内容紹介
フランス国民を熱狂させ、
ヨーロッパ全土を震撼させた
カリスマの一生を描く歴史巨編、
全3巻。
第1巻
「台頭篇」
2019年8月5日
発売
第2巻
「野望篇」
2019年9月5日
発売
第3巻
「転落篇」
2019年10月4日
発売
内容紹介
フランス国民を熱狂させ、
ヨーロッパ全土を震撼させた
カリスマの一生を描く歴史巨編、
全3巻。
著者プロフィール
1968年山形県鶴岡市生まれ。93年『ジャガーになった男』で第6回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。99年『王妃の離婚』で第121回直木賞を受賞。2014年『小説フランス革命』(単行本全12巻)で第68回毎日出版文化賞特別賞を受賞。小説に『ラ・ミッション 軍事顧問ブリュネ』『ハンニバル戦争』『遺訓』など、新書に『英仏百年戦争』『テンプル騎士団』『フランス王朝史』(全3巻)など。著書多数。
著者エッセイ
ナポレオンは何人(なにじん)かと尋ねれば、フランス人と答えが返る。当たり前だ。世に聞こえたフランス皇帝なのだ。ならば、ナポレオンの出身地はどこか。そう問いを続けると、これまた意外に知られた話で、コルシカと答えが返る。正解であるが、そこなのだ。ほとんどがコルシカと答えて、コルスとはいわない。ナポレオンの故郷は今日までフランス領で、フランス語ではコルスであるにもかかわらず、イタリア語でコルシカと発音されてしまう。
無理もない。その地中海に浮かぶ島は、伝統的にはイタリアだった。コルシカ方言もトスカナ方言に近かった。つまりはフランス語でなく、イタリア語の方言だ。古代ではローマ帝国、中世からはピサ大司教、ジェノヴァ共和国と交替したが、コルシカを支配したのは常にイタリアから来る勢力だった。そういう言い方をすれば、イタリア領だったのだ。
ナポレオン自身がイタリアの血筋である。後に「ナポレオン・ボナパルト」とフランス風に改めたが、それまでの名乗りはイタリア語で「ナポレオーネ・ブオナパルテ」だった。このブオナパルテ家の発祥地は、トスカナとリグリアの境界サルザナに求められる。一五一四年、ジェノヴァ共和国に雇われ、駐留軍の傭兵隊長としてコルシカに赴任した、フランチェスコ・ブオナパルテという男が先祖なのだ。「ナポレオーネ」も一家に受け継がれてきた名前で、意味は「ナポリのライオン」である。さらに遡(さかのぼ)る先祖はナポリから来たのか、ナポリから来た猛々しい男を婿に入れたのか、ナポリで一旗揚げた男がいたのか、いずれにせよイタリアで完結して、やはりフランスは出てこない。
いつ登場したかといえば、一七六八年である。五月十五日のヴェルサイユ条約で、フランス王ルイ十五世はジェノヴァ共和国から、コルシカを二百万リーヴルで買いとったのだ。どうして売りに出されたかといえば、一七二〇年代からコルシカ独立運動が激しくなっていたからだ。一七二九年に「独立戦争」が始まり、一七三五年に「独立宣言」が行われ、手を焼いたジェノヴァは、それなら手放してしまえとなったのだ。かくてコルシカはフランス領コルスになり、その独立運動もヨーロッパ最強の軍隊に押し潰された。独立の指導者パオリが逃亡を余儀なくされたのが一七六九年六月、ナポレオンが生まれたのが直後の八月である。フランス領にフランス人として出生したことになるが、実際はどうか。
父親カルロ・マリア・ブオナパルテが目端の利く男で、フランス人の総督に取り入り、息子を陸軍幼年学校の給費生として、フランスに送りこむことに成功した。ナポレオンは勉学に励み、パリの士官学校にも進んで、フランス軍の少尉になった。が、この若かりし英雄は、驚くほどコルシカ人なのだ。フランスで苦労するほど、コルシカ同胞の夢再びと、確信的な独立主義者に成長したのだ。軍で取れるだけの休暇を取ると、コルシカに入り浸る。フランス革命が勃発すると、いよいよ故郷にのめりこむ。体制の揺らぎは好機だ。今度こそコルシカの独立なるか。せめて自治なるか。そうやって興奮しながら、もうフランスでの軍務などそっちのけで、コルシカで政治活動に励むのだった。
そこで失敗した。帰島していた指導者パオリに睨(にら)まれ、言葉通りに命まで狙われて、コルシカを離れるしかなくなった。独立の闘士たらんとする夢破れ、のみか故郷まで喪失して、絶望のナポレオンはフランスに逃(のが)れた。このとき今日からフランスでやっていかなければならないとは考えたろうが、今日から自分はフランス人だと思ったのかといえば、なお疑問である。むしろ意識的には無国籍、のみならず挫折感の反動から、もう国などいらないと吐き捨てたのではないか。コルシカが国にならないのなら、どんな国もいらないと。
ナポレオンはフランスで将軍となり、第一執政となり、皇帝となり、それに留まらず他国を侵略して、ヨーロッパ大陸をほぼ征服してしまった。兄ジョゼフをスペイン王に、弟ルイをオランダ王に、もうひとりの弟ジェロームをウェストファリア王に、義弟ミュラをナポリ王につけ、自身はフランス皇帝にしてイタリア王なのだから、実質的なヨーロッパ統一である。世界帝国といってもよいが、いずれにせよ国の否定だ。フランスさえナポレオンには単なる権力資源、帝国を築くという己の野望を実現するための道具でしかなかったのだ。
そこで腹心の外務大臣タレイランと対立した。この生粋のフランス人は、フランスを過度に疲弊させてまで帝国を築く必要はないと論じ、諸国による勢力均衡を唱えた。この対立が致命的だった。負けがこむようになると、ナポレオンはフランス皇帝を退位させられた。タレイランに、いや、フランスに捨てられたのだ。
とはいえ、歴史として後から振りかえると、ナポレオンのときほどフランスが勝てた時代も珍しい。それをフランスの栄光にするためには、この英雄をフランス人のなかのフランス人にしなければならない。だからナポレオンはフランス人─それは死後に作られた神話、まさしく国民神話といわれるべきものかもしれない。
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試し読み
その日のパリは朝の六時に砲声が轟いた。シテ島のドーフィーヌ広場に集合するよう、国民衛兵隊が布告を出されていた時刻も、やはり朝の六時である。
まだ空も暗いというのに、騒々しい。それでも眠いところを起こされたと、文句をいう者はいないだろう。その日を喜ばない者などいないだろう。それどころか皆が歌い、踊り、騒ぐほどだろう。
「大砲がドンと鳴ったよ。もう後には引けないよ。ナポレオンを戴冠させるのさ。この美し帝国の皇帝にさ。未来を約束してくれるから。幸せにしてくれるから。楽しみだってくれるから」
はやり歌もパリには流れた。共和暦十三年霜月十一日(一八〇四年十二月二日)、それはフランス皇帝ナポレオンの戴冠式が行われる日付だった。
『ナポレオン』全3巻
刊行開始記念対談
出口治明×佐藤賢一
一七六九年八月十五日の正午頃、地中海に浮かぶコルシカ島の南西岸にある港町アヤーチュで、聖母マリアの被昇天祭の聖餐式のために教会へ向かう女性が、突如産気づいた。大急ぎで家に戻ろうとしたが、寝台まではもたず、仕方なしに二階広間の長椅子で男児を産み落とした──。
フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(イタリア名、ナポレオーネ・ブオナパルテ)の生誕二百五十年に当たる今年、佐藤賢一さんの『ナポレオン』全三巻が連続刊行されます。第一巻「台頭篇」には右の誕生当日の情景を含めて、故郷を離れてパリの陸軍幼年学校に入学し、やがてイタリア方面軍司令官として劇的な勝利を重ねていく姿が描かれています。
続く「野望篇」(九月五日発売)「転落篇」(十月四日発売予定)の刊行を前に、ライフネット生命創業者で現在はAPU(立命館アジア太平洋大学)学長を務めておられる出口治明さんをお迎えして、作者の佐藤賢一さんとナポレオンの魅力についてお話しいただきました。『全世界史』(上・下)『人類5000年史』(Ⅰ・Ⅱ)などを著して歴史に造詣の深い出口さんは、『王妃の離婚』以来の大の佐藤ファンでもあるそうです。この機会に、「聞きたいことが山ほどある」と楽しんで対談に臨まれました。