1 高木幸忠先生

「スケッチに行こう」
夏休みが終わったある日、
オール1の私に
先生はそう声をかけてくれた。

 ずっと、劣等生だった。
 このことは、ことあるごとに話し、あるいは書いてきたので、ご存じの方も多いと思う。
 まず、幼稚園には、ほとんど行っていない。
 正確にいうと、一日で行くのを止めた。
 登園した最初の日、私を含む子どもたちは、皆で切り紙をさせられた。鋏で紙を切り、広げると何かの模様になるという、あれである。私には、初めての体験だった。紙は手元で、みるみるうちにボロボロになった。
 それを見た隣の少女が、ひと言、私にこう言った。
「あんた、バカね」
 その場で、席を立った。
「女子どもにバカと言われて、平気でいる男がいるか」
 父の言葉を思い出した私は、それを実践したのだ。それからは、近所の悪ガキたちと野っ原を駆け回って遊んだりと、好きなことだけをして過ごした。父も母も、そんな私の行状を、とくに咎めだてたりはしなかった。
 そんな前歴があったから、小学校への通学も危ういものだった。
 二日目から、家は出たものの、授業が始まる時刻になっても学校に辿り着かない。家の者たちが捜しに行くと、通学路の途中にある鍛冶屋の前で、鍛冶屋の親父の仕事の手元を飽かず眺めていたという。家の普請中は、やはり大工の手元に夢中になっていた。
 それが私、西山忠来という少年だった。
 そんな調子であったから、一学期、最初の学期末にもらった通信簿の評定は、はたしてオール1であった。
「タダキ君は、学校というものが何なのか、まったく理解できていません」「毎日来るようにはなりましたが、くれぐれもご家庭でよくよくご指導ください」と、添え書きがしてあった。
さすがに、大人たちも怒り出した。
「おまえ、何考えてるんだ」
「義務教育なのよ」
「こんなふうでは、とてもまともな社会人にはなれません」
 しかし私自身は、ガミガミ叱られたところで「何を言ってるんだろう」くらいにしか思っていなかった。

「タダキ君、勉強してる?」
 母が、ことあるごとに私に訊く。
「うーん」と、私は答え、一応、考えるふりをする。
 そのうち、いつもの面々がやってくる。
「タダキくーん、あーそーぼっ!」
 途端、「はぁーい!」と飛び出していく。
 オール1もむべなるかな、である。
 そこから私を掬い上げてくれたのが、当時の担任教師の高木幸忠先生であった。


 普段は、鬼のような先生であった。うるさくしていると、チョークを投げる。反抗すると、出席簿で頭を殴る。ヤンチャ坊主の私が目をつけられるのは当然で、最初に座っていた窓際の席から教壇の真ん前に移動させられ、授業中を通して監視される憂き目にも遭った。
 そんな典型的な鬼教師ではあったが、実は絵の好きな、芸術家肌の一面があった。
「スケッチに行こう」
 夏休みが終わったある日、高木先生は私にそう言った。
 私だけではなかった。もうひとり、クラスメートのフジワラ君にも、声がかけられていた。
 指定されたのは、日曜日であった。絵は好きだった。しかし、なぜ休みの日にわざわざ、クラスの中で私たちふたりだけを連れ出そうとしたのか、そのときは、まったくわからなかった。
 わからないまま、誘われたことを、私は母に告げた。
 約束の日曜日がきた。
 朝、私は母に連れられて、駅へ赴いた。駅には、高木先生と、フジワラ君が待っていた。
 母から私を引き取ると、いつもは恐ろしい高木先生が「大丈夫。大丈夫ですよ」と言って、笑顔を見せた。
 よろしくお願いします、と母は深々と頭を下げた。その瞬間、母の眼から、パタパタッと、大粒の涙がこぼれ落ちたのが見えた。私は、びっくりして立ちすくんだ。そして、こう思った。
 もしかして、俺は棄てられるのか?

 フジワラ君は、母子家庭の少年だった。父親はいるが、家にはいない。噂では、人を殺して刑務所に入っているという話だった。おとなしい少年で、絵がとてもうまかった。
 対して、オール1の劣等生の私である。町内でも目立つ一家の、その特殊な事情も、もちろん先生はわかっている。
 フジワラ君と一緒に。
 私にこう聞かされたときから、母はすべてを悟っていたのだろう。
 プラットホームで母と別れ、私は先生とフジワラ君と一緒に、列車に乗った。
 人前で涙を見せることなどなかった母は、先生が自分の息子を思いやり、はじめてまともに扱ってくれたことに、思わず感極まったのだろう。
 列車が動き出した。母は、まだ泣いていた。
 行き先は、下関だった。海岸べりの丘の上、そこにあったテレビ塔の足元に陣取ったフジワラ君と私は、スケッチブックを広げ、絵を描き始めた。
 丘の上からは、関門海峡が見渡せた。フジワラ君は、その風景を丁寧に描いていた。私は、なぜか海峡には目もくれず、蜘蛛の巣のように張ったテレビ塔を真下から見上げ、その向こうに見える空とともに描いた。
 何を描いているんだ、とスケッチブックを覗き込んだ高木先生は、「へえ、面白い構図だな」と言い、フジワラ君を呼び寄せた。
 フジワラ君も「うまいね」と言った。
 フジワラ君は海を、私は空を、そうして一日中描き続けた。
 高木先生は、私たちの傍で、それを見守っていた。
 面白いな。うまいね。自分のすることを他人から褒められたのは、人生で、このときがはじめてだった。
 この日描いた空の絵は、のちに市の美術展に出品され、私は銀賞を受けた。市内のデパートに展示されたその絵を、私は母たちと観に行き、その前で誇らしげに写真まで撮った。
 このこともあって、図画工作の成績は、次の学期には1から3に上がり、私はオール1の不名誉から、何とか脱することができた。
 弾みがついて絵に目覚めた私は、それから一心不乱に描き始め、図画工作の成績は、最終的に最高の5にまで上り詰めたが、そのせいでのちに思いもかけない弊害が出ることになる。だが、それはまた別の話である。

 要するに、高木先生は、フジワラ君と私を贔屓したのである。
 それぞれに複雑な事情を抱えた少年たちに、絵を描く楽しみを教えることが、生きていく上でよすがになるかもしれないとでも考えたのであろう。
 昨今の平等主義からすると、特別扱いは憎むべきものかもしれない。しかし、この頃は、こういう思いやりが生きていた。いい時代だった、ということなのだろう。
 フジワラ君とはその後、クラスが分かれ、親しく接する機会はなかった。彼が絵を描き続けたか、そして、どんな人生を送ったかは、わからない。
 その日のことを、私はのちに、自伝的小説の一場面に書いた。たまたまそれを読んだ高木先生の娘さんが、「これ、お父さんのことじゃないの」と先生に告げた。後日、高木先生から私の元へ、一通の手紙が届いた。
 あのニシヤマ君が、たいへんな出世をなさって。
 手紙には、そんなふうに書かれていた。
 それは間違いなくあなたのおかげですよ、と、私は胸の内でつぶやいた。

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