今さら言うまでもなく、この世は無常である。

 天災があり、人災がある。たとえ大きな災いに巻きこまれずとも、あらゆる命には終わりがやってくる。大切な相手を亡くしたときの喪失感は、計り知れない。最近よく思うのは、「胸にぽっかりと穴が空いたようだ」という表現は、いったい誰が最初に使いだしたのだろう、ということだ。まさにそうとしか言いようのない感情の空虚がある。深い哀しみは、そんな空虚を私たちの内に残していく。そして私たちは胸にぽっかりと空いた穴を埋められないまま、日々を歩きつづける。

『新訂 方丈記』鴨長明/著(岩波文庫)

 

 この世が無常であるのは、わかっている。わかってはいるのだが、折にふれてその現実に直面すると、私たちはあまりの虚しさに打ちひしがれそうになる。

 しかしこういう状況は、冒頭に記した通り、今になってはじまった話ではない。

 およそ800年前、方丈(約三メートル四方)の庵に暮らし、『方丈記』を著した鴨長明も、私たちと同じ無常を見ていた。現代とは社会構造や技術がまるで異なっていても、長明が身をもって味わい、眺めつづけた世の無常は、本質的に私たちが向き合う無常と何も変わらない。

 『方丈記』のなかで、長明はかつて自分が目にしたさまざまな災いの記録を綴っている。天災には大火、辻風(つむじ風)、飢饉、大地震があり、人災には遷都がある。これは唐突すぎる都の移転計画が、大規模な社会的破綻と人心の荒廃を招いたものである。

 上記のうち、特に大地震の描写などは、多様な情報を得られる私たち現代人の目から見ても、いかに長明が事実を誇張せず、ありのままを書いているかが感じられ、800年の時を越えて胸に迫ってくるものがある。

 

『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー/著、黒原敏行/訳(ハヤカワepi文庫)

 『方丈記』で過去の日本の無常を追体験したあとには、コーマック・マッカーシーの小説『ザ・ロード』をお薦めしたい。

 舞台は荒廃した未来の北アメリカ、主人公はごく普通の父と幼い息子だ。善悪をふくめたあらゆる秩序が消滅した、文字通り無常と化した世界で、二人は懸命に生き抜いていく。物語のコアは、息子が崩壊前の世界の様子をまったく知らない点にある。つまり父親は、幾多の危機に見舞われながらも、無常の世でいかに人として生きるかを、わが子に伝えなくてはならないのだ。たった一人の手本として。

 日本の小さな庵とアメリカの広大な荒野との差はあれど、『方丈記』と『ザ・ロード』はともに無常を旅する文学だ。そこに書かれた言葉にこそ、「人間」の意味があるのではないだろうか。