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RENZABUROスペシャルエッセイ

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くちぬい

  • 紙の本

『くちぬい』坂東眞砂子

定価:1,600円(本体)+税 9月26日発売

 かつて田舎の人々は、都会に憧れ、そこで暮らすことを夢想して、村を出ていった。人と物が集まり、繁栄を極める豪奢な都という都市イメージは、古代や中世の頃からあっただろうが、戦後、日本の高度成長期と相まって、その動きは怒濤のように大きくなった。この動きは、地方の過疎化、高齢化の始まり、ひいては地方の弱体化へと繋がっていった。

 しかし、都市生活を満喫するためには、お金が要る。消費こそ、都市住民の義務である。そのためのお金を得るには、寸暇を惜しんで働かないといけない。便利で快適、ちょっとばかり豪奢な小市民的な生活を送るためには、過労死という言葉が発生するほど、都市住人たちはあくせく働いた。そして得た金は、文字通り、湯水のように消費に回され、日本経済は発展してきた。

 だが、その回転がより強く、より速くなるほどに、都市生活に幻滅して、田舎に魅力を感じる人間も出てきた。バブルが弾けてからはなおさらだ。Uターン、Iターンといわれる人々が、都市から田舎に出ていき、そこで農業などに携わって暮らすケースが目立っている。団塊の世代の定年退職の時期を狙って、どの地方も、田舎暮らしをアピールして、うちの県に来ませんか、と呼びかけている。

 そんな中で、私も生まれた故郷、高知に土地を買い求めて、暮らしはじめた。

 東京には十年ほど生活した。そして、都市生活にストレスを感じ、日本に住むならば、やっぱり田舎だろう、と思ったのだ。なにしろ高知には地縁もある。しかし、家族の住む町は、子供の時から培われた密接な人間関係が存在しているので窮屈だからと、わざわざ離れた山奥に居を構えた。

 その田舎とは、生まれ育ったところではない田舎。私にとっては、新しい田舎だった。

 山奥だけに、過疎化高齢化は激しく、ご近所さんの平均年齢は七十五歳くらい。みな、山村で高齢であっても、毎日、汗水垂らして田畑を耕す素朴な人々であると思っていた。

 ところが、ところが。住み続けるうちに、絵に描いたような、田舎暮らし、というものは存在しないことを発見した。

 人々は素朴で親切な反面、内部には、陰口、悪口、苛めが潜んでいた。田舎のお年寄りは、みんな柔和だなどと思っていたら、大間違いだ。意固地で、子供みたいなところもある。

 田舎の住人たちの裏面に接するようになった発端は、私の買った土地の一部が、前の前の持ち主が地元集落に寄付したものだった、と、いいだされたことに始まった。登記は、前の持ち主の土地となっていたし、私としてはそんな事情なぞ知らないで買い求めた土地だった。それが、集落の所有だといわれても、納得できるはずはない。

「登記は集落のものとなっていないじゃないですか」というと、「登記はまだ変えてないだけだ。とにかく、あの土地はお国のものだ」といい返される。

 その非論理性と、冷静な会話ができないということに、私は驚き、あきれたものだった。

 それから、苛めが始まった。集落のものだと主張する土地を駐車場として使用する。老人たちが軽トラックを連ねて、私のところに申し入れにきたこともある。「坂東さんはおるかぁ」と怒鳴る声は暴力を孕(はら)んでいて、老人愚連隊と私は密かに名付けたものだった。

 草刈りの時期になると、私の植えた花を情け容赦もなく刈払機で切ってしまうことも二年続いた。そしてやがて、苛められているのは、私だけではないこともわかってきた。

 私より前に、ある老夫婦が執拗な苛めに遭っていた。知らないうちに畑や花壇に除草剤を撒かれる、家に侵入される、洗濯物を切り刻まれている、というような類のことだ。彼らは毒を盛られているとも主張していて、「今に殺される」と脅えていた。しかし、あまりおおっぴらにすると軋轢(あつれき)が生じるからと、表向きは集落の人々と仲良くしていた。警察に訴えようにも、集落の誰が犯人かわからないので、どうしようもないと悔しがってもいた。

 片や集落の他の人は、あの老夫婦は頭がおかしいのだ、誰もそんなことをするはずはない、狂言だ、などと噂している。そんな調子では、駐在巡査も手が出せない。

 地元の駐在巡査と仲良くなった私は、時々、どうなっているんでしょうね、と立ち話するようになった。ある時、その朴訥(ぼくとつ)とした巡査が、「ここは八つ墓村じゃ」と呟いたのを忘れることはできない。

 数ヶ月前、苛められていたという老夫婦のお爺さんが癌(がん)で亡くなった。ある朝、私の家に来て、そのお爺さんが、「助けてください。家内が殺されます」といった時のことを、今もありありと覚えている。

 真実は、未だに不明である。

 私は、日本において急速に発展した都市生活のもたらした精神的歪みは、田舎も無縁ではないと考えるようになっている。それは、都市への一極集中が、地方の過疎化、高齢化と結びついているように、表裏一体。毒のように、日本の心臓部から末端にまで回っている。その毒は、過疎化で田舎に取り残された老人たちの精神に変調をもたらしているのではないかと思う。

 都市の歪みについてはよくいわれるが、田舎の歪みは、まだそれほど語られてはいない。田舎は素朴だ、人が親切だ、などというキャッチフレーズが安易に受け止められているだけのような気がする。

 私は、自分自身の体験をもとに、過疎化した田舎を舞台にして小説を書こうと思った。題名をあれこれ考えていると、『くちぬい』という言葉が浮かんできた。

 小さな生活共同体の中では、隣人の思惑を憚(はばか)って、思ったことを口にできない。共同体に不利になることをいう口は、縫っておかないといけない。だから、口縫いだ。

 折しも、福島の原子力発電所の事故が勃発した。放射能汚染に関しての政府や東電、マスコミの情報隠しが問題とされている。

 汚染は、首都圏から西日本までも広がっている。食肉も、野菜も、米も、魚もみな汚染されている。五年後、十年後には何十万人もの死者が発生する。ネットでは、そんな話が熱心に伝えられているが、表だった新聞やテレビのニュースでは、「健康には問題のないレベルです」という判で押したような言葉が流され、うわべは平和で穏やかな生活が続いている。これは、私のいた山奥の田舎と同じ話ではないか。そして、それを生じさせているのは、「口縫い」なのだ。

 情報統制、いいことだけ表に出しておくというのは、今に始まったことではない。都市化が顕著となる以前から、日本の田舎のどこででも、人々の口は縫われていた。自分からであれ、他者によってであれ、口を縫い続ける限り、誰が、誰に殺されたのかわからないまま、人は死んでいくのだろう。

(「青春と読書」10月号より転載)

ばんどう・まさこ●作家。高知県生まれ。著書に『桜雨』(島清恋愛文学賞)『山妣』(直木賞)『屍の聲』『ラ・ヴィタ・イタリアーナ』『曼荼羅道』(柴田錬三郎賞) 『快楽の封筒』『花の埋葬 24の夢想曲』『傀儡』等。


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