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カテリーナの旅支度 イタリア 二十の追想

  • 紙の本

『カテリーナの旅支度 イタリア二十の追想』著者:内田洋子

定価:1,600円(本体)+税 10月4日発売


異国人居住者、研究者から見た、日本人知らないイタリア


近刊『カテリーナの旅支度 イタリア二十の追想』が話題の内田洋子さん。
既刊の『ジーノの家』『ミラノの太陽、シチリアの月』と同様に、<日本人の知らないイタリア>を繊細に描き、読者を広げ続けている。
ミラノ在住30余年の内田さんと旧知の間柄であり、建築・都市史専門の研究者として40年前から彼の地に通い続け、イタリアに関する著作も多い陣内秀信さん。
居住者、研究者としてのそれぞれの視点から、イタリアとイタリア人について語り合った。



☆ヴェネツィアとナポリから始まった

内田 陣内さんがヴェネツィア建築大学に留学されたのは、70年代ですよね?

陣内 イタリアに着いたのが1973年11月の上旬でした。給費留学生で、最初はみんなでまとまってローマに行って、手続きの後にそれぞれの町に散っていくんです。ヴェネツィアに到着したのが11月10日ぐらいかな。もう霧なんですよ、ヴェネツィアは。すっぽりと霧に包まれていて、目の前にかざした自分の手の指が見えなくなるぐらい濃い。だから、最初にやったのは、厚いオーバーを買ったことです。
それで、すぐオイルショックになったんですよ。例の73年。で、ろくに暖房も入れられずに寒い冬を過ごしたんですけど、それがまたよかったですね。つまり、明るくて楽しそうなイタリアのイメージとは全然違う冬のヴェネツィアから、イタリアでの生活が始まりました。冬期だったこともあって、観光客もあまりいないし。
同世代で留学している人が、僕以外に音楽とガラスのアートで二人いましたが、それだけでした。ビジネスで行っている人は、ヴェネツィアには住んでないんです。
1900年生まれの別府貫一郎さんという画家の方がいらっしゃって、隣の部屋が空いたからというので、2年間、その方にお世話になりました。

内田 ヴェネツィアのどちらですか?

陣内 ドルソドゥーロの、カンポ・サンタ・マルゲリータに入る手前のリオ・ヌオーヴォというところです。

内田 一番いいところですね。

陣内 当時は、イタリアがある意味で最悪の時期だったんです。68年に「熱い秋」という変革の年があって、世界中の若者や学生が、学生運動で大いにつながったという頃。
それでイタリアは、大きく変革していく方向に動いていくんですね、日本と違って。だけど、まだ70年代前半は、あらゆる職業の人たちがストライキはやるし、テロはあるし、国家は破産して経済はだめだし、イタリアはヨーロッパのお荷物だと言われていた。
ほんとに一番悪い時期。だけど、あえてその時期に行っていたのはよくて、だから生真面目でしたよ。
あの町は、知り尽くすなんてあり得ないわけで、歩くと必ず何か発見がある。大体、この道が一番近いだろうと思っていても、ほかのヴェネツィア人と歩くと違うルートを行ってくれて、ああ、こっちのほうが近いとか、新鮮な発見が毎日ありましたね。興味が尽きない。
初めてヴェネツィアを訪ねたのは71年で、自分がほんとにこんなところにいていいんだろうかというぐらい、びっくりしました。東京のコンクリートジャングルの、経済や合理性だけで動いているところからあんなところに行っちゃうと、信じられない。あんな町が当時、近代、現代に存在し続けていて、みんなが平気で暮らしているでしょ。今、行くと観光客でその辺が見えませんが、その頃はリアルな生活空間が、まだたくさんありましたからね。
内田さんのイタリア留学先はナポリですよね?

内田 そうです。私は80年、ワールドカップですね。マラドーナの時代です。ローマから電車に乗って入りました。80年代、イタリアが花開く時期。

陣内 一番いい時期ですよね。苦しんだ時期を突き抜けて、イタリアが開花した頃。

内田 開花の頂点に着いたという感じでした。着いた先がナポリだったのは、実は、私の卒論のテーマが「戦後のイタリア南部経済政策」だったからなんです。

陣内 えーっ、そんなことをやっていたんですか。以前、ヴェネツィアでいろんな先生方に出会った中に、ヴェネツィアの都市計画の新しい分野の代表的な教授がいらしたんですけど、彼はナポリで長年教えた後にヴェネツィアで教え、ローマに事務所と自宅があるという方でした。

内田 理想的ですね。

陣内 だから、そのご縁でナポリの人たちとも親しくなったんです。

内田 なるほど。やっぱり南部の人に聞かないと、イタリアはわからないですよね。

陣内 そうですね、僕もそう思います。

☆人格形成は町次第

陣内 北のイタリア人の、知的な、いろんなことを考えている人たちの中には、イタリアの深いところやよさを理解するためには、南を知らなきゃだめだと言う人が多いですね。南の理解者に、何人も出会ったことがあります。

内田 文化度、文化の種類が違うんですね。それぞれに文化度は深いですけど、知的階層に関していえば、南部の、特にシチリアでサロンと呼ばれる、集まりというか文化交流があって、あの辺の深さというのは北にはないです。

陣内 留学3年目にローマにいたんですが、僕と同じ時期にローマに留学した武谷なおみさん(イタリア文学者、大阪芸術大学教授)は、ローマ大学を卒業したんですよね。彼女はシチリア文学専門なので、ルイジ・ピランデルロ(1867年~1936年、シチリア生まれ。劇作家、小説家、詩人。34年ノーベル文学賞受賞)やレオナルド・シャーシャ(1921年~1989年、シチリア生まれ。小説家、詩人)とか、暗く重たいイタリアばっかり扱っているので、僕らが軽いイタリアについて語ると怒るんですよ。そんなじゃないでしょうって。そういう趣旨で対談をしたこともあって。だから、武谷さんと話すときは、身を引き締めなきゃいけないんですね。お調子者のイタリアばっかりやってると怒られちゃう。

内田 そんなことはないでしょう。

陣内 だから、両方あるわけ。シチリアのパレルモ大学で教えていたヴィットリオ・ウーゴという建築論の先生がいたんですが、ものすごい哲学者なんですよ。建築の中の実務や歴史よりも、理論を教える。そういう人っていうのは北にはいないんですよ。

内田 いないですね。解析をする人はいるかもしれないけれど。

陣内 それと、イスラムを否定しないですね。だって、全部恩恵を受けていますから。特にパレルモは古代ギリシャ、そしてローマ、それからずっとビザンツの影響もあり、イスラム、ノルマンの王様たちもいましたからね。

内田 宝石箱のような。

陣内 あそこはすごい。

内田 文系の頭を持つ理系の専門家というのは、科学者なのに文化の、文系的な造詣がすごく深い。そういう人は、やっぱり南でないといないかもしれない。

陣内 物腰も穏やかで、静かで、思索的で。

内田 読書家であり。パレルモ大学の建築学部って、イタリアではとても有名です。むしろ、ミラノ工科大学よりも、パレルモを目指せっていう一派もいるし。都市工学専門の私の友人は、パレルモ大学で講義を持ったときに最初に使った教材が、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』でした。

陣内 なるほど。

内田 そういう感じなんです。短期間ですが、私もシチリアに住んでいたこともあるんですよ。

陣内 一体、イタリアの何カ所に住んでいたんですか(笑)。

内田 500歳ですから(笑)。

陣内 すごい。引っ越しマニア。

内田 そうなんです。

陣内 そういう方はイタリアには少ないし、イタリアを極めている日本人の中にも少ない。北に住み着いちゃうと、ずっと北ばっかり。須賀敦子さんはその典型だけど。

内田 私、ナポリのスパッカナポリ(ナポリの旧市街地。3本あるギリシャ時代からの幹線道路のうち2つの通りから形成されたゾーンの俗称。迷路のように入り組んだ町並みで知られる)にも住んだことあるんです。



陣内 うわっ、すごい。それは、すごいな。

内田 あれは、結構貴重な経験でしたけど。別に住もうと思って行ったわけじゃないんです。結果的に住んでしまった。ちゃんと自分の足で回って調べようというのは、陣内さんの本を読んで、いつも思ってました。

陣内 多少、役に立ちました?

内田 ものすごく。バイブルです。

陣内 91年にまた1年間、ヴェネツィアに在外研究ということで行ったときに、当時、ファクスが普及し始めたときで、住み始めたらすぐファクスがパレルモ大学から届いていたんです。「セミナーリオ・ディ・プリマヴェーラ」、つまり、春のセミナーに呼ばれたんですが、「環境の質は計測できるか」というタイトルで。

内田 難しいですね。

陣内 「ミズラービレ? カルコラービレ?」って、タイトルにクエスチョンがついている。はかれるか、計算できるか。

内田 いかにも南部の大学のセミナーのタイトルですね。

陣内 いかにも。哲学なんですね。
それを仕切っていた建築学部の女性の学部長が、何をしゃべってもいいと言うわけ。あんまり具体的なテーマだと困るでしょう、それに合わせなきゃいけないから、と。

内田 北の人たちは段取りが組めないから、そういうのは嫌がりますよね、筋道が立たないものは。ところが、南のほうは筋道が立っちゃうと、そこで学問が終わりだと思っているんですよね。

陣内 ナポリの人にも同様のことを感じたことがあります。ナポリは鹿児島と姉妹都市ですが、実際、結構姉妹都市の実効性を持っていますよね。

内田 カゴシマ通りというのが、ナポリにあります。

陣内 ナポリ大学を中心に、建築学部の色々な教授たちがイタリアから日本へ来たことがあるんです。まあ、哲学をぶつ人がいっぱいいて(笑)。そういうとき、日本人は自分の作品などを、わかりやすいように、当時はスライドを使って発表するんだけど、イタリア人は、特に南の人は自分の作品なんかないし、ないと言うと怒られるけど、哲学、言葉に、言葉への信頼がすごい。だから、図を使ってやるというのはあまり高尚じゃないと思ってる。

内田 レトリックですよね。三段論法とか存在しますから。

陣内 特に南はそう。あれは迷路の中に引き込まれるような感じですね。

内田 だから、町の様子というのが人々の人格形成になっていますよね。それぞれの町に、それぞれが。都市国家ですから、南北という分け方は便宜的にはしますけど、違うんじゃないかと。

陣内 ナポリと(同じカンパーニャ州の)アマルフィも違うんですよ。アマルフィの人に言わせると、ナポリの連中はがさつだと言います。ナポリはそうは見ないでしょうけどね、アマルフィはそう見てる。たしかに、アマルフィの人の方が落ち着いている。

内田 アマルフィは田舎ですから、ってナポリの人は言いますね。イタリア人的な発想としては、アマルフィがあれだけ美しいというのが世界に広まったのは、こっちから見てやってるからだと。

陣内 ヴェネツィアは観光都市になって変わってしまったけど、でもやっぱりヴェネツィア人はヴェネツィアをこよなく愛し、自慢して。

内田 標準語をしゃべらないですから、彼らは。

陣内 チッタ・ウニカっていうんです。ユニークな、そこしかない町。

内田 唯一。

陣内 唯一の町。これ、いいですよね。日本でもお国自慢ってありますけど、その程度じゃなくて、ほんとに自慢しますから。



☆泣かないために笑う

陣内 やっぱり、イタリアで最初に学んだのは忍耐ですよね。

内田 日本とは、忍耐の種類が別なんですよね。

陣内 南に行けば行くほど、それは強まるかもしれない。イタリアって、待ち時間が長いでしょう。しかも、ちゃんと整列しない。だけど、その時間帯って、おしゃべりの時間をもらったと思える感じもあるんですよ。日本人には苦痛ですよね、時間が潰されたと思ってしまう。

内田 ほんとにポジティブなんです、あの人たち。

陣内 基本ポジティブ。

内田 ナポリの人たちは、泣かないために笑うってよく言うんです。あまりにも毎日理不尽なことが起きるので、いちいち腹を立てたり、泣いたり、落ち込んでいると身がもたない。だからものすごく運命主義的というか流されて。

陣内 イタリア人って、いつもあんなにいっぱいしゃべって、話題はどれだけあるのかなって思ってしまう。
僕が、ヴェネツィアに留学してまだ1年少しの頃、イタリア語も全然だめなんだけど、日本のことを聞かれるから一生懸命しゃべるわけです。向こうは、日本に関心がかなり出てきていた段階なので。カラブリア出身の、いつも男友達をいっぱい連れて歩いているようなおしゃべりな女性に日本のことをしゃべったら、それをいかにも自慢げに1時間ぐらい、僕の話に尾ひれをつけて、倍ぐらいの情報量と時間をかけて、演劇みたいに紹介するんですよね。

内田 レトリックなんですよね。

陣内 みんなが昨日起こったこととか、そういうことをまたレトリックで。

内田 寡黙な人ももちろんいますけど、すごくたくさんしゃべっている人のほうが怖いですよね。

陣内 そうですね。

内田 何かを隠すために、一生懸命しゃべってるというタイプが多いと思われませんか。

陣内 そう思います、僕も。

内田 ナポリに住んでいたときは、もうまさしくそれで。あるとき突然、仲よしの境界線を越えると、暗い面を見せる。相手にしゃべる隙を与えないで話し続けている人を見ると、ああ、これは言いたくないことがあるんだろうなという感じ。

陣内 それはあると思う。自分を守るためというか。
この内田さんの本の中でも、イタリア人たちが内田さんに、いろんなことをしゃべっているわけですよね。それぞれ印象的な話ですが、「老優と哺乳瓶」もよかったです。

内田 フェリーニの時代の人ですけどね。『甘い生活』の。まだ健在です。

陣内 サルデーニャの人も結構出てきますね。

内田 はい。船に住んでいた時代は、私は(サルデーニャの)アルバタックスに停泊していましたので。

陣内 ヨットの話(「ヨットの帰る港」)もおもしろい。

内田 船は料亭の意味がありますからね。

陣内 初めてヨットでの契りというものを知りました。

内田 海に出ちゃうと、そこだけ治外法権。だから、重要な会議はやはり船舶で、船上で行う。

陣内 どの話も実話がベースで。内田さんに、ここまで話してしまうわけですよね?

内田 私が何の、誰とも接点を持ってないということがあると思います。言いたいことがあるわけですよ、誰かに聞いてもらいたいとか。でも、下手に言っちゃうと、イタリアは濃い社会なので筒抜けになる、ご近所に。やっぱりそれではまずいと。でも、言いたい。そのせめぎ合いだと思いますよ。


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