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レンザブロー インタビュー

作家 伊藤朱里さん

必然性のある物語を

 第31回太宰治賞を受賞した『名前も呼べない』(「変わらざる喜び」改題)は、冒頭の一文からしてどこか独特だ。
 「恋人が授かった初めての娘は、まもなく生後二ヶ月になるところだった」
 契約社員として2年半勤めた会社を退職した25歳の恵那は、送別会という名目の女子会に招かれた。恵那はその場で、不倫関係にある年上の恋人が、自分の知らぬ間に子供を作っていたことを知る。思いも寄らぬ事実をきっかけに、恵那は自分自身の人生と向き合い始める。

名前も呼べない 伊藤朱里

『名前も呼べない』
筑摩書房/1,500円(本体)+税

 

伊藤朱里さん

【プロフィール】
伊藤朱里(いとう・あかり)

1986年、静岡県生まれ。東京都在住。お茶の水女子大学卒業。
2015年、「変わらざる喜び」(「名前も呼べない」に改題)で、第31回太宰治賞を受賞。

撮影/安田千滉

 「まず、冒頭の一文が頭に思い浮かびました。最初は深く考えずに、この文章の続きはどうなるのだろうと思いながら書いていたんですけど、どんどん主人公が苦しそうになっていって、なんでこんなにしんどそうなのかと、その理由を自分自身も探していきました」
 プロットは最初から立てずに、書き進めながらストーリーを構築した。小説執筆の際、まずは最初の一文を考えて、その一文が求める形で作品世界を作り上げる。詳細はあとから肉付けしていくという。

 女子会の3日後、恵那は意を決し恋人にメールを送る。
 「会社の飲み会で聞いたよ。娘さんが産まれたって本当?」
 「言ってなかった?」
 飄々とした態度を取る恋人に、恵那は思わず笑ってしまう。付き合い始めて2年と少し。恋人との関係の、何が正しくて、何が間違っていたのか――。
 恋人との不貞や、父親との苦い記憶、母親との微妙な距離感。坦々と進む歪なストーリー、登場人物の感情の不安定さが、人と人とが関わることの危うさを浮き彫りにし、読者の価値観を揺さぶる。

 精神的に追いつめられる恵那を救う存在として描かれているのが、唯一無二の親友、メリッサだ。日中は男の格好をして働き、夜はゴスロリファッションに身を包む。彼でも彼女でもない“メリッサ”は、恵那に対して、言葉は乱暴ながらも常に寄り添い、真摯に向き合う。しかし、恵那は恋人との軋轢をきっかけに、メリッサに対して、してはならないある要求をしてしまう。なぜ、唯一の繋がりさえも自ら手放そうとするのか。
 「今回、普通に頑張って生きようとしている女の子に起きそうな辛いことを臆せずに入れてみようと思いました。その結果、恵那が書くにつれあまりに深みにはまっていったので、私自身だったら、どうすればこの状況から抜け出せるかと考えました。自分のことを助けられるのは最終的に自分だけだと私は思っているので、彼女を自力で立ち上がらせたかった。そして、自分にとって大切な人が深く傷ついているのを目の当たりにした時、自身の痛みなどどうでもいい気分になるということに思い至ったんです」

 全編に漂う、人間関係の“異質”さは、一つの仕掛けとして機能し、物語終盤のどんでん返しに実を結ぶ。デビュー作とは思えない繊細な人物描写に加えて、ミステリの趣向を凝らした構成が、本作の最大の魅力の一つであることは間違いない。
 「元々、仕掛けのある小説が苦手でした。仕掛けのためにその作品があるような気がしてしまうからです。でも、大学生の時にカズオ・イシグロさんのある作品を読んだことで、考え方が変わりました。その作品は、『信用できない語り手』というか、主人公が大事なことを隠そうとしているんですけど、真実が明らかになった時に、読者を驚かせるためにそれまでの経緯があるわけではなくて、主人公がなぜ嘘をつかなければならなかったのか、何から目をそらしていて、彼にとってそれの何が問題なのかが、悲しみと一緒に立ち上がってくる感じがしたんです。人間、いくら真実でも、自分の身に起きた辛いことや、言いたくないことは、たとえ小説の中の人物でも黙っている権利があると納得しました。仕掛けが必然性のあるものだったら、自然と作品世界に入り込めたんです」

 小学1年生の時、将来の夢を文集に書こうとして、「小説家」という言葉を知らず「本屋さん」と書いた。10歳の頃、祖母にワープロを買ってもらい、文章を打ち始めた。しばらくは好きな小説の“まねごと”をしていたが、高校から大学にかけて、原稿用紙10枚に満たない作品を完結させるようになり始める。最初に読んだ本は、高峰秀子著『にんげん蚤の市』(新潮文庫)。四人姉妹の三女で、「ドリトル先生」や「クレヨン王国」シリーズ、宮部みゆきなど、姉の本棚にあった女性作家のエッセイやファンタジー小説などを多く読んだ。就職して4年目、長編執筆のきっかけが訪れる。
 「27歳の時に、朝井リョウさんの『桐島、部活やめるってよ』を読みました。あまりにも面白くて、とてもおこがましいのですが、平成生まれの作家にこれだけやられてしまったら私なんかもういらないと思いました。同時に、どうしてもこの人と同じところで生きていくのだったら悠長なことは言っていられない、才能で書けないのは自覚しているから、時間をかけるしかないと思って、その年の冬に、仕事を辞めて執筆活動に専念するようになったんです」

 2年でデビューできなければ諦めると決めて、30歳になるまでの間に、5、6作は書いては応募を繰り返した。『名前も呼べない』に同時収録されている短編「お気に召すまま」は、離婚したばかりの女性英語教師が主人公だ。過去とのしがらみの中で、次第に開き直り自由になっていく人物造形が微笑ましい。次回作も、社会の中で生きづらさを抱える女性の物語を予定している。辛い状況に立たされていても、きっとどこかに救いはある。
 「メッセージ性を押し付けるのではなくて、あ、こういうのもありなんだとか、こういう考え方をしてもいいんだって思ってくれる読者が最低でも一人いてくれれば、私が小説を書く意味があるのではないかと、今は考えています」

 
 

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