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虚言少年

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『虚言少年』京極夏彦

定価:1,700円(本体)+税 7月26日発売

■歳をとっても年寄りになれない

 ――ここで描かれているのは、ごくふつうの日常的な出来事ですが、大震災以後の状況にこの作品を置いてみると、こうした日常が逆に珍しく思えてしまう気がします。

 大部分は震災前に執筆したものですから、書いている時はあまり意識しませんでしたが、この状況で出版することになって読み返すと、日常を謳歌すること、謳歌できることのありがたさや素晴らしさ、そして難しさが浮き彫りになっちゃったような気もしますね。

 ――日常ということでいえば、近刊の『オジいサン』も、老人の坦々とした日常が描かれています。

 この『虚言少年』と、前作の『オジいサン』はほぼ同時期に連載していたものです。老人視点と子ども視点という違いはあるものの、というかそれは大きな違いだろうとも思いますが(笑)、あまりギャップは感じませんでした。ちなみに、時代は違いますがどちらも同じ町が舞台になっています。読んでいただけばおわかりになると思いますけど、同じ電気屋さんが出てきます。

 ぼくは幼い頃から年寄りにあこがれていて、早く年寄りになりたかったんです。ところが、五十を目の前にして思うのは、ちっとも年寄りになってないということですね。いや、肉体は確実に衰えているんだけれど、中身は全然変わっていない。昔は、人間って、どんどん成長していくものだと思っていたんです。十歳よりも二十歳のほうが、二十歳よりも三十歳のほうが賢くなるし、立派になるんだろうと思っていました。逆にどんどんダメになるとか。よく言うでしょう、薄汚れた大人になっちまったぜとか(笑)。いずれ変化するもんだと思ってました。ところが、実際には全然変わらない。つまらない処世術みたいなものなんかは嫌でも身につくし、マニュアル的なことは学習するんだけれど、人間としてはまったく変わらんのです。つまりこの先も老成しない。老賢者にはならない。老獪にもなれない。ただ汚らしく老けていくだけですね。

 見た目がどんどん老けていくから、それに応じたジジイ構えをしないと世の中と添っていけないことになるんですが、まあそれだけの話で。中身はもう、ガキの頃とおんなじですよ。ああ、人間て成長しないんだなあと、ある日悟ってですね、そうしたら老人も子どもも同じように書きゃいいんだと、楽になりました。

■「水に流す」は日本人の美徳

 小説って、極めて少ない情報でできあがっているもんですね。全方位的に森羅万象を網羅して作られてるものじゃない。現実を100とするなら、0.00001くらいしか書かれてないです。そりゃもう省かれてるわけです。省かなきゃ書けないですよ。じゃあ何を取って何を省くのかってことですね。

 ハードボイルドの場合は、登場人物の内面描写はカットされます。所作やせりふ、行動だけで、何を考えているのかを読み取らせる手法ですね。狭義の私小説なんかは、まあ自分のことを書くんでしょう。経験や感情や葛藤や、そうしたものを書くことで、自己の内面の深みやら思想やら主張やらを表現しようとするんだろうけれど、それだって全部は書けないですよ。取捨選択はされているし、そうでなければ他人にわかってもらえるものにはなりませんね。

 で、まあぼくはそういうことはどうでも良くて(笑)、こんなですから、まずストーリーやらプロットやらを廃してみようと。それはずっと考えていて、『死ねばいいのに』にしても、それ以外の作品にしても、企み自体は似通ったところがあるわけですが。

『オジいサン』は、ほんとにストーリーもプロットもないですね。老人の「思考の積み重ね」だけで読みものにならんかなあと。二十分なら二十分、爺さんの思考と文章の進みを同じ時間にする、リアルタイム爺さん脳内体験ですね。それで読者の体感時間とジジイの脳内時間がシンクロしたならおもしろいんじゃないかあと。そのためには筋だの構造だのは邪魔なだけだなと思った。

『虚言少年』の方も、まあ筋らしい筋はないです。特別なことは起こらんですね。いや、日常生活にはあんまり起きないでしょ、殺人事件とか謀略事件とか燃えるような恋とか血も凍る心霊体験とか。ないですね? でも、腹が痛いとか画鋲ふんだとか、そういうことがいちいち大事件なんです。健吾の思考を主軸にすることで「バカな子ども体験」が再現できたらいいかなと。「次にどうなるのかなこの展開」というワクワク感じゃなくて「次はどう考えるんだろうこのバカは」という、がっかり感というか。

 健吾は嘘をつくわけだけれども、だいたいつかなくていい嘘ですね。ですから、ストーリーはないので意外な展開も何もないんだけど、唯一「ここで嘘かよ」みたいな(笑)。いや、子どもって嘘つくでしょう。大人もつくんだけど、子どもは自分まで騙しちゃったりするし。まあ嘘はいかんのですが、こういう、とことんどうでもよくて、それでいてつくことで笑える嘘ならね、それで何でもない平板な日常が笑える状況に転化するのなら、それこそ「嘘も方便」だろうなあと。

 健吾の嘘は「怒らない」ためのツールにもなってますね。腹立ててもいいような局面であっても、三人はまず怒らない。すべて水に流しているわけです。

 いや、いま一番誤解されている言葉が、この「水に流す」だと思うんですね。すごく嫌われているでしょ。「とりあえず水に流せばいいや」というのは、日本人の一番悪いところだ、みたいなことをいうでしょう。でも、水に流すというのは、すべてちゃらにするという意味じゃないんですよ。水に流すというのは、決して「なかったことに」しろという意味じゃないですよ。「なかったこと」になんかできないですよ、一度起こってしまったことは。水に流せるのは災厄であって、現実じゃないんです。だから、何か悪いことがあったとしても、起きてしまったことはきちんと受けとめて、怒ったり悲しんだり、ぐちぐち後悔したりするのをやめようよ、ということですよね。

 悪いことというのは、必ず起きます。なくなりません。なくす努力は大切だけども、人の力には限界があるから、どんな局面だって「悪しきこと」は起きるんです。だから悪いことは悪いことで受けとめなきゃいかんでしょう。「水に流す」というのは、現実を現実のままに受けとめて、そのうえで前向きになれと、そうでなければ最善の対処はできないぞという意味だとぼくは捉えています。流すのは、悪い気持ちや感情なんですよ。「水に流す」というのは日本ならではの美徳だと思いますね。でも、これも世界基準ではダメといわれちゃうから、なかなか堂々といえないんですけどね。

■妖怪の基本は笑い飛ばすこと

 ──この三人組を見ていると、日常というものの強かさを感じます。

 人間は、「今いる環境」がすべてです。世界を変革することはできないだろうけど、身の回りのことなら自分の力でなんとかなりますよ。日本がいやならアメリカに行くことだってできます。でも、アメリカだってそんなに違わないですね。どこに行ったって同じです。世界を相手にしているんだと威張ってみても、実際には目の前にいるせいぜい十人か十五人ぐらいしか相手にできない。実は、そんな狭い中で人間は生きているわけです。

 技術の進歩によって世界中の人と一瞬にしてコンタクトできるようになったからといって、部屋の戸を開けると、横になって寝ているのは自分の息子だったり、年老いたばあちゃんだったりするわけ。世界のことももちろん大事なんだけど、ばあちゃんとうまくやって行くことはもっと大事ですよ、個人としては。

 日常の積み重ねが人生です。日常を大切にすることは大事だし、日常におもしろさを見つけ出すことはもっと大事です。どんなつらい状況であっても、おもしろいことはあるんです。そこに希望がある。大勢の日常こそが世界なんですから。いや、単に明るくしろということではないんですね。見方を変えてみるということですね。日本人は昔からそういうことができる文化を持っていたし、いまでもみんな意識していないだけで、実は、毎日そうやって乗り切っているんだと思うんです。

 書きおろしの章を書いていたあたりで、大震災がありました。テレビも新聞も、被災者の方たちに向かってこぞって「頑張れ、頑張れ」と連呼していた。それを見て、「みんな頑張っているじゃん、これ以上どうするんだよ」と思いました。まあ他にもそう思った人はいたようですが。

 ぼくが一番ほっとしたのは、あの劣悪な環境の避難所の中で笑ってる人の姿を見かけた時でした。何かがおかしかったんでしょうね。その笑いには、何よりも強さを感じた。「絶対おれは負けないゾ!」と気張ってる人よりも、「隣のおばあちゃんの寝相がおかしい」とかいっている人のほうが強い。楽しくやっていれば勝つ、笑いのほうが苦難には勝てるんだと実感しました。

 ぼくは「全日本妖怪推進委員会」です。妖怪というのは、こういうつらいことや悲しいこと、災いなどをキャラクターにして、それを退治したり、やっつけたり、笑い物にしたりするために生み出されたものなんですね。つらい現実から目を背けるのではなく、笑い飛ばすというのが妖怪の基本なんです。だから、この『虚言少年』に出てくる三人は、とても妖怪的な生き方をしているわけですよ。つまらない世をおもしろく、おもしろきこともなき世をおもしろく──。ぼくも、かくありたいですね。

(了)

聞き手・構成=増子信一/撮影=chihiro.
※こちらのインタビューの一部は「青春と読書」8月号にも掲載されています。

京極夏彦(きょうごく・なつひこ) 一九六三年生まれ。小説家、意匠家。世界妖怪協会・世界妖怪会議評議員。全日本妖怪推進委員会肝煎。関東水木会会員。
「怪談之怪」発起人。古典遊戯研究会紙舞会員。九四年『姑獲鳥の夏』でデビュー。九六年『魍魎の匣』で日本推理作家協会賞長編部門、九七年『嗤う伊右衛門』で泉鏡花賞、二〇〇三年 『覘き小平次』で山本周五郎賞、〇四年 『後巷説百物語』で直木賞受賞。他の著作に『どすこい。』『南極(廉)』『オジいサン』などがある。


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