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作品紹介 著者紹介 渡辺 優さん×村山由佳さん対談 試し読み
作品紹介
購入はコチラ 電子版はコチラ 著者紹介渡辺 優(わたなべ ゆう) 1987年宮城県生まれ。大学卒業後、仕事のかたわら小説を執筆。本作「ラメルノエリキサ」で第28回小説すばる新人賞を受賞。
渡辺 優さん×村山由佳さん対談
わたなべ・ゆう 1987年宮城県生まれ。「ラメルノエリキサ」で第28回小説すばる新人賞を受賞。
「褒めていただいて、主人公を
好きになってきました」
村山
読んでいる間中興奮して、先が知りたくてたまらなくて、読み終えた瞬間に、今年は私はこれを推す、と決めていました。その作品が受賞作になって、ものすごく嬉しいです。

渡辺
そんなふうに言っていただけるなんて……。本当にありがとうございます。

村山
読みながら、著者も主人公のように強烈な方なのかなと想像していたんです。選考会では阿刀田高さんが、「この作品に投票しないと、僕たち、復讐されてしまうかもしれないね」とジョークを仰って、みんな大爆笑しました。そのくらい、りなちゃんに引きずり込まれて読んだんですね。でも今日、お会いしたら、とても謙虚で大人しい感じの方。そんな渡辺さんの中から、どのように、〝復讐の申し子〟であるりなちゃんは生まれてきたのでしょう。


渡辺
すみません、受賞後、インタビューなどをしていただく機会がたくさんあるんですが、一度も上手く答えられていないんです。今日も答えられるかどうか……。まず、面白いエンタテインメントを書きたいという気持ちがありました。それで、より多くの人が読んで面白いお話ってなんだろう、生意気な言い方かもしれませんが、商業的にはどんな主人公がいいだろうと考えていって、女子高生を中心にした物語を思いついたんです。

村山
渡辺さん、二十八歳ですよね。デビューの年齢が私と一緒なんです。受賞で世界が急に変わってしまって、どれほど緊張するかよくわかります(笑)。渡辺さんはりなちゃんが好きですか?

渡辺
こうして褒めていただいて、好きになってきました。書いているときは、好きでも嫌いでもないというか、何の感情も抱いていなかったんですけど。

村山
そうなの! 渡辺さん、自覚はないかもしれないけど、相当ユニークな方だと思いますよ。だって、どれだけの作家が、物語の主人公と距離をとろうと苦労していることか。

渡辺
良いことなのでしょうか……?

村山
すごく良いことだと思います。

渡辺
この作品は私の三作目の小説なのですが、最初の二作は、男性を主人公にしました。自分と近いと、恥ずかしくて書けないんです。自分と全然違うと、妄想だけで書けるんですけど。

村山
お話を作るのは好きですか?

渡辺
そうですね、お話を作る、というほどたいそうなものではないかもしれませんが、空想するのは小さい頃から好きでした。

村山
物語を自分と離れたところに構築するのは、実はそんなに簡単なことではないと思うんです。新人賞に応募してくる方の多くは、自分に近い境遇や性格の人物を主人公に据える。やはり書きやすいからですね。でも渡辺さんは、最初の段階でラクをしなかった。それでいて、主人公から脇役に至るまで、肉付きのある人間が立っていて、読者は彼女たちの心の動きに自分の心を添わせることができる。商業的に、という観点を持っているのも、頼もしいと思いました。売れるということは、おもねることではなくて、たくさんの人に届くということですからね。多くの人に面白いと思ってもらいたいと物語に工夫を凝らしていくのは、これだけ大変なご時世に小説家としてやっていく上で、とても大切なことだと思います。
将来的には、先ほど「恥ずかしい」と仰った羞恥心みたいなものをかなぐり捨てて、自分に近い主人公を書くことが必要になるときが来るのかもしれない。それは、次の段階の冒険かもしれませんね。

「りなちゃんの強さが欲しい」
村山
選考委員の宮部みゆきさんも、りなちゃんに惚れ込んでいらして、選考会では「この作品と心中します」とまで仰ったんです。

渡辺
そんなに……。畏れ多くてどうしていいかわかりません……。

村山
そのくらい魅力的なヒロインを、渡辺さんは生み出したんですよ。りなちゃんは、自分を真っ直ぐに肯定しようとする、そこがいいですよね。たとえお母さんが愛してくれなくても、お姉ちゃんに嫌われちゃったかもと思っても、私は私が好きだから自分を大事にするんだと、一生懸命に肯定していこうとする。そういうなかで、人は「愛」だとか「癒し」だとかに安易に寄り添いがちなんだけど、この主人公は、〈人が生きてゆく上で拠り所になる、「愛」ではない「何か」を探し求め〉ていると宮部さんは仰っていて、私もなるほどなと思いました。

渡辺
そうやって読んでいただいて、本当に嬉しいです。自己チューで野蛮な女の子、というイメージで書いたのですが、どこかにいい面がないと嫌われるなと考えました。芯はいい子、強い子であってほしいなと。

むらやま・ゆか 作家。1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒業。1993年『天使の卵 エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞受賞。著書に『星々の舟』(直木賞)『ダブル・ファンタジー』(柴田錬三郎賞、中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞)『天翔る』『天使の柩』『ありふれた愛じゃない』等多数。


村山
りなちゃん、元カレに八つ当たりした次の日に、反省して謝りますよね。男前だなあと。自分を嫌いになりそうなときだってあるのに、言葉にして言い聞かせるようにして、自分を肯定していく。その強さを、私も欲しいと思いました。
世の中には、否定がカッコいいと思っている人もいるし、他人を否定することで、自分を偉く見せようとする人っているんです。けれど、否定よりも肯定のほうが難しいと私は思う。渡辺さんも、この作品が世に出ると、肯定ばかりではなく否定的な言葉を聞かなくちゃいけないときだってあるでしょう。いまはネット社会だから特に。だから、否定より肯定のほうが力が要ると覚えておくと、気持ちが軽くなると思います。

「主体的でありながら客観的である」
村山
この作品は色んな読み方ができますよね。少女たちの微妙な人間関係を描いた女子高生小説であり、恋愛を描いた青春小説であり、タイトルになっている「ラメルノエリキサ」という、呪文のような言葉の謎を解いていくミステリでもある。わけのわからないタイトルはインパクトが強いときと弱いときと両方ありますが、これは色んな意味で強い。これしかない、というタイトルですね。

渡辺
何だろう、と思わせる言葉を探していて、見つけたという感じです。私は言葉の持つ威力に憧れていて、ハッとさせられる言葉に出会う瞬間がとても好きなんです。

村山
もう一つ、この作品は母娘小説でもあると思うんです。りなちゃんには「完璧なお母さん」と「完璧なお姉ちゃん」がいて、お母さん好き、お母さん嫌い、お姉ちゃん好き、お姉ちゃん嫌い――と、悩んでいる。こうした発想は、どこから出てきたのでしょう。渡辺さんの内側、それとも外側ですか?

渡辺
おそらく半々くらいだと思います。実はこの作品を新人賞に応募したときは、母と娘の確執はそれほど書き込んでいなかったんです。最終選考に残ったと連絡をいただいた際に、編集の方から、母親と主人公の関係性を掘り下げたほうがいいとアドバイスをいただいて、そこから考え直しました。

村山
へえ。後から修正を加えたようには感じないくらい自然ですね。

渡辺
最初は、完璧なお母さんがいて、主人公はそのお母さんをむやみに大好き、というだけの話だったんですけど、指摘をいただいて読み返したら、そんなわけないなと、自分でも気づいたんです。母に対する憧れや尊敬は私の中にもあるんですけど、それだけではなく、絶対に許せない部分や相容れない面もあるので、そういった負の側面も少し盛り込んでみました。

村山
私自身も『放蕩記』を書くなど、母娘の葛藤には自覚的なんだけれど、いまだに未消化でぐるぐるしているところがある。この作品はその辺りを、こんなに軽々と超えていくなんてずるい! とこぼしたくなるくらい(笑)、痛快に描いているんですよね。自己憐憫とは無縁に。
いまのお話からも、渡辺さんが物語を物語ることに対して意識的であることがよくわかりました。小説家には、お話がすらすら自分の中から出てくるタイプもいれば、綿密に計算したり意図しないと書けないタイプもいると思うんです。この作品はちょうどその中間辺りで紡がれたんじゃないかな。空想が好きと仰っていたように、渡辺さんの中から物語は出てくるんだけれど、いったん出てくると、それをまるで自分の外側のものとして見る目を持っている。主体的でありながら客観的である。デビュー作でなかなかできることではないと思います。

「読み返すと、パニック状態になるんです」
村山
そもそも小説を書こうと思ったきっかけは何だったのですか?

渡辺
数年前に翻訳家を目指して学校に通っていたんですが、全く芽が出なかったんです。肝心の英語が苦手で……。

村山
え! 渡辺さん、ほんと面白いなあ。りなちゃんとは全く違うけど、本当にいいキャラクターですね。

渡辺
年に二回、進級試験があるんですが、情けないことに、二回連続で落ちてしまって、もう、翻訳は無理だなと。そこから、本当にやりたいことは何かを考えました。

村山
言ってみれば挫折がきっかけ?

渡辺
そうですね。私はずっと本を読むのが好きで、読んでいられれば幸せだったんです。本屋に行って、目に留まったものを買って帰るときが一番幸せ。いまもそうです。一方で妄想の一環として、自分でも書いてみたら楽しいだろうなというのは小さい頃から考えていました。それで翻訳に挫折して、初めて小説を書いたのが三年くらい前です。別の賞に応募したのですが、そのときは最初に書いた小説だったこともあり、自分でも調子に乗っていたというか、これはいけるんじゃないかくらいの気持ちでした。が、結果は全くダメ。それで目が覚めて、これはもう、地道にやるしかないなと。

村山
スイッチの切り替えができたんですね。やはり客観的な目を持っていらっしゃる。そういう人じゃないと、作品を良くしていけませんからね。でも、作品は誰にも読んでもらっていないんですってね。不安になりませんでしたか?

渡辺
とても不安だったのですが、それ以上に、読まれるのが恥ずかしくて。私のことを全く知らない人には読んでほしいんですけど……。いま、自分自身で読み返しても、恥ずかしくて、もう、わーっとパニック状態になるんです(笑)。
村山さんのように長く作家をされている方がデビュー作を読み返すと、どう感じられるのでしょうか。

村山
わーってなりますよ(笑)。いまならもう少し上手く書けるのに、というところがたくさんありますから。でも矛盾するようだけど、二度と書けないだろうなとも思います。私が小説すばる新人賞をいただいた『天使の卵』より、上手い作品は書けたとしても、あの作品が持つ勢いや純粋さ、あるいは熱を、再現するのは不可能でしょう。それは良いことでも悪いことでもあるけれど、作家を続けていく限りは、良い面を見るしかないですよね。だから渡辺さんにとっても、デビュー作として世に出るこの『ラメルノエリキサ』は、色んな意味で超えていかなくてはならない作品になっていくのでしょうけれど、たぶん二度と書けない、そういう意味でも大切な大切な作品になるのではないかと思います。
これから渡辺さんがどんなふうに変貌していくのか楽しみですし、ずっと読者を翻弄し続けてほしいとも思いますけど、自分の作品を読んで恥ずかしいと感じる視点は客観性の表れですから、持ち続けてほしいですね。

渡辺
とてもホッとしました。ありがとうございます。

「初めて、サイン会でぼろ泣きしました」
村山
『天使の卵』は私にとって、重石のような作品だったんです。サイン会に来てくれる方の多くが、『天使の卵』が一番好きと仰るから。もちろん嬉しいんですけど、その後の仕事は何なのよっていう複雑な気持ちにもなるわけです。
でもね、東日本大震災の後、渡辺さんの出身でもある仙台でサイン会をさせていただいたときに、若い大学生くらいの男の子が、ぶよぶよにふやけて泥だらけになった『天使の卵』の文庫本を持ってきてくれたんです。なぜかわからないけど、咄嗟にこの本を掴んで逃げていたんだと。それを聞いて、私は初めて、サイン会でぼろ泣きしました。

渡辺
震災後、停電した部屋の中で、小説ばかり読んでいたのを思い出しました。テレビが映るようになっても怖い映像ばかりでとても見られなくて。現実逃避なのですが、小説を読んでいる時間だけ、生きた心地がしました。



村山
そうでしたか……。物語には一時的であっても、重い現実から心を逃がしてくれる力がありますよね。あのとき、作家は皆、言葉に何ができるだろうって無力感に打ちひしがれていたんです。だけど物語は、作り手の意図を超えて独り歩きして、誰かの支えになる可能性を孕んでいるんですね。やはり言葉を信じていくしかないんだな、私にはこの仕事しかないんだなと、あのサイン会で改めて気づかせてもらいました。渡辺さんが、震災のときに物語に救われた経験は、今後、書き手としての渡辺さんの背骨になっていくかもしれませんね。

渡辺
受賞の連絡をいただいたときは、驚くとともに満足してしまって、次の作品のことは頭になかったんです。というより、応募しておきながらなんですが、身の丈にあわない賞をいただいて、ヤバい、どうしようと、混乱が先立ってしまって。でもこうして村山さんにお話を伺って、色んなものを書きたいという気持ちが強くなってきました。少しでも良いものを、多くの方に読んでいただけるものを、書き続けていきたいです。今日はありがとうございました。

試し読み

 復讐など無益だと、人は言う。
 人と言っても別に私が直接具体的な誰かにそんなことを言われた訳じゃなくて、たとえば本や映画の中では、そんな風に書いてあった。
 誰かとてもとても大切な人を殺された復讐をもくろむ人には、そんなことをしても亡くなった人は喜ばないとか。誰かとてもとても大切な人に裏切られた復讐をもくろむ人には、君が幸せになることが一番の復讐になるのさとか。
 私は小さいころからそういった反復讐論的なお話にはなかなかピンとこなくって、そんな的外れな説得でおよよと泣き崩れてしまうような復讐者にはもやっとした反感を抱いていた。
 私にとって、復讐とはどこまでも自分だけの為に行うものだ。自分がすっきりする為のもの。すっきりするっていうのは、人が生きていく上でとても大切で重要な事だと私は思う。たまった澱を洗い流し、擦り付けられた泥を落とし、歪められた軸を真っ直ぐに伸ばす。すっきりしないままでいたら、人はどんどん重く汚くぐにゃぐにゃになって、私はそうはなりたくない。
 私は自分が好きだから、大切な自分のためにいつでもすっきりしていたい。復讐とは誰かの為じゃない。大切な自分のすっきりの為のもの。
 私はずっと幼いころから復讐というものに対しぼんやりとそんなイメージを持っていて、だから、私が六歳のときに七歳の女の子の腕を折ったのも、別にミーナの為じゃなかった。

 ミーナは四歳のオスだった。オスなのにミーナ。そこは猫だからしょうがない。
 私と、二つ年上のお姉ちゃんと、完璧なママと普通のパパに可愛がられて、ミーナは甘えん坊で人なつこい完璧な愛玩動物に育った。庭の隅っこでピーピー鳴いてたとこを拾ったときは、灰色の猫だと思ったんだけどねえ、今はこんなに真っ白ねえ、と、完璧なママが完璧な猫を膝に乗せて撫でる光景は、それはもう完璧だった。
 そんな完璧なママのピアノ教室に通ってきていたのが、あのクソガキだ。
 ミーナの足を折るのは簡単だったに違いない。ミーナはおまえは犬かよと思うくらいに誰にでもすり寄っていってはなでなでを要求する猫だったから。目撃したお姉ちゃんの話によると、そのクソガキはピアノの椅子に座ってミーナを膝に乗せ、ミーナの右前足を鍵盤の上に置いた状態で、わざとピアノの蓋を閉めたらしい。大声で泣きわめくお姉ちゃんの声を聞いた完璧なママがピアノ部屋に駆けつけると、ミーナの真っ白な身体は足からの出血で所々赤く染まっていた。骨折で、全治一ヶ月。かわいそうなミーナは怪我が治ってからも、家族以外の人間には近づかない恐がりな猫になってしまった。
 そのクソガキがどうしてミーナにそんなことをしたのかはわからない。七歳の女の子が大人しい猫の足を折るなんて、よく考えれば異常かも。子供特有の残酷さがたまたまミーナに向いたのか、それとも何か、心の闇的なものを抱えていたのか。
 完璧なママは可愛いミーナの足を折られたにもかかわらず、完璧な慈悲深さでそのクソガキを許し、その心を案じた。警察に突き出せ、なんなら殺せ、という私の意見はすっかり無視して、クソガキを穏やかに諭し、クソガキのクソ親にはミーナの治療費の請求をする代わりに医師へのカウンセリングなんか勧めたりして、挙げ句の果てに、「もしあなたがイヤじゃなかったら、これからもピアノを習いにきてもいいのよ」なんて、クソガキに対して徹底した寛容さで対応した。
 完璧なママ。私はママが大好きだった。ママは誰よりも美しく、そして誰よりも優しい。確かに、七歳の女の子の罪はそうやって許されるべきなのかもしれない。断罪よりもケアを優先させるのが、正しい大人の対応なのかも。
 もちろん完璧なママは、ミーナの怪我に悲しむ私とお姉ちゃんのケアだって怠らなかった。私たちを優しく慰め、世の中の不幸と不条理を説き、それでも人を許すことの尊さを教えた。
 ママの言うことは正しいと思った。子供心に、ママはなんて立派な大人なのかしら、と感心もした。けれど私は、当時六歳の女の子。年上のクソガキがどんなメンタル的トラブルを抱えていようが、同情も哀れみも感じなかった。
 ママは完璧で正しいけれど、それってちょっと、私の感覚とは違うみたい。
 ミーナは我が家の猫。つまり、私の猫でもある。私の猫が害された。これは私が害されたのと同じ事だ。今、私は害された状態にある。ミーナが傷を治すのと同じように、私もそれを治さなければいけない。だいたいそんな考えで、私の復讐スイッチが入った。
 ママに許されたクソガキがのうのうとピアノ教室に再び通いだしたのは、私にとってチャンスだった。私はそのクソガキを殺そうと考えた。
 それに真っ先に気がついたのが、お姉ちゃんだ。おっとりとした性格のお姉ちゃんは、それでいて人の機微には敏感なところがあった。お姉ちゃんは私の復讐計画を大人たちには黙っていてくれた。告げ口も私の復讐対象になると知っていたからだ。私は身内であろうと容赦しなかった。歳も近くとても仲良しだったお姉ちゃんは、その立場上私に復讐される事も多かった。私は、プリンを横取りされた復讐にケーキに虫を混入し、人形の髪を切られた復讐に人形の四肢を切断し、足を蹴られた復讐に顔面にパンチをお見舞いし、お姉ちゃんの乳歯を折ったこともあった。
 その頃には、お姉ちゃんは私の復讐傾向を理解して、私を怒らせることは慎重に避けていた。だから、お姉ちゃんは私を無理に止めたりせず、代わりにひとつアドバイスをくれた。
「りなちゃん、あのね、ハンムラビ法典って知ってる?」
 知らない、なあにそれ、と首を傾げる私に、お姉ちゃんは続けた。
「あのね、すごく昔の法律に、そういうのがあるの。その中にね、目には目を、歯には歯をっていう、有名な文章があるんだけどね。それはね、やられたらやりかえせっていう、野蛮な意味に誤解されがちなんだけど、本当はそんな意味じゃなくってね、やられたらやりかえすにしても、限度をわきまえましょうっていう意味なの。目をやられた仕返しに頭ごともっていったりね、歯を折られた仕返しに首の骨を折ったりしちゃダメだよってこと。私、りなちゃんは、ちょっとやりすぎなところがあると思うな」
 お姉ちゃんは完璧なママに似た穏やかな口調で、諭すように言った。
「あのね、しおりちゃんはミーナの足を折ったけど、ミーナを殺したわけじゃないでしょう。だからね、その仕返しにしおりちゃんを殺すのは、やりすぎじゃあないかな。お姉ちゃんは、腕を折るくらいにしておいたほうがいいと思うの」
 賢いお姉ちゃん。当時八歳のくせに、ハンムラビ法典なんてどこで知ったのかしら。私はお姉ちゃんを年長者として敬う気持ちもそれなりに持っていた。だからこのときも、お姉ちゃんの話を聞いて、素直に、なるほど、そういう考え方もあるのね、と思った。けれど、納得いかないところがひとつ。
「やりすぎちゃダメっていうのはわかったよ。でも、しおちゃんはなにも悪くないミーナの足を折ったんだよ。それに、私、ミーナが足を折られて悲しいの。みんな悲しいでしょ。私たちだってなんにも悪くないのに、悲しい気持ちにさせられたんだよ。ミーナが悪くない分と、みんなが悲しい分と全部あわせたら、しおちゃんの腕一本じゃ足りないわ」
「うーん、じゃあ、両腕を折るくらいにしたら? とにかく、殺しちゃダメだよ」
「うん!」
 話のわかるお姉ちゃん。大好き。
 まあ実際は、私の立てていた復讐計画とは、クソガキしおちゃんをピアノ部屋のある二階の階段からつき落とすというシンプルなもので、腕の一本二本なんて精密な損害を計算できるものではなかった。結果としてしおちゃんは左腕を骨折し、額を切ってなかなかの流血を見せたので、私の溜飲は下がり、私は不当に与えられた歪みから解放された。すっきり。
 そうやってすっきりしたことははっきり覚えているのだけれど、その後どうなったのかは記憶が曖昧だ。私は特に何のおしかりも受けなかったと思う。事件は事故として処理された。よくある子供の転落事故。私は後ろからしおちゃんを押したから、しおちゃん自身もそれが私の犯行だったとは気がつかなかったのかもしれない。
 しかし実を言うと、私はそのしおちゃんの背中を押した瞬間の記憶すら、曖昧なのだ。今思い返すことのできる、小さな背中を小さな手が押すそのビジョンは、私がなんとなくこうだったんじゃないかしらと描く想像によってほとんどが補われたもので、実際のところ、私はどんなふうに彼女をつき落としたのか、忘れてしまった。六歳の頃の記憶なんて、そんなものだろう。私ももう十六歳。十年も前の話なのだから。私が覚えているのは、復讐をやり遂げたときの、快感、達成感、安心感。私にとって、復讐とは結果が全てなのだ。物心つく前からの小さな復讐、そしてこの人生初の比較的大きな復讐を皮切りに、私は今日まで大小さまざまな復讐を行ってきた。そのひとつひとつの復讐を、全てはっきり覚えているわけではない。大切なのは、結果。私が、大切な自分が害された出来事を全てきっちり清算してきたという結果。
 お姉ちゃんは私に、復讐の申し子というあだ名を付けた。私はそれを気に入っている。私は不当に歪められることなく、とてもすっきり生きている。
 そんな私は先日、夜道で背中を刺された。

――続きは、渡辺優『ラメルノエリキサ』でお楽しみください。

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