山崎ナオコーラ『肉体のジェンダーを笑うな』より

 

「父乳の夢」

 ふわり。哲夫の坊主頭にレースのカーテンが引っかかった。夕方、庭に干してあったベビー服を取り込み、掃き出し窓を開けて部屋へ戻ろうとしたところだった。掃き出し窓のすぐ横に姿見を置いている。そこに、百合柄のレースのカーテンが額にかかる哲夫の顔が映った。マリア様みたいだな、と哲夫は思った。新婚旅行でイタリアへ行ったとき、教会に飾られていた宗教画の中のマリア様がこういう布を頭に掛けていた。いや、あの絵だけではない。多くの宗教画で、マリア様は頭に布を被っている。自分の頭に布がかかったのは何かの啓示かもしれない、と哲夫はぼんやり考える。大学時代に額が後退し始め、思い切って坊主にした。さっぱりして気分が良いが、坊主頭への偏見から恐れられがちで、その上、哲夫の顔立ちはごついので、初対面の人になかなか打ち解けてもらえない。それで、外出時につい可愛い感じの帽子を被ってしまう。堂々と坊主で過ごしたい。でも、頭に何かあると落ち着く。揺れ動く哲夫の頭にふわりとカーテンがかかり、もしかしたら自分もマリア様になれるのかもしれない、なんて夢が湧く。母親の象徴のようなマリア様に。自分も近づけるなら、近づきたい。
 とはいえ、いつまでもカーテンを被っているわけにはいかない。哲夫は手でカーテンを払い、
 「まだ、ちょっと、湿っているかなあ。風呂上がりに着せようと思ったんだけれども」
 後ろ手に窓を閉め、五十センチの新生児用ロンパースを両手で広げた。ついさっき家に帰ってきたばかりの哲夫は、ネイビーのネクタイの先をワイシャツの胸ポケットに入れ、ズボンだけ黄色いタータンチェックのハーフパンツに穿き替えている。ネクタイが首にぶら下がっていると労働の邪魔になるので、哲夫はよく胸ポケットに仕舞う。仕事の邪魔になるネクタイというものを、なぜ仕事中に着ける習慣があるのか謎だ。哲夫は長ズボンも好きではない。半ズボンのスーツを作って欲しい。
 「そう? 昼間、きれいに晴れ上がっていたから干したんだけれど。じゃあ、部屋干しする?」
 哲夫のパートナーの今日子が言う。今日子は紺色に白いラインが二本入ったジャージの上下を着て、畳に敷いた布団の上であぐらをかきながら薫に母乳をあげていた。こういう格好の今日子を哲夫は見慣れていない。パンツスーツでかっこつけている姿の方が目に馴染んでいる。哲夫も今日子も三十四歳で、同い年なのだが、今日子の方が年上に見られがちだ。顔の形が上下に長いせいもあるかもしれないが、服装に威厳を持たせがちなのが大きな理由だろう。どうも、今日子は実年齢より上に見せて周囲の人の信用を得たい気持ちがあるみたいだ。これまでは、寝るときのパジャマの他は、家でもかっちりした服装をしがちだった。日曜日でも、襟付きのシャツにチノパン、というのが精一杯のリラックスだった。ジャージなんて持っていたのか、と哲夫は瞬きする。ショートカットの髪は、寝癖がそのままになっていて、前髪をちょんまげのように結んでいる。こんな髪型も、子どもが生まれる前は見たことがなかった。

 「まだ、春の初めだからね。晴れていたって、寒いんだ。なかなか乾かないんだね。もうじき外は暗くなるし、部屋干ししよう。暖房を入れたっていい」
 哲夫は寝室を出てキッチンへ移り、食器棚の横に置いてあるミニ物干しに湿ったロンパースを載せた。リモコンを手にして逡巡し、結局、暖房は入れなかった。そうして、薫に視線を遣った。小さなマンションなので、キッチンとリビングと寝室は、どこからでも見通せる。寝室で何をやっているか、キッチンから見える。
  「……授乳中だから、カーテンを閉めてくれるとありがたい」
 寝室で薫を抱えたまま、今日子は哲夫の姿を視線だけで追いかけてきている。
 「あ、ごめん」
 言われて初めて、胸をはだけさせているのが恥ずかしかったのだな、と気がついた。自分の不躾な視線も失礼だったか、と目をそらしながら寝室に戻り、先ほど払いのけたレースのカーテンをぴったりと閉め合わせ、その上から遮光カーテンも閉じる。
 今日子と薫は薄闇の中に落ちる。こきゅこきゅと口を動かす音が甘く静かに布団の上に広がる。しかし本当に飲んでいるのだろうか。飲んでいるふりではないか、と哲夫はいぶかしむ。生後二週間の薫は、目が糸のように細く、なんの表情も読み取れない。
 「何?」
 今日子が哲夫の顔をじっと見た。
 「大変だね。頑張っているね」
 哲夫は静かに言った。
 「やっぱり、簡単には母乳は出ないね。確かに、薫ちゃんは頑張って飲もうとしているけどね」
 今日子は笑う。
「いや、今日子ちゃんが頑張っているね、って」
「いや、私なんかは、別に……」
「偉いよ」
 哲夫は、今日子の妊娠中に勉強したのだ。産後の過ごし方、風呂の入れ方、母乳やミルクのあげ方……。育児書や育児DVDをいくつも購入した。
 その中で読んだ、母乳が出る仕組みに思いを馳せた。
 母乳は、母親の脳にホルモンが働きかけることによって分泌される。妊娠中は胎盤や卵巣からエストロゲンとプロゲステロンというホルモンが出て、エストロゲンは乳管系、プロゲステロンは腺葉系の発達を促す。そうして、胸が膨らみ始める。乳汁分泌ホルモンのプロラクチンも分泌されるようになるが、エストロゲンによる抑制があって本格的な母乳分泌には至らない。出産して、胎盤が体外へ排出されたらエストロゲンは減少し、プロラクチンに対する抑制が解かれ、母乳の分泌が始まる。黄色い初乳が乳頭から滲む。それを赤ちゃんに吸わせると、今度はプロラクチンが増加し、どんどん母乳が生成される。母乳は、オキシトシンというホルモンによって促され、乳頭まで運ばれる。オキシトシンというのは、母親が赤ちゃんのことを考えたり、世話したりすると出るホルモンだ。
 要は、赤ちゃんについて頻繁に考えること、そして授乳を繰り返して乳首を吸われる刺激を受けることによって、母乳が出る。そのため、母乳が出なければ出ないほど、頻回授乳をするべきなのだという。ただ、体というのは複雑なもので、個人差もあり、赤ちゃんのことを一所懸命に考え、頻回授乳を必死で行ったところで、みんながみんな、母乳を出せるわけではない。どんなに頑張っても出ない場合もある。運によるものも大きいのだ。だから、褒めるという行為はそぐわないと哲夫にもわかっている。
 ただ、何かしらリラックスさせることを言ってホルモンを出させないといけないと思って、「大変だね」「頑張っているね」「偉いよ」という適当な言葉を口から出してしまった。自分にはできないことを相手がやっていて、うらやましくてたまらないのに、うらやましがってはいけなくて、リラックスを促すパートナーとして存在しなければならないのだ。この立場が、哲夫には難しく感じられた。
 「私自身は特別なことは何もしていないよ」
 今日子は首を振る。
 「そんなことないよ。体が変化して大変なのに、頑張ってるよ。偉いなあ」
 やっぱり、「頑張ってる」「偉い」しか出てこない。心の内では、「『偉いなあ』ではなく、『いいなあ』と言いたい」と思っていた。
 哲夫は、小さい頃から父親になることを夢見ていた。小学校の卒業文集にも、将来の夢を「お父さんになりたい」と書いた。お父さんという存在の具体的なイメージは持っていなかったが、とにかく子どもを大事にする人だと考えた。哲夫は子どもを大事にしたかった。哲夫の父親は哲夫が小学校四年生のときに死んだ。生前も、仕事一筋の銀行員で毎日遅くまで残業をして帰ってくる父親との関わりは薄かった。だから、自分の父親のようになりたかったわけではない。ただ、子どもが好きだった。保育士や教師を目指す道もあるが、遅刻が多くて、視野が広くなく、勉強が苦手な自分には合わないだろう。哲夫はとにかく、身近な小さい人を大切にしたかった。
 子どもを大事にするために、まずは料理を頑張りたい。哲夫には年の離れた小さなきょうだいが二人いて、小さい子どもに喜ばれる最大のものは食べ物だと感じていた。哲夫の母親はトンカツ屋で働いており、料理が得意だったので、教わりたいと頼むと、キャベツの千切りから仕込んでくれた。そうして、哲夫も料理が上手になった。
 でも、生まれたばかりの赤ちゃんは食事ができない。料理の腕を披露できるのはまだ先だ。赤ちゃんは母乳か粉ミルクか液体ミルクしか飲めない。母乳が十分に出る母親の場合、多くの人が、母乳のみを与える。母乳は豊富な栄養が含まれていて赤ちゃんに免疫をつける効果もある素晴らしい飲み物らしい。母親しか食べ物になれないというのはずるい話だった。なぜ神は父親に赤ちゃんの食べ物になる体を与えなかったのか。
 「いや、母乳はあんまり出ていないみたいなんだよ。薫ちゃんは、今、ミルクで生きているのかもしれない」
 今日子はうつむいた。哲夫は、拳を握り締める。それから、はあっと息を吐いて、てのひらを開き、扉の横のスイッチに指を当てて蛍光灯を灯した。
 「リラックスした方がいいよ。ストレスを溜めると、ホルモンの分泌が止まって、母乳が出なくなるそうだから」
 哲夫はにっこりして見せた。
 「わかっているよ。リラックスを心掛けているよ」
 今日子が苦笑いする。哲夫は今日子と薫に直接に視線を当てないように目を動かす。本当は薫を絶え間なく見ていたいのだが、あんまり見つめ過ぎると、今日子がプレッシャーを感じて、さらに母乳が出なくなるかもしれない。
 「本当に、大変だね。頑張っているのにね」
 畳の縁を見ながら哲夫は言った。
 「頑張っていることは頑張っているけど……、うーん」
 今日子は歯切れ悪く返事をする。
 「大変じゃないの?」
 「子育てで大変なことは他にたくさんあるんじゃないのかな? 母乳を出すことを最大の山場のように捉えるわけにはいかないよね。どうしても母乳が足りなそうだったら、粉ミルクや液体ミルクで補えばいい。もちろん、母乳が出せるなら出したい。今だって、ちょっとは出ているんだよ。でも、十分には出ていない。たださ、理想通りにいかないことは、仕事でもあるじゃない? 頑張っても結果につながらないことはある。根性論で語っても仕方ない。プランBを立てないと」
 「粉ミルクを作ろうか?」
 哲夫は提案した。今日子の場合、母乳の出が良くないので、授乳の真似事をしたあとに、ミルクをあげることになっている。帝王切開で生まれた薫は出生後一週間入院しており、その間は助産師が粉ミルクを作ってくれていたらしい。今日子は授乳の練習をしたあと、その粉ミルクが入った哺乳瓶を受け取り、飲ませる。退院してからの一週間は、昼間は今日子が粉ミルクを作り、夕方、夜、朝など、哲夫が家にいる時間帯は哲夫が粉ミルクを作った。たまに液体ミルクをあげると、それも飲んだ。薫は三時間置きに今日子の胸を吸い、そのあと粉ミルクあるいは液体ミルクを飲む。哲夫は、一所懸命に粉ミルクを作った。ただ、今日子が母乳をあげる前に粉ミルクを作ろうとし始めると、どうも今日子を傷つけるような気がして、今日子が母乳への努力を十分にした感じがしてから、必ず声がけをして調乳を開始することにしていた。
 「うん、お願い」
 今日子は頷く。
 「じゃあ、作ってくるね」
 哲夫はキッチンへ移動する。ウォーターサーバーから小鍋に湯を注ぎ、沸騰するまでの間に粉をスプーンですり切り三杯計って哺乳瓶に入れる。沸騰したら湯を哺乳瓶の六十の目盛りまで注ぎ、くるくる揺らして粉ミルクを溶かし、それから、氷水に浸けて冷やす。頃合いを見て哺乳瓶を電子温度計でピッと計り、自分の腕の内側へ一滴垂らし、熱くも冷たくもないことを確認する。
 この手間を、哲夫は愛していた。液体ミルクだとそのまま注げるので楽だ。急いでいるときや、夜中に眠くてたまらないとき、それから、薫がもう少し大きくなって外出するようになったら、液体ミルクをどんどん使おうと思う。だが、今は、母乳を頑張る今日子に対抗したい気持ちもあり、粉ミルク作りに手間をかけたかった。
 哺乳瓶を持って寝室へ戻る。
 今日子は授乳を切り上げ、薫を哲夫の腕に預けた。哲夫は太い腕で抱き取り、哺乳瓶を薫の口にあてがった。
 こきゅこきゅと口を動かして、薫は哺乳瓶の乳首を吸っている。
 「よく飲むなあ。嬉しそうに飲んでもらえて、作りがいがあるなあ。嬉しいなあ」
 哲夫は薫を見つめ続ける。
 「粉ミルク、おいしいのかな」
 今日子は哲夫の横顔を見ながら呟いた。
 「あのさ、母乳推進派の言うことなんて、気にしないでよ。母乳にいい栄養素があるのは確かだとしても、人それぞれなんだから……」
 哲夫はもごもご喋った。世間には、「母乳を出せ」という強い圧力があり、そのせいで多くの母親が悩んでいる、ということを哲夫は知っていた。
 「母乳推進派って誰?」
 今日子は尋ねる。
 「えっと、助産師さんとか、ネット民とか……。いたるところに母乳神話が蔓延っているから、今日子ちゃんが気にしているのかな、って思って、つい、余計なことを言ってしまって……」
 液体が少なくなるのに合わせて、哲夫は哺乳瓶に角度を付ける。
 「まあ、確かに、母乳を出す努力を強いる人たちはいるかもしれない。実際、母乳はいいものだしね。ただ、私もよくわからないんだよ。なんだか怖くて、頭が痺れるんだよ。赤ちゃんの突然死があるでしょ? SIDSっていう……。それの回避の方法について、『できるだけ母乳で育てる』って母子手帳に書いてあるんだよ。それで、どうもミルクが悪者にされがちなんだけれど、その『母乳を飲んだらリスクを回避できる』という説のはっきりした根拠はないらしいよ。でも、母子手帳に書いてあるんだね。私は理性的なたちだから、エビデンスのないことを信じないだろうと思っていたんだけど、母子手帳に書いてあると、なんだか怖くなるの。つまり、自分が思っていたほどには自分は理性的じゃなかったんだね」
 今日子はゆっくりと喋った。SIDSというのは乳幼児突然死症候群のことで、主に一歳未満の乳児が、直前まではとても元気だったのに、眠っている間に突然死んでしまう、という病気のことだ。原因は未だに解明されておらず、避けるのはとても難しい。ただ、うつぶせで寝ている場合が多いという報告はあって、「できるだけ、うつぶせ寝は避けるべき」という考えは一般的になってきている。妊娠中の母親の喫煙や、生まれたあとの家族の喫煙による受動喫煙がリスクを高めるというのも言われていて、「家族は禁煙すべき」というのもよく聞く。「母乳育児で回避できるかもしれないので、できるだけ母乳をあげるべき」というのも、母子手帳や医師が出している本に書いてあるという。母子手帳とは、母子健康手帳の略で、市区町村から妊娠者に交付される。妊娠、出産、その後の成長においても、健診や予防接種などで長く使っていく手帳なのだが、「母子」というネーミングが哲夫にはつらく感じられていた。妊娠も出産も育児も、父親も関わることなのに、なぜ「親子」ではなく「母子」なのだろうか。母子手帳を見るたびに、排斥されている感覚を味わった。ともあれ、こういう手帳にも書かれるぐらい「母乳育児でSIDSが回避できるかもしれないので、できるだけ母乳をあげるべき」と多くの人に信じられているわけだ。けれども、SIDSと母乳の因果関係は解明されてはいないらしい。明確な根拠のないことなのに、SIDSで子どもを亡くした親は、自分のせいかもしれない、努力したら回避できたのかもしれない、と悩むことになる。古代から「理由がわからず死んでしまう」という、理不尽なところに神話が入り込む。
 「そうか。まあ、少なくとも『母乳は良くない』っていう説はないわけだから、努力で母乳が出るなら、そりゃあ、努力した方がいいよね。でも、怖がらせるのはどうかと思うよね、うーん。……あと、母乳推進派って、母乳で子育てした上の世代が、自分が誇りを持つために下の世代に成功体験を語りたがっている、そういう人たちもいるよね」
 哲夫は顎に手を当てた。
 「そっちの人たちのことは、大丈夫だよ。私は話を聞くから」
 「え? 聞くの?」
 「だって、武勇伝は、語りたいものでしょ。語りたい人がいたら、聞いてあげる人もいなくちゃ。そりゃあ、聞く余裕がない人だったら、聞かない方がいいよ。でも、私は、そこまで余裕がないわけじゃない。『そうなんですね。頑張ったんですね。あなたは上手くいって本当に良かったです。けれども、私は違うんですよ』っていうコミュニケーションを取るだけだよ。成功体験を話す人のことを、私はそんなに悪く思わない。うん、うん、素晴らしいですね、良かったですね、って話を聞く。話を聞くのは面白いでしょ? 『おはなし』として聞くならさ。でも、参考にはしないんだ。自分は違うから、違う場所に行くだけだよ」
 淡々と今日子は話した。
 「そうかあ」
 哲夫は唸った。
 「ところでさ、哲夫は粉ミルク作るのが嬉しいんだよね? 嬉々としてキッチンに立っている。今も、すごく楽しそうに、哺乳瓶を持っている」
 今日子が指摘した。
 「今日子ちゃんに負担かけたくないし、僕も親なんだから、僕のできることはしたいよ。……まあ、自分のやるべきことがあるっていうのは、確かに嬉しくはあるね」
 哲夫は薫の口元を見つめる。
 「哲夫が母乳を出すのはどう?」
 今日子が提案した。
 「え? そんなことできるの?」
 哲夫は瞠目して聞き返した。
 「あ、間違えた。哲夫が出すのは、父乳だ」
 「い、いや、母乳でも父乳でもどっちでもいい。出せるものなら、出したい」
 哲夫は薫の口元からそっと哺乳瓶を外した。そして、肩に薫の頭をもたせかけて、とんとんと背中を叩き、ゲップを出させる。
 「社会が成熟するのに合わせて、人間の体だって進化しているんだから、やがては父親にも乳が出る仕様になるんじゃないか? とはいえ、まだ進化は追いついてきていなくて、医療の方が進んでいる」
 「そうなの?」
 「パンフレットを、退院するときにもらったんだよ」
 今日子は、産後に退院するとき、病院から「お祝いセット」という袋をもらったらしく、クローゼットに仕舞っていたそれを引っ張り出して持ってきた。袋から「父乳育児を希望する方へ」というタイトルのパンフレットを取り出すと哲夫に見せる。坊主頭の父親が赤ちゃんを抱きしめている写真が表紙にあり、哲夫は強く惹かれた。
 「読んでいい?」
 哲夫は薫を今日子に預ける。
 「うん」
 今日子は薫を抱っこして頷く。
 「ありがとう」
 哲夫はパンフレットをめくってみた。そこには、病院で治療を受けることによって父乳を出すことが可能であると書かれていた。入院や手術は必要なく、通院で治療を受けるようだ。ホルモン剤の注射や服薬によって乳房を発達させる。父乳が出るまでは三日置きに通院して注射を打つ。薬は一日三回飲む。数週間で父乳が出るようになり、授乳期間中は二週間ごとの通院を続けるらしい。母乳と同じく、赤ちゃんのことを考え、何度も授乳を繰り返すことで、父乳の出が安定していくようだった。認可されたのは今年らしく、新しい医療なので、本当に安全かどうか、不安は残るかもしれない。また、健康保険の適用外なので、治療費は高額になる。
 「どう?」
 今日子が哲夫の顔色を窺う。
 「やってみたい」
 哲夫が顔を紅潮させると、
 「そうだね。応援するよ。費用は私に出させてね」
 今日子は頷いた。
 「ありがとう」
 早速、病院に電話すると、運よく三日後に予約が取れた。

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