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レンザブロー インタビュー

作家 市川朔久子さん


 シャンプーの甘い香り。髪と頭皮を滑らかにほぐす指先の感触。その心地よさに凝り固まった体と心がゆるんでいく……。シャンプー、または食事やおやつのシーン。講談社児童文学新人賞を受賞した市川朔久子さんのデビュー作『よるの美容院』には、一読するだけで五感ごと癒される描写が重ねられる。
 作品の主な舞台は都会から離れた町の美容院。「母が美容師で、子どもの頃、勤め先のお店に出入りすることが多く親しみがあった」という市川さんが描くのは、現代風のお洒落なヘアサロンではなく、<パーマ屋さん>といった風情の昔ながらの店構えを持つ美容院である。しかし、どこか懐かしい佇まいの店が舞台とはいえ、物語の現実は決して優しいものではない。主人公は、ある事件がきっかけで、言葉を失い通学できなくなった十二歳の少女。親元を離れて預けられた先が、一人暮らしの美容師であるおばの自宅兼店舗だった。店の仕事や家事を手伝いながら、少女は過去を反芻し癒えない心の傷を抱えたまま日々を送る。

よるの美容院 市川朔久子

『よるの美容院』
講談社/定価:1,300円(本体)+税

 

市川朔久子さん

【プロフィール】
市川朔久子(いちかわ・さくこ)

1967年福岡県生まれ。西南大学文学部外国学科英語専攻卒業。
2012年『よるの美容院』で第52回講談社児童文学新人賞を受賞。
千葉県在住。

撮影 chihiro.

 少女に降りかかった現実とは何か。そしてこの先、少女はどうなっていくのか。物語は推理性をはらみつつ、秘密の扉を次々に開けるがごとく展開されていく。
 「手練れ」「完成度が高い」と選考委員に絶賛を受けた本作を書こうと思い立ったのは40代に入ってからと、市川さんの執筆歴は意外にも浅い。
「小説を書いてみたいという気持ちを長い間持ちながら、書いてどうする? という自分に対する照れのようなものがあって、なかなか一歩が踏み出せなかったんです。でも、40歳を過ぎて人生後半戦になってくると、やはり心残りのような気がして。後悔するくらいなら書いてみようと思いました」
 「子どもの頃からひたすら読者」だった市川さんは、図書館で国内外問わず本を借りてきては、読みあさる少女時代を送る。安房直子、末吉暁子、トールキン、ローラ・インガルス・ワイルダーという、いわゆる児童文学の王道を辿る読書経験を経て、ごく自然な成り行きとして、応募原稿は児童文学を対象とした賞へ。一回目の応募で、見事受賞を手に入れた。
 担当編集者に「本当に一作目の長編作品ですか?」と言わせた本作は、少女の成長物語としての幹の太さはもちろん、少女を取り囲む人々、町や商店街の風景、そして、「見るのと書くのとでは大違いだった」とは言いながらも、間取り図を著者自らが描いたという美容院の細部に至るまで、きめ細やかで無駄のない描写が冴える。
 何事も「ゆったり、のんびり」のおばは、少女を詮索しない。かといって無関心ではない。毎朝「しっかり、たっぷり」の朝食を作り、丁寧に淹れたお茶とともに美味しいおやつを食べ、気負わないながら完璧な仕事ぶりを見せる。そして、少女に施す月曜日の夜だけのお楽しみ……。
「お話が深刻なので、それを中和するものを入れたかった」と登場させたのは、駄洒落を連発する古書店のおじさん。少女の気持ちを等身大で語り合える若い女性美容師とその弟。事情をよく知ろうが知るまいが、皆が保っているのが、付かず離れずの優しい距離感だ。
 そんな人々と過ごすうち、やがて少女の中に何かが芽生えていく。読み手も十二歳になったような思いで、傷つき打ちのめされながら、「ゆったり、のんびり」のペースに乗っていることに気づかされるのだ。忙しない日々の中、自分のペースを見失い疲れてしまったとき、この「ゆったり、のんびり」を思い出せば、明日から見える風景が少し違ってくるのではないだろうか。本作は、「児童文学」の受賞作ではあっても、大人のための小説でもある。
「集団の中にあったら声の小さい子、どちらかと言うと少数派の人たちの言葉に耳を傾けていきたい。次は男子中学生が主人公です」という、次作の刊行が待たれる。

 
 

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