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レンザブロー インタビュー

作家 高橋弘希さん

背負うのは、ゼロ年代

「指の骨」で第46回新潮新人賞を受賞し、デビュー。
「指の骨」、続く「朝顔の日」「短冊流し」が連続して芥川賞の候補となるなど、高い文学性を持つ作品に注目が集まる作家だ。最新作『日曜日の人々(サンデー・ピープル)』では野間文芸新人賞を受賞。筆力はそのままに、扱うテーマ、舞台が前三作とは大きく異なる、新たな試みに満ちた作品だ。

日曜日の人々 高橋弘希

『日曜日の人々』
講談社/1,400円(本体)+税

 

高橋弘希さん

【プロフィール】
高橋弘希(たかはし・ひろき)

1979年、青森県生まれ。2014年「指の骨」で第46回新潮新人賞を受賞し、デビュー。著書に、『指の骨』『朝顔の日』『スイミングスクール』など。

ガールフレンドのような存在だった従妹の奈々を突然失った主人公、航。彼女が自死にいたった経緯を知るために、奈々が生前出入りしていた自助グループREM(レム)へと足を運ぶ。REMの人々に受け入れられ会合に参加していくうちに、自傷を繰り返すメンバーとの絆も生まれ始めた。自分の思いを打ち明ける“朝の会”、“朝の電話”、そしてメンバーの告白を集めた文集“日曜日の人々”(サンデー・ピープル)、何かを必死で伝えることで、自死から逃れようとするメンバーの姿を目の当たりにして……

ゼロ年代を象徴する、現象としての「自傷」とその衝撃

―『日曜日の人々』に登場する「人々」はその多くが、いろいろな方法で「自傷する若者」である。彼らは一つの現象として、ゼロ年代前後にテレビをはじめとしたメディアにこぞって取り上げられた話題であった。

高橋 当時、大学生ぐらいでした。自傷を扱った番組を見て、「こんなことが起こっているのか」と認識しました。あの頃、自分を含めた世間が初めて「自傷」という行為に対峙した瞬間だったかもしれません。同じ年代の人が行っているという事実に対する衝撃というか共感というか、そんな感情を持ちましたね。

―そして世間の熱狂が一段落し、おおよそ13年の時を経て、『日曜日の人々』という作品が生まれた。

高橋 当時の感情をずっとどこかで持ってたんしょうね。デビュー前ですけど、“日曜日の人々”(作中に登場する冊子)に収録されている作文のようなものを書いていた時期があったんです。書かれた年代もバラバラ、作文同士をつなぐストーリーもなくただ長い間眠っていました。それらが『日曜日の人々』の原型で、たくさんあった作文をまとめて一冊の本にできないかと思ったのが始まりですね。航や奈々、ひなのといった人物も、今のようなくっきりした形ではないですが、作文の中の名もなき登場人物として存在していました。

読者を導かない主人公

―主人公に焦点が合わない。本心がみえないまま、REMに充満する希死念慮に流されていく危うさがある。その危うさを特別視することなく、作者は「航は、いたって普通ではないか」と首をかしげる。言われてみればその通りである事実を、パンフォーカスのカメラで映し出されるような何もかもが平等で緻密な世界へ巧みに紛れ込ませる。

高橋 航は21歳のリアリティを持った存在だと思っています。
21歳だと、ある程度物事を客観的にみられる部分もあるし、ぎょっとするくらい子どもみたいな一面もある。加えて、主人公の危うさは、前提としている「ヒロインを失った男の子」だからでもあります。そのとき負った傷は相当大きいはず。作品を通して情緒が安定しないのも当然かな、と。

背後に90年代「グランジ」の手触り

―作品に登場する「人々」は、一人、また一人とひっそり降壇していく。直接語られはしないが、自身の嗜好に抗えぬまま、この世を去った人物もいるだろう。そのゆるやかな滅びの自然さに、終盤はじめて気がつき、驚く。美しいがどこか不安を煽るラストシーンは読者に特別な読後感を与える。

高橋 「みんないなくなってしまう」、退廃的なものへの視線。世代的にはそういったものに共感しやすいのかもしれません。この作品を書いていた時には、レディオヘッドやニルヴァーナやオアシスやスマッシュパンプキンズなど90年代の音楽をよく聴いていました。 ラストシーンの後どうなるのか、未来は見つけられるように書いたつもりはあります。でも基本的には、読者の方にどう受け止めてもらってもいい。物語としての結末がはっきりと描かれる作品はそれはそれで良いけど、突然幕が引かれて困惑の中に放り出される作品も、想像の余地を残して良いかなと。

作品との向き合い方は自由で、軽やか

―高橋文学の魅力は、「圧倒的描写」を抜いては語れない。今作でも「まるで今見ているかのように」密度の高い描写が続く。

高橋 光景は浮かんでいますね。頭の中にある絵をなるべく「そのまま」書く。せっかく思い浮かんだのだからそのイメージをそのままの形で書き起こす、という意識かと。同時に読み手として、「この描写、いるかなあ」という目でも、書いた文章を追ってるかと。読書として小説を読むときにも、描写の必要・不必要を意識していることが多いですね、たぶん。

―緻密に描かれた小説世界からみれば意外なほど、小説との向き合い方は軽やかだ。単行本刊行時に新しく挿入されたエピグラフには意外なエピソードがある。



バラの花の輪、手をつなごうよ
  ポケットいっぱい、花束さして   「Ring a Ring o` Roses」(遊び歌)


高橋 実は、エピグラフは高橋訳です。初翻訳作品。
雑誌掲載時には未収録で、原型となった作文の一部を発掘してきて付け加えました。マザーグースの1節で、著作権も切れているので、歌のリズムを活かして訳しました。

―小説を書き始めたきっかけに、当時の文芸シーンの記憶が交差する。今後の見通しも、自由だ。

高橋 最初に興味を持ったのは小説より漫画のほうでした。僕らの世代は中高生のときみんな週刊少年ジャンプを読んでましたからね。漫画家に憧れはあったけど、自分は人物の絵が描けないんで、これは無理かなと。僕が大学生の頃、綿矢りささん金原ひとみさんが話題になっていて一過性ではありましたが、「文学」ひいては「文学とはなんぞや」という疑問に世間のスポットライトがあたった時代がありました。高校生で文芸誌デビューしている人も多かったし、自分が小説を書くというのもそんなに大げさなことではなかったと思います。
デビュー作が戦争を扱ったものということもあり、周囲から「今後、いろんな戦地を書いていくんだろうなあ」と思われてましたね。僕は思ってませんでしたけど。でも、よくよく考えてみると、今のところ過去を描いた作品だけですね、未来を扱ったもの、どこかで書くかもしれないですね。書かないかもしれないけど。

 
 

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