RENZABURO

紙の本
書評より
生活者視点で描いた震災後文学
斎藤美奈子氏

 東日本大震災から4年がたったが、状況は改善されたといえるだろうか。
 金原ひとみ『持たざる者』は震災2年後を舞台にした連作長編小説だ。少しずつ関係のある4人の男女が登場する。彼らは3・11後をどうすごしたか。
 まず冒頭の「Shu」で、あなたは釘付けになるだろう。売れっ子デザイナーの修人は妻の香奈と娘の遥との3人暮らし。香奈は専業主婦、遥はまだ2ヶ月の赤ちゃんだ。原発事故のニュースの後、東京電力に勤める友人から「子供だけでも西に逃がしたほうがいい」と聞いた修人は「遥を連れて西に行ってくれ」と妻に懇願するが、猛反発される。ならばせめて食品だけでもと彼は考える。
 〈空気と違って自分で選ぶ事のできる食材で母乳を汚染させてしまうのは、できるだけ避けた方がいいと思わないか?〉。妻の答えは〈避けられないよ。だって東京で食材買うんだよ?〉
 延々とくり返される2人の問答の、あまりのリアルさ! 巨大な無力感に修人は襲われ、2人は結局離婚する。
 一方、最後に登場する「朱里」の主人公は、2年ぶりにロンドンから帰国した駐在員の妻である。二世帯住宅を建て、義父の介護をするつもりだったところを襲った震災。やっと帰国できたのに、家は義兄に占拠されていた……。
 3・11をキッカケに「世界が変わった」と感じ、食材の汚染に敏感に反応する修人。目先の人間関係がすべてで、3・11のことなど一切眼中になく、町にあふれる食材で嬉々として料理の腕を振るう朱里。いまの日本は、この2人に代表される2つの価値観の間で引き裂かれているといえるだろう。シンガポールに住む千鶴、ロンドンに避難したエリナも含め、その温度差は大きい。福島第一原発について「状況は完全にコントロールできています」と首相が言い放ったのは 事故から2年半後のことだった。それでも彼らを信じるのか。原発事故問題を生活者の視点から批評的に描いた佳編。最後に朱里が感じる「強大なコントロール感覚」がおそろしい。


「青春と読書」2015年5月号より
「すばる」ロングインタビュー
ロングインタビュー 金原ひとみ
「持たざる者」を描く

聞き手・構成/江南亜美子

■震災を、生々しいかたちで残す

―― このたび刊行された『持たざる者』は、長編としては『マザーズ』(集英社)以来、ほぼ四年ぶり。『マザーズ』以前に書かれていた短編を集めた『マリアージュ・マリアージュ』(新潮社)からでも、二年半ぶりとなります。つまり、東日本大震災後の最初の作品ということですね。この間、読者は、私も含めて、金原さんが3・11や原子力発電所の事故を小説に書いたならどんなものになるだろうと考えずにはいなかったと思います。今回の『持たざる者』は、そのひとつの答えといえそうです。まずは『マザーズ』執筆以降、この作品が生まれるまでのお話から聞かせてください。

金原 二〇一一年の震災後に『マザーズ』は刊行されたのですが、もともとしばらく休もうと思っていました。二人目の子供を妊娠していたので、育児休暇の意味もあって。震災が起きたときは臨月で、はからずも岡山のほうで出産することになりました。向こうでちょっと落ちついて育児をする時間をとり、そのうちにフランスに移住したので、物理的に小説と向き合う時間が持てなかったんです。ようやく二〇一三年に書き始めて、結果的に一年半ぐらいを要しました。

―― 今回は、四百枚の作品の、一挙掲載でした(「すばる」二〇一五年一月号)。

金原 長編になることはわかっていたのですが、生活のスタイルも決まらないなかで書いていたので、連載するのは不安がありました。これまでも書き上げてから発表するやり方が多かったですし、とくに今回は震災というセンシティヴな問題に触れることもあり、じっくり時間をかけてほんとうに満足というところまで出し切ってから、発表したかったんです。でも連載という区切りがないぶん、ずっとつらかったですね。

―― 震災を描くというのは最初から?

金原 震災について書いておきたいと思っていました。いちど生々しいかたちで残しておかなければ、何もなかったように普通の小説を書くことはできないなと。しかし精神的にはなかなか向き合えなかった。震災をどう書くかという以前に、小説自体をどう書いたらいいのかさっぱりわからないという状態になってしまって。それまで小説を書くときは、こんな感じで、こう続いて、これぐらいの枚数でということが頭でイメージできたんです。でもそんなプロセスが一気にポーンと飛んで、土台から揺らいでしまった。踏み出すまでに時間がかかりました。
 だんだん時間が経過して落ち着いたことと、海外に出てしまったことで、より外部から震災や日本を眺められる状態にはなっていったんです。でも今度は自分自身が慣れない暮らしを経験し、別の事情に困ったりする現実のなかで、さらに書くことが遠のいてしまった気はしました。

―― そのひとつの打開策が、人称の設定だったのでしょうか? 『持たざる者』は一人称の語り手が四人登場し、章ごとにリレーします。彼らはそれぞれゆるやかな人間関係を結んでいますが、最初に「修人」という男性が登場する。金原さんの作品は女性の一人称が大半です。『マリアージュ・マリアージュ』の数編では一人称の男性視点を用いられていますが、比較的めずらしいですね。

金原 修人は、震災を機に人生が変わります。クリエイターという仕事ができなくなり、混乱したまましばらく過ごす。子供を東京から避難させるためにネットでやみくもに情報を調べたり。私自身がけっこう反映された人物なので、距離をとるために男性にしたということはあります。自分と似たような思考を持った女性を書くのは恐ろしいというか、あまりに生々しすぎて避けたんです。

―― 前作の『マザーズ』には、同じ保育園に子を預ける三人の女性が登場します。それぞれが一人称で語る「私」が、ぐるぐるとバトンタッチされていく。もちろん違う人格として描かれますが、三位一体というか阿修羅像の三面六臂というか、三人で「若い母親」像を成し、逆にいえばいずれもが金原ひとみの分身であるような存在でした。しかし今回の登場人物たちは、あきらかに個別の事情を生きていますね。

金原 震災が起きてすぐ、人は決して一面的でないんだなと実感することが多かった。平素は穏やかな人が攻撃的な側面を見せたり、強気で豪快に見えた人が臆病だったり。見る人が違えば、同じ人の印象もがらりと変わるんだなあということも。震災という状況を書くとは、そこに踏み込むことだと思いました。この人からはこう見えて、こっちからはこう見えるといった視点の差も加えながら、立体的に登場人物を書いていくには、これまでのように自分がぐっと入り込んだ登場人物を造形するのではなくて、もうちょっと突き放して観察しながら書く必要があったんです。
 とくに三番目の「エリナ」の章は、それを意識しました。エリナは、もしこの章が短編として独立していたら、ちょっと「えっ」と顰蹙をかうような人物ですが、わりとまっすぐに生きている。他人からはあぶなっかしい女性に見えても、本人には本人の言い分があって、直観的なんです。

――エリナは震災後に、子供を連れて沖縄、そしてロンドンへと移住をするシングルマザーです。ロンドンでも、商社などの日本人駐在員の妻たちとは立場も違い、いわば周囲から浮いている。姉の千鶴からは「笑顔担当のエリナ、思慮担当の私」などと言われるなど、破天荒に見られがちですが、たしかに一人称のパートを読めば、芯のしっかりした女性像がたちあがってきます。

金原 日本人はある程度、みんな同じような画一的な考え方をするものなのだと思っていたけれど、原発事故の対応の仕方を見ていると、その認識は一気にくつがえされた。行動もそうですが、ツイッターなどで発信されるメッセージを見ても、こんな考え方をする人がいるなんてとか、この人はこんなことを言う人だったのかとか、いろいろ驚きと戸惑いがありました。
 震災がその人にとってどういうものであったかという受け止め方は、修人と千鶴でも違うし、姉妹ではあるけど千鶴とエリナでは違う。そうした、人はそれぞれ違うことを考えるものだということを、人間関係のなかで描いていきたかったんです。

―― 『持たざる者』が震災を中心的なテーマに据えているのは間違いないですし、本書を読めば震災直後の日本中を覆ったパニック的状況や、暗かった東京の街、善意と悪意が不分別のままネット上にさまざまな情報があふれたことなどを、まざまざと思い出すことができます。しかし、「震災小説」としてのみとらえると作品を矮小化するだろうという懸念があります。あるいは、金原さんが原発や放射線の問題を主題にしたといえば、過剰にセンセーショナルに受け止められかねない。しかし震災は、作品の入口にすぎないといえば語弊があるかもしれませんが……。

金原 震災直後は、その人が何を大事にしているのかがよく見える瞬間でしたよね。そうした、自分のこれまでの世界が変容したり、価値観が崩れたりした局面に出てくる、人の本質的なものってなんだろうということに興味があった。『持たざる者』のタイトルは、そのあたりの意味が込められています。
 だから四番目に出てくる「朱里」の章は、震災は関係がないですよね。わりと自分は完璧だと信じ切っている感じの女性が、海外赴任をして帰国してみれば、自分たちの家を義理の弟夫婦に乗っ取られているという。自分が描いていた幸せな家庭を一瞬にして喪失したときの人間が、本質に立ち返ってどういうことを考え、どういうふうに生きていくのか、すごくシンプルな人間のあり方を書いたつもりです。

―― いま『持たざる者』というタイトルの話が出ましたが、これは最初から決めていらしたんですか。

金原 最後の最後につけました。書き上げたあとに、どうしよう、どうしようと悩みまくって。最初、このタイトルはどうかなあと思いながらつけたんですが、だんだんしっくりきた感じです。

―― 四人の視点人物は、それぞれがなにかを決定的に失います。修人は仕事や結婚生活を。エリナは地縁や人の縁などのしがらみを。朱里は家という拠りどころになる居場所を。ではこのなかで、誰が一番「持たざる者」なのかと考えながら読んだんですが、みんなきれいに持たざる者ですよね。金原さんにとっては、「持たざる者ズ」というか、複数系のイメージでしょうか?

金原 そうです。持たざる者々。じつはすべての人が、実際には何も手にしていなかったり、手にしていると思っているのは幻想だったりするのではないかという問題提起の意味を込めています。もしあなたが持っていると思っているものがほんとうは幻想なんだとしたら、人は結局、身ひとつ、何も飾るものがない生き物でしかないのではないか、と。
 富や物品は所有していれば気持ちもいいし、思い出にもなります。でもいざとなれば全部置いていかなければならない。

■自分で決定することの難しさ

―― もうすこし中身について伺います。金原さんはデビュー以来一貫して、個と個の戦いをひとつのテーマに小説を書いてきたように思います。身体の改造、摂食障害、離人症の感覚、自他の境界線の崩壊など、アイデンティティの獲得と危機を行ったり来たりしながら他者とかかわりあっていく「私」の、孤独な闘いです。それが『マザーズ』になると、「私」は「家族」を作り、母と子は連帯して世界と戦うことになりました。
 そして『持たざる者』では、ある極限状態におかれた「私」が、世間一般という目にははっきり見えないが強大な敵に、果敢にも挑んでいるように見えるのです。それを象徴するのが、修人の「自分の人生のイニシアチブを取っていけない人間は、会社か結婚相手の奴隷にしかなれない。そういう家畜同然の人間を、僕は人間としてカウントしない」という言葉ではないのかと。つまり、なにを持たないでもいいけれど、自分の人生の決定権だけは手放すなと、登場人物たちは繰り返しますね。

金原 震災が起きるまでは、何も考えていなくても普通に生きていける状況だったと思います。世間の意見に同調したほうが楽なら、それでよかった。しかし震災後に強く感じたのは、いま、自分で自分のことを考えるべき時期が来たということ。たとえば、原発をどうするかという問題については、決定的に状況が変わったはずなのに、気がつけばそのまま何もなかったように元に戻ろうとしています。こういうときに、一から真剣に悩み、考え、小さなことから粛々と実行していく人たちを描きたかった。朱里は自分で思考ができない、決定権を人に委ねてしまう人間ですが、その朱里でさえ実際は必死に生きていたりもする。
 決定するって、簡単に言えるけれどほんとうはとても難しいですよね。自分自身で考えているつもりでも、じつは周囲に感化されているだけだったり、他人の決定に全面的に寄り掛かっているだけだったり。自分は自分のことを決定できるという自信も、じつはどこから来たものかわからない。決定の材料として何を信じるか、何を根拠にするかは、最終的には動物的な勘とかしかないのかもしれなくて、そんな無力感がとくに修人のところには表れています。
 私も実際のところ、岡山で出産したのは夫と父親の意見を聞いたからでした。フランスに行くことは自分自身で考えて決めましたが、これは周囲の支えがなければ実現しようがなかった。決断ってこれほど難しいのかと、痛感しました。

―― 決定権でいえば、福島の帰宅困難地域の住人の問題もあります。そこから出るのを願ったのでも決断したのでもないのに、出ていくことを余儀なくされた人々。決定権を誰かに預けるのは、じつに理不尽な事態でもありますね。
 一方では、政府が発する偏った情報を鵜呑みにして、あるいは世間の空気に流されて、という形で決定権を知らず失っている人々もいる。

金原 私はこれまで、いつの間にか気がついたら小説を書いていたというか、学校をやめ、家も出たりして、最悪の道だけは避けるべく必死にやるうちに、ここにたどり着いていたんです。人生を振り返っても、あそこで岐路があった、自分で道を決断したという記憶はなくて。でも放射能に関しては、専門家の意見も割れている中で、散々悩み尽くして選択をしなければならなかった。だからエリナが、周りからは何も考えてない人間だと批判されながらも、空気なんて読まないで直感的に決断して、結果的にいちばんアクティヴに「生きてる感」を出しているのがうらやましい。エリナには、私もこうなりたいという願望が投影されているかもしれないです。

―― 本書からは、たしかに決断の責任を引き受けようというメッセージが伝わってきます。その責任はたしかに重い。しかしその重さを引き受けなければ、社会システムの隷属状態に置かれるしかないんだという意味ですね。

金原 やっぱり何も考えていない人ほど搾取されてしまう恐ろしさは最近感じます。情報統制や偏向的な報道によって、今のままでも平気なんだという気持ちにさせられる操作がなされていないかには、意識的でいたい。いまほど情報があふれている時代はないといわれていますが、そこに多様性がないというか、わりとみんな同じところからしか見ていないんじゃないかという不安はあります。
 私は住まいを外国に移したことで、日本の状況を外から見ることになりました。ニュースも外国メディアが日本について報道することと、日本のドメスティックな報道では切り口も中身も違う。でもそのぶん、見えにくくなったこともあると思うんです。日本のなかで同調を強いられる感覚とか。そうしたハンデを負いながらも、言いたいことが伝わるように小説に書くにはどうすればいいか、距離感を模索しているところです。
 私には結論があるわけでも、みんなもこうするべきだと意見したいわけでもない。こうやって小説を書くことで間接的にロールモデルを提示しているだけなんです。

―― エリナがそこから飛び出して行ったような、いまの日本の社会を覆う同調の圧というものを、金原さんもお感じになりますか? あるいはフランスに行かれたことで、その国民性の差を感じることがありますか?

金原 自分はぜんぜん空気を読まないタイプの人間で、だから日本ではあちこちで苦労もしていたんですけど、フランスで日々フランス人と接していると、自分はなんて空気を読む人間なんだろうと(笑)。争いごとが嫌いで、波風を立てないようにして、いつも平穏と秩序を求めてしまう、そういう人種なんですかね。改めて、自分の日本人らしさに気づかされます。
 一時帰国した直後は、この表面上の均質性に戸惑うんですけど、すぐにそこになじんでいる自分がいて、そうか、すごいな、習性だなと思って。でも、電車の列を乱す人を舌打ちするとか、バギーを邪魔にするとか、異物の排除の仕方が徹底されすぎていますよね。そういう小さなところからでも切り崩していかないとまずいんじゃないかという気がして、観光客であったり移民の人だったりが入って、ノイズのように静寂が破られることで、社会は立体的になり、多様性が認められていくんじゃないかと思います。
 フランスでは、日本では不謹慎とされるものが割と許容されている印象があります。ちょっと「えっ」と思うような発言もテレビ番組で平気で流れている。日本であればすぐに炎上しそうです。「シャルリー・エブド」事件ですら二日後にはスーパーの店員とお客が「あなたChrlieなの?」と冗談めかして軽口をたたいてたりして。

―― シニカルであるのが身に付いている感じですね。そのゆるさは、急速に相互監視状態が進むいまの日本ではなかなか望めないかもしれません。

金原 フランスのほうが特殊なのか、日本のほうが特殊なのか……。しかしなにか発言したり、うっかり失言したことが、ネットなどですぐ不謹慎だと検閲されて炎上するいまの日本の風潮は、間違いなく「表現」のある部分を委縮させているとは思います。

■人と人を断絶させるもの

―― センセーショナルに受け止められた『蛇にピアス』の芥川賞受賞から、十年が経過しました。この間、表現を受け入れる場の変化は、具体的に感じますか?

金原 いま思えば、十年前はなにも考えずに書いていたなって。私が何も知らなかったのもありますが、もはやあのようには書けない。いまはツイッターとかのツールがあり、いろんな人が無自覚に言葉を発信しています。しかし小説を書く以上は、そうした無自覚の言葉とは一線を画して、さまざまな視線に意識的に書かなければならない。それは私だけじゃなく、多くの作家の方が感じる変化じゃないでしょうか。
 炎上って、学校内のいじめを思い起こさせます。ひとりを標的にし、みんなで一斉に飛びかかってもOKだということにしちゃう。消費しつくすとつぎの標的へ。それを避けるためにあたりさわりのない、安全なテンプレートを作って、報道でもバラエティでもそれを繰り返していく。つねになにかを模しているという感覚がぬぐえないんです。こういう状況を描いた小説は、日本人の間ではすぐ了解されても、翻訳するとなると文脈の説明が難しそうです。フランス人には「なんで?」と言われそう。

―― いまの金原さんから振り返ると、その「なにも考えずに書いた」という『蛇にピアス』はどういう作品ですか。

金原 すごくたくさん読まれたし、たくさん翻訳されたし、自分が外側に開かれるひとつのきっかけとも言えるものになったので、やっぱり特別な作品ですね。例えばいまフランスで「小説を書いている」と言えば、「じゃあ、あなたの小説買える?」と聞かれます。そのとき、Amazonに在庫があれば、と答えられるのはありがたいです。海外からいまだに、読みましたという読者の声が届いたりしてびっくりします。
 作品には必然性というか、その時々にしか書けないものが宿ります。クオリティは別としても、それぞれの作品に意味があったと思いますね。

―― 金原さんは、身体改造から子供のネグレクトまで、世間というものとは折り合いの悪い「私」の衝動をずっと描きながら、人と人はなかなか理解し合えないし、人は孤独なものであるというテーマを持っていらした。私は優れた小説家は二方向に突出すると考えていて、一方は、自分の実感や意見から出発しながら「私小説」の枠組みを振り切ってしまうタイプ、もう一方は作品を完全に実感とかから切り離しコンセプトで構築して、そのコンセプトよりはるかに作品の強度をあげてしまうタイプがいるのではないかと。金原さんを前者の代表と捉えていますが、世間的に問題なしとされる領域がどんどん狭まってきて、すぐに排除の原理が働くいまの風潮は、小説が書きやすいですか。それとも逆ですか。

金原 つねに自分のなかで違和感のあることだったり、怒りが発動されたりすることは抱えていますね。愛するものにせよ、憎むものにせよ、自分の感情がぐいっと動くことに焦点を当てて小説を書いているというのは確かだと思います。心が動かないとなにも書けない。
 『マザーズ』であれば、家庭という小さい単位のなかでもいろんないさかいがあり、相反するものが共存することは難しいということを書きました。今回は、それまで属していた共同体から、えいっと飛び出して新しい世界を切り開くことの困難、移動ですね、そのことをわりと初めて書いた気がします。
 住んでいる場所やいま目に見えているものの影響力って、やっぱりすごく大きいですよね。先進国なんてどこも変わらないなんて言いますけど、そんなことはなくて、それぞれで社会にフィットするには努力が必要です。そうした現実の強烈さをフランスへの移住などから自分自身が体験したことで、とくにエリナと朱里の視点が得られた。これは絶対に書かずにはいられないと思いました。

―― 外国に居場所を持つことの困難という意味で、すごく印象的なシーンがあります。千鶴はフランスで子供が急病に見舞われる。そのときに、おぼつかないフランス語で医師に「私の息子は何パーセントの確率で死ぬんですか」と直截的に聞きます。そして「ソワットサントプーソン」と答えを聞いたときに、
〈現実に生きている気がしないほど、言葉が分からないというのは訳の分からないことだった。でも今、私の息子は六十%の確率で死ぬという医者の口から出た言葉を聞き取った私は、ようやく今の自分の状態を現実として受け入れることが出来た。私は、この言葉を聞き取るために、フランス語を勉強してきたのだろうとすら思った〉
と、実感します。言葉の違いによって断絶されていた世界との関係が、もっとも皮肉なかたちで取り結ばれた瞬間ですね。

金原 でも、あそこで、息子が死ぬという絶望的なものではあるけれど、答えを聞き取れたことがすごい救いになるというのはやっぱりあると思うんです。なにもかもがわからない状態で生きていると、相手の言わんとしていることが一〇〇%理解できることへの強烈な希求がある。一〇〇%の自信で確信を得られたときに、どこか救われて、そこで初めて現実が現実になるんです。輪郭がぼやけている状態こそが最もつらくって、絶望がはっきりと見えたことに救われるという。

―― ここは、この作品のひとつの感動的なシーンであると同時に、金原さんのテーマが顕著に表われるところでもあります。断絶と理解、孤独と連帯……。

金原 私はフランス語が全然しゃべれない状態で行ったので、最初はすごくつらかったです。事前に、在仏経験のある作家の方に相談したら、もちろん勧めてくれたんですが、自分たち作家にとって言葉が通じないことがいかにつらいかということを、メールで返信してくれた。「私はべつに言葉に依存した人間じゃないし大丈夫」と思ってたんですけど、ほんとにぜんっぜんダメでした。自分が三歳の子供と同レベルか、それ以下の言語力であることの絶望感と焦燥感というのが強烈にのしかかってきた。今日食べられるだけ、寝られるだけでも神様に感謝したくなる、生きている実感にすごくさらされる毎日です。翻訳アプリをいくつもダウンロードしましたが無意味でした。
 でも言葉が通じて、同じように空気を読み合っているつもりでも、相手がなにを考えているか決定的にわからないことってありますよね。同じ言葉で表現しながら、全然べつの方向を向いている、ぞっとするような体験です。この言葉を介した関係の、いい面と悪い面を、いまもずっと探っている感じがします。

■奪われた世界で何を書くか

―― 金原さんは、しばらく日本には帰ってこないおつもりですか。

金原 いや、わからないですね。やっぱりエリナみたいに、そのときどきの欲望に忠実に、国境を越えていく生き方ができたらいいなと思っています。でも実際問題、外国で暮らすのはほんとうに大変で。現実は小説よりも奇なり、じゃないですけど、人間の神秘みたいなものに近いような、こちらの常識がまったく通じない体験とかもあるわけです。人間の多様なふり幅を感じさせるような。
 たとえば『持たざる者』で、朱里は、自分たちで建てた二世帯住宅を、海外に赴任している間に兄夫婦に占拠され、勝手に私物を捨てられます。実際にこれと似たような体験をしたときは、あっけにとられすぎて人間ってすごいなあと思ってしまった。 朱里にとって、よりどころにしていた家を奪われるというのは、世界を奪われたのと同じだと思うんです。修人とエリナは、震災の影響を受けて特殊な環境に身を置くことになった人たちですが、朱里はちがう。彼女のような、下世話で通俗性を持った人間も書いておくことで、この作品はバランスがとれた気がしています。

―― 第四章ですね。郊外型のリアルライフの悪夢が、朱里のものすごい呪詛の言葉とともに一気に展開されます。四人目の視点人物である朱里にきて、ジェットコースター感が出てくる。決定権を行使しないと、どういう不幸が待っているかというひとつの例になっていて怖かったです。持っていた者は思わぬ局面で持たざる者に転落し、エリナのようになにも持たずにしがらみなく生きていたら、人との出会いでまた世界が変わることもある。その転換のさまがひじょうにダイナミックでした。

金原 人によって、なにが自分のそれまでの世界を奪っていくかは、わからないものです。そのひとつが原発事故であり、子供の死、人との出会い、家の乗っ取りだったわけです。その普遍的な部分を読み取ってもらえばうれしいです。

―― 最後に、今後の作品についてお聞かせください。

金原 じつは、次の作品はもう書き上がっています。『持たざる者』をすごく時間をかけて書いていたぶん、終わった途端になにか堰が切れたように次の作品がすごい勢いで流れてきて、半年ぐらいですっきり書けました。そのあとのことはまだわかりません。でも今後も、突拍子もないSF小説とかは書かないし、書けないと思います。現実感覚をベースにして、書いている間に自分が体験したり考えたりしたことを一〇〇%詰め込むようにして、ひとつずつ作品を書いていけるようにがんばります。

―― 今日はありがとうございました。


(2015.4.2 神保町にて)
撮影/露木聡子

担当編集コメント
 2年前の2013年3月末。
 冬の寒さを引きずるパリで、金原さんにお会いしました。
 当時6歳と2歳の娘さん二人を連れて移住してから、一年が経とうとしている頃だったでしょうか。
 幼児二人を連れてカフェに現れた金原さんは、リラックスしていながらも、どこか緊張を解けないままでいるように見えました。
 思えば、あの頃は新しい環境の中、混沌と当惑、焦燥を抱えていた最も大変な頃だったのかもしれません。
 こちらもプライベートの子連れ旅行中だったこともあり、落ち着かない4人の子供たちを前に、育児や家事、外国暮らしの困難さに話題は終始し、話し足りない思いを抱えながら小説の具体的なことについては次の機会に、となりました。
 その後、メールでのやり取りなどを経て、何度も書き直し、1年半をかけて出来上がったのが本作『持たざる者』です。
「色々と変化した考え方もあり、価値観もあり、そういう自分自身の感じた諸々も小説内に詰まっている」という脱稿当時の金原さんからのメールにあるように、結婚、出産、育児、異国への移住、そして震災を経て、等身大の現実とそれに伴う葛藤が、繊細でいながら力強い文章で綴られています。
 小説の登場人物は、日本や外国に暮らす30代の日本人男女4人。仕事の方向性や家族の有無、将来が何となく見え始める世代と言えるでしょう。
「震災後、人生や小説の執筆に対するコントロール感覚を喪失した焦燥感と虚無感」を感じた著書自身が一番投影されている、震災後に仕事が手につかなくなるデザイナーの修人。幼い息子を突然死で喪って以来、現実感覚が取り戻せないままの千鶴。放射能汚染を避けてロンドンに暮らしながら空白感を抱えるエリナ。エリナの「ママ友」で、夫より一足先に待望の帰国を果たしたものの、義兄夫婦に自宅を乗っ取られている専業主婦の朱里。

 思いがけない事故や事件、あるいはほんの些細な出来事で、未来予想図が崩れていく……。「持っている」ものは、実は誰も何もない。そして、自分ではどうにもならない現実を生きざるをえない状況に直面させられる四人の姿が、見事に切り取られています。
 この春、金原さんは、1年8ヶ月ぶりに帰国しました。
 久しぶりの東京の喧騒に戸惑いながらも、「一日いてすぐに慣れました」と笑いながら、「外国に暮すことで、日本について相対的に客観的な視点が持てたし、日本について意識的に考えることが増えた」という言葉通り、本作には現代の日本人と日本の空気感も活写されています。
 作家としてデビューしてから、これまでより長い「産みの苦しみ」を味わった後は、詰まっていたものが流れ出すかのように執筆感覚を取り戻し、次作はすでに出来上がっているとのこと。
 本作は、作家としての進化、深化が見て取れる、言わば新しいステージとしての第1作。
「作品を書くことで、自分自身を更新している」金原さんは、次に、どんな新しい姿を見せてくれるのでしょうか。
(担当:K)

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