ミャアの通り道

 越後湯沢駅は雪に覆われていた。
 吹き抜ける風が頰に痛い。コートの襟を搔き合わせて、私はホームに続く階段を下りて行った。上越新幹線からほくほく線・特急「はくたか」に乗り換えるためである。
 すでに列車は入線していて、九両編成の真ん中にある自由席五号車に乗り込んだ。車内は三分の二ほどの乗客だ。さほど混んでいなかったことにほっとしながら、窓際に空席を見つけて腰を下ろした。
 あと二時間半あまりで金沢に着く。金沢は私の故郷である。東京駅から越後湯沢に来るよりも、まだ倍近くの時間がかかるが、不思議なことに、ほくほく線に乗り換えると気持ちは「もう金沢」という感覚になる。
 車窓の向こうは、雪に覆われた山々が迫っている。空は低く、雲はたっぷりと水分を含んで、見るからに重そうだ。
 車内は暖房がよく効いていた。足元のキャリーバッグからペットボトルを取り出し、お茶をひとくち飲むと、発車のベルが鳴り始めた。ことん、と一度前のめりに揺れて「はくたか」は雪の中を走り出した。
 十四年前、進学のために十八歳で上京した時も、この「はくたか」に乗ったのを思い出す。
 あの時、東京での初めてのひとり暮らしに不安はあっても、期待の方がずっと勝っていた。都会は眩しくきらめいていて、世の中の楽しい出来事をすべて孕んでいるように思えた。そこにさえ行けば、自分の前途もまた、金粉をまとったように輝けると信じていた。

 もちろん、実際のところはそうでもないと、すぐに気づくことになるのだが、それでも、キャンパスや小さなアパートを拠点として、私は少しずつ自分の世界を広げていった。
 大学を卒業して、希望していたイベント企画会社に就職できた時はどんなに嬉しかったろう。仕事は楽しく、毎日が目まぐるしく過ぎて行った。雑用から始まり、現場でのイベント設営を経験し、三年後に念願の企画業務に就いた。
 今は、ショッピングセンターのキャラクターショーから、デパートの催事、映画公開PR、ブランドショップのオープニングパーティまで、さまざまなイベントに携わっている。もちろん、すべてが上手くいくはずはなく、トラブルも満載だ。顧客から厳しいクレームを受けるのも度々だが、冷静に受け止められるほどにはキャリアを積んだ。
 後ろの席から声が聞こえて来た。
「はくたかに乗るの、きっとこれが最後ね」
「ああ、春には新幹線が繫がるからな」
 中年の夫婦連れのようである。
 北陸新幹線が金沢まで開通する話題は、今年に入っていちだんと耳に入るようになっていた。何せ、今までの半分ほどの時間で東京・金沢間が繫がるのである。心待ちにしている人も多いはずだ。在来線のはくたかは、すでに廃止が予定されていた。
 もうひとくち、お茶を口にした。ちょうど御昼時のせいで、弁当を開ける乗客もいる。車内には煮詰めた醬油のにおいが漂っている。
 背もたれに身体を預けて、そう言えば前に帰ったのはいつだったろう、と、ぼんやり思い返した。
 確か三年、いや四年前だ。あれは祖母の法事だった。その時もずいぶんと久しぶりの帰省だったが、たった一泊二日という慌ただしさで東京に戻って来た。
 実家から足が遠のいているのは、何も帰省に時間がかかるからだけではない。仕事柄、休日を潰されるのはしょっちゅうだ。お盆やお正月、ゴールデンウィークといった連休も同様である。
 たまに休みが取れても、そんな時だからこそ、したいことが山ほどある。偵察がてら他社が手掛けるイベントに出掛けたり、映画の試写会や、新製品の展示会に顔を出すこともある。これも仕事のひとつだ。余裕があれば、買い物にも出掛けたいし、旅行にも行きたい、恋人とデートもしたい、と、とにかく毎日が予定で埋まっていて、ついつい帰省は後回しになってしまうのである。
 それは、私だけではなく、三歳上の姉も同じだろう。大阪に嫁いだ姉は、舅姑と共に家族で料理店を経営している。その上、育ち盛りの子供がふたりいる。自分の時間を取ることもままならず、四年前の祖母の法事の時も帰れなかった。また、二歳下の弟は独身だが、メーカーの営業部にいて、それこそ盆暮れなく全国の支社を飛び回っている。きょうだい三人が揃って帰省し、家族全員が顔を合わせたのはいつだっただろう。もう思い出せない。今の私たちは自分たちの生活で手いっぱいの状態だった。
 いつの間にか眠っていたらしい。目を開けると、目の前に海が広がっていた。
 日本海である。親不知と呼ばれるこの辺りは、列車が海岸線をぎりぎりに走る。波のしぶきさえ窓に当たりそうだ。私はガラス窓に顔を押し付けた。生憎、低い雪雲のせいで海は鈍色に沈んでいたが、それでも、この景色にはいつも魅せられる。見逃すと、損をしたような気分になる。
 急な休みを取ってまで帰省を決めたのは、昨夜、母からメールがあったからだ。
『ミャアがそろそろ旅立ちそうです』
 思わず、スマホを持つ手が冷たくなった。
 ミャアは実家で飼っている雑種の雌猫である。
 あれはもう二十年も前、ちょうど今頃の時期だった。外には真綿のような雪が舞っていた。
 私たちきょうだい三人は、夕飯を食べ終え、バラエティ番組を観ていた。父はまだ帰らない。父がいると、この番組は見せてもらえないので、ここぞとばかりテレビの前に陣取って笑い転げていた。まだ、家にテレビが一台しかなかった頃である。
 庭先で何やら妙な声がする、と、言い出したのは弟だ。ちょっと見て来る、と、縁側の戸を開けて下りて行った。が、すぐに慌てて戻って来て、「子猫がいる」と叫んだ。次に飛び出したのは私である。植木の根元で、子猫が蹲っていた。縁側から漏れる明かりに照らされた子猫は、弟と私を見上げると、まるで何かを訴えるかのように必死な形相で鳴いた。小さな背中に雪が積もり、身体が小刻みに震えている。思わず抱き上げていた。
 縁側では姉がすでにタオルを手にして待っていた。猫は姉の手に渡り、身体が拭かれると、焦げ茶と黒の雉模様が浮かんだ。
 生まれて二、三か月と思われた。迷ったのか、捨てられたのか。目には目ヤニが溜まり、毛も薄汚れていた。弟が牛乳を持って来ると、子猫はよほど空腹だったらしく、ぴちゃぴちゃと音をたててうまそうに飲んだ。それから顔を上げて、まるでお礼を言うかのようにみゃあと鳴いた。その愛らしい姿に、私たちは瞬く間に魅了された。
「飼いたい」
「飼わせて」
「ね、いいでしょう」
 三人とも、すっかりその気になっていた。母は困惑しながら「おとうさんに聞いてみんと」と、答えるばかりだった。
 一時間ほどして、父が仕事から帰って来た。その頃には、テレビもそっちのけで私たちは子猫に夢中になっていた。しかし、父は私たちの願いを聞くと、眉を顰め「駄目だ」と、首を横に振った。子猫は満腹したのか安心したのか、座布団の上でぐっすり寝入っている。母も来て、子猫を家族五人でぐるりと取り囲んだ。
「どうせ、おまえたちは面倒をみられんがやろう。かあさんに押し付けるに決まっとるさけな」
 父の意志は固そうだった。
「お願い」
「絶対に面倒をみるから」
「だから、飼わせて」
 私たちは食い下がった。それでも父は頑として受け付けなかった。
 最初に泣いたのは弟である。つられるように私も泣いた。姉も泣いた。いつも喧嘩ばかりしているきょうだいが、こんなにも気持ちをひとつにして父に懇願するのは初めてだった。
 泣きじゃくる三人の子を前にして、さすがに父も折れざるを得なくなったようである。代わりに条件を出して来た。猫の面倒をみるだけでなく、姉には食器洗いを、私には風呂掃除を、弟には玄関掃除を約束させた。私たちは即座に受け入れた。そんなことでこの子猫が飼えるなら容易い仕事だった。
 鳴き声から、名はミャアに決まった。
 たった一匹の小さな猫である。しかし、その存在が、こんなに家の雰囲気を変えるとは思ってもみなかった。
 猫のおもちゃや爪とぎといったペット用品が増えた、というのは確かにある。けれど、そればかりではない。人間以外の生き物の息遣いが、簞笥の上や、テーブルの下や、部屋の隅といった、今まで気にもならなかったここかしこに満ち満ちていて、まるで家そのものが命を得たように脈づいているのだった。
 私たちはミャアを可愛がった。抱っこしたくて取り合いになった。それで時々喧嘩にもなった。ミャアにとっては迷惑な話だったろう。猫というのは元来、子供が苦手な生き物である。やっと順番が回って来たと、ミャアを膝に乗せても、もう勘弁してとばかりに本棚の裏に逃げ込んでしまうこともしばしばだった。
 もうひとつ、ミャアを飼い出してから加わった習慣がある。
 それは、どんな時も、互いの部屋のドアや襖を少しだけ開けておく、というものだ。ミャアが好きに出入りできるようにとの配慮である。冬には隙間風が入り、寒い寒いと文句を言いながらも、決して誰も閉め切ろうとはしなかった。
 ミャアは好き勝手に、その夜のねぐらを決めた。一階の父と母の六畳の寝室。二階の姉と私の共同の部屋。隣の弟の四畳半の洋室。どこを選ぶかは誰にもわからない。人間には決められないし、強制もできない。すべてはミャアの気分次第だった。
 やがて年月は過ぎ、私たちきょうだいは少しずつ大人になっていった。
 いつの間にか、ミャアの世話はみんな母に押し付けていた。約束した役割も済し崩しになった。私たちは、友達との付き合いや部活の練習や、好きな男の子や、進学という、家族以外の世界に関心を深めていった。
 同時に思春期特有の蟠りを抱えてもいた。両親に反抗もしたし、きょうだいで派手に言い争った。互いに無視し合ったこともある。ミャアはそんな私たちを、時に呆れたように、時に哀しげに、濃く縁どられた虹彩でじっと見つめていた。
 一時、弟がひどく荒れた時期がある。中学の二年の頃、サッカー部を怪我でやめてから、家族の誰とも口をきかなくなった。食事時にも顔を出さず、いつも不機嫌な顔をして部屋に籠っていた。
 姉も私も、このまま引き籠りになるのではないかと心配したが、母はこう言った。
「でも、ミャアのためにドアはいつも少し開けてるさけ、その間は絶対に大丈夫」
 そして、実際、その通りだった。弟は少しずつ頑なさを緩めて行った。

 金沢駅に到着したのは、午後三時を少し回ったところである。
 東口には、和楽器の鼓をモチーフに作られた鼓門と、全面ガラス張りのドーム型天井がある。世界で最も美しい駅のひとつに選ばれた経緯もあって、ここを見学するために金沢を訪れる観光客もいるほどだ。
 改札口を出ると、父が立っていた。
「迎えに来てくれたんだ」
「ああ」
 母には東京駅からメールを送っていた。
「わざわざ、ごめんね」
「今日は休みやったさけ」
 久しぶりに聞く金沢弁が、耳に柔らかく届く。父は、こんな喋り方をしただろうかと、少し不思議な気分になる。
 去年、父は定年退職を迎えた。元銀行員だったこともあって、今は週に三回、知り合いの会社の経理を手伝っていると聞いている。
「ミャアはどう?」
「まあ、寿命やしな」
 父は素っ気なく言った。もともと口数の少ない方である。
 ふたりで西口にある駐車場に出た。こちらは東口と異なり、合理的で都会的な雰囲気だ。白線の中に停めてあった、もう十年以上は乗っている父の紺色のセダンの助手席に乗り込んだ。
「こっちはまだ雪が降ってないんだね。越後湯沢は大雪だったよ」
「年末に降ったんやが、みんな溶けてしもた」
 金沢に住んでいた頃、雪が降るたびにうんざりした。交通機関が乱れて、どうにも予定が狂ってしまう。香林坊や片町に出掛けるにしても、水気の多い雪なので革のブーツも履けない。けれども、こうして雪がなければないで、どこか物足りない。
 車は六枚町を過ぎ、武蔵ヶ辻を抜けてゆく。実家は浅野川大橋近くの橋場町にある。信号待ちで止まった時、父が言った。
「さっき、美幸も帰ってきたんや」
「えっ、おねえちゃんも」
 思わず顔を向けた。
「ミャアにどうしても会っておきたかったんやと」
「ふうん」
 私以上に、いつも忙しいばかりの姉である。けれども、その気持ちは何となくわかる気がした。
 玄関に入ると、すぐに姉が迎えに出て来た。
「久しぶり、元気だった?」
 姉が笑う。少し太ったかもしれない。かつては、お洒落にうるさいことを言っていたが、今ではすっかり嫁いだ先の大阪のおばちゃんスタイルが板についている。
「うん、おねえちゃんも元気そう。それにしても、よく時間とれたね」
「かあさんからメール貰って、みんな放っぽらかして来たわよ。ま、こういうことでもないと思い切りがつかないから。さ、上がって、上がって」
 鼻の奥に、乾燥したイグサに似た匂いが広がった。家の匂いが懐かしい。「ああ、帰って来た」と肩から力が抜けてゆく。そんなつもりはなくても、いつもどこかで力んで暮らしている自分に気づく。
 茶の間で、ミャアのそばに座っていた母が顔を上げた。
「わざわざ、帰って来んでもよかったのに。仕事、大丈夫なが」
「うん、有給休暇もたまってたし」
 部屋の真ん中に敷かれた毛布の上に、ミャアは寝かされていた。ピンクと黄色の花柄のタオルが掛けられている。私は畳に膝を突いて、ミャアの顔を覗き込んだ。
「ただいま、ミャア」
 声を掛けても反応はない。指先でそっとミャアの額に触れてみた。そこを撫でると、いつもうっとりとして、手足をふにゃりとさせたものである。しかし今はぴくりともしない。四年前に見たより、ミャアはすっかり小さくなっていた。
 夕食は寿司を取ることにした。帰省すると、母は台所に籠りっぱなしになる。有難いもてなしではあるが、今日はそれより、できるだけミャアのそばにいさせてやりたかった。
「いつ頃から悪くなったの?」
 母がミャアにタオルを掛け直してやっている。
「先月の終わりぐらいかしらね、ごはんも食べなくなって、水も飲まなくなって。どうやら腎機能が低下してるってことらしいんやけど、ほら、ミャアはもう人間でいうと百歳くらいやさけね。お医者さんも、結局のところは老衰でしょうって」
 母は、まるで自分に言い聞かせるように説明した。
「そっか、ミャアはもうそんなにおばあちゃんになったんだ」
「酸素室に入れるといいからって、しばらく病院に預けてたんやけど、お父さんと相談して、やっぱり連れて帰って来たがや。ミャアだって、知らないところにいるのは不安やろうし、最期は私たちで見送ってあげようと思って」
 最期という言葉が耳に硬く響く。
 それが十日ほど前のことだという。医者からは、酸素室を出れば二、三日しか持たないと言われたようだが、ミャアは頑張った。しばらくとても機嫌よく過ごしていたという。それが昨夜、急に容態が悪化したとのことだった。
「でも、すごく穏やかな顔をしてる」
「そうね、こうしているとただ眠ってるみたい」
 姉も頷いている。
 しばらくして、玄関戸が開く音がした。寿司が届いたようだと、姉が立って行った。しかし、賑やかな声と共に茶の間に現れたのは、弟だった。
「あれ、あんたまで来たんか」
 母が呆れたように出迎える。
「うまい具合に時間が取れたもんでね」
「あんなメールして悪かったね。今日どうなるとか、本当のところはわからんのに」
「いや、俺もちょうど、ミャアがどうしてるか気になってたんだ。それにしても、まさか姉ちゃんたちも来てるとはなぁ」
 弟は私と姉の間に割り込んで、ミャアに手を伸ばした。
「ミャア、俺だよ。ほら、目を覚ませって」
 それでもミャアは動かない。久しぶりで会うミャアがあまりに小さくなっていて、弟はためらうように眉根を寄せた。
「ひとり増えたんやし、やっぱり何か作るわ。あり合わせのものしかできんけど」
 と、母は台所に立って行った。父もビールの用意をし始めた。
「廊下に手摺りが付いてたな」
 両親が席をはずしたのを見計らったように、弟が声を潜めて言った。
 それは私も気づいていた。玄関に入った途端に目が行った。
「廊下だけじゃないよ、階段にもトイレにも付けてある」答えたのは姉である。
「さっき、ちょっと聞いたんだけど、かあさん、去年の暮れに、廊下で転んで捻挫したんだって。しばらく、松葉づえをついてたみたい」
 初めて聞く話だった。
「やだ、何で知らせてくれなかったんだろう。あんた、知ってた?」
「いや、全然」と、弟が首を振る。
「大した怪我じゃなかったから、余計な心配をかけたくなかったんだって。だけど、これから先のことを考えると、やっぱり手摺りを付けた方がいいってことになったらしい」
「そっか……」
 思わず息を吐いた。弟も、どう言えばいいのか言葉が見つからないようだった。しばらく、三人とも黙っていた。台所から父と母の声が聞こえて来る。栓抜きはどこだ、食器棚の下の引き出し、つまみはないのか、冷蔵庫にチーズがある、そんな日常的なやりとりが流れて来る。
「さっきさぁ」と、弟が呟いた。「部屋に入って、久しぶりに親父を見た時、どきっとしたよ。何か年取ったなあって。やっぱり定年退職したせいもあるのかな」
 確かに、父の髪はもう三分の二が白髪に変わり、表情にも深いシワが目立つようになっていた。母もいつのまにか背中が丸くなり、ミャアと同様、身体が一回り小さくなったように感じる。
「忙しくて、ここんとこずっと帰ってなかったからな」
 そうね、と、私と姉もつられたように頷いた。
 両親が老いてゆくことに気づかなかったわけじゃない。ただ、頭の中にある両親は、いつまでも昔の姿のままだった。自分より大きくて、怖くて、強い存在だった。しかし、それはただそうであって欲しいという、娘や息子の勝手な思い込みなのだろう。
 玄関で声があった。今度こそ寿司が届いたようである。みな台所の食卓に移った。寿司桶を真ん中にして、母の漬けた漬物や、加賀セリの卵とじや、こんか鰯といった料理が並べられる。ビールが注がれ、食事が始まった。
 姉がビールを口にすると、ミャアに目を向けた。
「ごめんね、あんまり帰って来られなくて」
 ぽつりと漏らしたその言葉が、ミャアだけに向けられたものではないということは、私も弟もわかっていた。
 家を出てからずっと、私たちは「忙しい」を言い訳に、両親のことは二の次にしていた。優先するのは、何よりも自分の予定や都合だった。その間、父と母の傍に寄り添い、ふたりを見つめていたのはミャアだった。胸の奥底から、後ろめたさに似た痛みが湧き上がって来た。
 どうにも場は沈みがちになった。父は相変わらず無口だし、母もどこか上の空だ。
「賑やかにやろうよ」と、弟が言い出した。
「聞いたことがあるんだ。動物って、最期まで耳が聞こえるらしい。ミャアだって、俺たちの明るい声を聞いた方が安心するだろう」
 その通りだと思った。今、私たちがすべきなのは、悲しみを嚙み締めることではないはずだ。
 姉が大阪での話を面白おかしく披露した。弟は出張先の失敗談でみなを笑わせた。私も負けじと、姉や弟に突っ込みを入れた。それに子供の頃の思い出話も絡まって、両親の表情も次第にほぐれていった。
 明るく笑い転げていても、それぞれに厄介なことを抱えているのはわかっている。姉は、姑とあまりうまくいってないらしい。家族経営となると、気苦労も多いのだろう。また、冗談を飛ばしている弟も、すべてが順調というわけではないはずだ。最近、会社は大手に吸収合併された。そのせいで微妙な立場に立たされているのは想像がつく。私自身、半年前に結婚を約束した男に去られていた。その痛手はまだ深く残っている。けれども、誰も愚痴めいたことは口にしなかった。それくらいの振る舞いができるほどには、もう大人になっていた。
 ミャアが意識を取り戻したのは、食事が終わりかけた頃である。
「あ、目を開けたぞ」と、父がいちはやく気付いた。
 私たちは慌てて駆け寄り、ミャアを取り囲んだ。覗き込むと、確かに目が開いていた。
 それは、驚くような澄んだ目だった。その目で、ミャアはゆっくりと父を見た。それから母を見た。次に姉を、そして私を、弟を見た。
 その目は、どこまでも深い海のようでもあった。その時が来た、と、誰もが思ったはずである。ミャアは残された力を振り絞って、私たちに別れを告げているのだ。
 その通りだった。やがて満足したかのように、ミャアは静かに目を閉じた。それが最期だった。
 最初に泣いたのは父である。肩を震わせ、私たちにはばかることなく嗚咽した。母もこぼれる涙をぬぐおうともせず、ミャアの名を呼び続けた。
 私たちきょうだいは、黙ってふたりを見ていた。
 ミャアがこの家に来た日、飼って欲しいと泣きじゃくったのは私たちだった。あの日から二十年。今、泣いているのは父と母だった。
 胸を締め付けるのは、ミャアへの悲しみばかりではない。私たちは確かに今、過ぎた月日の重さを嚙み締めていた。ここにきょうだい三人を呼んだのは、ミャアの最後の意思に違いないと思えた。
 ミャアは逝った。けれども、ミャアの通り道だったあの隙間は、決して閉じたわけではない。いつだって家族と繫がっている。
 だから、心配しないで。
 呟いたのは、姉も弟も同じだろう。
 いつの間にか、縁側の向こうに雪がちらついていた。ミャアがこの家に来たあの時と同じ、真綿のような雪だった。