「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」 伊集院静 スペシャルインタビュー

2014年4月4日(金)発売
定価:1600円(本体)+税

内容紹介
妻の死後、アルコールとギャンブルに溺れ、生きる軸を失ってしまったユウジは関西に居を移し、スポーツ紙の競輪記者エイジと出会う。淋しがりやで、ケンカっぱやい男だった。他人と折り合うことの苦手なユウジもなぜかエイジだけには気を許せ、奇妙な安堵感を覚えた――。CMディレクター時代の後輩、今は芸能プロダクションの社長である三村と再会した。ユウジを慕い、妻の病室に入れた唯一の男だった――。「私はあなたの小説が読みたいだけなんだ」と編集者木暮は執拗に迫った――。まっとうな社会の枠組みでは生きられない三人の“愚者”たちとの濃密な時間と別れ、友情を越えた男と男の情愛を描いた著者渾身の自伝的長編小説!
 10万部を突破したベストセラー、『いねむり先生』と同時代に紡がれた、小説家・伊集院静、もうひとつの「再生」の物語。
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プロフィール
伊集院静(いじゅういん・しずか)
●1950年山口県生まれ。立教大学文学部卒業。CMディレクターなどを経て、81年『皐月』で作家デビュー。91年『乳房』で吉川英治文学新人賞、92年『受け月』で直木賞、94年『機関車先生』で柴田錬三郎賞、01年『ごろごろ』で吉川英治文学賞受賞。近著に『伊集院静の「贈る言葉」』『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』『許す力 大人の流儀4』など。

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インタビュー


お前たちの死を無駄死ににはさせない

ベストセラーとなった伊集院静さんの『いねむり先生』は、作家の色川武大さんとの交流を通して、主人公が再生を果たしていく自伝的な物語です。新刊の『愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない』は、『いねむり先生』とほぼ同時代に、社会の枠からはみ出した生き方をせざるを得なかった三人の「愚者」たちと主人公ユウジとの熱い友情を描いたもう一つの再生の物語です。独自の美学を貫く競輪担当のスポーツ新聞記者のエイジ。破天荒な性格ながら小説に熱い思いを寄せる編集者の木暮。亡き妻をよく笑わせていた芸能プロダクション社長の三村。まっとうに生きようとすればするほど社会から疎外されてしまう彼らの早すぎる死を、「無駄死ににはさせたくなかった」という伊集院さん。この作品に懸けた思いをうかがいました。

聞き手・構成=増子信一/撮影=宮澤正明

狭まってしまった社会の枠から外れた者たちの居場所

──長くて非常にストレートなタイトルですね。

 タイトルに関しては、あえて長くしようとかは意識していなかったけれど、ストレートなタイトルがいいというのは最初から頭にあった。雑誌の連載を始めたのが、3・11から十カ月ほど経った頃で、まだ心情的にも大きく揺れ動いてた時期で、震災で多くの人の命が失われたことも記憶に新しかった。そこで変に気取ったものよりもストレートなほうがいいだろうと。

──小説の舞台は一九八七年から九〇年代半ばですが、これはちょうど昭和から平成に変わる時期と重なっています。その辺の時代的な変化について意識されたのでしょうか。

 いや、全然意識がなかった。わたし自身、その当時、そこに何か時代の区切りを見つけるということはなかった。
 ただ、エイジたちのような生き方、どうあがいても社会の枠から追い出されてしまうような生き方しかできないという人たちが比較的多くいたのはたしかです。彼らがどういう場所にいたかというと、大体、あまり人がまっとうではいられなくなるようなところ──ギャンブル場とか酒場とか。そういう場所が少しずつ衰退していったり、変化していった時代でもあった。競輪場はきれいになるし、酒場も、それまでは一人で飲むというのが当たり前だったのが、大勢で騒ぐような場所に変化していく。それから、当時の酒場には階級というか、客層による棲み分けが歴然とあった。それは安い高いという基準で分かれていたんじゃなくて、そこに集まる人たちの生き方で分かれているところがあったわけです。それがあの時代になると、エイジとか木暮みたいな、いわば社会の基軸からズレてしまいがちな人間を許容して受け入れる酒場が少しずつなくなっていき、そういう人たちがいられる場所がだんだん狭まってくる。そういう変化は肌で感じました。

 それは、日本の社会の変化であるというよりも、明らかに日本人の変化だと思う。社会が平準化することで個性が失われるというのではなく、個性など必要がないと思う人間が多くなってきたということです。つまり、エイジも三村も木暮も、少し前までは、多少眉をひそめられるような振る舞いをしていても社会からさほど大きく浮き上がることなく暮らしていけたのだけれど、いつの間にか、彼らが生き難くなるような状況が生まれてきた。そうした流れから弾き出されるかのように、三人とも若くして死んでしまった。

 わたしの中に、「なぜこいつらは長生きできなかったんだ、なぜ俺と同じように生きていけなかったんだ」という口惜しさが強くあったと同時に、「お前たちの死を無駄死ににはさせない」という思いがあって、やはり、きちんと書いておこうと思ったんですね。


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友情から生まれる「いとおしさ」

──主人公のユウジが、エイジたち三人の友だちへの想いを語る場面があります。《まっとうに生きようとすればするほど、社会の枠から外される人々がいる。なぜかわからないが、私は幼い頃からそういう人たちにおそれを抱きながらも目を離すことができなかった。その人たちに執着する自分に気付いた時、私は彼等が好きなのだとわかった。いや好きという表現では足らない。いとおしい、とずっとこころの底で思っているのだ。》この「いとおしい」という言葉が印象的です。

 一見、愚かに思える人のほうが実は限りなくやさしいところがある。逆にいえば、この主人公は彼ら以外の人たちからやさしさを得ることができなかった。だからこそ、エイジたちのもっている独特の温度みたいなもの、ぬくもりみたいなものを感じていたのだと思う。「原風景」という言葉があるけれど、彼らがもっているやさしさというのは、「原慈愛」みたいなものなのではないか。そこにユウジは感応して、いとおしさを感じたということなのではないかな。もっとわかりやすくいうと、エイジはもう一人の俺なんだ、三村はもう一人の俺なんだ、木暮はもう一人の俺なんだ、と。つまり、彼らのなかにある〝愚かさ〟を自分ももっているからこそ、余計に彼らがいとおしくなる。
 社会にうまく適応していくことができなくて、だんだん自分の生き場所を狭くしていってしまう人というのは、いつの時代もいる。彼らは彼らなりに必死に抗っているのだけれど、結局はうまくいかない。しかし、そういう人たちも居場所を得て生きていくことができるのが社会というものなんだから、今さらそういう人たちは要らないと現代社会がいうのだったら、わたしは、「それは違うと思うぜ」と声を大にしていいたい。そうした思いが、この小説を書かせた一つの要因です。

──彼らへの「いとおしさ」を支えている大きな柱が友情ですね。

 そう。ここのところのわたしのテーマの一つが友情です。『ノボさん』がそうなんです。漱石と子規の友情です。なんというかな、何十年も生きてきて、一番すばらしいものは友情なんじゃないのかと思うに至った。もちろん、妻への愛情とか子どもへの慈しみにも大いなる喜びがあるのだけれども、友情ほど美しくて切ないものはないのではないか、と。
 友情のなにがいいかというと、代償を求めないことです。今はなんにでも代償を求める人が多いけれど、それなしに成立する貴重な関係が友情にはある。そこには男と女とはまたちがった恋愛感情があって、そこからいとおしさも生まれるのだと思う。タイトルの「淋しくてたまらない」というのも、一種の愛情表現ですからね。

──今回の作品には、エイジたち三人の死のほか、海難事故で亡くなった弟、病を得て旅立った妻、そして突然の死に襲われた作家のI先生など、死というものが色濃く出ているように思います。

 たしかに。ただ、わたしなりの死のとらえ方というものがあって、たとえば、彼らはほんとうに死んだのだろうかという想いをどうしても拭えないところがある。頭では、彼らが死んだということはわかっている。しかし、どこか納得できないでいる部分がある。小説の後半、夢の場面が出てきます。弟と妻とI先生が一緒の船に乗っていて、主人公も船に乗ろうとすると、妻に「あなたはこの船に乗れないわ」といわれる……。あれは実際に見た夢で、そのとき初めて「ああ、あの三人は、やっぱりほんとうに死んでいたんだ」と実感できた。ということはつまり、それまでは死を受け入れていなかったんです。
 死というのは、ただその人に逢えなくなるだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。もっといえば、死は完全な別れではないということです。
 3・11の大震災でも大切な人を失った人はたくさんいます。逢えなくなったのはとても切ないことだし、なんとも胸が痛むことだけれど、死によって、その人と完全に切り離されたというわけではない。その人との忘れ得ぬ記憶こそが、生き残ったものの生きる証なんだ、そうやってつながっているんだ、と。そうした想いを、この本を読んでくれた人たちが、少しでも共有してくれるとうれしいですね。

(『青春と読書』4月号掲載)

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