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猫はときどき旅に出る

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『猫はときどき旅に出る』高橋三千綱

定価:1,700円(本体)+税 2月26日発売

青春と読書3月号
巻頭対談
高橋三千綱『猫はときどき旅に出る』
高橋三千綱×伊集院 静


 〝無頼〟という生き方

高橋三千綱さんの新刊『猫はときどき旅に出る』は、最初の作品発表から十余年かけて完成した連作小説集です。高橋さんご自身を思わせる主人公の作家・楠三十郎が南極の氷でオンザロックを飲みたいと思い立って南極旅行に出かける第一部「南極半島は夏」(「すばる」二〇〇一年十二月号掲載)、南極で見たペンギンの姿、アメリカ大陸縦断の講演旅行、友人の妻の殺害事件……が断片的に語られる第二部「ペンギンの後ろ姿」(同二〇〇三年十二月号)、そして、ニューヨークを舞台に、部屋に侵入してきた男をスタンガンで撃退した「タカコ」の飼っている猫をめぐる第三部「野良猫のニューヨーク」(同二〇一二年九月号)。三作いずれにも、時系列的な流れとは無関係に、偶然出会った女優と温泉に行く話や、作家だった三十郎の父親の話など、さまざまな記憶が挿入されている。そこかしこに高橋さんの「記憶」が嵌め込まれたこの連作には、自伝的な色合いも込められている。長年高橋さんと交流のある伊集院静さんが、作品に描かれている虚実の世界に鋭く迫っていきます。


 これは猫の話ではない

伊集院 第二部から第三部まで十年近く間が空いてるわけですね。みんな、これは未完に終わるのではないかと思っていたところに、ついに書き終えたというので、よかった、よかったと、皆さんがずいぶん大騒ぎしたらしいですね。
 十年ぶりに書いてやろうと思ったのは、何かきっかけがあったんですか。

高橋 去年の四月に入院をしたんですよ。手術をするまでというのは割合暇だったので、そこで一挙に書いたんです。

伊集院 病院で書くのは初めて?

高橋 入院ということ自体もあまり記憶がない。とにかく時間があるんですよ。

伊集院 飯を食うとか、点滴をするとか、検査以外は、たしかに何もすることがないですものね。ところで、タイトルはどうして猫にしたの? あなたはどちらかというと犬派でしょう。今度の小説にも、主人公が虐められていた子犬を助ける話が出てくるじゃないですか。あれ、いいですね。まあ、最後に猫が出てくるからだろうけれど。猫にも興味はあるんですか?

高橋 いや、全然ないですよ。

伊集院 ないの?

高橋 猫って、ときどき放浪するでしょう。小説の中にも出てくるけれど、ぼくが十代のころに住んでいた東京の府中の家に居着いちゃった捨て猫がいて、それが三本足だった。そいつがある日突然消えて、大分たってから静岡あたりで見つかった。三本足だからすぐにわかるわけですよ。

伊集院 府中から静岡まで? それは誰かの車に乗ったとか、そういうことじゃなくて。

高橋 いや、あちこち放浪しながら静岡まで行ったみたい。そのことがずっと残っていた。ああ、こいつらは放浪するんだ、と。だから、猫そのものよりもそういう習性がおもしろいなと思って、それでタイトルにしたんです。

伊集院 おもしろいと感じたのは、一見物語とは関係ないようでいて、読み進めていくうちに関係のあることがわかるといった挿話がいくつも出てくる。これまでは、あまりこういった書き方はしてこられなかったと思うのだけれど、今回、こういうふうな書き方をしたのはなにか思ったところがあったわけですか?

高橋 というより、あるところまで書いていると呼吸が苦しくなって、水面に顔を出すわけですよ。そして、次に息を深く吸って潜るときに、なにか不意に違うエピソードが出てくる。それをそのまま入れたという感じですね。
 あるいは、前の晩に酒を飲んで眠って、三時間ぐらいで急に目が覚めてしまい、朝方、風呂に入ってぼんやりしているでしょう。そのときに、ああ、このエピソードを入れてみたいなと思ったり。

伊集院 読んでいても、すごく自由なところがありました。内容としてはわりとシビアなものもあるんだけれど、そういう自由さが全体に軽みをつけている。

高橋 きちんとしたプロットを求めるような読者は面食らうかも知れない。

伊集院 そもそも、この小説は最初からプロットなんか求めていないわけでしょう。

高橋 そう。冒頭に「これは猫の話ではない」と書いてあるのも、そういう意味なんですよ。全部がもう、行き当たりばったりの気ままな放浪であると。読者に、勘違いしないでください、といっているわけ。

伊集院 一つの話が進んでいって、このまま続くのかなと思ったら、「そういえば」とかいって、いきなり過去の話に切り替わる。普通は、「では話を戻して、タカコのクローゼットの話をしよう」という具合に戻るのだけれど、突然、戻るから、何だこれは? という感じになる。
 でも、そういう小説は、外国の作品には多いんですよね。たとえば、ジェイムズ・ジョイスがそうでしょう。『ユリシーズ』なども、話の途中で、突然全然別の挿話が入ってくる。


はめ絵としての人物造形

伊集院 ところで、ここに出てくるエピソードはほとんど事実でしょう。

高橋 事実が下敷きにはなっているけれど ……。

伊集院 事実が下敷きになっているということは、これを読む限り、あなたはこれまで一体どういうふうに生きてきたわけ? と思われても仕方のないような破天荒な人生を、この主人公は送っている。こんなはちゃめちゃな生き方をしてきていいのかね(笑)。多少なりともあなたのことを知っている私には、そこがまず愉快だった。

高橋 いまいった下敷きというのは、胃を切ったとか、映画をつくったとか、そういうコーナー、コーナーの事実が下敷きになっているという意味で、決して、この楠三十郎=高橋三千綱ではないんですけどね。

伊集院 でも、細部のところだってけっこう事実が下敷きになっているでしょう。たとえば、女優とばったり会って温泉へ行くという、あれも下敷きがあるんじゃないの?

高橋 行ったことはあるけど、ばったり会ったわけじゃない(笑)。

伊集院 いや、そんなことはない、事実でしょう。あなたはわりと、ばったり会うっていうのが多いから(笑)。相当、運が強いからね。

高橋 運が強いんですかね。

伊集院 運が強くなきゃ、ここに書かれているような下敷きがありながら、こんなに長く作家をやってこられない(笑)。女優と混浴に入ったのも事実でしょう。

高橋 混浴というか ……、そういえば入りましたね。なんだか尋問されているみたいだな(笑)。

伊集院 もちろん小説だから虚実を交えているのだろうけど、それでも、これは明らかに事実だなと思うときがある。それは主人公だけじゃなくて、脇の人間が出てきたときにも、その人物描写を読めば、モデルとされた人は、明らかに自分のことだなとすぐわかるでしょう。

高橋 でも、あくまでも似て非なるものだと思いますよ。一人の人物を描くときに、杉の木全体を一遍に書くのではなくて、枝葉にいろいろな人間の性格を当てはめていく。いうなれば、はめ絵ですね。

伊集院 はめ絵というのは、いい言い方だね。

高橋 別なところで会った人間の性格を借りてくるんです。書かれている人たちは、自分と経歴は似ているけど、こいつもそうなのかなぐらいにしか思わないかもしれない。

伊集院 この楠三十郎という主人公は、屈託がないし、事件が起きたときにも逃げ出さないで正面から対処する。これはあなたの中にある生き方でもあると思うけれども、出くわしたものから逃げずにいようというのは、どの辺で培われてきたものなの?

高橋 どうですかね。ものを書き出したころかな。

伊集院 主人公は、都合のいいことはあまりしていないでしょう。都合のいいことをするのは、大体、女が絡むときだけですね(笑)。
 それ以外は、正面から事象に対処している。その意味では、これはある種の自伝なんだと思いましたね。あなた自身にとって欠かせないものが色濃く出ていて、こういう生き方があるんだということが明確に示されている。

高橋 でも書き手としては、その場その場で対応しているだけで、けっこう刹那的なんですよ。それこそ五木寛之さんがいうような、大河のような大きな流れはあまりなかった。むしろ、そのときどきで生命を維持するのに必死だったんじゃないですかね。


"無頼"の新解釈

伊集院 この主人公が正面からものごとに対処するところは、私の感覚では、"無頼"の精神と通じているんですね。一般に無頼というのは、反社会・反道徳的な生き方のように思われているけれど、もともとは戦前の時代小説の中に「無頼の徒」という言葉が出てきて、そこからアウトローという捉え方が出てくるわけですね。それにプラスアルファ、戦後間もなく、織田作之助とか田中英光とかの無頼派と呼ばれる何人かの作家が登場する。そういうイメージが重なって、無軌道だとか放埒(ほうらつ)な生活をしているということを指すようになったのだけれど、私のいう"無頼"は、そうではない。
 私の解釈では、無頼というのは、誰にも頼らず生きていく、何人にも頼らずにおのれの道を歩いていく、それが基本にあると思うんですね。そういう捉え方からすると、この楠三十郎という男は、まさに無頼なんですよ。
 ここに書かれている無頼ぶりは、チャールズ・ブコウスキーにもちょっと似ている。私は、彼の作品の中でも、『町でいちばんの美女』とか、自分の私生活を書いたものが好きなんです。小説にはご本人が自分の名前で登場してくるんだけど、まあ、競馬のことやらセックスのことやらドラッグのことやら、それこそあけすけに書かれていて、その無頼ぶりたるや相当なものなんだよね。この『猫はときどき旅に出る』にも、ブコウスキーと同じにおいを感じる。

高橋 翻訳されているかどうか分からないけど、彼の書いた「船長が昼飯を食っている間に船員どもが船を乗っ取った」(邦訳『死をポケットに入れて』河出文庫)という作品は今でもたまに読んでます。それから、伊集院さんのいう無頼とつながるかどうかわからないけれど、ぼくは性格的に楽天家なんです。この場合の楽天家というのは、世の中をいいかげんに見ているとかいう意味ではなくて、自分の位置であるとか現実をきちんと見据えていつつも、そこに拘泥しない、悲観的にならない、そういうものなんです。多分、それはこの小説にもそのまま反映されているんじゃないかと思います。まあ、だからといって現実が何とかなる、というようなものでもないんですけどね。

伊集院 作家というのは、おのれの心情とか構え方がきちんとしていて、それさえ曲げていなければ、極めていいかげんでいいんじゃないかということですか。それがここには非常に色濃く出て佳い作品になっている。
 作家というのは、何か本を書いて出版したら作家というんじゃないんですよ。農民が稲を刈り取るために、田植えをしたり、雑草を取ったり、毎日毎日作業をしていく。ときには、日照りや虫に食われて実がならないこともある。それでもひたすら作業を続けていくのが農民であるように、たとえ作品を発表しなくても、ひたすら書く作業を続けるのが作家であり、それでいいと思うんですよ。この作品には、そういう作家のあり方が出ていて、あなたをずっと支持してきた読者の人にとっても、非常にうれしい一冊だと思いますよ。


"同じもの"を見ることの大切さ

伊集院 『九月の空』で芥川賞をとられたのは七八年だから、三十歳のとき?

高橋 そうですね。

伊集院 あのときの授賞式の写真で横に並んでいたのは、たしか色川武大さんでしたね。

高橋 そうそう。芥川賞が私と高橋揆一郎さんで、直木賞が色川さんと津本陽さん。

伊集院 受賞者が四人で、しかも、その後四人ともきちんとした作家として活躍したし、いまなお活躍しているわけだから、実りのある年だったんだね。
 そのとき私は二十八で、演出か何かしていたのですが、自分とあまり年の変わらない人が芥川賞をとったんだというので印象に残っていますよ。『九月の空』は爽やかな作品で、その当時、まだ作家になるというのはまったく私の頭の中にはなかったけれど、ああ、こういう真っ直ぐな作品も受け入れられるんだと思ったことを覚えている。それまでの芥川賞受賞作というのは、どちらかというと、暗いというか、湿り気を帯びた作品が多かったでしょう。その点、あなたの場合は作品も写真に写っていた顔も非常に爽やかな感じで、そのまま真っ直ぐ、素直に生きる人なんだろうと思った。

高橋 ぼくはたまたま色川さんと同じ年に受賞しているんだけれど、年齢はちょうど二十歳違うんです。
 伊集院さんは、『いねむり先生』で色川さんのことを書いたわけだけれど、あの本を読んだときに、あれっ、伊集院さんってこういうものも書くんだと思った。あの主人公は、悲哀を秘めているけれどもすごく強靭なものもある。一見ごろつきにしか見えないのだけれども、強い精神を感じさせる。そういうものを巧みに書いていたので、ちょっと驚きました。

伊集院 驚かして悪かったね(笑)。

高橋 いや、もっと驚いたのは、同じ人を見ていたのに、ぼくとは色川さんの見方が全然違うということ。

伊集院 みんなといるときの色川武大と二人っきりのときの色川武大とは、ずいぶん違いますからね。

高橋 色川さんが伊集院さんや黒鉄ヒロシとかとよく飲んでいるのは知っていたんですよ。ただ、麻雀とか競輪だけのつき合いだろうなぐらいにしか思っていなかった。だから、『いねむり先生』を読んで、なるほど、色川さんはこういう人間だったのかと、目を開かされました。
 ぼくが覚えているのは、あるとき色川さんの奥さんから、突然、「ねえ、みっちゃん。あなたは血液型、何型?」といきなり訊かれたんです。ぼくはもう三十過ぎていたのに、自分の血液型を知らなくて、「えーと、何だっけな」といっていたら、色川さんが、「高橋さんはB型以外にないじゃないか」なんて、怒っていうんだよね。他人にはなんの興味もないようなふりをしていて、そういう不思議な洞察力があるんですよね。

伊集院 あの人の頭の中には、よく整理された棚があるんですよ。昔、薬屋にいろいろな種類の薬が入った引き出しの並んだ棚があったでしょう。色川さんは、ああいう整理された形で脳の中に記憶をきちんとしまっておくわけ。博打の場合、あっ、待てよ、といったときに、素早くその棚から記憶を引き出さないといけないからね。だから、色川さんの頭の中には「高橋三千綱の引き出し」があって、その一番上に「B型」と書いてあるんですよ(笑)。
 さっき、私とあなたは同じものを見ていたといったけど、これは非常に大事なことですよね。昔、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』というスピルバーグの映画があったでしょう。あれの最後で、聖櫃から煙が出てきて、その煙が人の顔になる。あの顔が、ムンクの「叫び」の顔とそっくりなのね。
 一緒に映画を観ていた色川さんに、「あれ、ムンクに似ていますよね、先生」といったら、「そうなんだよ。スピルバーグも私たちも、同じものを見ているんだよ」という。そういう発想をするところは、色川さん独特ですね。吉行淳之介さんもそうですね。

高橋 たしかに、吉行さんにもそういうところありますね。
 吉行さんといえば、一度びっくりさせられたことがある。あるとき、吉行さんから電話がかかってきて、「高橋さん、お父さんって、高野三郎さんていうんじゃない」と訊くので、「そうです」というと、「いや、実はあなたのお父さんの名刺、ぼくは持っているんだよ」というんですね。「一体それは何年前の話ですか」「いや、昭和初期のころの名刺だ」「どうしてお持ちなんですか」「原稿を頼まれたことがあってね、あなたのお父さんに。その棚を整理したら出てきたんだ」ということらしい。あれには、ちょっと意表を衝かれました。

伊集院 いい話だね。この小説の中にも後半にお父さんの高野三郎の話が出てくるじゃないですか。きっと、吉行さんと高野さんも同じものを見ていただろうし、色川さんと吉行さんも同じものを見ていたんですよ。
 色川さんや吉行さんが生きていたら、きっとこの作品を喜ばれたろうね。

構成=増子信一/撮影=小池 守

※「青春と読書」3月号より転載

たかはし・みちつな●作家。1948年大阪府生まれ。著書に『退屈しのぎ』(群像新人賞)『九月の空』(芥川賞)『少年期』『卒業』『花言葉 愛の劇場42章』『空の剣 男谷精一郎の孤独』『素浪人心得 自由で愉快な孤高の男の生き方』等多数。

いじゅういん・しずか●作家。1950年山口県生まれ。著書に『乳房』(吉川英治文学新人賞)『受け月』(直木賞)『機関車先生』(柴田錬三郎賞)『ごろごろ』(吉川英治文学賞)『大人の流儀』『いねむり先生』『伊集院静の「贈る言葉」』等多数。


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