あらすじ

硝子職人の父はいつの間にか「箕島家」から取り除かれてしまった。工場(こうば)で汗を流して働く以外は縁側から動かず、家族を見なかった父はどこへ行ったのだろう。

笑顔が増えた母、家には寄り付かない姉の鏡子と祐子。ときどき現れる「ミシマ」さんという男性。純子だけが母の視線を受けながらずっと家にいる。大好きなレーズン、日課の身長測定、ビーカーで飲む麦茶、変わらない毎日の中、あるときから純子は父の「コンセキ」を辿り始める。

日本のどこかで営まれる家族の愉快でちょっと歪んだ物語。

わるもん

わるもん須賀ケイ
2019年2月5日
本体1350円+税
152ページ
四六判ハードカバー
ISBN:978-4-08-771177-6

著者略歴

須賀ケイ© 中野義樹

須賀ケイ(すが・けい)
1990年京都生まれ、京都在住。龍谷大学社会学部卒。今作で第42回すばる文学賞受賞。

受賞の言葉

蝶でも活字でもなく、白球を追う少年だった。だから自然と将来は阪神の四番ときめていた。やがて白球はバスケットボールにとって代わった。甲子園で虎党からやじられることも、カリフォルニアのオラクルアリーナでダブネーションから大歓声を浴びることも、自分にはどだいむりな話だということは早々に悟った。

でも物語のなかでは、どちらもかなえることができるらしい。小説については伝言ゲームに似ている、と最近思いはじめている。頭のなかにあるイメージの断片を抽出し、言葉に変換して、ひとつの意味のある文字列にしていかなければならない。「さっさと期限切れのセキュリティソフトを更新しろ」と訴えてくるパソコンに向かって、伝えるべき言葉を必死で探りながら、ああでもないこうでもないと奮闘する。

そうして、その言葉は編集者に伝わり、読者に伝わる。空は青い、と伝えても、赤だったり、白だったり。受けとられ方はさまざまだ。そこが小説のおもしろいところなんだろう。いまはこの伝言がはじめて読者まで届くことがうれしい。

うまく変換できるか悩んでいる私が、それでもいま正しく伝えられる言葉があります。編集部のみなさま、選考委員の先生方、この選考に関わられたすべての方へ。

心から、ありがとうございました。

第42回
すばる文学賞受賞対談
堀江敏幸×須賀ケイ

二度三度読むうちに、チューニングが合ってくる気持ちよさ

第42回すばる文学賞を受賞した須賀ケイさんの『わるもん』は、ある家族の物語です。その家族の一員である純子(じゅんこ)によって、危うい空気をはらんだ家族事情が語られていきますが、読み始めてすぐ読者は、作者の仕掛けたちょっとした迷宮に戸惑うことになります。主人公の純子は何者なのか。さらには家族の状況を巡る時間軸も不確かで……
しかし、次々と頻発する〝わからないこと〟に混乱しながらも、いつのまにか読者は「純子」の世界に引き込まれていきます。同賞選考委員の堀江敏幸さんは、こうした混乱やもどかしさも、この作品を楽しむ魅力の一つだと評します。
須賀さんは、前回の選考でも最終候補に残りましたが、今回の受賞が決定した後に、その事実を知らされた選考委員の方々は、あまりの作風の違いに一様に驚かれたとか。そんなエピソードを皮切りに、須賀さんの受賞作にかけた思いや、小説を書く原動力についてなど、堀江さんとたっぷりお話しいただきました。

聞き手・構成=宮内千和子/撮影=山口真由子

「過剰さ」を落として動き始めた物語

堀江

まずは受賞おめでとうございます。

須賀

ありがとうございます。

堀江

須賀さんが昨年の最終候補者と知らされたとき、ほかの審査員の方もそうですが、僕も本当にびっくりしました。でも、同時に非常にうれしかった。歴代最終候補に残った、可能性のある人たちを育てていくのは、『すばる』という文芸誌の伝統でもあるので、あの人はまた頑張って書けそうだとか、今こんなことをしているらしいといった情報が選考委員の耳にも入ってきます。ですから、もし同じ方が応募してきたのなら、大体こういう傾向であろうというのは読めばわかるはずなんです。ところが今回ばかりはだまされたというか、やられたという感じですね(笑)。

須賀

じつは、前回とは全く違う作品を書いてやろうという目論見はありました(笑)。

堀江

前回は「蝶を追う」という長大で重厚な作品でした。受賞には至らなかったけれど、選考委員の間でも力のある作品として熱心に愛情を込めて語られていて、この作者の別の作品をまた読みたいと僕も選評で伝えたつもりです。その思いに、全く違った形で応えてくださった。選評で書いた言葉が抑圧にならず、メッセージが届いた気がしてとてもうれしかった。もう一度書いてくれた、しかもこれほどまで違う角度から書いてくれたということですね。だまされたということは、それだけ作風に幅がある証しですからね。

須賀

前の作品は規定ぎりぎりの300枚近い枚数で、道具立てもたくさん用意して、あえて「過剰さ」を前面に押し出して書いたんですが、今回は前の選評でご指摘いただいたように、規定の枚数でむりなく語ることができる小説を書くことを心掛けました。それと担当編集者とも相談して、なるべく道具立てを使わずにシンプルな構成で書いてみようと。そこをポイントにしました。

堀江

前作と比べると、その作風の違いがよくわかります。たとえば今作には硝子工房が出てきますが、硝子の製造工程であるとか、アルコール度数を測定するための硝子器具のこととか、前作の作風であるならそういう道具立ての描写や説明がどんどん入ってきそうな場面でも、その誘惑を断っていますよね。

須賀

はい、そこはあえて断ちました。

堀江

全体がシンプルな構造になっていて、余計な飾りが取れている。それは選考委員のみなさんも一読でわかったと思います。でも、作品を書くにあたって、その変換はスムーズにいったんですか?

須賀

いや、最初はなかなか難しかったです。受賞後のエッセイにも書いたのですが、前回最終候補で落選した際、結果的には選考委員の先生方にもすごく温かい言葉をかけていただき、それが励みになってまた次の作品につながったんですが、落ちてすぐのときは、結構くっそーと思っていたんですよ(笑)。

堀江

うんうん(笑)。

須賀

で、作品の構想はあっても、うまく書こうという虚勢ばかりが先行して、全然切り替えができずに空回りしていたんです。そのときたまたま『少年ジャンプ』を読んでいたら、手塚賞の作品募集ページに、『スラムダンク』を描かれた井上雄彦先生の「取り繕うな、チンコ出して踊れ」という言葉を見つけたんです。そうか、それだよと気分がすごいすっきりして、自分の見栄や過剰さを落とすことができたんです。それで無責任に裸で走り回るような気分で書いていったら、主人公の純子という人物ができたというか、一緒に動き出したんです。

堀江

最初は、彼女は存在していなかったわけですね。

須賀

ええ、当初、主人公はごく一般的な僕と同世代の女性でしかなかったし、純子の世界観もなかったと思います。

堀江

『すばる』(2018年11月号)に掲載された受賞記念インタビューで、書いたものをほぼゼロに近いところまで壊して、やり直したと言っていましたね。

須賀

はい。でも、純子というキャラクターができてからは、純子を中心に物語が再編されていったので、そこからはすんなりいったと思います。

二回三回と読むたびに愛着が増していく

堀江

今回の作品『わるもん』に関して言えば、一読たしかにわかりにくいように書いてある。主人公の年齢や家族の事情に、よくわからない部分がたくさんある。でも、二度三度読むと、印象はだいぶ違ってきますね。今回も対談の前にもう一度読んできましたが、読むたびに愛着が深まる。そういう感じの作品になっていると思います。僕の場合はとくに主人公の純子に対する気持ちが近しいものになっていく気がします。

須賀

ありがとうございます。そう言っていただけるとすごくうれしいです。

堀江

読み手としては、最初はタイトルにつけられた「わるもん」って何だろうと思う。読んでいくと、それはお父さんのことらしいとわかる。でも、僕の最終的な感触でいえば、この物語に出てくる人たちの中に悪者は一人もいないような気がします。お父さんにしても、悪者として取り除くような存在ではない。ただ、主人公の純子は、その天真爛漫さゆえに、純真であるがゆえに、ほかの人が見えないところも見えてしまう。それは他人にとって残酷なことかもしれないけれど、純子をよくわかっている人間から見れば、残酷でも何でもない。つまり、この『わるもん』は、むしろ逆説的なタイトルともいえるかなと思うんですが、あらためて作者の解説をお願いします(笑)。

須賀

もう十分に解説していただいたと思います(笑)。この物語では表面的にはお父さんが悪者になっていますが、誰か一人だけがずっと悪役をかぶっているというわけではないんです。その場面場面で登場人物が「いいもん」になったり「わるもん」になったりする。そういう現象的なイメージで書いたつもりです。

堀江

そうですね。純子の周囲には、改造自転車を乗り回し、純子を取り囲んで乱暴な質問をぶつけてくるバッドボーイのような存在も登場する。けれど彼らもちゃんと見るところは見ていて、いじめたり意地悪をしているわけではない。その意味では須賀さんの書くものってほんとうに優しいなという感じがします。

須賀

それはほかの方にも言われました。まだこの部分、優しさが残っているねと言われたので、何かもっと残酷であったほうがいいのかなと思ったり……。

堀江

作品によってはそういうこともあるかもしれないけど、僕はそこが須賀さんの持ち味だと思いますよ。『わるもん』というタイトルも平仮名で、やわらかい感じがしてよかったと思いますね。三度読んで、とくにいいなと感じるのが最後の場面。寂しさのようなものと同時に、あったかい部分もあって、優しい読後感があります。

それと、選考会でも言ったんですが、「わるもん」には、もう一つ別の意味があって、「ガラスを割るもの」と意味をつなげているんじゃないかと思ったんです。物語の中にボトルシップが出てきますが、透明な瓶の中に閉じ込められた帆船、あの船がこの家族の象徴のような気がします。

最終的に、もう必要のない存在だと思っていた父親が、じつは結構大事な家族の柱の一本だったということが何となくわかる。それは船でいうと、竜骨にあたる部分かもしれない。そうした家族の船を純子はボトルの外から見ている。船が箱にしまわれていたらだめで、見えることが大事なんです。

須賀

それは本当におっしゃるとおりなんです。瓶の中に入っている帆船は家族そのものを表したつもりです。ガラスの中にあって、外に向かって閉じている。純子はそのガラスを割って、中の船を取り出して触ってみたいとずっと思っているんです。

堀江

だから、割らなきゃいけないときに割るんですね。

須賀

でもいざ取り出して、船を池に浮かべてみると、横転してうまく浮かばないし、進まない……。

堀江

そういう家族の情景の一つ一つが非常に鮮やかなイメージで描かれているので、そのときはわからなくても、あとでつながってくる。だから二回読みたくなるんですよ。ラジオのチューニングのように、合わないときもあるけど、合う瞬間が気持ちいい。二回三回と読むうちに、だんだん聞こえている部分が長くなってくるんです。だから声がはっきりと聞こえてくるまで辛抱強く読んでほしい。これはいつ本になるんですか?

──2月5日発売の予定です。

堀江

じゃ、帯には「二度読んでね」と書いてほしい(笑)。

須賀

ありがたいですね。読者の方にもしそう思っていただけたら。

小説を書く作業は伝言ゲームに似ている

──須賀さんは受賞のことば(『すばる』2018年11月号)で、小説を書く作業は伝言ゲームに似ている、という言い方をしていますね。

須賀

はい。小説の文章を書くとき、僕の中にあるイメージの断片を言葉にしていくわけですが、アウトプットするとき、実際に書いてみると思い描いていたイメージと微妙に違いますよね。またほかの人に読んでもらったときも、作者の思いと読者との間には少し乖離がある。それが伝言ゲームみたいだなと思ったんです。

堀江

要は、順番があるというか、この作品は途中から読むことはできない、書き出しのところから動きがあって最後まで行くということですね。須賀さんがその書き出しを選択したということで、伝言はなされていくわけです。でも、全部を伝えるのが伝言ゲームではないですよね。何か伝えきれなかった部分がある、そこは酌みとってねというのが伝言ゲームなんです。須賀さんの作品では、それがよくできている。

須賀

ありがとうございます。でも読者にとっては、ほんとに伝言ゲームをしているようなもどかしさはあると思います。この作者はいったいなんて言ってるんだろうと。

堀江

でもそのもどかしさを過ぎると、とても心地よくなる。小説によっては、もどかしいまま、わからないままで遠ざけてしまうものもあるでしょうね。けれど、そのわからなさをここまで話題にあげて、ここはどうなの、これはこうじゃないのと話をしたくなるのは、やっぱりいい作品だからだと思います。

ジャンルに縛られず好きに書けばいい

──須賀さんは受賞記念インタビューで、創作の原動力は、ノンフィクションへの嫉妬だとおっしゃっています。それは現実のほうが小説を超えているという意味ですか?

須賀

ええ、それはあくまで僕一個人の意見なんですが、常々そう思っています。衝撃的な現実を切り取ったノンフィクションを読むと、小説の表現をどれほど過剰にしても負けたと思ってしまう。だから、小説に何ができるのかと、その可能性をいつも考えながら書いています。これは堀江さんにぜひ聞いてみたかったのですが、随筆と小説の境界をどんなふうに区別しているんですか。

堀江

僕は、そういう区別が全然ないんです。書き方の違いもない。先ほど、伝言ゲームのところで、最初の書き出しから読まないとわからないと言ったのは、書くときも同じなんです。最初から書き始めて、最後まで行く。だから書き上げてみないとそれがどういう形を取るかわからない。この絵について250字で書いてくださいという極端に絞られた依頼以外、尺のあるものでは何の区別もないですね。

須賀

ああ、そうなんですか。何の区別もなく書かれる。書き上げてみたら小説になっているかもしれないし、随筆かもしれないし……。

堀江

評論になるかもしれない。

須賀

その境界線は初めからないんですね。

堀江

僕は、ノンフィクションというジャンルはないと思っているんです。書き手がいて事実をまとめる以上、それは全部フィクションだという立場です。ノンフィクションを読んでいると、それが優れていればいるほど僕にはその人の声しか聞こえなくなる。どんなに事実に即して綿密な取材をしても、その人の作品になってしまう。その人の視点でしか見てないわけですから、総体的な感触は小説とさして変わりません。

須賀

なるほど、そういうことになりますね。

堀江

別の言い方をすれば、『わるもん』も、主人公純子のノンフィクションだという言い方もできるでしょう。彼女にとっての真実が書かれているわけだから。

須賀

もちろんこの小説は純子の視点で書いたので、確かにそうなるかもしれません。今まで僕は分けて考えていたので、今日はすごく勉強になります。

堀江

これは30年近く言っていることなんですが、誰にも通じないです(笑)。だから、独り言として聞いておいてください。実際はジャンルごとに媒体が違いますし、須賀さんはそれに応じて書き分ける力も持っているので、今の考え方で問題ないと思います。僕はどこにも所属できないので、そう言っているだけですから。

須賀

僕自身は、ジャンルに関係なく面白いと思ったら何でも読んじゃうんですが、中でも詩人の平出隆さんがとても好きなんです。今の堀江さんのお話で、平出さんがご自身の創作についておっしゃっていたことを思い出しました。あえて現代詩という集落から遠ざかり、遠く歩いて行った先でどう表現できるか考えると。ジャンルからはぐれるという言い方をされていました。

堀江

平出さんのおっしゃっていることはとてもよくわかります。でもジャンルからはぐれるということはジャンルがあると思っているわけでしょう。僕はあくまでノージャンル。

須賀

作品の中で言葉の具体性と抽象性というものも意識されませんか。たとえば、川と書くのと鴨川と書くのでは全く違いますよね。

堀江

ええ、違いますね。文字一つ増えると書き方が違ってしまう。主語、述語の位置も変わる、点の位置が変わる、行数が変わる。それだけ大きな違いが出てきます。

須賀

これまで僕は小説って、作者がついた嘘であるという認識でした。抽象的な言葉ばかり使っていくと、この嘘が破綻するんじゃないかとだんだん不安になってくるんです。すると、現実の要素を入れたくなる衝動に駆られる。その固有名詞自体は強いし、本物です。それで一瞬嘘がばれないような錯覚を抱くんですが、堀江さんの小説を読むと、そうじゃないと思い直す。むしろその固有名詞は小説が本来持っている「自由」の幅を狭めていると思ったり。なんか今、すごく揺れているんです。

堀江

どっちがいいという話ではないと思いますよ。書きたいものを書けばいいんですよ。それで出てきたものがどっちに入るか決めればいい。作品は陶芸と同じで、出来上がってみたら傷があったとか、ちょっと釉薬が弱かったとか、そういうことは書いたあとでしかわからない。だからジャンルのことなど考えないで書けばいいと思います。

須賀

はい。今日は作品についてすべて補足していただいて、本当にありがとうございます。僕は本文とは別に小説のプロットをつくります。もちろん僕しか見ないものですが、堀江さんにはそれを全部見透かされたようで、あらためて驚いています。みなさんがここまで読んでくれるといいなと思います。ノージャンルでものを書くというお話は、今日一番驚きました。

堀江

決めて書く必要はないですよ。そのときの体調や、興味のあり方、今どんな人を好きになっているか、いろいろなことで言葉の質量が変わってきますから、それに合わせて書けばいいと思います。ジャンルがどうあれ、こうして作品について何人かで話しても尽きない、楽しいというのが一番いいんじゃないかな。そういう作品をまた書いてください。

須賀

はい。まだ何ものでもない僕の作品を僕以上に読み込んで、すくい取ってくださったことに、すごく感激しています。

(「青春と読書」2019年2月号より)

堀江敏幸(ほりえ・としゆき)
作家、早稲田大学文学学術院教授。1964年岐阜県生まれ。著書に『おぱらばん』(三島由紀夫賞)『熊の敷石』(芥川賞)『雪沼とその周辺』(木山捷平文学賞・谷崎潤一郎賞、収録作「スタンス・ドット」で川端康成文学賞)『河岸忘日抄』(読売文学賞)『なずな』(伊藤整文学賞)『その姿の消し方』(野間文芸賞)等多数。2013年、中日文化賞受賞。

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