綿矢りさによる、
作中音楽についてのエッセイ

特設サイトまでお越しくださった皆様、こんにちは。『生のみ生のままで』には、いくつかの曲が登場します。そのほとんどが、この話を書いているときに、リピート再生で何度も聴いていた曲です。とても好きな、思い入れのある曲ですので、今回はこちらの場をお借りして、ご紹介することにしました。

作中では、主人公があんまり音楽に詳しい設定ではなかったので、細かい説明が出来なかったのですが、こちらでは、聴きたくなったらその曲に辿り着けるように、情報を書き増しました。ご興味を持っていただけたら幸いです。

上巻p53~
小田和正
『ラブ・ストーリーは突然に』

言わずと知れた、小田和正さんのポピュラーな名曲。私はこちらの曲の歌詞を聴くと、(この男の人、絶対に告白成功したよなあ)と勝手に思ってしまいます。こんな風にひたむきに、かつ乱暴なほどに激しく愛の情熱を注がれて、逃れられる人なんか、果たしているでしょうか?

ジャカジャーンという、運命的な最初のイントロからして、ロマンを奪取してきます。恋に落ちすぎてめろめろになりつつも、シリアスな緊張感を伴っているのが、なんともセクシーだと思うのは、私だけでしょうか。

上巻p206~
ザビア・クガート楽団
『Perfidia』

ウォン・カーウァイ監督の『欲望の翼』のデジタルリマスター版が出て、映画館に観に行ったところ、湿度の高い映像美に深く感銘を受けました。説明をほとんど挟まずに鋭敏な感性の力だけで、こんなにも匂い立つように青春の愁いを描いた作品があったのかと。また陽気でありながらも、どこか気怠いサントラも素晴らしい。サントラ集も出ていたようですが、結構昔の映画なのもあってか、廃盤で手に入れられなかったので、ザビア・クガート楽団『夕映えのラテン』のCDを買って聴いていました。このCDには『欲望の翼』に出てくる印象的な曲が多数収録されています。

そのなかでも『Perfidia』はゆったりした癒しのメロディーに、どこか退廃的なムードが漂う楽曲で、拙著では主人公二人が引っ越したばかりの部屋で踊るときの曲に使わせていただきました。歌詞付きの曲なので、色んな人が歌っているようですが、歌声が乗ると温かみが増すように感じられます。きっと懐かしい、流行歌の風情が出てくるからかもしれませんね。

下巻p114~
ニコライ・カプースチン
『8つの演奏会用エチュード 夢 作品40-2』

現代ロシア音楽の作曲家、カプースチンによって、1984年に作られたピアノ楽曲です。8つのエチュードは、どれも素敵なのですが、私は特に2番の『夢』にノックアウトされました。

ロシアというつながりのせいか、この曲を聴いたとき、ドストエフスキーが『白痴』で書いていた、発作前兆の詳しい描写を思い出しました。

「その際には、まさに悲哀、陰鬱、圧迫感のさなかに、突如数瞬の単位であたかも脳がカッと燃えあがり、もろもろの生命の力が異様な勢いで一挙に緊張するかのような体験をするのであった。稲妻の一閃ほどの長さしかないそうした幾度かの瞬間には、生命の感覚も自己意識もほとんど十倍にも強まった。頭も心も異様な光に照らしだされ、まるであらゆる心配事、あらゆる疑念、あらゆる不安が一挙に癒され、解決されて、明るく調和的な喜びと期待に満ち、知恵と根本原因の認識に満ちた、なにか至高の安らぎにつつまれる気がするのであった」(ドストエフスキー『白痴』望月哲男訳)

ほんの一瞬の出来事をはたと掴んで、的確な言葉を尽くして書き上げた凄まじい文章ですが、この説明はカプースチンの曲から受けるイメージと、私のなかでは重なります。

『夢』は曲自体のメロディーはうっとり恍惚としているので、演奏は明晰で硬質な、カプースチンの本人演奏が、一番締まりがあって素敵かと思います。

下巻p131~
Jason Mraz (feat. Colbie Caillat)
『Lucky』

ラッキーと言うと日本だと、棚からぼた餅というか、偶然上手くいってうれしい、というようなニュアンスで使われることが多い気がしますが、こちらの曲の"lucky"という言葉に込められた意味は深いです。滅多に無い幸運、とか、天からの恵み、と訳した方が近いでしょうか。

恋人であり親友でもある人に出会えた喜びを、最大限の優しさと慈しみで歌った曲なのですが、歌詞に比べると曲調がどこか物悲しいんですね。

しっとりして、デュエットなのですが、男女とも相手に直接というより、心のなかで想って囁きかけている雰囲気。勝手な想像だけど、かなりの遠距離恋愛であんまり会えてないのかな、と。歌詞でも、海を越えて、とありますし。

離れていても相手を信じ続けるのは、辛い作業です。恋人同士というのは、日常のささやかなひとときを共有することが喜びにつながるし。でも運命を受け入れて、けなげに相手を思いやることで自分の中の弱さに負けずに生きている、そんな二人の歌かなと思いました。意外と短くて、あっさり終わるところも、逆に心に余韻を残します。

さて、出てくる曲でまだ触れていない曲もありますが、語りたかった曲についてはすべて触れました。小説のなかで音楽は流れません。でも皆さんの頭の中では流れます。音楽の、流れるとその場のムードをがらりと変えてしまうパワーが、皆さんにも伝わりますように。

綿矢りさ

元のページへ戻る

生のみ生のままで 上

生のみ生のままで 上綿矢 りさ
2019年6月26日発売
1,300円(本体)+税

生のみ生のままで 下

生のみ生のままで 下綿矢 りさ
2019年6月26日発売
1,300円(本体)+税
このページのtopへ戻る
Copyright© SHUEISHA Inc. All rights reserved.