rabuka
イラスト/よしおか

武器はチェロ、潜入先は音楽教室――。
少年時代のトラウマを抱える孤独な青年・橘は、上司の命令をうけ音楽教室に潜入調査へ。
チェロ講師・浅葉の生徒となるが、彼の演奏に魅了され……。
続々重版! 感動の❝スパイ×音楽小説❞『ラブカは静かに弓を持つ』のスピンオフを安壇美緒さんが書きおろし!

講師・浅葉視点で、橘とのかけがえのない師弟関係のはじまりを描きだす、スペシャルショートストーリーをお楽しみください。

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音色と素性  安壇美緒

 ミカサ音楽教室の先生って仕事を、俺、あさおうろうは結構気に入っている。
小さなスタジオの中で椅子に座って待っているだけで、俺にチェロを教わりたい、という生徒が次々にやって来てくれるのだから。
 最近、レッスンに通い始めたたちばな君という二個下の奴は、ちょっと変わっていて面白い。
「タッタタラッタタラッタラーのところ、ちょっとリズムがもたついてるな。少しテンポ落としていいから、そこ丁寧に弾いてみて。とはいえ、意識は弓から逸らさずに」
 チェロはとにかく弓だから、と俺がいつもの台詞せりふを口にすると、目の前でチェロを弾いていた男が、はい、と生真面目に返事をした。相変わらず、絵画から抜け出てきたかのような、謎に整った容貌をしている。そこら辺によくいる感じのイケメンではなく、場に違和感を覚えるようなレベルだ。でも仕事は芸能関係とかではないらしく、聞けば公務員だと言う。
 橘君は、俺の生徒の中では抜群に弾ける奴だった。中学以来、まったく弾いていなかったらしいのに、しっかりと基礎が身に付いている。それは本人の資質ゆえでもあるのだろうし、かつての師匠の教え方が良かったというのもあるのだろう。
 最初の体験レッスンで弾いてもらった段階で、いいな、と思ったのをよく覚えている。
「あれだな、一曲を丁寧に仕上げていく方向性に変えて良かったね。レッスンの時に余裕が出るでしょ。自宅にチェロ借りとくと」
「そうですね。自分で練習してからここに来られるとやっぱり違うので……」
 橘君がここの教室のチェロをレンタルし始めたのは、ついこの間のことだ。それまでは仕事が忙しすぎて、週末に自主練をする時間すら取れなかったらしい。少し前、このスタジオでぶっ倒れられた時は本人よりも俺がビビった。よく言えば真面目なのだが、悪く言えば要領がよくはなさそうで、もしかしたら職場でもていよく使われまくっているのかもしれない。
 ぱっと見、なんでもそつなくこなせそうな雰囲気なのに、人は見かけに寄らない。
「家の近くのカラオケまでチェロ背負って行ってんだっけ? 自主練の時」
「……なんか、毎回でかい部屋にわざわざ通されるのでちょっと恥ずかしいんですよね」
 楽器がでかいからですかね、と橘君が微妙そうに首を傾げる。別に部屋なんてでかいほうがいいだろうよ、と思うのだが、何をそんなに気にしているのか俺にはよくわからない。
 でも、この過剰なまでの繊細さが、こいつの奏でる音楽を豊かにしているような気がする。
「よし、じゃあもう一回。頭から」
 俺が脚を組み直してそう言うと、橘君が弓を構えて、チェロの腹部に視線を落とした。
 ポップスが弾いてみたいです、と最初に橘君は言っていた。
 子どもの頃に師事していた先生は、ドッツァウアーやリーなんかのチェロ練習曲以外を弾くことを許してくれなかったらしい。たぶん当時から、この子は見込みがあると思われていたのだろう。もしかしたら、優秀なチェリストに育ててやるつもりだったのかもしれない。
 いまからでは叶わないのだろうが、俺にはその先生の気持ちがよくわかる。
「うん、さっきより良くなった。でもまだちょっと左手の運指が苦しそうだな」
 弓使いはもっと軽く、と俺が指摘すると、橘君がみずからの指先をじっと見つめた。その瞳はあまりに真剣で、いわゆる趣味、の範疇に収まるものではないようにも思える。
 本来、音楽というものは、ただ楽しむためにあるものだ。趣味でもなんでも、そいつの人生が少しでも豊かになるのなら、俺はそれでいいと思っている。
 それなのに、磨かれるタイミングを逃した才能を惜しんでしまうのはどうしてだろう。
「一回、俺が弾いてみるかな。テンポ落としてやってみるから、リズム、耳で覚えて」
 床に寝かせてあった自分のチェロを起こして、ボディを膝の間に挟み、上部のネックの部分を左胸に軽く当てると、それだけでどこか気持ちが落ち着いた。
 ぴんと張った弓を構えて、軽くお手本を見せてやる。
 俺がチェロを始めたのは、十一歳の時だった。身体の奥深くまで響きが落ちてくるような感覚は、それまでやっていたピアノでは得られなかったものだった。音域が広いチェロは、ヴァイオリンのように高らかな音を奏でることも、コントラバスのように重厚な音を奏でることも出来る。人の声に一番近いと言われている楽器が、チェロだ。
 弦の震えは、弾いている者の身体をも同時に戦慄わななかせる。弓を動かしている間、ひょっとしたら俺の身体から音楽が生まれているんじゃないか、という錯覚すら覚えてしまう。
 音色も、ボディも、完璧という言葉がふさわしいまでに美しい弦楽器。
 歓びのうちにある時も、苦しみの中にある時も、俺はずっとチェロを弾いてきた。
「まあ、こんな感じで。原曲のリズミカルなイメージが強いかもしれないけど、これくらいテンポ下げちゃっても、また違った味わいがあっていいだろ。左手の運びがゆっくりになると、そっちを意識しないでもよくなるし」
 なので、肝心の響きのほうをきれいにしていきましょう、と俺が弓を下ろすと、眼力の強い目が、それを一瞬、追いかけた。
 すごいわけだ。この集中力が。
「……俺、中高生の頃とかに、ちゃんと弓の動きを見ろ!ってよく先生に叱られたんだけど」
「そうなんですか?」
「こっちとしてはかなり気合い入れて先生の弾き方を盗んでいるつもりだったからさ、何言ってんだよって当時は思ってたんだけど。橘君を見てたらなんか納得しちまうな」
 それってどういう意味ですか? と橘君がおそるおそる訊いてきたので、いや褒めてんの、と笑ってしまった。見た目の話ばっかりするのもあれだけど、こいつ上背だってあるのに、なんでこんなに自信がなさそうなんだろう。公務員ってことは仕事も安定しているんだろうし、中学までチェロを習ってたってくらいだから実家に余裕もあるだろう。むしろ、このスペックだったら、ちょっとくらい調子に乗っていても腹は立たない。
 チェロを弾いている姿以外がまったく想像がつかない奴なんだよな。何故か。
「音楽っていうのはとにかく師匠の模倣から入るもんだから。そのかじり付いてくるようなレッスン態度は大したもんだよ。で、話は戻るんだけどさ、週末は自主練やってんだよな?」
「やってますよ、ちゃんと」
「橘君ってさ、逆にそれ以外の時って何やってんの?」
 たまには友達と酒飲んでバーベキューみたいなこともやったりしてんの、と試しに話題を振ってみたら、あからさまに嫌そうな表情を浮かべられてしまった。
 その顔、俺が滑ったみたいだからやめてほしい。
「……そんなに引くような話じゃねえだろ。河原でワイワイバーベキュー」
「いや、本当に何もしてないんですよね。洗濯とか回してるうちに一日終わるんで……」
 さすがにそんなに服の数もねえだろ、と突っ込もうかと思ったけれど、時間がもったいないからやめた。基本的に、スタジオでの雑談は長引かせてはいけない。
 レッスンの時間は、たった四十五分間しかないのだから。
「じゃあ、さっきのテンポでもう一回。そろそろ時間だから、ラストまで丁寧に」
 俺がそう切り替えると、橘君も姿勢を正した。
 最初の音が聴こえてきた瞬間、さっきよりもよくなるな、と俺はなんとなく予感した。
「リズムの詰まりが解消されて、随分聴きやすくなった。このテンポでしばらくやろう。情熱的な曲だから、そういうのも意識して。またしっかり練習してきてよ」
 週末はバーベキューよりもチェロだよな、とつい俺がにやけてしまうと、何笑ってんだよ、とでも言いたげな顔をしながら、橘君が楽譜を鞄にしまい込んだ。いつも譜面台に置かれているステンレスのボールペンも、胸ポケットに突っ込まれる。
 レッスンの時間というのは不思議で、本当に、あっという間に過ぎてしまう。
「自分でフォロー入れるのもなんだけど、別にからかってないからね?」
「何も言ってないですよ」
 橘君って普段何やってんのかな~ってちょっと思っただけだから、と俺が首の後ろをカリカリと掻くと、だから何もしてないんですよ、と半笑いが返ってきた。
 人間らしい雑味に欠けた、白シャツにスラックス姿の長身の男が、俯き加減にこう呟く。
「浅葉先生には想像もつかないかもしれないですけど、本当に何もしないで生きてる奴っていうのが世の中にはいるんですよ。でも、ここに通い始めてちょっとマシになりました」
 じゃあ来週、と軽く会釈して、橘君がスタジオのドアを押し開ける。
 何かが足りないような印象を受けるのは、その背にチェロがないからだ。上級クラスのほかの生徒たちは、みんな自分のチェロを持っている。通勤経路の関係で、橘君はチェロを持ち歩けないらしい。子どもの頃に弾いていたチェロはもう手元にない、とも。
 音楽は、それを奏でる者の奥深いところで眠っている本質のようなものを、ゆっくりとサルベージする。見た目も、経歴も、普段何をしているのかも、まったくもって重要じゃない。
 おまえがどこで何をしている奴だろうとも、俺はここでチェロを教えてやるだけさ。

《完》