現在の東京都新宿区百人町ひやくにんちようの町名は、江戸時代、この地に居を構えていた「鉄砲百人組」に由来します。彼らは将軍警護の傍ら、この地でつつじを栽培していました――。

梶よう子さんの『本日も晴天なり 鉄砲同心つつじ暦』は、幕末の江戸を舞台に、鉄砲百人組に属する同心・礫丈一郎つぶてじよういちろうと、その家族が織りなす心温まる物語です。

鉄砲を扱うよりつつじの世話が好きだという優しく穏やかな丈一郎と、彼を取り巻く個性的な登場人物たち。

親を思うゆえ、子を思うゆえに巻き起こるエピソードの数々は、時代は違えどどこの家庭にもありそうなものばかりです。

梶さんに本作に込めた思いを伺いました。

初出=「青春と読書」2021年4月号/聞き手・構成=小元佳津江/撮影=山口真由子

『本日も晴天なり 鉄砲同心つつじ暦』書影
満開のつつじ畑に集う礫(つぶて)家の人々。装画は新目惠さん、装丁は泉沢光雄さんが手がけてくださいました。

鉄砲同心とつつじの面白い関係

―― 江戸時代、鉄砲同心たちがつつじを栽培していた。まず、この事実が非常に面白いなと思いました。

 そうなんです。現在の大久保駅のあたりには、江戸城に攻め込んでくる敵を迎え撃つという意味もあり、鉄砲を専門に扱う武士・鉄砲同心たちのお屋敷がありました。江戸時代はいくさのない時期が続きましたから、彼らは武功が上げられず、だんだん稼げなくなっていく。同心のお給料は「三十俵二人扶持ににんぶち」という非常にわずかなもので、それが上がる見込みもない。ということで、副業をする武士も多かったんです。鉄砲同心たちがしていた副業が、つつじ栽培でした。面白いなあと思うのが、鉄砲に必要な火薬がつつじの肥料になるからなんですよね。人を殺してしまう武器の材料が、人を喜ばせる花に変わることの面白さ、大切さ。鉄砲同心でなければあのつつじはできなかったんだと思うと、あらまあ、江戸期の人たちのアイデアもすごいなと。
 江戸時代で植物というと、御徒おかち組が朝顔の鉢植えを売っていたのはよく知られていますが、御徒組と朝顔って特別深くは結びつかないんですよ。朝顔を作っていた植木屋が「簡単だから売れば」と言ったのが、御徒組に広まったというだけなので。でも、鉄砲同心たちのつつじは違う。自分たちの仕事道具を肥料にしているという点で、ものすごく説得力があるなと思いました。

――同心たちが育てたつつじは大きな評判を呼び、多くの人が見物や買いつけにやってきたという話も出てきますね。

 鉄砲百人組には、与力同心屋敷として十七万坪という広大な土地が与えられていました。そこにうなぎの寝床のような短冊状の屋敷が規則正しく並んでいたわけですが、母屋おもやの裏側がすべて庭だったので、裏庭一面がつつじでいっぱいになったんです。つつじは低木のイメージですが、二、三メートルの高木もあり、江戸時代には一大名所になっていました。今でいうテーマパークのような感じですね。『江戸名所図会えどめいしよずえ』で描かれている大久保を見ると、当時の盛況ぶりが窺えます。今は、大久保駅ガード下の壁面に鉄砲隊とつつじの絵が描かれてはいるものの、つつじの花は公園に植えられているくらいで、往時の面影がなく、悲しいですが……新宿区の区の花であるのが救いかな。

―― 梶さんは、デビュー作の頃から植物をテーマに作品を多く書かれています。やはり、何か植物に対する思い入れがあるのでしょうか。

 単純に、花や植物が好きなんですよね。本当に、見ているだけで常に何かを与えてくれる存在だなと感じます。今は新型コロナウイルスの影響で外出もままならないですが、お部屋に一輪飾るだけでも全く雰囲気が変わりますしね。実家の庭にいつも花が咲いていたことも大きいかもしれません。母が生け花の師範だったせいか四季いつでも花が絶えたことがなかったんです。つつじも地植えがありましたけれど、父は、さつきの盆栽を仕立てていたんです。たまに枝を折ってしまったり、お手伝いのつもりで水やりしたら、水をやってはいけないタイミングだったりして、ひどく怒られましたが(笑)

揺らぐ武士の存在意義と主人公・丈一郎の思い

―― 主人公の丈一郎は、鉄砲のお役目よりつつじ栽培に精を出したいタイプ。対して、彼の父親・徳右衛門とくえもんはつつじ栽培は苦手で、常在戦場を心がけよというような武士らしい武士です。いわば真逆ともいえる二人の掛け合いが、ハラハラしつつもどこかユーモラスで、ぐいぐいと引き込まれました。

 二人は、性格の違いももちろんありますが、あの時代の武士というものに対して、三十二歳の丈一郎と五十六歳の徳右衛門では感じ方が違う。そうした世代間の違いでもあるんですよね。鉄砲同心は、将軍の警護や、有事の際は戦って将軍や江戸城を守るというお役目があるわけですが、平和続きで出番もなく、武士の存在意義が揺らぎ始めていた。
 そんななかで現代に置き換えれば、徳右衛門は猛烈なサラリーマンをずっとやってきて、ただひたすら、今自分が行うべき仕事というのを見つめているわけです。それが彼の誇りでもある。対して丈一郎は、多分世の中はこれからどんどん変わっていく、クラウド化だとかAIとか、そんな時代になっていくんじゃないかと考えている。若いぶん、先の時代の流れも視野に入ってきているわけです。つつじの栽培は大好きだけど、鉄砲同心ってこの先どうなんだろうと感じている。そんな丈一郎と、どこかでそれに気づきながらも変えることができない徳右衛門、そういう対比で描いてみたいと思っていました。

―― 梶さんは「御薬園おやくえん同心 水上草介」のシリーズでも同心を主人公にされていました。今回も同心という設定を選ばれたのはなぜですか。

 それは、同心が一番悩んでいる人たちで、今の私たちに一番近い人たちだからですかね。徳川幕府というのは、いうなれば「徳川会社」みたいなものです。幕府は公的な機関なのでお役所ではありますが、そこに勤める同心は現代のサラリーマンのような存在だと思うんです。同心の場合、先祖の働きでお給料の金額が決まっていてずっと変わらず、出世もないので、さらなる苦しさがあったかもしれませんが。
 丈一郎たちの時代は異国船が来始めている時代です。つまり、明治維新前夜の幕府の形態がどんどん崩れていくような時代に彼らが何を考えていたかというと、実は今のサラリーマンの方たちと同じようなことだったんじゃないかと思うんです。会社が潰れそうとか、自分たちはどうしようとか。そういう哀愁や怖さを肌身に感じていたのは、やっぱり丈一郎ぐらいの若い人たち。まだまだ先のある人たちですよね。

―― たしかに今の若い人たちにも、これまでの企業のあり方に違和感や疑問を抱いている人は多いのではないかと思います。そう考えると、丈一郎とも通じるところがある気がしますね。

 やはり一つの大きな時代の枠組みみたいなものがあって、それが飽和状態になってくると、何か違うムーブメントが起こるというか、新しい考え方や思想が出てくるんじゃないかとは思いますね。だから、現代に起こっていることも、少し昔のことを見てみると、なるほど歴史は繰り返すんだなと、いつも思います。でも、それならなぜ同じことを繰り返すのか、なぜもう少し学ばないのか、とも思いますけどね(笑)。

女性だって言いたいことを言ってよいのでは

――礫家は、主人公の丈一郎を中心に、父親の徳右衛門、母親の広江ひろえ、徳右衛門の母の登代乃とよの、丈一郎の妻のみどり、二人の息子の市松いちまつ、計六人家族です。本作では、家族を描くということが一つのテーマだったそうですが、まず意識されたのはどんなことでしたか。

 わちゃわちゃとした家族の姿、懐かしいテレビドラマでいえば『寺内貫太郎一家』のような、いつもトラブルが絶えないものの、人情味もあって、なんだかんだいいながら家族のなかで解決していく。そんなイメージを抱いていましたね。

―― 芯はしっかりあるものの心優しい丈一郎と、常にズバズバものを言う妻のみどり。二人の関係も印象的ですね。

 優しいけど芯が強い男性というのは、多分私の好みなんだと思います(笑)。女性が気が強くても、男性は緩衝材みたいにぼよーんと受け止めているだけみたいな。そんな心の広さがある。やあやあ言われても、うーんと聞いていられる。でも、話の核になることはちゃんと聞いているというような夫婦関係や恋人関係。いまさらながら憧れますよね。

―― みどりは義父の徳右衛門に対してもほとんど遠慮がなく、ビシバシ言いますよね。そこがすごいなと思いました。

 江戸時代なので、本来だったら、みどりみたいな口の利き方をしたら大変ですけどね。いや、今でも許されないかもしれません。でも、しゆうとに対して嫁もこれくらい言ってもいいじゃない、自分の気持ちを出したっていいじゃない、という願望でしょう。これを読んで気持ちいいなと思ってくださる方がいるなら、それでいいかなって。現実には難しいかもしれませんけど。ただ、みどりは憎くて言っている訳じゃない。信頼関係があればこそです。だからこそ許される。それが礫一家なんですね。

家族でも言えないことがある

―― 風通しのよさそうな礫家は、やはり梶さんの理想の家族に近いんでしょうか。

 そうですね。ただ、今回書いていて感じたことは、家族でも言えないことがあるということでした。夫婦間でも言えない、親子間でも言えない。だから、まず自分のなかでとことんその問題に向き合ってみる。で、やっと少し解決がついてきたら、誰かに相談してみるとか。家族だからって何でも話せるわけじゃないですよね。でも、お互いを思いやっていれば、結果的には家族だからこそさりげない形で解決できるはずだと、そういうものを目指しながら書いていました。
 私、家族の「絆」という言葉、あまり好きじゃないんですよ。絆は、本来、家畜などを繫ぎ止めるとか、人をほだすという意味なので。家族って、血縁があろうとなかろうとやっぱり別の人間の集まりですからね。それを忘れ、甘えもあって関係を過信してしまうと、ちょっとしたことから齟齬そごが出て、傷つけあってしまうこともある。他人は二度と会わなきゃいいですが、身内はそうはいかない。他人より、家族の関係のほうが難しいかもしれません。大切なのは、どれだけ相手を尊重し、きちんと別人格として捉えられるか。一緒にいるからこそできる遠慮や気遣いってあると思うんです。言葉には出てこないけれど、こんなふうに考えているんだろうなという、秘めた思いを汲み取ってあげること。それが家族をつないでいくうえで一番大事な部分なのかなと思います。だから、本書を書くときも、そこはかなり意識しましたね。

―― 丈一郎と徳右衛門は、よく取っ組み合いのけんかもしていますね。あの場面が、けんかなんだけれど何だかほのぼのとした気持ちになり、とても好きでした。

 あのけんかで遺恨を残すわけではない。むしろ二人は、それがないと何となく物足りなかったりする。取っ組み合うなかで、言葉はなくても解決していることがあったりするわけです。父と息子の力の強さが逆転していたり。
 江戸時代ということもあり、徳右衛門は家長としてドンと存在する。彼に対しては、丈一郎はやっぱり子どもなんです。子どもだからって親の考えていることなんてわからない。親のほうも子どもの考えていることなんてわからない。だけど、だんだんと老齢にさしかかる徳右衛門から、これまでの知られざる一面や考え方みたいなものがにじみ出てきて、丈一郎もそれに刺激を受けて成長していく。三十過ぎの男に成長というのもどうかと思いますが、そういう刺激のなかで、息子の市松をどう育てていこうとか、家族とはどうあるべきかということを、彼が考えるようになる。そうして、最終的にはみんなをまとめる存在になっていく。特に後半は、丈一郎にそんな希望を託しながら書いていましたね。
 市松は市松で、家庭を一番小さな社会として、やがては大きな社会へ出ていく勉強をしなければいけない。丈一郎とみどりは、徳右衛門と広江夫婦や登代乃を見ながら学んでいく。家族というのはやはり、人間を育て、社会に送り出すために構成されているものだと思うんですよね。

子どもは親に切ない噓をつくこともある

―― 市松がお友達の新之丞しんのじようとの間でちょっとしたトラブルを起こし、それが原因で親同士にも諍いさかいが起こるところなどは、現代にもありそうなシーンで考えさせられました。

 子どもに関する話は、実体験とまではいきませんが、親としていろいろ見てきたなかで感じたことなども入れながら書きました。でも、こういう場面で親がどうあるべきかというのは難しい問題だと思いますね。このシーンでは、表面の事実だけでは見えない子ども同士の事情があったわけですが、子どももいろんな思いを抱えていますから、悩んでいても親に伝えられないときがある。子どもだって自分を守りたいから、常に100%本当のことを言うとは限りませんよね。親にも噓つきますよ。心配をかけたくないからという、「切ない噓」のときもありますしね。
 だから、難しいけど親は、子どもを尊重してあげながらも、子どもの言葉通りそのままを信じるのはダメだと思っているんです。取材する姿勢が必要というか、周りから攻めていかないとわからないことが多いですよね。そんな思いもあり、このシーンは、どう市松の成長を見ていくべきか、どういう方向に向けてあげればいいのかを、丈一郎とみどりに考えてほしいという気持ちで書いていました。

―― 親として、子として、いろいろなことを考えさせられながら、礫一家には本当にほっこりさせてもらいました。

 今回、新型コロナウイルスのことがあり、家族のあり方や日常の暮らしをあらためて考えましたね。もし、コロナ禍で孤独になってしまっている方がいたら、何とか家族にSOSを出してほしい、と強く思いました。「おばあちゃん元気かな」って電話してみるとか。オンラインでなくても電話でもいいわけですし。家族が難しいという方は、手っ取り早く独り言でもいい。ともかく声を出す。物書きは年柄年中ステイホームです(笑)。何日も会話がないこともザラです。登場人物のセリフを口にしたり、テレビ番組にツッコミを入れたりしてメンタルを保ちますが、音声にするのはとても大事です。それでもやはり人との会話を一番おすすめします。
 不安や苛立ちが募る今、家族とともにある方も、一人で孤独を感じている方も、わちゃわちゃな礫一家で少しでも温まっていただけたら、と願っています。