刊行記念エッセイ

奇跡の定義

小野寺史宜

 前からずっと、『○○集』というタイトルの小説を出したいと思っていた。
 理想は、『○○短編集』だ。『マーク・トウェイン短編集』や『スタインベック短編集』のような。でもそれは超大物作家さんだから許される話。僕のごとき超小物ではとても無理。『小野寺史宜短編集』。って、誰だよそれ、になってしまう。下手をすれば、そんな名前の架空の作家が出した短編集というていなのね、と思われてしまう。
 小説すばるさんから連載のご提案を頂いたとき、小さな奇跡の話、を思いついた。それが、集、と結びついた。その小さな奇跡の話を集めれば『奇跡集』になるじゃないの。
 ただ、独立した話を集めるのでは連載の意味がない。奇跡くくりはあるにしても、それだけでは足りない。物語の幹がほしい。
 考えに考えた。
 僕は毎日一時間歩くのだが、歩くあいだずっと考えた。たまには各社の編集者さんとの打ち合わせ場所に赴くために電車に乗りもするのだが、電車のなかでもずっと考えた。
 僕は立っていて、前の席には女性が座っていた。その女性は、書店さんの紙カバーが付けられた文庫本を読んでいた。『奇跡集』の第一話と似た状況だ。
 僕は思った。女性が読んでいるのが僕の本ならうれしいだろうなぁ。でも超小物でそれはないだろうなぁ。自分の本を読む人と同じ電車に乗り合わせてそれを目撃するなんて凄まじい確率だもんなぁ。そんなのまさに奇跡だもんなぁ。
 で、ひらめいた。
 電車に乗り合わせた人。これは、いいんじゃん?
 たまたま同じ電車に乗り合わせただけ。それぞれには何のつながりもない人々。でも小さな奇跡によってつながっていく。結果、ある程度大きなことも起こる。自分たちはそれを知らない。全容を知るのは読者だけ。いい。
 その時点で構想ができていたのは第一話のみ。大変だぞ、と思ったが、これは書きたいぞ、とも思ってしまった。
 初め、小説すばるさんへの連載は三回の予定だった。一号に二話×三回で計六話。すべて書いたあとで、もう一話増やして七話にしませんか? と担当編集者さんに言われた。連載も全四回にしましょう。
 マママママジですか。喜び半分、不安半分。いや、うそはダメ。喜び一割、不安九割。でも僕は笑顔で言った。じゃ、そうしましょう。
 また考えに考えた。
 歩きながら考えた。他社の編集者さんとの打ち合わせを終えて乗った電車のなかでも考えた。
 僕は立っていて、前の席には男性が座っていた。その男性は、書店さんの紙カバーが付けられていない文庫本を読んでいた。超大物作家さんの本だった。
 そうか。超大物作家さんの本なら紙カバーを付けなくても恥ずかしくないのか。だとすれば、先の女性が読んでいたのは超小物作家すなわち僕の本だった可能性もある。いや、まさかね。
 なんてことを思い、僕は電車の窓ガラスにうっすらと映る自分の顔を見た。『奇跡集』の登場人物たちもそうしたような感じで。
 その場では思いつかなかったが、電車を降りてからあれこれ思いついた。そうなったらもう止まらない。止まれない。自宅の前を素通りし、右へ左へ歩きながらさらにいろいろ考えた。歩くのは、ものを考えるのにちょうどいいのだ。だから僕は一日一時間歩く。
 朝四時台に起きて数時間書き、一時間歩いて昼ご飯。そのあとバッテリーが切れるので、がっつり昼寝。起きてまた数時間書く。一つの小説を書きはじめたら、書き終えるまで一日も空けずにその生活を続ける。手書きで下書き、パソコンで本書き。二回書く。そして推敲推敲また推敲。そんないつもの流れで、『奇跡集』は仕上がった。
 かつて僕は長い投稿暗黒時代を過ごしていた。暗黒は今も微妙に続いているが、より暗黒。小説すばる新人賞にも何度か応募したことがある。
 だから、そこで連載させてもらえたのはとてもうれしかった。『奇跡集』というタイトルで本を出してもらえるのはなおうれしい。
 決して明るい話ではないが、この小説は書いていて楽しかった。
 書き終えて、気づいた。奇跡と呼ばれるのは人に気づかれたものだけなのだと。
 言えるのはそのくらい。あとは、読んでいただくしかない。

「青春と読書」2022年6月号転載

書評

本当に難しい「普通」のこと

藤田香織

 あぁ、いい話だな、と思った。思ってしまった。
 これほど雑な言い方もないが、小野寺史宜の小説は、基本「いい話」だ。
 二〇〇八年にポプラ社小説大賞優秀賞を受賞し単行本デビュー作となった『ROCKER』や、作家として頭角を現した「みつばの郵便屋さん」シリーズからしてそうだったし、二〇十九年の本屋大賞二位となった『ひと』から続く『まち』、『いえ』の三作は言うまでもなく、怒濤の刊行ラッシュとなっている近年の作品(二〇二〇年から現在までで新刊単行本は本書で十冊目!)も、もちろん其々に味は異なり違う特長はあったが、総じていい話だった。
 でも、だけど。その一方で、本書『奇跡集』を読み終えた今、これを「いい話」だと括ってはいけないのではないか、という気持ちも胸のなかにある。やばい、とちょっと心拍数が上がってしまうのは、もしかして、自分は大きな勘違いをしていたのかもしれない、と気付いたからだ。
 舞台となるのは、通勤時間帯に走る満員の快速電車。物語は、何駅も通過する約十五分の「快速」区間で、突然しゃがみ込んでしまった若い女性の、周囲に居合わせた七人を連作形式で描いていく。
 二十時間も前に飲んだキンキンに冷えた缶コーラが原因で、腹の暴れ竜が限界寸前まで動き出し、絶体絶命な十九歳の大学一年生・青戸条哉。父親が肺がんで余命半年の宣告を受け、三ヵ月が過ぎた状況にある二十四歳の大野柑奈。ある事件の捜査対象者を尾行している二十九歳の刑事・東原達人。ガス会社に勤める三十四歳の赤沢道香は、有休をとって実に五年振りのデートに向かう途中で、食品会社の広報宣伝部勤務の小見太平三十九歳は、仕事でどうにか成果をあげたいと気を焦らせていた。四十四歳の市役所職員、西村琴子は、八歳下の恋人の浮気相手を追跡中。そして最終話の主人公となる黒瀬悦生は無職の三十一歳、刑事の東原に追われている捜査対象者である。
 車内でしゃがんでしまった女性は新倉凪。エアコンによる寒暖差に弱く体調を崩した彼女は、快速区間が終わった次の駅でどうにか降り、ホームのベンチに座り体調を整えようとする。同駅で下車し、駆け込んだトイレでお腹の暴れ竜を解放した青戸条哉は、そんな凪を心配し声をかける。彼女の目の前に座っていた大野柑奈も、わざわざひと駅先から様子を見に戻ってくる。
 電車に残った他の五人のうち、赤沢道香は痴漢騒動を目撃し、犯人と間違えられた男性が連行されていくのを追いかけ、初デートに遅れることに躊躇いながらも、降りるはずではなかった駅で下車してしまう。
  〈耳がキーンとする。ここ大事、とわたしは思う〉
 この場面がとても印象的だった。〈こんな瞬間はこれまでに何度もあった。決断を迫られる瞬間だ。わたしはそれをすべて見逃してきた。時にはそうとわかっているのに見過ごしてきた〉。見過ごしたところで、どうということはない。男は赤の他人だ。余計な傷を負うこともない。〈何日か経てば、わたしはもうそのことを忘れていたはずだ。何も考えずに過ごしていたはずだ〉。
 あぁ。と目を瞑りたくなる。自分がどれだけのものを見過ごしてきたのか、私も知っている、と息が詰まりそうになる。
 作中、登場人物たちは、あんなことをしなければ、こんな酷いことにはならなかった、と何度も思う。けれど、ああしたから、こうなったのだ、助かったのだ、とも思う。どうしようもないこともある。防ぎようのないことも起きる。時間が経ったからこそ分気付くことも分かることもある。いくつもの「もしも」が重なって、いくつもの小さな奇跡が生まれるのだが、その様子が、ことさら大袈裟に強調されるわけでもなく、感情的にも感傷的にも過ぎることなく、描かれていくのがいい。
 鋼鉄の胃袋を持つ北川くん、実在していたホワイトシチューうどん愛好者。直接交わることなくすれ違っていく登場人物たちの意外な関係性が見えるのも楽しく、さらには小野寺作品ではお馴染みの作家、横尾成吾や、劇団「東京フルボッコ」なども登場する。二重三重に人の輪が出来ていくような心強さが伝わってくる。
 と、同時に苦しくもなるのだ。このひと言を自分はかけられるか。手を差し伸べられるか。この決断が出来るのか。小野寺史宜が本書で描いているのは、いやこれまで描き続けてきたのは「いい話」ではなく、本来「普通の話」と呼ばれるべきものだったのではないか――。
 いつの日か、本書で描かれる「奇跡」を、多くの人が「よくある話だよね」と感じる日が来るといいな、と心から思う。

ふじた・かをり ◆ ’68年三重県生まれ。書評家。
著書に『ホンのお楽しみ』、書評家の杉江松恋氏との共著『東海道でしょう!』など。

「小説すばる」2022年6月号掲載

『奇跡集』試し読み