言の葉は、残りて

   一

 千幡は御所の庭を一人歩いている。
 雨上がりの少しひんやりとした白い朝だった。風が吹いて、草花に宿る朝露が陽の光を受けて輝いていた。
(きらきら光る、玻璃の玉みたいだ……)
 千幡は透き通った露の玉を見て、いつだったか父の膝の上で見た、都から来た商人が持っていた玻璃の玉を思い出した。
 千幡はその輝きに引き寄せられるように草の中に分け入る。早朝の御所はまだひっそりとしていて、そっと寝所を抜け出した千幡に乳母も女房たちも気づいていないのだろう。
 鶴岡八幡宮の森だろうか、遠くの梢で鳴く山鳩の歌が朝もやの中に聞こえる。衣の袖がしっとりとするのにも気づかず、千幡はしゃがみ込み一つ一つの煌めきをじっと見つめた。露の玉に映った己の顔に、少し驚いて離れた。すると露の玉は晴れだした青空を映し、今度は淡く蒼く光った。色が変わったことが不思議で、千幡は珠玉を手に取るように、露を指でつまんだ。その瞬間、透明な玉は千幡の小さな手の中で水となって消えた。

   二

 信子が住み慣れた都を発つ日はどんよりと曇っていて、北山から下りる冷たい風と共に粉雪が舞っていた。
 朝廷の権威を示すかのように、金銀錦の刺繡が施された襲を纏い着飾らされた信子が一歩、進むたび、衣擦れの音が重々しく部屋に響く。今日は邸の者は皆一様に余計なことは言うまいとでもいうように押し黙っていて、しんとした部屋の中に信子の衣擦れの音だけがする。
 父はうっすらと潤んだ目で信子を見つめ、母は御簾の奥でうつむいたまま、兄は、美しく着飾った妹に素直に見惚れていた。
 信子が用意された輿に乗り込むために外へ出た時、鎌倉からの迎えの武士たちが一斉に信子の姿を仰ぎ見た。ざっと武士たちが顔を上げる音がして、張りつめた空気にさざ波が立った。
(この、武士たちの頂点に立つ、将軍家に嫁ぐのだ……)
 信子が一瞬、身を震わせたのは、寒さのせいだけではなかった。
 信子は女房たちに促されるままに輿に乗り込んだ。輿のすぐ脇に控える女房の顔を見て、信子の気持ちが少し和らいだ。
「水瀬」
 そっと囁くと、その若い女房は「心配はいりません」というように目礼した。
 水瀬は信子が物心ついた頃にはすでに側仕えしていた女房だ。歳は十二歳の信子より五つほど上で、信子にとっては侍女というよりは、姉のように頼れる存在だった。
 信子が鎌倉へ嫁ぐことになった時、仕える者たちには都に残るか、鎌倉へついて行くかは本人たちの意志に任せるとした。一度鎌倉へ行けば、そう簡単には帰れない。女房たちの中には、やはり都を離れることはできぬと泣く泣く鎌倉下向を辞退する者もいた。慣れ親しんだ女房たちが離れていく中、こうして水瀬が残ってくれたことが信子は何よりも心強かった。
 一行が都の法勝寺の西の小路に差しかかった時、行列は止まり輿が下ろされた。水瀬が輿の御簾越しに囁いた。
「上皇様が御見送りです」
 わざわざ桟敷を設け、後鳥羽上皇自ら鎌倉へ下向する信子を見送っていた。その隣には信子の姉で、上皇の寵妃坊門局がいた。
 輿の中から、上皇と美しい姉の姿を信子は黙って見た。
(どうして、私が?)
 そんな思いが込み上げそうになる。
 幼い頃から見慣れた都を囲む青い山々、そよいでくる都の風、親しい人の顔……決して離れたくない大切なものたち……。東国の武士に囲まれて大切なものから引き離されていく妹の姿を、それらから決して引き離されることのない姉はどんな思いで見ているのだろうか。
 同じ、権大納言坊門信清卿の姫として生まれた姉と妹……しかし、歩む道は全く違うのだ。
 溢れそうな涙をこらえる信子の側には、水瀬がいた。水瀬は口数少なく、いつもこうして信子の側にひっそりと控えている。鎌倉からの縁談が突如降りかかった日も、そうだった。

   ◇

 摂関家の姫として、嫁ぐ相手は天皇か、東宮か、親王家か、それが当然のことでもあった。ところが、成人の儀である裳着を済ませた信子にやって来たのは、鎌倉の征夷大将軍との縁談だった。
 新しく鎌倉幕府将軍となった源実朝の妻になれという。
 父、信清から告げられた言葉に、信子は耳を疑った。
「鎌倉、にございますか」
 東国の海沿いにあるという、想像もつかぬ遠い土地の名であった。ちょうど、伏せ籠で飼っていた雀の子に餌を与えようとしていた信子の掌から、粟粒が零れ落ちた。動揺しながら信子は信清を見たが、信清はその視線から逃れるように庭に目をやりながら事の成り行きを伝えた。
「さよう。鎌倉の将軍源頼朝殿が落馬がもとで亡くなり、将軍職を継いだのは長男の頼家殿だった。だが、頼家殿は重い病でにわかに出家し身罷られた。それで新たに将軍職を継ぐこととなったのが、頼朝殿の二男、千幡君。急遽元服され、先ごろ源実朝という名を上皇様より賜った」
「…………」
 信子はそんな内情などどうでもよかった。なぜ、自分が、東国の武家に嫁がねばならぬのか、その理由が知りたかった。
「実朝殿はまだ若い。そこで朝廷と繫がりのある姫を妻にと望んできたのだ」
「それで、私が?」
「うむ。摂関家の中から一人、年頃の良い姫君をと談議があり、そなたが選ばれた。そなたは上皇様の従妹にあたり、歳も実朝殿の一つ下、申し分のない条件……」
 信清はそこで言葉を止めた。信子がうつむき肩を震わせていることに気づいたのだろう。
「信子よ、わしとてつらい」
 信清は信子に近づき、その震える肩に手を置いた。
「そなたを、かように遠くへ手放すことになるとは思いもしなかった」
 信子は顔を上げた。涙で滲んだ視界に映るのは、不安で泣いている幼子をあやすかのような父の不自然な笑みだった。信清はことさら優しく信子の背中を撫でた。しかし、信子の次の言葉にその手を止めた。
「父上様がそれを望んだのでしょう」
 私が何もわからぬ子供だとでも思うのか、と信子は父を睨んだ。
 今や権力は朝廷にあらず。
 信子にはありありと想像できた。宮中で「将軍の婿」を背景にして権力を振るおうとする父の姿が。
 信清は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに落ち着き払い答えた。
「やはり、そなたは賢い。なんともありがちな言葉だが、世辞でなくそなたが男であったならと思う時さえあった。信子が忠信だったらと」
「…………」
 信子は長兄の顔を思い浮かべた。六つ年上の兄、忠信の品のある横顔。いかにも育ちの良さそうな青年貴族といった風貌だが、その育ちの良さゆえか人を疑うことがなく、よく言えば大らかで余裕のある、悪く言えば暢気な性格は気になるところだった。
「信子よ、そなたの賢さを見込んで本当のことを言おう」
「本当のこと?」
「この縁組は、何より上皇様がお望みなのだ」
「上皇様が?」
「そしてその繫がりは、上皇様と血縁のある姫であらねばならぬ」
「どうしてですか」
「そなたと実朝殿の間に男子が出来た時、その子が次期将軍となろう」
 信子は頰がぽっと熱くなるのがわかり、父から目をそらした。しかし信清は娘の恥じらいには動じなかった。娘を権力のために嫁がせるのは信子が初めてではない。
「その子は上皇様と繫がりの強い将軍となるのだ。……朝廷は再び力を取り戻す」
「ですが……」
 聡く問い返す信子からは、その時にはもう、一人の少女としての恥じらいは消えていた。
「もし、男子が出来ねば?」
「……その時は、そなたが後見となってしかるべき家から次期将軍となる子を迎えるのだ」
「本当はそれをお望みなのでは?」
 信子の鋭い切り返しに、信清は表情一つ変えなかった。信子は、父の表情が変わらぬことが、それが真意であることを告げているのだと静かに悟った。
 しかるべき家、とはどこの家なのか……。いずれにせよ、父が意図し、上皇が意図する血を将軍として迎える、そのための摂関家の姫なのか。
 信子は、ただ黙って父に深々と頭を下げた。それは、承知したという意味でもあり、女として生まれた己が身の運命を静かに受け入れる黙礼であった。
 何もわからぬ雀の子が、信子の零した粟を欲しがるように鳴いていた。無垢な鳴き声だけが響く部屋で、信清が再び信子の肩に手を置いた。
「だが信子、これだけは忘れてくれるな」
「…………」
「わしなりに、大切に育ててきた娘だ。嫁ぐ娘に、幸せになってほしいと願わぬ親はおらぬ。……そうなると信じて嫁がせるのだ」
 それは、弁明でもなく、詫びでもなく、父として娘へ語りかける、濁りなき愛情に満ちた素朴な言葉だった。信子はゆっくりと顔を上げ、その父の言葉に答えた。
「ならば私も、そうなると信じて嫁ぎましょう」

   ◇

 都からの長い旅路を、鎌倉から遣わされた御家人たちに囲まれて、信子は輿に揺られて進んだ。その間、水瀬はいつも信子の輿の横に連れ添い、信子が不便な思いをすることのないよう常に気を配ってくれた。
「まるで、幼い妹を世話する姉のようですね」
 気遣う水瀬を見て、屈託なく声をかけてくる若武者がいた。涼やかな目に鼻筋の通ったいかにも武家の好青年といった若い御家人を、水瀬は一瞥した。
 この畠山重保という名の若い御家人は、その爽やかな風貌で自然と相手が好感を抱いてくれることに慣れているのだろう。ことあるごとに水瀬に物怖じせず声をかけるのだった。
「姫様を私のような者の妹に例えるとは、無礼でございますよ」
 水瀬は淡々と重保を窘めた。
「よいではないか、水瀬」
 信子は輿の中から声を発した。
「そなたのことは、姉のように信じているのだから」
「もったいないお言葉にございます」
 水瀬は、恐縮したように頭を下げた。
「余計なことを申しましたかな」
 悪びれる風もなく重保は肩をすくめ、水瀬は重保を軽く睨んだ。二人を見やりながら信子は微笑む。重保は軽率な態度をとっても、不思議と憎めない若者であった。
 箱根の山を越えた頃には、口数の少ない水瀬をからかう重保を信子が微笑ましく見ている、和やかな雰囲気になっていた。
「姫様、まもなく鎌倉でございます」
 水瀬の声に、信子ははっとした。険しい山道を過ぎた後はなだらかな道が続き、ついうとうとしていたのだった。信子はそっと御簾の隙間から外を見やった。その時、眩しいくらいの蒼い光が信子の目を射た。
「止めよ」
 思わず、信子は命じた。突然響いた声に、輿を担いでいた力者が少し驚いたように足を止めた。それに合わせて、行列を警護している御家人たちの馬も一斉に止まり、嘶きと蹄の足踏み、鎧具足の重なり合う音がさざめく。
「どうかなさりましたか」
 信子の輿にすかさず重保が駆け寄った。馬上の重保はひらりと慣れた身ごなしで下馬すると跪いた。
「あれは……?」
 信子は御簾の隙間から指差した。信子の白く細い指がさす先を見て、重保は合点したように答えた。
「海にございます」
「これが、海……」
 道中、あいにくの天気で、晴れた海を見渡すのはこれが初めてだった。
 思わず身を乗り出して御簾を搔き上げると、水瀬が慌てて力者に輿を下ろすよう命じた。輿は地面に下ろされ、水瀬が改めて御簾を巻き上げる。信子が水瀬に手を引かれ外へ出ると、重保は信子に敬意を示すように頭を下げた。
 信子の目の前に、どこまでも蒼い海が広がった。深く蒼い海に、風が吹き寄せ白い波が打ち寄せては消えていく。波のさざめきが、信子の心を揺らし、見入れば見入るほど、心が吸い寄せられそうになる。
「まあ……」
 風が信子の黒髪を揺らし、今までに感じたことのない匂いが信子を包み込んだ。
「この匂いは……」
 重保の声が風と共に軽やかに響く。
「海の匂いにございます」
「海の、匂い……」
 信子は胸いっぱいに海の匂いを吸い込んだ。
 どこか切なく、たゆたう波のように心もとなく、それでいて沁み入るような……。
「水瀬、私は海がこんなに美しいものだとは思わなかった」
「さようにございますね」
 水瀬も海に心を奪われたように、蒼い景色を見つめていた。
「御所はもう近いのか」
 信子は重保に問うた。
「もうほどなくでございます。実朝様も今か今かとお待ちでしょう」
 実朝の名を聞いて、信子は胸のざわつきを覚えた。それはなぜか、打ち寄せる波の音に心が揺れる感覚に似ている気がした。
(いったいどんな人なのだろうか……)
「実朝様は、それは賢く、お優しい御方にございますよ」
 信子の気持ちを察したかのように、重保が言った。重保の言葉にはもちろん世辞も入っているのだろうが、その口調や表情に偽りはなさそうだった。
「もうこの先は鎌倉の町にございます。鎌倉の地は一昔前まではただの小さな漁村でしたが、頼朝様が鎌倉入りされてからは人が集まり物が集まり、今や都にも劣らぬ賑わいにございますよ」
「姫様、あまり長居しては……」
 立ち尽くす信子に、水瀬が少し諫めるように言う。その時初めて、路傍に大勢の見物人がいることに気づいた。物珍しげに信子を見る鎌倉の民たち。都からやって来たという「新しい将軍の御台所」を一目見ようと、皆、興味津々の面持ちだった。
 大勢の人々の目に晒されていることに信子は恥じらいを感じたが動揺はしなかった。下々の者たちに姿を見られても、慌てて身を隠すことはせず、むしろ堂々と背筋を伸ばして笑顔を見せる。
 そんな信子に魅了された鎌倉の民たちの明るい感嘆の中、再び信子は輿に乗り、鎌倉の町に入った。
 鎌倉の中心を貫くように一本の太い道が通っていて、その道から都のように小路が整えられ、神社仏閣の伽藍や武家の邸宅、庶民の家々などが入り交じっている。しかし都の広々とした盆地とは異なり、三方を山に囲まれた狭い地にそれらがひしめき合い、山の斜面にすら家が建っている。
「ずいぶん狭い土地ですね」
 率直な水瀬の感想に、重保は快活に笑った。
「ははは、都に比べたらそうでしょう。鎌倉は谷戸といって山と山の間の狭い土地が多くあるのです。御所の裏もすぐ山ですよ。住むには多少不便かもしれませぬが、守るには容易な土地にございます。三方は山、前は海、敵は山から攻めるか海から攻めるかしかありませぬゆえ」
「まさに武家の都なのですね」
 輿の中から二人のやり取りを聞いて、信子は心がさらに重くなった。敵に襲撃されることを想定して作られた「武家」の都で待つ実朝は本当に優しい人なのだろうか……そして、この鎌倉の地で「公家」の自分はどう生きればいいのだろうか。
 真っ直ぐに延びる道の先には朱塗りの大鳥居と楼門が見えた。
「この道は朱雀大路か」
 まるで都の中央を南北に貫く朱雀大路のような雰囲気に懐かしさを感じて信子は尋ねた。重保が丁寧に答える。
「いいえ、若宮大路にございます。突き当たりにあるのが鶴岡八幡宮、鎌倉を鎮守する社であり、源氏の守護神にございます。その鶴岡八幡宮の東に御所がございます」
 御所、と聞いてまだ見ぬ夫のことを思い、また信子の胸は不安に揺れた。それを気取られぬよう、そっと「そう」とだけ答えた。

〈続きは本編でお楽しみください〉