語は、陰謀論のような大きな物語とどこかでリンクしている。そのことを又吉さんは鋭敏に描いてきたのではないかと思うんです。
又吉 めちゃくちゃ面白いご指摘だと思います。ただ、僕としてはじつは笑ってほしいだけだったりするんですよ。こいつそっちに転ぶんか、やばいなって(笑)。かといって別にふざけてるわけじゃないんです。っていうのも僕自身がそっちに行くこともあるので。自分がそうなるときは俯瞰で見るようにはしてるんですが。
僕は小池さんの作品を読んで反対のことを感じました。小池さんの描くものには哀愁とか寂しさは表れてるんですけど、人間の悪意みたいなものがない。そこがすごい。
小池 ほんとですか?
又吉 普通、人間ってポジティヴな言葉よりもネガティヴな言葉の方が刺さりやすいから、そっちをうまく使おうとするじゃないですか。例えば、何食ってもまずいって言ってる評論家がたまにうまいって言うと、おおーってなるみたいな。
小池 落差をあえて作るわけですね。
又吉 でも、まずいってことはないやろと僕は思う。おいしいと紹介されてるような飲食店でまずいと感じたら、まず自分の味覚を疑った方がいい(笑)。本も一緒で何十年も好きで読んできた人なら数行読んだら自分に合わないってわかるやろうに、文句言うために最後まで読んでますやん。好きより嫌いの方が信用されやすく、その方が需要もある。だからそういう悪意を利用したサービスも多いんですが、小池さんの小説はそこに加担しないのがいいですね。
小池 ありがとうございます。よく悪意をもっと書いた方がいいって言われるんですが。
又吉 そっちの方が簡単なんですよ。僕なんか悪意だけ書いとけって言われたらやりやすいなと思う。そうじゃない書き方で面白く書けるから、小池さんの小説は素晴らしいんだと思います。そういう悪意みたいなのは書きたくならないってことですよね?
小池 できれば(笑)。
又吉 すごいわ。ほんと、すごい。
小池 でも、書かなきゃいけないんじゃないかって気もしてます。
又吉 どうなんですかね。人によって考え方は違うと思うんですが、書く必然性が出たときに書けばいいんじゃないですかね。小池さんの小説を読んで「もっと人間の醜悪な部分を書け」って言うのはスイーツ食べに行って、なんでスパイシーなもんがないねんって怒ってるようなもんでしょ。
小池 お店が違う(笑)。
又吉 そうそう。だって人間を書きながら悪意が全く滲み出ないって、普通はできないですよ。僕なんか「生きとるわ」を書きながら嫌になりましたもん。めっちゃ性格悪いな、自分って。そもそも文章の方が意地悪な部分って出やすいですよね。僕、ラジオやテレビでコメントしてるときに悪口言う気は一切起こらないですから。
小池 文章の方が自分自身の心の深い部分が出やすいということでしょうか。
又吉 そうですね。もちろんサービス精神で書くこともありますけど、無意識というか、書いてるうちに悪意がダダ漏れになることの方が多いですね。だから小池さんのその意識は特別なものだと思います。そのうちどこかで自然と爆発するときもあるだろうし、そうなったらそうなったで面白いですしね。そのときの悪意の表現は痛みをちゃんと理解した上でのものになるだろうし。誰かに悪意を表現しろって言われてやっても、小池さんが本来持ってる良さが失われるだけというか。自然なビブラートが出せなくなるんじゃないかな。だったら、自分の書きたいように書いた方がいいと思いますね。
小池 自然なビブラートというのは、とても嬉しい言葉です。今日はありがたいアドバイスをたくさんいただいた気がします。これからも自分の書きたいものを手放さず書き続けていきたいと思います。ありがとうございました。
(2024.9.23 神保町にて)
「すばる」2024年12月号転載
プロフィール
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小池 水音 (こいけ・みずね)
1991年東京都生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。2020年「わからないままで」で新潮新人賞を受賞。2022年発表の小説第3作「息」が第36回三島由紀夫賞候補となる。同作とデビュー作「わからないままで」を収録した初の単行本『息』が第45回野間文芸新人賞候補作となった。
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又吉 直樹 (またよし・なおき)
芸人。1980年大阪府生まれ。お笑いコンビ「ピース」として活躍中。著書に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(以上せきしろとの共著)、『新・四字熟語』(田中象雨との共著)『第2図書係補佐』『東京百景』等。2015年に初の長編小説『火花』を刊行。
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