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担当編集のテマエミソ新刊案内

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虚言少年

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『虚言少年』京極夏彦

定価:1,700円(本体)+税 7月26日発売

『虚言少年』刊行記念インタビュー
おもしろきこともなき世をおもしろく

 内本健吾──肚の中で何を思っていようとも、表面的には付和雷同で大勢に迎合する。身に危険が及びそうなときには、うっかりを装って単独行動をする。自他ともに認める嘘つき。矢島誉──丸顔で素直。嘘をつかない、親に逆らったこともない、喧嘩もしない。女子にモテたいという一念を多少なりとも秘めているにも拘わらず、モテないことばかりし続ける。京野達彦──人心を掌握する術と場を読む能力に長ける。対話する対象にしか通じないような狭い話題をわざと選ぶ、偏った知識の持ち主。
 緑山田小学校に通う健吾、誉、京野の六年生トリオは、クラスの中では目立たず「馬鹿」という位置を確保している。彼らがなによりも重きを置いているのは、なんでもいいからともかくおもしろがること。登下校の道々で出会う個性的な人たちに勝手に渾名をつけておもしろがったり、クラスで深刻な話題が持ち上がると、表に立つことなくいつの間にか笑いの方向へと巧みに誘導していく……。京極夏彦さんの新刊『虚言少年』は、このトリオがくり広げるおもしろおかしい日常が描かれているのだが、彼らの変哲もない日常には、高度な生きる知恵が織り込まれてもいる。京極さんがこの作品に込めた思いを伺いました。

■時代や場所は、読者のイメージにゆだねる

 ――ふつう少年ものというと、「スタンド・バイ・ミー」のように、ある事件に遭遇してそれをきっかけに成長するという話か、あるいは「三丁目の夕日」みたいなノスタルジーをかき立てる話が多いのですが、『虚言少年』にはそうした要素はほとんどなく、具体的な時代もあまり表に出てきません。

 ぼくは、「時代」で人を括るのが嫌いなんですね。明治時代の人だって平安時代の人だっておつむの構造は変わらないし、やってることだってそう変わりはないと思うんですね。技術や社会の構造なんかが文化に影響を与えることは間違いないことだろうから、そうした環境がその時代を生きた人に「色をつける」ことはあると思いますが、基本は変わらないだろうと。「〇〇年代の若者」という括りは、結局文化論だったり環境論だったりするだけで、普遍的なものではないわけだし。七〇年代はよかったという人は七〇年代にいいぐらいの歳だったというだけの話で、八〇年代にいいぐらいの歳だった人は、八〇年代はよかったという。自分に照らし合わせているだけですよね。

 まあ、五十も近くなってくると、子ども時代のことを懐かしく感じます。でもそれって、要は個人的な記憶なんだし、それをそのまま書いたって小説にはならないだろうなと。エッセイならいいかもしれないけど。だから極力、時代や郷愁に寄りかからないように努めました。

 ――時代もそうですが、この健吾たちが暮らしている町も、具体的にどことは書かれていません。

 場所への思い入れはもっとないんです。土地に対する固執が全然ない。住めば都で、まあ大体環境に順応しちゃいますし、どんなところにも長所も短所もあるわけで、住んでいたというだけで絶賛なんかできないし。ぼくの場合、郷愁というのは体験から導き出されるものではなくて、最初から郷愁としてあるんだろうと思うんです。だから、一度も行ったことがないところが懐かしかったりするわけですね。

 この小説の舞台も、ぼくが住んでいた町の面影がどこかしらあるだろうとは思うけれども、なるべくそう思われないように努めました。読んでいる人それぞれがイメージする町にならないと意味がないからです。そこを知っている人にはおもしろいけど、知らない人にはおもしろくないというのは、いかがなものかと。私小説的なものならまた別なんでしょうけど、そこは通俗娯楽小説なので、読者の中でおもしろいものになってくれないと困る。そんなわけで、あまり体験談的なものにはしたくなかったんですね。

 ――時代、場所のほかに、こうした物語によく出てくる家族、それから恋愛もほとんど出てきません。

 家族が嫌いとか、親が憎いとか、そういうことじゃないんだけど、このくらいの時期って、親や家族との距離が微妙ですよね。小さいころは家族と一緒に旅行や遊びに行ったりしたけれど、小学校六年生にもなればお父さんとお母さんと手をつないで遊園地には行かないでしょ。もう親の囲い込みからは外れかかったところで世界を作ろうとしている。家庭は家庭で大事なんだけど、家族をシャットアウトする時間を持ち始める。もちろん親離れできない子もいるんだけど、それも子ども社会ではむしろ隠すだろうと。家族というのは最小ユニットの社会で、そこのローカルルールが一つ上の社会では通用しないと気づくんですね。

 フィクションの中の家族って、それは驚くほど仲良しで慈しみ合ってる教科書的な関係だとか、反対に憎み合って殺し合ってるとか、そういう特殊なのが多いわけですけれども、もしホントにそうだったとしても、それは表に出さないだろうと。とりあえず家族はいるけれど、妙に親が出てくるというのは、あまりリアリティーがないんじゃないかと思ったんです。

 ――最初の方で、健吾が「恋なんかしない子供だっているのだ」「オモシロイことは幾らでもある。女子にかまけている暇なんぞない」というのも、小学校六年生の男の子のリアリティーなわけですね。

 男の子は子どもっぽいとか言いますけどね、それも人によるでしょう。一方で男は誰でもモテたいはずだというのを大前提にしますよね。それだって人によりますよ。ぼく自身は別に嫌われたいとは思わないけれど、異性にモテたいと思ったことは一回もないです。男女がいれば必ず恋愛が発生するという理屈はおかしいですよ。まあ、恋愛自体は別に悪いものではないだろうから、モテたいと思ったからといって悪いわけじゃないんでしょうけど、モテたいと思わないからといって、怒られる筋合いはない。

 性や恋愛に関しては、世の中の風潮も創作も、もうあからさまに一方的な決めつけが多いわけです。男は発情してて、既婚者は浮気願望があって当然で、老人はバイアグラを飲んでて、ご婦人は欲求不満でホストクラブに通って……それが当たり前な世の中なんてごめんだし、大体、リアリティーがまったくない。もちろん実際にそういう人たちもいるとは思うけれど、全部がそうだという前提で語られることがあまりにも多い。そんなことは断じてないです。男はこうだ、女はこうだろうという決めつけも、差別的ですらあると思う。

 そうじゃない人の方が多いはずなんだけど、みんな「そうかもな」と他人事のように思ってるんですね。で、そういうタイプは娯楽小説においてはおおむね「凡庸」の一言で片づけられてしまうわけです。でも、凡庸の方が圧倒的に多いわけですね。まあ、数が多いから目立たない。格別につらい思いをしているわけでもない。人生で一番大変な事件はどぶに落っこちたことだみたいなやつはごろごろいる。それを凡庸で片づけない小説を書きたくて。恋だの愛だの、そういうわかりやすいもんを排除しても、充分人はおもしろいですから。

■戦わないことの強さ

 ――健吾たち三人は、なるべく目立たないように、中心から少し離れたところからものを見るという位置を確保しています。

 舞台の上からは舞台を見られませんね。テレビに出ているとテレビを見られない。舞台もテレビも、客として見ているほうが断然おもしろいわけですよ。舞台に上がりたいと願う人たちは、そっちの楽しみを放棄しているわけです。

 真ん中に行きたい、トップをとりたいと必死になる人は多いんだけど、一回トップに昇りつめたら、あとは落ちるだけですからね。一方、舞台に上がらなきゃ落ちることもない。それが悪いとは言わないけれども、眺めて楽しむというスタンスを捨てちゃったせいで不幸に陥っている人って、結構多いと思います。自分を騙して力んでいられるうちはいいんでしょうけどね。

 絶対負けない極意とは戦わないことです。勝ちもしませんが。でも戦いは壊すけれども何も生まないです。それを知っている人は、決して戦わないですよ。健吾たちは弱者の知恵としてそのへんをちゃんと体得していて、意外とおもしろく生きている。まあ、それはそれでキープするのが大変なんですが。

 ――健吾たちのすごいところは、いざ事態が深刻になっても、なんとか深刻さを回避しておもしろくしようと、そこにひたすら頭を使っている。

 それを卑怯とみるか賢いとみるかは深刻さの度合いによるんだろうけれど、当事者にならないことで回避されるもろもろというのはあるでしょう。もちろん避けられない事態、避けてはいけない状況というのは必ずあって、その場合はダメージが大きいわけだけれども、そういう時にも常に固まらずに前向きに対処するためには、平時における「平常心を温存しておく努力」というのは大切なわけですね。彼らは馬鹿なんだけど、そういう点では賢いんですね。

 つらいことや悲しいことはどんな状況でも必ず起きるんです。そこで泣いたり怒ったりしないで、笑いに転化するわけですね。それは「逃げ」ではないわけです。大きな障害にぶつかった時、それに「立ち向かう」「打ち壊す」「歯をくいしばってがんばる」のは、決して効率の良い対処の仕方ではないわけ。障害を無効化する方向というのは必ずあるし、それは戦えばいいというものではない。

 体制を変えようとするとき、一番非効率的なのが怒りにまかせて戦いを挑むことです。怒りというのは、たしかに原動力足り得るものなんだけれども、「怒りを収めること」と、「本当に望ましい姿に変えること」は同義ではない。怒りは感情ですから、時に爆発するし、長続きもしない。下手をすると暴走してより悪くなったりするし、状況が好転していないのに表向きの対応だけで怒りだけが収まっちゃったりもする。そうして失速してしまうことがいかに多いことか。

 起きてしまったことはどうすることもできません。前向きというのは、どんな状況であってもそれを呑み込んで、そこから少しずつでもあるべき姿に変えて行く態度ということでしょう。要求が通らないから諦めるとか、手のほどこしようがないから「終わった」と投げ出すとか、逆ギレするとか、そういう態度は全然前向きじゃない。実際、個人の力には限界があります。個人ではなにもできない、だから力を合わせろというんだけど、「数」が強度を保証するというのも少し違う気もします。多い方が間違っていたら、道を誤ってしまいますからね。個人個人が「見方を変える」努力をした方がいい。どんなものでも一旦受け止めてそこから始めるしかないわけで、受け止める際の心の持ちようというのは大事ですよね。

 この三人組は学校をサボるわけじゃないし、先生に逆らってもいないし、親のいうことも聞いている。反体制の旗を振ることがどれだけ愚かしいかということをよく知っているわけです。かといって、体制に与するほど愚かでもない。健吾たちにしてみれば、世の中というのはクラスなわけです。クラスの中ででかい声を出して「おれは正しい」と主張することの愚かしさと、でかい声のやつに追随することの愚かしさ、そのどちらも避けたいと思っている。彼らは「おもしろい」ほうがいいと思っているわけで、馬鹿を装って、全体の流れをうまくコントロールしていく。そのためには全体を俯瞰できているほうがいい。だから傍観者でいようとするんですね。

■卑怯でも、おもしろければOK

 ――しかも、そこにおもしろさを加えるというのは、非常に高度な業ですね。それがないと……。

 いや、まあおもしろくなきゃただの卑怯なんですよ。でも、卑怯ってルール違反ではないわけです。明らかなルール違反は失格ですから、それは卑怯とは言われないでしょう? それはダメなんです。卑怯というのは、ぎりぎりルールの内々ではあるの。明文化されてない、何となく倫理的にいかんとか道徳的に許せないとか、そういう感情みたいなもんで判断されるんですよね、卑怯って。将棋盤のすみっこに駒を置いといてですね、「あ! それ張ってたんじゃないのかよ」みたいな。「わははは、置いてただけですよーん」というような(笑)。これは卑怯です。卑怯ですが、そこは笑っときましょうよ、ということですね。この野郎ズルしやがってとマジ切れするのは、大人げないでしょ。いや、決まりを守ってないというのなら、これは怒る前にもうNGですからね。いずれ怒ることはないわけ。ならね、笑えた方がいいでしょう。一休さんのとんちだって、あれは卑怯のうちなんですよ。笑える方向に持って行くから作戦になる。

 いや、実は卑怯者が好きなんですよ。武将で一番好きなのは小早川金吾中納言秀秋ですからね。あの人はよく卑怯者チャンピオン的にいわれてますけど、ぼくは武士の鑑だと思ってます。いや、ちゃんと理由もあるんですけどね。忠臣蔵なら大野九郎兵衛が好きだし(笑)。

 そもそも卑怯者って武士が使う言葉でしょう。一対一の真剣勝負のときにいきなり相手の顔に砂かけたら、まあ卑怯者と呼ばれるでしょう。これが町人の喧嘩なら「卑怯も蜂の頭もねえや、この野郎!」でしょ。とにかく勝てばいいんだから。でも明治以降、武士的というか、儒教的なあり方が一般にも敷延されて、それが日本の伝統と履き違えられてしまったようなところがある。だから、長幼の序だとか、滅私奉公だとか、まじめにするのと深刻にするのと取り違えたような風潮が席巻しちゃってるでしょう。それは悪いことばかりじゃないんだろうけれども、最初は国策的なところもあったわけだし、兵隊作るのに適したものでもあったわけだから、そこはもっとラディカルに構えて、いろいろ疑ってかかった方がいいとも思うんですね。

■おもしろく生きることは、正しい

 ただ、疑ってかかるのはいいんだけど、そうすると何でもかんでも全否定しちゃうでしょ。あれは何なんでしょうね。どんなもんでも良いところと悪いところはあるんだから、悪いところは直せばいいってだけのことで、全肯定か全否定かみたいな捉え方って良くないと思いますね。意見が対立した場合、どっちも一歩も譲らない譲れないとなれば、それは両方ダメってことなんですよ。それじゃより悪くなるだけです。打開策はまるで違うところにあるか、さもなきゃ譲り合ったりしなきゃいけないわけで。妥協だって悪い意味でしか使われませんけど、要は歩み寄ってるってことでしょう。

 まあ、世の中には「これは絶対にいかん」ということもありますよ。そこは譲れないでしょう。でも、そうでないなら、ちょっとずつ我慢したり、我慢してもらったりしなきゃ立ち行かないでしょう。諦めるとか、堪えるとか、そういう後ろ向きな捉え方をしないで、「この条件の中でどれだけ良くできるか」を考える方が建設的でしょう。ただ意地張ってるだけで、実はどっちでもいいことって多いんですよ。体制や伝統を疑うのと同じくらい、自分のことも疑うべきです。内省してこそ建設的な妥協みたいなものが生まれるわけで。思い込みが激しいのはいかんですね。下手をすると、それこそ全体主義的な思考停止状態に陥りかねませんからね。市民を守るための運動だったはずが、魔女狩りみたいになっちゃったりするでしょ。それはもう、いけないし、おもしろくない。

 ――健吾たちはそこをうまく脱力していく。彼らが日々やっていることは、江戸の町人たちが、「やつし」とか「もどき」とかで遊んでいたような感覚とも通じる気がします。

 日本人は、「いき」とか「わび」とか、明瞭に言語化できない価値観を昔から持っていますね。遊びにしても、江戸時代には「もどき」とか、「ぞろえ」とか、「づくし」とか、「見立て」とか、抽象化した概念操作が頻繁に行われていた。つまり、何でもないものをものすごくおもしろがったりする文化があるんです。

 大体、道を歩いているおやじの顔を見て笑うというのは失礼ですよ。でも、彼らはおやじ自体を笑っているのではない。おやじを入口としているだけです。いわば「高度な笑い」を求めてる。そういう精神性みたいなものがあれば、多分、毎日がすごくおもしろいんです。失敗した自分がおもしろいとか、倒産した会社がおかしいとか、リストラされた自分が哀れみを持って歩いている姿を遠くから眺めている気になったら笑っちゃったとか、金を落としたところが滑稽だとか、何でもいいんです。笑うことで、マイナスが全部プラスに転じてしまうことがある。そこが大事だと思う。

 そうしたあり方って、意識していないだけで自然に備わっているもんなんじゃないかと思うんですよ。みんな、つらい現実をそうやって乗り切っているんだと思う。でも、それって時に「不謹慎」と言われたり、「正しくない」と思われたりしちゃうんですよ。眉間にシワ刻んで歯をくいしばってるのが唯一正しい姿だと思い込んでる人にとっては、いかん姿に映るんでしょうね。でも、人はそんなに強くないですからね。もっとしなやかにしてなきゃ、折れちゃいますよ。泣いたり怒ったりすることで現状が良くなるならいくらでもしますけど、残念ながらそんなことでは何も変わらないんです。例えば誰か大事な人が亡くなったとして、まあ悲しいのは悲しいで仕方がないんですが、悲しいのは自分なんであって亡くなった人じゃないんです。亡くなった方が泣き暮らしてる遺族を見て喜びますかね? 自分は死んじゃったんだからお前も道連れじゃあとか思いますかね? それは違うでしょう。死者を悼む敬虔な気持ちと、健全にたくましく生きていくことは別のことだし、並び立つものです。ただ悲しんだり怒ったりしてるのってだだをこねてるのと一緒ですからね。おかしければ笑うべきです。笑える人生を送ることが失ったものに対する何よりの供養でしょう。度の過ぎた自粛は犯罪的ですよ。だからまあ、健吾たちは正しいと思いますよ。でもやっぱり、不謹慎で卑怯で正しくないと見られてしまうわけで、喧嘩しても腹が空くだけだから、目立たないように陰に隠れてひっそりと生きているわけですね、彼らは(笑)。


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