プロフィール
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小林 エリカ (こばやし・えりか)
1978年東京生まれ。作家・マンガ家。2014年『マダム・キュリーと朝食を』で第27回三島由紀夫賞・第151回芥川龍之介賞にノミネート。その他の著書に『親愛なるキティーたちへ』、『彼女は鏡の中を覗きこむ』、『光の子ども』(1巻~3巻)など。
担当編集より
【刊行記念エッセイ】オリンピックに沸く東京で、“見えないことにされる”もの、とは? 気鋭の著者によるノンストップ近未来小説『トリニティ、トリニティ、トリニティ』
推薦コメント: 上野千鶴子氏(社会学者) 20世紀最大の呪いは、原子力の発見とその実用化だった。 小林エリカは核に取り憑かれた作家だ、いや、核に取り憑いた巫女だ。 その予言は私たちを震え上がらせる。 |
2020年夏の東京を舞台にした、小林エリカさんの近未来長編『トリニティ、トリニティ、トリニティ』が刊行されました。
アーティストとしても漫画家としても独自の活動を続ける小林さん。
小説作品は、芥川賞にノミネートされた『マダム・キュリーと朝食を』、『彼女は鏡の中を覗きこむ』に続く三作目です。
オリンピックに沸く街で、「見えないことにされた」ものたちとは…?
刊行にあたり、著者エッセイを掲載します。ぜひご一読ください。
『トリニティ、トリニティ、トリニティ』刊行記念エッセイ
狂気の母乳と
トリニティ、トリニティ、トリニティ
未知の物体である赤子を秤に乗せ1g単位で体重を量る。はじめての子どもを産んでからの約3ヶ月間、母乳を与える2時間おきにひたすらそれを繰り返す。私は、我が子が摂取したであろう母乳量の記録づくりに、心血を注ぎ続けた。
そもそも母乳というのは子を産めば自然に出るものだとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。そのうえ私は母乳が出にくい体質だったらしい。正直、別に母乳なんかじゃなくてミルクでいいじゃん、と頭ではわかっていた。この21世紀の日本にあってミルク否定派を理性的でないとさえ、私は馬鹿にしていたくらいであった。にもかかわらず、病院に貼り出されている母乳をあげようキャンペーンのポスターを見るたびに、赤ちゃんが小さくて可愛いですねと声をかけられるたびに、私は震え上がらずにはいられなかった。
私は努力が足りないのではないか。もっと努力をすれば、母乳も出るようになるのではないか、赤ん坊も大きくなるのではないか、泣かないようになるのではないか。日夜悩み続けた。
産後、原稿も書けなくて、金も稼げなかったし、かといって家事や育児もうまくできない。それどころか母乳さえ出ないだなんて! と何度も自分の無価値を責めた。
そうして、私は必死で母乳量の記録づくりをするという、ちょうど竹槍を手に訓練を重ねるような謎の努力に全力を投入し、ごく恵まれた家という平和な閉鎖空間の中で、ますます自分を追い込んでいったのだった。
たかが母乳で?! 振り返ると、悪い冗談みたいで馬鹿馬鹿しいし、あの頃の私は、ようするにホルモンバランスの崩壊による産後鬱的なやつだったのだ、と笑えるのだが。
けれど思えば、これまで努力というものをすれば、何でもできると教えられていたし、自分でも心の底ではそう信じていたことに気づいて、ぞっとした。
何かがうまく行かなかったり、失敗するのは、努力が足りなかったせいなのだ、と考えていたのではないか。
全ての価値を金に換算し、役に立つか立たないかだけで、判断していたのではないか。
本当は、恋愛だって、結婚だって、妊娠だって、努力すればできる、というものではない。ただ生きているだけで、存在には価値がある。それを頭ではわかっているはずなのに。
でも、自分を磨けば、健康に食べ物に気をつければ、頑張れば、夢は、願いは叶うんじゃないか。もっと価値ある人間に、誰かから必要とされる人間に、愛される人間に、なれるんじゃないか。心のどこかでそれを信じたい。
私は四十を過ぎて、ようやくそんな自分の恐ろしい妄信に気がついたのだった。
この世には、努力しても叶わないことがある、という現実を知ることは、怖い。
人は老いるし、人は死ぬ。だから神に祈るの?
あるいは、だから神のような力を手に入れたいと願うのか。
私がトリニティを訪れたのは今から十年以上前、2008年のことだった。
トリニティ。キリスト教の三位一体の意。アメリカ、ニューメキシコ州、ホワイトサンズミサイル実験場の一部、1945年7月16日月曜日5時29分45秒、世界ではじめての原子爆弾実験が行われた場所の名でもある。
私はニューヨークに滞在していて、台湾からやってきた映像作家のイエローという女の子と一緒にアメリカ横断の旅をしていた途上のことだった。
私はどうしてもトリニティをこの目で見たかった。
アラモゴードの街から、ホワイトサンズ国定公園を経由して、車で北へ向かう。地図を片手に、見渡す限り平らな土地をひたすらまっすぐ車で進み、ようやくそこへたどり着く。しかし、トリニティは年に二度しか公開されないので、入り口のゲートはぴたりと閉じられていた。それでも、私は中を見ようと、わざわざ車を降りてフェンスの向こうを覗き込んだ。そこの地名はホワイトサンズだったが、砂は白ではなく赤だった。たまたまその道端で死んでいた牛の死骸なんかを丹念に写真に収めた。私は何もかもをこの目で見て、全てを知ったような気になり、満足した。
あれから私は日本へ戻り、当時付き合っていたボーイフレンドとも別れ、イエローともふたたび会うことがないまま、十年以上の年月が経った。その間、東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の事故が起き、それとは何の関係もなしに父と祖母が病気と老衰で死に、私は子どもを産んだ。
今になって、ようやく私は気づく。
あの時の私は、果たして何を見ようとしていたのだろう。
一体全体、何を見た気に、知った気になっていたのだろう。
たとえ、そこに建てられた記念碑を、フェンスを見たところで、それはただのモニュメントに過ぎない。
そもそも、過去は、放射能は、目に見えやしないのだから。
そんなあたりまえをわかるまで、この小説ができるまで、随分と長い時間が掛かってしまった。
けれど、トリニティを訪れたあの日から、見えないものを見たいと欲していたあの時から、私はずっとずっとこの小説が書きたかった。
(青春と読書 2019年11月号掲載)
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