まえがき

 新社会人時代の同期五人のことを、人に「同期」と説明する癖が抜けない。
 おかしいことはなにもない。私たちは確かに約十五年前、二〇〇五年の内定者懇親会で初めて顔を合わせた間柄で、私自身はその会社に一年しか勤めなかったけれど、その間、彼女たちと一緒に働いていたのは、掛け値なしの真実だ。それでも、私が彼女たちと遊んだ話をすると、相手はしばしばびっくりした顔でこう言うことになる。
「えっ、同期とそんなことするの? 仲がいいんだね」
 そのたびに、またやってしまった、と思う。

 私は同期と徹夜カラオケをしたことがある。
 旅行に行ったことがある。
 官能映画を観たことがある。
 交換日記を回していたことがある。
 色違いのつなぎを着て、夜通し歩いたことがある。
 丸めた新聞紙をガムテープで固めて、人間の大きさの人形を作ったことがある。

 たぶん、最初から「友だち」と話していれば、相手を戸惑わせなくて済んだのだ。「友だち」だったら一緒にどんな遊びをしても、「仲がいいんだね」とは言われない。だってそれは、そもそも親密な人間関係を表す言葉だから。話が相手の耳にすっと入るよう、次からは気をつけようと思っても、結局忘れる。同期は同期。その感覚がいつまで経っても消えない。
 そうして私は今日も、「同期と高尾山に登ったんだけど」「同期と着物で集合して神社に行ったときに」と口にして、人に驚かれている。

 収録されている二編のうち、表題の「愉快な青春が最高の復讐!」は、そんな同期との思い出を中心に、私の青春について書いたものだ。全十回、集英社のPR誌「青春と読書」に連載していた。自分には縁遠いものと諦めていた青春が、社会人になったと同時にスコールのような勢いで降ってきた。その驚きは、いまだに胸の中に生きている。もう一編の「記録魔の青春を駆け抜ける」では、途中何度か奇声を上げつつ、小中学校時代も含めた過去の日記を可能なかぎり振り返った。

 青春という言葉に気持ちが明るくなるウルトラハッピーな方にも、殺意や絶望に似たなにかが湧き上がる方にも、この本を楽しんでもらえたら嬉しいです。

1 空腹のライオンでもゾンビのほうを

 青春を味わうには資格が必要だと思っていた。
 休み時間に大きな声で話したり、ため口交じりに教師と雑談したり、制服を着崩したり。きっと、その手の行動に青春はついてくる。体育の授業を偏愛したり、提出物の期限をラフに無視したりするような精神性も大切で、もちろん、友だちは多くなければならない。そんな無邪気さをたくさん集めた若者だけが、ブルースプリング王国の門をくぐることができる。王国の海はソーダ水のように澄み渡り、浜はどこまでも白い。城では昼夜を問わずパーティが催され、皆、ビンゴで盛り上がっている。国技は当然フットサル。バーベキューイベントはマストです。この、自分の小説に軽く不安を覚えるほど陳腐な想像が、私にとっての青春だった。
 どこをどう大胆に分析しても、私の人間性は青春に向いていなかった。夏休みの宿題は、毎年八月の前半に終わるようこつこつ進めた。制服の着こなしも至って標準で、それはつまり、とんでもなく野暮ったかったということだ。高校時代の写真を見ると、野放図に育てられた私の眉は左右で大きく形が違って、よくもまあ方向性の違いで解散しなかったものだと思う。ルーズソックスブームにも染まらず、携帯電話を持ったのもクラスで一番遅かった上に、お小遣いの半分以上を費やして、自分で使用料を払っていた。
 同級生の男子とは、年に十回も話さなかった。一度、教師の発言に教室が笑いに包まれた際に、「ほら、奥田さんも笑ってるじゃん」と混ぜっ返しの材料として使われたことがある。私を傷つけたいという意図は感じなかったけれど、その男子に対等な人間として見られていないことは、はっきりと分かった。彼は数年前にご商売を始められたようで、私はときどきホームページをチェックしては、彼の笑顔にまだ腹が立つかどうかを確かめている。
 今、見てきた。やっぱり、腹、立ったよね。

 とはいえ、真面目な人間だったわけではない。掃除をさぼったことも、答えを丸写しして宿題を終わらせたことも、何度もある。ただ単純に、前向きに生きる気力がなかった。あのころの私とゾンビが並んでいたら、空腹のライオンでもゾンビのほうを食べたと思う。「先生にアルバイトがバレた! どうしよう」と同級生が騒いでいた高校時代、私の母親は私の担任教諭から、「学校に許可を取って、亜希子さんにアルバイトをさせてはどうでしょうか」と助言されている。学校生活は問題なく送れているけれど、覇気がないのが気になると言われたそうだ。
 この、教師に心配されるほど無気力に通っていた高校を、私はなんと皆勤で卒業している。たぶん、本当に心が死んでいたのだと思う。サボるという向上心さえ持ち合わせていなかった。そう、思考停止状態に陥っていない人間だけが、嫌なことから逃れられる。学校をずる休みしたり、授業を抜け出したりした話を人から聞くと、私は今でも、すごいなあ、生きてる人間って感じがするなあ、と思う。
 こうなった理由の九十八パーセントは自分の性格にあるとして、二パーセントだけ学校のせいにしたい。いや、させてください。思うに、地方都市にある偏差値が中ごろの高校(あくまで当時の私の体感です)は、空気が倦みやすい。その学校に通う生徒は、小中学時代はそこそこ勉強ができたため、逆境にあまり強くない。受験を通して上には上がいると痛感し、子どものときに見ていた夢は、どうやらそのままの大きさでは叶えられそうにないことを知る。街はそれなりに充実していて、なにがなんでも都会に出たいという意欲も湧きづらい。夢中になれるものや将来の展望、もしくはどうしても逃れたいなにかがないと、心はじわじわ気力を失っていく。

 二〇一四年の秋、私は自分の出身高校をイメージして、「キャンディ・イン・ポケット」(新潮文庫『五つ星をつけてよ』収録)という短編を書いた。先生がこれを授業で取り上げてくださった関係で、たくさんの感想を読む機会に恵まれた。「面白かった」「まさに自分の通学路の風景が頭に浮かんだ」など、好意的な言葉が並ぶ中で、もっとも多く目についたのが、「うちの高校から作家になる人が出てくるなんて」という一言だった。
「……分かる」
 後輩たちの感想文を手に、私は自宅で一人呻いた。私自身、本の著者プロフィールに目を通しては、作家の出身大学をやたらに確認していた時期があった。昔から漠然と憧れていた職だった。なのに、どうにも有名大学ばかりが目に飛び込んでくる気がして、なるほどなるほど、だったら私には無理だ、と、あっさり結論を出していた。
「学歴がすべてじゃないでしょう」
 そうです。
「頑張ることから逃げるため、理由を探しているだけでは」
 そのとおりです。
「成功している人間は、みんな相応の努力をしているんだ」
 おっしゃるとおりです。
 けれどもあのころの私は、自分が努力することに、どうしても意味を見出せなかった。自分に価値はないと本気で思っていた。私は昔から自分のことがあまり好きではなく、いつだって違う誰かになりたくて、つい最近までそのことを自己肯定感や自信の問題だと考えていたけれど、どうやら少し違うみたいだ。自分が好ましいと感じる人間性を、自分自身が保有していないのだと思う。おそらく誰にでもいる、この人、悪い人ではないんだよなー、いいところもそれなりにあるのになー、と思いながらも、なぜか馬が合わない人。私にとって、それが自分なのだ。
 高校二年生のある日、自分にはこの先、特別な出来事は訪れないだろうとふいに悟った。誰かと付き合ったり結婚したり、喜怒哀楽を預けられるような趣味に生きたり、人からものすごく必要とされたり。そういった、自分史に蛍光ペンやシールでデコレーションしたくなるようなことは、なにも起こらないに違いない、と。
 それは絶望ではなかった。小説や漫画が読めて、数人の友だちとときどき会えるなら平気だ。あとは安定のために長く勤められそうなところに就職して、なるべく早くワンルームのマンションを買おう。突如閃いたその思いは、まるで神託のようだった。

 この約半年後、私は某漫画家のファンサイトで知り合った男の人と交際を始めた。なにが、ふいに悟った、だ。あの神託、とんだまがいものである。愛知在住の私と千葉に住む彼との付き合いは、いわゆる遠距離恋愛と呼ばれるものだったけれど、それでも世界は一変した。私の好きな人が、私のことを好き! すごい! 私は急に勉強に精を出すようになり、地元の大学に合格したあとは、なんとか垢抜けようと髪を染めた。服に化粧品に交際費。欲望を充足するにはお金が必要だと、回転寿司屋でアルバイトも始めた。
 それまで化粧品に縁がなかった私は、初めてのアイシャドウに緑色を選んだ。それを拙い技術で塗りたくっていたため、今思えば、河童のような顔面に仕上がっていたのだろう。大学で知り合った友だちの一人が、「茶色系のほうが似合うと思うよ」と指摘してくれた。「スルメを食べながら構内を歩かない」と、私の奇行を叱ってくれた友だちもいた。言いにくいことをきちんと伝えられてこそ真の友、という説がある。この二人とはなかなか会えないけれど、今でも仲がいい。ずっと仲がいいと思う。
 大学三年生のときには、ふたつ目のアルバイト先だった珈琲屋のお客さんに、「君は顔もスタイルも普通だけど、髪飾りは可愛いね」と褒められた。今考えると、少なくとも前半は、胸にがっちり鍵を掛けてしまっておくべき言葉だ。でも、顔とスタイルが普通と認定されたこと、さらにはヘアゴムを選んだ自分のセンスが褒められたような気がして、当時の私はとても嬉しかった。

 大学を卒業後、私は千葉で就職した。恋人との距離を少しでも縮めたかったのだ。そんな動機から勤め始めたのは、地域密着型のフリーペーパーを発行している、従業員数五十人ほどの会社だった。そこで出会った同期(橋本、矢田、山口、和田の四人に、ときどき清野が加わる)と、私は一生ぶんのはちゃめちゃを楽しむことになる。
 平日は毎晩のように誰かの部屋に集まり、一台のベッドに五人で眠った。会社のロッカーに共用の風呂道具を入れておいて、仕事帰りにみんなで銭湯に通った。勢いで前髪を切り合い、翌日上司から「罰ゲームで?」と真剣な顔で訊かれた。北は北海道から南は長崎まで、あちこち旅行に行った。
 パーティもビンゴもバーベキューも見当たらず、若者でもない。なにせ、みんな立派な社会人だ。先発品の特許期間が終了したのち、同様の効能を持つものとして製造される薬のことを、ジェネリック医薬品という。私が体験した青春は、ジェネリックだったのかもしれない。それでも同期と過ごした日々を、私は「青春」としか呼べない。
 例の交際相手とは、私が二十三歳のときに入籍した。二十八歳で子供を産んだ。すばる文学賞を獲ったのは、その一年半後だ。これは本当に私の人生なのか、と今でもよく思う。高校二年のときに覚えた悟りは、見事にひとつも当たらなかった。
 私はときどき高校生のころの自分に話しかける。私、結婚したよ、子どもがいるんだよ、と。新刊が発売されれば、本が出たよ、と告げる。東京の美術館に一人で行ったんだよ、とか、ママ友が開いているお菓子作り教室に参加したよ、とか、あのころの自分が驚きそうなことを選んでは伝えている。
 私のエッセイが本になったことを話したら、彼女はきっと怯えるだろう。お金を出して読む人がいるの? と左右非対称の眉をひそめる姿がたやすく想像できる。もし私の声が届くとしても、君は大丈夫だよ、みたいな言葉は口にしたくない。そう簡単に喜ばせてたまるか、という気持ちがある。
 ただ、せめてものアドバイスとして、その眉毛、なんとかしたほうがいいよ、と、それだけは言うつもりだ。

2 とろとろしてるから

 会社の同期とは仲良くなれないと思っていた。
 先に社会人になった当時の恋人、現在の夫より、「会社の人とは友だちになれないよ。ある意味でライバルなんだから」と、しょっちゅう忠告されていた。また、同期が初めて顔を合わせた内定者懇親会で、みんな喪に服しているのかと思うほど話が盛り上がらなかったこと、一人が、「周りから変わっているとよく言われます」と、自己紹介したことも大きい。中学一年生のとき、廊下に貼り出される自己紹介に、「生まれ変わったら悪魔になりたい」と書いて失笑された自分のことを完全に棚に上げて、私は、人から変人扱いされていることをアピールする人って苦手なんだよねー、と思っていた。
 仲良くなれない予感が当たっても、構わなかった。そもそも私は恋人がいるから千葉に就職したのだ。今までは一、二ヶ月に一度しか会えなかったけれど、これからはもっと頻繁に彼の顔を見られる。彼と楽しく過ごす想像に、心はすっかり躍っていた。それ以外のことは、まあ、どうでもよかった。
 それがなぜ、ときに恋人の誘いを断って、平日や休日、長期休暇までも、同期と過ごすような展開になったのか─。

 すべての始まりは、二〇〇六年四月一日に行われた入社式の出しもので、みんな揃ってメイド服を着たことにある。内定者研修から実際に入社するまでの半年間、私たち新入社員はインターンシップとして、その会社にアルバイトに通っていた。私は三月下旬まで愛知の実家に住んでいたこともあり、同期とは滅多にシフトが重ならなかったけれど、矢田と和田はこの機会にぽつぽつ話をしていたようだ。メイド服は二人の発案だった。
 入社式の次の日には、街のイベントに新人全員が駆り出された。その翌日からは五日間の新人研修が組まれていて、私たちは狭い部屋でみっちり座学を受けることになった。この研修中も話が盛り上がった記憶はないけれど、連日朝から夕方まで一緒に過ごしたことで、互いの警戒心は薄れていたらしい。研修最後の夜、「これから打ち上げをしよう」という話が急に持ち上がり、唯一の男性同期を除いた六人で、橋本のアパートに集まることになった。この日は私も恋人と会う予定がなく、彼女たちの誘いを断る理由はなかった。
 こうして始まった打ち上げの終盤、五人から和田にサプライズでケーキが贈られた。誕生日が近かったのだ。驚く和田、そして私。私もまた、ケーキの演出をまったく知らされていなかった。みんなに合わせてバースデーソングを笑顔で歌いながら、いつの間に! と思った。あれ? ハブにされた? とも思った。普通に思った。同期のことはどうでもよかったはずなのに、もしかしてなにかやっちゃった? と、にわかに焦りを覚えた。
 ことの真相は、急遽サプライズを取り決めたため、連絡が全員に行き届かなかったという、とてもシンプルなものだった。状況を理解した途端、これは楽だぞ、と、私は視界が開けるのを感じた。在学中に一秒も運動部を体験しなかった私は、集団行動に対する経験値がとにかく低い。友だちは常に二、三人と少人数で、相手のことが好きだからこそ、常に濃密な繋がりを求めた。打ち明ける悩みの重さや喋るタイミングに注意して、抜け駆けや裏切りなどの誤解を与えないよう、できるかぎり気を配る。そうしたいと思うこと、そうされたいと願うことが、私にとって、人と仲良くなることだった。
 けれども六人組では、そうそうバランスを取ってもいられない。また、配属先が決まると、同期の中でも行動範囲の重なり具合に差が出てきた。こうなると、タイミングの合う相手とランチをしたり、飲みに行ったりするのが当たり前になる。この人と喋りたいという動機で約束するわけではないから、二人で会っていても深い話にならない。それが心地よかった。楽であることを基盤に人と親しくなってもいいことを、私は齢二十二にしてようやく知った。
 友情とは、魂の繋がりとイコールではなかったのだ。

 社会人一年目の六月、都内より通勤していた矢田が、ついに会社の近くに引っ越してきた。これで六人全員が、自転車で行き来可能な範囲に一人暮らしをしている状況が完成した。おはようからおやすみまで、暮らしを見つめ合う関係の爆誕である。
 虫が光に引き寄せられるように、私たちは夜ごと誰かの部屋に集まるようになった。みんなでテレビを観て、実のない話をして、眠くなったらうとうとする。参加頻度は人それぞれだったけれど、実家の門限から解放されたばかりだった私は、足を運ぶことのほうが多かった。誰もいない真夜中の街を、自転車でのんびり帰るのも好きだった。
 八月生まれの清野の誕生日には、「一度やってみたかった」という私の希望でスイカをくり抜き、フルーツポンチを作った。取り分ける器がなかったため、新聞紙を敷いた床にそれを置き、全員で囲んで食べた。十月の私の誕生日には、「HAPPY BIRTH DAY」と形作られたクッキーが会社のデスクに並んだ。三月は、矢田の誕生月だ。私たちは大量の新聞紙とガムテープで人間の大きさの人形を作り、顔の部分に彼女の好きな俳優の写真を貼りつけて、それをプレゼントにした。確か矢田は、自転車のカゴに新聞人形の臀部を突っ込んで、深夜二時ごろ帰宅したはずだ。矢田が職務質問されなくて、本当によかった。
 入社式の出しもので使用したメイド服をふたたび着て、デリバリーピザを受け取ったハロウィンのこと。誰も、なににも負けていないのに、なぜあんな罰ゲームのような真似をしたのか、まったく思い出せない。思い出せないまま死にたい。上限金額五百円でプレゼントを交換した、クリスマス会。花見もやった。花火もやった。落ち葉で芋も焼いた。寒い夜に、「湯冷めする!」と騒ぎながら、銭湯とおでん屋のはしごもした。
 上司のクライアントだった、中高年女性が主な購買層の衣料品店で服を買い、土曜出勤の際にみんなで着たこと。それぞれ恋人や元恋人に電話をかけて、自分の外見のどこが好きか、やにわに尋ねたこと。私の恋人の、「目の下の黒いところ」という答えは「どこ!?」とその場を混乱に陥れ、「耳」と返した矢田の元恋人は「センスがある」と讃えられた。
 あるときには、官能映画鑑賞部も結成した。仕事終わりに自転車をかっ飛ばして映画館に行った日、実は山口は体調を崩していて、先輩たちからは、「行っちゃだめだよ!」と止められていたという。それを振り切って参加したにもかかわらず、上映開始二十分で気分が悪くなり、結局リタイア。濡れ場をひとつも観ることなく帰って行った。山口が見せた、謎かつ無意味なガッツだった。
 もっとも開催頻度が高かったのは、なんと言っても徹夜カラオケだろう。全員で盛り上がれる歌を探していた私たちは、「DANZEN!ふたりはプリキュア」や「撲殺天使ドクロちゃん」を経て、「はたらくくるま」に行き着いた。
「はがきやおてがみ あつめる ゆうびんしゃ」
「ゆうびんしゃ!」
「まちじゅうきれいに おそうじ せいそうしゃ」
「せいそうしゃ!」
 この歌に最高のコール&レスポンスという金脈が眠っていることを掘り当てたのも、山口だった。「はたらくくるま」を大合唱して、フリータイムが終わる朝五時にカラオケ店を退出する。それから近くの定食チェーン店で朝食を摂り、解散するというのが、私たちの定番の遊び方になった。
 二〇〇七年三月に私が退職したあとも、同期はおかしな遊びを量産し続けて、夏には矢田の部屋で台風を見る会が催されたそうだ。スーパーマーケットで投げ売りされていた惣菜を食べたあと、下着姿でベランダに出て、暴風雨を身体に感じたという。控えめに言ってもクレイジーだ。

 会社の先輩や上司は、私たちに優しかった。というより、甘かった。仕事の面ではもちろん厳しく指導されたけれど、空きロッカーを六人で占領して、風呂道具やお菓子を入れるなど明らかに調子に乗っていた新人を、調子に乗っているという理由で怒る人は誰もいなかった。
 ある日、私はリサイクルショップで玩具の綿あめ機が売られているのを発見した。価格は、なんと五百円。矢田と和田に話したところ、ぜひ買ってくるよう言われた。それまでにも麻雀牌やスケボーなど、誰かが入手した遊び道具をみんなで使うことがあった。「これで綿あめパーティができるね」と、私たちは頷き合った。
 とはいえ、綿あめ機は大きい。徒歩や自転車で持ち帰るのは面倒で、私は購入するタイミングを見計らうことにした。ところが、私に好機が訪れる前に、綿あめ機は店頭から姿を消した。まずいと思いながら、夜、会社で事務作業をしていた矢田と和田にその旨を報告すると、二人は急に声を荒らげた。
「奥ちゃんがとろとろしてるからだよ!」
 その瞬間の、上司の顔。すわ喧嘩かと大きく目を見開いたのち、どうでもいいことで揉めていることを察したらしく、あっさり仕事に戻っていった。綿あめ機のことで揉める新人と、それを完璧に受け流す上司。私たちもたいがいおかしかったけれど、周囲もかなりネジが緩んでいたと思う。
 この綿あめ機の一件は、いまだに尾を引いていて、店に予約を入れるなど私がすばやく行動に移すと、「あのときの教訓が活かされてるね」と褒められる。わりと嬉しい。

 それにしても、あのまったく盛り上がらなかった内定者懇親会は、一体なんだったのか。今なら分かる。私たちは全員、面接や仕事のときには明るく振る舞えるのに、義務感や強制力の働かない場では、人に心を開くことを極端に億劫がる。つまりは怠惰的人見知りを発動するメンバーだったのだ。

3 この世に生を享けて以来の

 休日とは、文字どおりに心と身体を休ませるためのものだと思っていた。
 私は体力がない。筋力もないから、腹筋も腕立て伏せも、ついでに鉄棒の逆上がりも人生で一度もできたためしがない。たぶん、本当にぎりぎりで人の形を保っている。寝転んでいる以外の体勢は、すべて運動という心づもりで生きていて、できれば毎日十時間、いや、昼寝も加えて十二時間寝たい。趣味も家の中でできることばかりで、室内にこもっていた状態から急に強い日光を浴びて蕁麻疹を発症したことが、これまでに二度ある。予定がなければまず家にいた。
 見知らぬ街に行ってみたいとか、自然と接したいという欲望も薄かった。予想外の出来事や大きな刺激を処理するのが苦手なのだ。現実は、本のようにページを閉じて、トラブルから逃れることができない。そんな性格の上にものぐさで、数字と手続きが大嫌い。こうなると、週末の二連休程度では、遠方に出掛けようという気持ちになりようがない。長期休暇に旅行することにはそれなりの憧れがあったけれど、小旅行に関しては、私の理解の範疇を超えていた。土日に旅なんかして、どうやって気力体力を回復するの? みんな自分を追い込んでるの? なにかの試練なの?
 社会人になってしばらくは、そんなふうに思っていたはずだ。なのに、気がつくと私は、同期と小旅行を繰り返すようになっていた。

 彼女たちと初めて遠出をしたのは、入社から四ヶ月が経った、二〇〇六年の八月のことだ。千葉の金谷港から横須賀までフェリーが出ていると知って、乗ろうという話になった。この企画に参加したのは、山口、矢田、和田、私の四人で、このうち山口と和田が鉄道好き。内房線に乗りたいという二人の希望も絡んでいた覚えがある。
 私たち全員に共通した趣味は、おそらくいまだにひとつもない。音楽好きは二人、サッカー観戦好きも二人、歴史好きは二・五人で、某アイドルグループの沼に片足を突っ込んだのは三人。本はみんなが読むけれど、好きなジャンルや作家はばらばらだ。ただ、人が立てた企画に乗っかる能力だけは、全員が神より授かっていた。フットワークの軽い、山口、矢田、和田の誰かが閃いたアイディアに、半開きの目と口で、「うん、行くー」と答える力。私は家で過ごすのが大好きだけれど、誰かが下調べやチケットの手配をしてくれるなら、行きたくない場所というのはほとんどない。そのことに、同期と知り合ってから気がついた。「はぐれ刑事便乗派」という、純情と便乗をかけたいだけのキャッチコピーを橋本と共に自称して、山口たちの誘いに秒速で賛同していた。
 この横須賀フェリー旅でもっとも印象に残っているのは、港で九州行きの船を見かけて、「あれに乗りたい! このまま遠くに行きたい!」と、みんなで騒いだことだ。まだ半人前だったにもかかわらず、仕事が大変なふりをするのが楽しかった。いや、大変ぶることで、立派に働いているような気持ちになれた。フェリーの甲板で缶酎ハイを飲んだのも、そういった背伸びの一環だったと思う。私たちは全力で社会人プレイに興じていた。
 内房線とフェリーに乗ること以外は目的が決まっていなかったので、横須賀に着いたあとは、そのへんをぷらぷら散歩した。目についた博物館のような施設に思いつきで入り、また歩いて、たくさん買い食いをした。「せっかく来たんだから!」のような、気合いに似た圧力を一切感じない旅だった。帰りの時間が設定されていないのも新鮮だった。
 それまで私は、人は目的地のために遠出をするのだと思っていた。辿り着いた先でなにをするのか。お金と時間、体力と気力を引き換えにして、なにを得るかが重要なのだと。なのに目的地も山場もなく、場所を横須賀から横浜に移してからも普段どおりにだらだらしているだけのこの小旅行が、妙に楽しかった。
 もしかしたら、ものすごく。

 同じ年の十一月、同期の清野が家の都合で退社し、九州の宮崎に帰ることが決まった。東京やその近郊に暮らしていると、都内の観光地にはなかなか足を運ばない。そこで、清野が千葉にいるあいだに、みんなで東京ベタ観光をしようという話になった。用事があって来られなかった橋本を除いた五人で、浅草、上野公園、東京タワーを巡った。東京スカイツリーは、着工どころか名称もまだ決まっていなくて、新旧の比較でふたたび注目が集まる前だったからか、東京タワーは空いていた。
 この数週間後、いよいよ清野が宮崎に帰る日、私たちは羽田空港まで彼女を見送りに行った。やっぱり来られなかった橋本以外の四人の中で、
「暇だし、行く?」
「行こうか」
 と、土壇場で決まったのだ。清野と空港のロビーで待ち合わせていた彼女の妹と弟は、姉の同期の登場にほんのり困惑している様子だった。職場の仲間が見送りに来るのは、確かに珍しいパターンかもしれない。遠くないうちにまた会えるだろうという根拠のない確信があったから、「じゃあね」と適当に手を振り合って別れた。その後、デッキから飛行機の離着陸を眺めて、すぐに千葉へ戻った。まるで学校の遠足のような一日だった。
 日本海を走る五能線の観光列車くまげらを見るために、山口と和田と上野駅の車両展示会に行ったときも、校外学習のような気分を味わった。二〇〇八年三月のことだ。撮り鉄の方々に交じって車両を撮影したのち、私たちは秋葉原の鉄道カフェへ向かった。そこで、ちょうど店を訪れていた海外メディアの記者からインタビューを申し込まれた。日本の鉄子(鉄道好きの女性)について取材していたらしい。自分ははぐれ刑事便乗派ですから、と断ることもできず、あたかもこの世に生を享けて以来の鉄道ファンです、という顔で、私も質問に答えた。
 五人で鎌倉に出掛けたときは、みんなで橋本の家に前泊し、官能映画鑑賞部の活動を果たしてから出発した。これは、二〇〇八年の六月のこと。ちょうどあじさいがきれいな時季だったけれど、花を見ようと言い出す者は一人もいなかった。私たちは朝から晩まで、ひたすらにアイスクリームを食べ続けた。大のアイス好きの和田の影響で、遠出の際にはその土地でしか味わえないアイスやソフトクリームを食べることが、なかば習わしになっていた。アイスのためにバスに乗り、ソフトクリームを求めて江の島に渡った。
 この日に食したのは、信濃ミルクソフト、岩手ミルクソフト、ロイヤルミルクソフト、紫芋ソフト、抹茶ソフト、蜂蜜ソフト、朝一しぼりたてミルクソフト、チョコチップアイス、紫芋バニラソフトの九種類。一人で全部食べたものもあれば、五人でひとつをつついたものもある。「アイスは一日一個まで!」と会社で上司から叱られたことのある私たちは、出発した直後こそ、「アイスは水! いくらでも入る!」と、もりもり食べていたけれど、実は……アイスは水ではない。水ではないのだ。夜、私たちは目に映った店に飛び込む勢いで、しらすのパスタとピザをむさぼった。身体に塩が染み入る幸せを、このとき初めて体験した。

 二〇〇八年八月には、朝五時半に東京駅に集合して、静岡の大井川鐵道を走るSLに乗った。二〇一〇年四月には、「男性器をかたどった神輿があるらしい」と、川崎で毎年四月に催されるかなまら祭に出掛けた。
 二〇一一年五月には、五年ぶりに横浜を再訪した。このときの移動手段はフェリーを経由せずに電車のみで、目的地も本牧に黄金町とあらかじめ決まっていた。アートショップが数多く立ち並ぶ黄金町は、かつては青線でにぎわった場所らしく、ストリップ劇場やポルノ映画館が点在している。その日は時間に余裕がなくて観られなかったけれど、官能映画といいかなまら祭といい、私たちは性にまつわる文化になぜか積極的だった。
 それなのに、個人の恋愛経験についてはあまり話されなかったことを、今更ながら不思議に思う。恋人の存在を半年近く隠していた同期もいたくらいだ。馬鹿なことばかりしている関係だったから、自分の生々しい一面を見せるのが、なんとなく気恥ずかしかったのかもしれない。それぞれの事情を知らないから、彼女たちと触れる性の文化は、学問みたいに感じられた。私にはそれが楽しかった。
 この日は日帰りではなく、中華街近くのビジネスホテルに泊まった。ちょうど山口の誕生日で、彼女の好きな俳優の顔写真をお面にして四人で被り、遅れて部屋に入ってきた山口を盛大に迎えた。お面を活用した撮影会を楽しみ、たっぷり夜更かしした翌朝、私以外の四人はホテルから会社に出勤していった。なんと、日曜から月曜にかけての小旅行だったのだ! とっくに退職して予定のなかった私は、通勤ラッシュを避けるため、チェックアウトの時間ぎりぎりまで部屋に残った。平日の朝、ビジネスホテル、横浜、一人。冷静に考えるほどわけの分からない状況だったけれど、とても贅沢な気持ちで本を読んで過ごした。人生の踊り場のような時間だった。
 電車に一人揺られ、千葉の自宅に帰りながら、最初のフェリー旅のことを思い出さずにはいられなかった。あのころの私は、関東に住み始めて半年も経っていなくて、街の名前も電車の路線も、なにも分かっていなかった。三軒茶屋は飲食店の名前だと思っていたし、乗り入れや接続の意味も知らなかった。神奈川は、千葉から遠い場所だった。それが、同期と小旅行を繰り返すうちに、関東はみるみる狭くなっていった。
 二度目の横浜旅からも短くない時間が流れて、今、私はこの世に生を享けて以来の都会人の顔で電車を乗り換えている。東京を舞台にしたときの私の小説には、電車や駅の情景がよく出てくる。自分でも、また電車! また駅! と思いながら、でも、書かずにいられない。たぶん私にとって鉄道は、関東の象徴なのだと思う。自分が関東に慣れたと思えるようになるまでの時間と、同期と電車で散々出掛けた経験が、分かちがたく結びついている。
 遠距離恋愛を終わらせるためにやって来た関東だった。千葉県民の彼と付き合い始めなければ、私は間違いなく地元で就職していた。恋人ともっと会いたい一心で愛知を離れることを決めて、就職活動の時期には何回も上京して……。あれ? わりと思い切ったことしてるな。小旅行よりよっぽど面倒くさくて、とんでもなく気力体力を使っている。
 私にも刺激を楽しめる心はあったのかもしれない。

4 頭を下にした潰れたカエルのような

 とびっきり鮮やかな記憶は、いつまでも色褪せずに頭の中にあり続けるものだと思っていた。
 私は記録魔で、中学生以降の日々は、断続的ながらいろんなところに残されている。いろんなところ、というのは、私が高校一年生のときに、家にインターネットが開通。それからは、タグを打ち込んで作成した個人サイトにブログ、SNSと、そのときどきの流行の地で、読みものふうの日記をしたためていたからだ。そういえば、ほんの一瞬、恋愛ブログもやっていたよね、と、今、天から声が降ってきたけれど、これについては嘘を吐きたい。やっていません。大学時代にはほぼ毎日ブログを更新しながら、胡麻よりも小さな字で、手帳に自分のためだけの日記もつけていた。
 手書きの日記を読み返すことは、本当に、滅多にない。その日になにがあったのか、自分がなにをしていたのか、永遠に分からなくなるのが怖いという理由だけで、私は日記を書いている。私は自分のすべてを知りたい。把握しておきたい。そんなことは不可能だと頭では分かっていて、けれども自分が自分の理解や制御を超えていくことに、どうしても恐怖心を覚えた。
 このエッセイを書くとき、パソコンの傍らには十冊以上の手帳が積み上がっている。それらを引いたり、ブログやSNSのログを漁ったりしながら、私は同期との思い出を振り返る。でも、今の私が本当に知りたいことは、意外とどこにも残っていない。記憶に触れようとすればするほど、風化した土壁のように、細部がぼろぼろとこぼれ落ちていくのを感じる。
 どんなに楽しかったことでも。

 二〇〇七年の夏、つなぎが流行った。工事現場などで働く方々をターゲットに作られた衣料品の存在に同期が気づき、みんなで着たら面白いのでは? という話になったのだ。この半年前に会社を辞めていた私は、メールで唐突に希望の色を訊かれて、ブームの始まりを知った。私のつなぎは黄葉する直前の、いちょうの葉の色に決まった。あとの四人は、橋本がカーキで山口がグレー、矢田と和田がネイビーだ。宮崎の清野にも赤を送ったらしい。専門店のつなぎはサイズと色の展開がとにかく豊富で、しかも安い。当時は一着二千百円だった。トイレに行きにくいという欠点はあるけれど、ポケットの多さと、どんなに動いてもお腹や背中が出ない利便性はすばらしい。全人類に薦めたい。
 このつなぎを着て、千葉県北西部にある我が家から、東京都葛飾区の金町まで、真夜中に歩いたことがある。なぜか。分からない。徒歩で東京に行ってみたいというのが動機だったような気がするけれど、となると、今度はなぜ徒歩で東京に行きたかったのか、という疑問が残る。過去の自分にはつなぎの値段より、このあたりを詳細に記しておいて欲しかったと思う。
 十一月二日の金曜の夜、四人は仕事を終えて私の家にやって来た。たこ焼きパーティで胃を満たしたあと、つなぎに着替えて、午前二時に奥田家を出発。流山市までは約一時間半と順調で、元気に歩いていた覚えがある。空気は一足早く真冬に突入したみたいに冷たくて、すぐ脇の国道は、車のヘッドライトで光の川のようだった。揃いのつなぎで歩く女五人に、コンビニの店員も、夜間工事をしている人も、みんなが戸惑っていた。彼らが二度見どころか、三度見、四度見することも、私たちの気分を盛り上げた。
 ところが、次の松戸市が辛かった。松戸は頭を下にした潰れたカエルのような形をしていて、北部から入って南下しようとすると、とにかく長い。歩けども歩けども松戸。ネバーエンディング松戸。地球上から松戸以外の街が消滅したんじゃないかと思った。私たちのあいだからは徐々に会話が消えて、それでも足を止めたら、この苦行は終わらない。松戸の後半から都内の街並みを目視できるようになるまでは、雰囲気も若干すさんでいた。なんのために、と、私も千五百回くらい思った。「東京 ○キロ」の看板の数字が小さくなっていくことだけが心の支えだった。
 午前六時二十六分。約十六キロの道のりを完歩して、私たちはついに金町に足を踏み入れた。そのまま休める場所を求めて駅前のファストフード店になだれ込み、そこでどろりと液体になった。もう一歩も動けない。私は夫に連絡を取り、車で迎えに来てもらった。山口と矢田をそれぞれ家に送り届けたのち、私も帰宅。なんとか風呂に入り、夫が作ってくれたオニオングラタンスープと洋風茶碗蒸しを食べて、十九時間眠った。
 車に乗らなかった橋本と和田は、その足で都内の大学の学園祭ライブに向かったそうだ。私は同期に対して、敬意が?、混乱二くらいの割合で、どうかしてるな、と思うことがある。あの液状化した身体と魂でライブを観に行った二人には、超特大の、どうかしてる、の念を抱いた。結局、疲労と睡眠不足から、オールスタンディングだったにもかかわらず、ライブ中にうとうとしたらしい。そりゃあそうなるよ。子どもでも分かるよ。

 揃いのつなぎで出掛けたことが、あと二回ある。
 夜間歩行から半年が経った二〇〇八年の五月、多摩動物公園で写生大会をすることになった。なぜか。やっぱり分からない。手帳にもブログにも、どこにも理由が残っていないのだ。天気予報は雨で、「どうする?」と尋ねた私に、「そんなことでは私たちはくじけない!」と四人は答えた。
 深夜〇時に集合して、新宿のカラオケ店で朝五時まで歌った。けれども、多摩動物公園が開くのは九時半だ。時間を持て余した私たちは、とりあえず目についた漫画喫茶に入り、店内で一度解散することにした。九時まで個室で過ごして朝食を済ませたのち、ようやく出発。幸い雨には降られなかったけれど、動物を見ながら園内を歩き回るうちに時間は流れて、薄々予想していたことながら、誰も絵を描かなかった。画材はただの荷物になった。
 もう一回は、そのさらに半年後。橋本の家から千葉の舞浜にある有名テーマパークまで、矢田を除いた四人で歩いた。なぜか。本当に分からない。しかも、今度は往復だ。それでも私の家から金町までほどの距離はなくて、昼過ぎにスタートし、夕方にはゴールできた。ああ、そうだ。橋本の家に戻ってからは、彼女の誕生日会を催した。あの舞浜ウォーキングには、年をひとつ重ねる同期を祝福する意味があったのだろうか。たぶん、ない。

 つなぎとは無関係に、今振り返ると理解不能な企画といえば、池袋アイスパーティだ。二〇〇八年八月、矢田が入手したアイスクリームチェーン店の無料券を使うために、みんなで深夜に集まった。このときも、朝の五時までカラオケをした。もはや誰も信じてくれないと思うけれど、私たち五人のうち、カラオケを特別に好む者は一人もいない。夜通し遊ぶ方法をほかに知らないのだ。朝食を摂り、店がオープンするまでの余った数時間を、今度は山手線で過ごした。「ぐるっと一回りすればちょうどいいね」と話していたはずが、全員で眠りこけて、気がついたときには二周していた。車窓越しの朝日が、暴力的なまでに眩しかった。
 池袋のドミトリーに、矢田を除いた四人で一泊したこともある。二〇一〇年の十月の出来事だ。私たち以外の宿泊客は、ほとんど外国人だった。ドミトリーといえば、ほかのゲストと相部屋になるかもしれないところに特徴があるけれど、二段ベッドが二台入った部屋を割り当てられたこともあり、特別な交流は生まれなかった。私たちはひとつのベッドに並んで座り、夜遅くまで喋った。ウサギ耳のカチューシャを装着して、人参を片手に写真も撮った。これは、理由がはっきりしている。年賀状のためだ。翌年が卯年だったのだ。
 でも、なぜわざわざドミトリーに泊まったのかは、どうしても分からない。

 同期との思い出を小説の題材にしないのかと、ときどき訊かれる。やってみようかな、と思う瞬間はあるけれど、実際に書こうとしたことは一度もなくて、それはたぶん、記憶があまりに穴だらけだからだ。小説はフィクションだから、事実に沿う必要はまったくない。でも、つなぎで歩いているあいだに起きるハプニングは考え出せても、なんの疑問もなく五人でつなぎを着ることになった経緯のようなものは、到底思いつかないだろう。むしろ頭を捻るほどに、面白さから遠ざかってしまう気がする。意味や理屈を介さずに物語を作ることは、私にはとても難しい。
 全部書き留めておけばよかった、と後悔しなくもないけれど、結局、記録しておきたくなるほどの動機ではなかったから、日記にも記憶にも残っていないのだと思う。ごくごく自然な流れで私たちはつなぎを着て、真夜中に歩いて、写生大会を計画した。崩れ落ちて穴になった部分にこそ旨みがあったように思うのは、過去の美化だ。そう考えないと、記録魔としてはいささかやりきれない。
 アルバイトをしていたころには、その日のシフトのメンバーに店の売り上げ、給料、貯金残高を書きつけていた。なににいくら使ったかということや、自分の服装をメモしていた時期もある。体重、運動量、小説の進み具合から、読んだ本や観た映画のタイトルまで、私の手帳には、本当にいろんなことが残されている。年に一冊、着実に増えるこの禁断の書を、私は一体いつ処分すればいいのだろう。この世を去る前に自らの手で、とは思っているけれど、手放したあとに読み返したくなることを想像すると怖くて、ずっとタイミングに悩んでいる。
 世の記録魔たちは、この問題とどう向き合っているのだろう。いつか同志に会ったら訊いてみたい。

5 そんなちっぽけなアイデンティティ

 大人は交換日記をやらないと思っていた。
 私が初めて交換日記に手を出したのは、一九九五年、小学六年生のときだ。少女漫画誌の付録だったと思われる小さなノートに、友人と交代で書いていた。ノートの日付は、十月二十六日から十一月三十日まで。意外と短い。そう、この交換日記は今、私の手元にある。ページを開くと、どのページにもオリジナルキャラクターのイラストが貼られていて、随分にぎやかだ。イラストの余白や日記の本文では、彼らの設定がそりゃあもう熱心に語られていた。
「やみの魔法をつかえるただ1人の男」
「ユニドラは、伝説の生きもので、仲間にいれるつもりです」
「こいつも、キキ達と同じで伝説のせんしなんだけど……。(ほら、むねにペンダントあるでしょ。)だけど、それは、父のかたみだっていいはって、それをみとめないの。“1ぴきおおかみのせんし”ってとこかな」
 あのころ私と友人は、「FINAL FANTASYⅥ」というゲームソフトに登場する、ロックというキャラクターに夢中だった。好きすぎて、名前の最初の文字に「っく」をつけたものを互いのニックネームにしていた。つまり、私は「あっく」だ。ちょっとびっくりするくらいに語感が悪い。あっくはロックと結婚したかった。あっくは少ないお小遣いから、ゲーム情報誌の「Vジャンプ」を買っていた。将来はSQUARE(現SQUARE ENIX)で働くか、「Vジャンプ」の編集部に就職したかった。となると、こういう日記になるのも当然だ。そう自分に言い聞かせることで、今、なんとか心の平穏を保っている。
 小学校を卒業後、私は岐阜から群馬に引っ越した。別れの日、「あっくが持っていて」と、友人はこの交換日記を持ってきてくれた。できれば自分が所持していたいと思っていたにもかかわらず、友人にあっさり手放されたことで、これを大切に思っていたのは自分だけだったのかもしれないと悲しくなった。そんな自分の面倒くささに戸惑ったことを、いまだに覚えている。

 一年生の一年間を過ごした群馬の中学校でも、交換日記はやっていた。これは私の手元になくて、内容は分からない。ただ、メンバー四人のうちの一人、出席番号が私の前だった女子のことが強く印象に残っている。入学直後、椅子を横に並べた音楽室で、私はその子から一方的に椅子を離された。髪の毛がぼさぼさで冴えない風貌の私のことが、その子は受け入れられなかったのだと思う。私とは反対方向に自分の椅子を引っ張りながら、彼女は本当に嫌そうな顔をしていた。小さく悲鳴すら上げていた。
 でも、私は決められた場所に着席しただけだ。彼女に危害を加えるようなことはしていない。頭の中でなにかが切れる音がして、そっちがそうならこっちもこうだと、彼女とは反対方向に自分の椅子をめいっぱい動かした。間もなく現れた音楽の先生は、私たちのあいだにたっぷり広がる溝を見て、「どうしてそこだけ離れてるの。くっつけなさい」と言った。私は仕方なく椅子を元に戻した。
 彼女からなんでもない口調で話しかけられたのは、音楽の次の、理科の授業中のことだった。ああ、見くびっていた相手から思いがけず反撃を喰らって、この子は焦っているんだな、と思った。思いながら、私はにこやかに応えた。それから数ヶ月が経ち、ほかの友だちを交えて交換日記が始まっても、私は音楽室の一件を忘れなかった。どんな相手ともそれなりに仲良くなれるものだな、と、中学生ながらに悟りを得た。そういう交換日記だった。

 二年生に進級するタイミングで、今度は愛知に引っ越した。この学校でも、私は交換日記をする友人に恵まれた。今回のメンバーは、私を含めて三人。始まったのは一九九七年の十二月二十八日で、最後の日付は、翌年の十月十四日。実はこれも私の家にある。使っていたのは無印良品の無地ノートで、これにフリーハンドで枠と線を引き、絵日記帳ふうに仕立てていた。ただし、表紙と裏表紙にはなにも書かれていない。
 たとえ自分で持っていなかったとしても、この交換日記のことは、たぶん一生忘れなかっただろう。ノートの中で、私たちは謎の組織の一員だった。各々コードネームを持ち(私は「バジル」)、活動日誌ふうに日記を書いていた。初めの三ページは、イラスト入りのキャラクタープロフィールで、続く本文には、組織、任務、出張、命令などの文字が躍る。中身は九割以上が、ギャグかつフィクション。かと思いきや、現実ともときどきリンクしていて、五月二十二日のページには、某男性歌手の熱愛報道を受け、友だちの一人が、「私はたましいが1000000000000000kmほど離れた」「私は明日への希望がもてないので……さようなら……」と書いている。六月十九日には、「サザエさん」のカツオの声優が交代したことに、バジルはショックを受けていた。時代を感じさせる資料のような面もなくはない……かもしれない。
 バジルは魂の叫びも残している。
「人間にも、獣にもなりきれなかった 羽のむしられた救世主」
「死を蹴り、血をなめ、永遠の安らぎを─」
 今でこそ読み返すのに莫大な精神力を必要とするけれど、あのころの私は、この交換日記が楽しくて仕方がなかった。誰かが新しく書いてくるたびに人気のない女子トイレに集まって、三人で覗き込んでは大笑いした。ノートを閉じたまま家まで大人しく持ち帰ることは不可能だった。
 最近はいじめの温床になるからと、交換日記を禁止している学校もあるという。その考えは理解できる。真っ当な意見だとも思う。軽い気持ちで書いた噂や悪口が、秘密という生暖かい空間の中で発酵して、嘲笑や悪意に化ける。よくあることだ。私もたいがいに人を傷つけてきた。でも、このノートには、同級生の名前が一度も出てこない。小学六年生の交換日記と併せて振り返ると、自分の現実に生きていない感じに軽く震えが走るけれど、他人をあげつらっているよりは、ファンタジーの世界にぶっ飛んでいたほうがずっといい。あんたたち、偉かったよ、と心の底から思う。

 高校から大学にかけては、交換日記はやらなかった。私は高校二年の冬に携帯電話を持ち始めて、以来、友だちと内密に話したいときにはメールを送るようになった。自分の中で、コミュニケーションの取り方が大きく変わるのを感じた。
 ところが、社会人一年目(二〇〇六年)の冬、奴はふたたび私の前に現れた。誰かの思い出話をきっかけに、同期五人で交換日記を始めることになったのだ。彼女たちとは毎日顔を合わせていて、携帯電話のメールアドレスももちろん知っていた。ノートにわざわざ書かなければいけないことなど、誰も持ち合わせていなかったはず。それでも、営業先から戻ったときに自分のデスクにノートが置かれていると、隠れ家の鍵を手にしたような高揚感が湧き上がった。
 ノートの内容は、誰かがマイブームを語っていたり、みんなで次の遊びの相談をしていたり。かと思えば、家の郵便受けに放り込まれていたという風俗のチラシが貼られていたりと、とにかく脈絡がない。全員が殴り書きで字が汚く、そして、文章がとことん暗い。
「金にならん仕事ばっかでやになります」
「今週はすでに死にそうです。4月なんかこなければいい。ムリすぎて家事放棄宣言しました。昨日も今日もおかしが晩ごはんです。今も電車でコーラグミ食べながら書いています」
「生きてくのに飽きてきましたが、どうすればよいでしょうか。COになりたい。削減されたい。明日、世界が滅びている事を祈ります。おやすみなさい」
 おやすみなさい。

 二〇一八年の六月、このエッセイの連載が決まった直後に、久しぶりに同期五人で集まった。気づけば、同期と初めて顔を合わせた内定者懇親会から長い月日が流れていて、矢田と和田もあの会社を退職。居住地もばらばらになっていた。そのせいか、なにか企画が持ち上がっても、誰かは欠席する状況が続いていた。
 この日は私の発案で、リアル型の脱出ゲームに参加した。全員が“怠惰的人見知り”であることは分かっていたので、ほかのお客さんと交流する可能性がないことを最大の条件に、私はゲームを探した。そのあとは、インドカレーとジャンボパフェを食べに行った。この両方に、私たちはいっときハマっていたのだ。
 かき氷が六割を占めるジャンボパフェをつつきながら、この日、私はLINEのアプリケーションをダウンロードした。LINE。言わずと知れた、超有名インスタントメッセンジャーだ。これは自分にとってちょっとした事件で、なぜなら私はLINEを始めることを、長らく頑なに拒んでいたからだ。娘が幼稚園に通っていたころ、クラスのグループに誘われても、「そこに投稿された情報を知らないままでも気にしないので、どうかお構いなく」と断り続けて、それでも親切な人が私のEメールに転送してくれるのを申し訳なく思いながら、やっぱり始めなかった。どうしてもどうしても、あの既読というシステムが受け入れられなかった。
 だって、自分がメッセージを読んだかどうかが相手に分かってしまう。とんでもなく窮屈だ! 私は、今、自分の目の前にいない相手には、なるべく己の言動を知られたくないと思っている。人にメールを送るときにも、自分がパソコンやスマートフォンに触っていることを知られてもいい時間を選ばずにはいられない。具体的に何時というのはないけれど、送信時間を知られてもいいと思えるタイミングと、思えないタイミングがあるのだ。たぶん、相手の自分に対する印象をコントロールしたいのだと思う。LINEを始めれば、メッセージを読む場合にも、この手の自意識と闘わなければならない。私には無理だ。始めたら心が爆発する。スマートフォンのメール機能が使えなくなった夫から、「今後はLINEでやり取りしたい」と頼まれたときも拒否して、わざわざ既読の印がつかないメッセンジャーアプリで連絡を取り合っていた。
 と、LINEに親でも殺されたような抵抗を示しているうちに、LINEをやっていないことは、私のアイデンティティの一部になっていた。「やっていません」と答えたときの、相手の反応。びっくりされると、楽しいよね。変わり者でいたい願望って、何歳になっても案外消えないよね。これで始めたら、自分の中の大切ななにかが失われるような気持ちになるよね……。
 それなのに、どうしてあの日、私はLINEに登録したのか。矢田の粘り強さに負けたからだ。大抵の人間は、私が「やらない主義なので」と言うと、面倒くさい奴だと思うらしく、それ以上は押さない。むしろ、逃げるように話題を変える。けれども彼女は引かなかった。のらりくらりとかわそうとする私に、最後にはこう言い放った。
「そんなちっぽけなアイデンティティは今すぐ捨てな」
 確かに、と思った。

 こうして始まった私のLINEは、特に問題なく使われている。どの面下げて! と思いながら、昔の友だちやママ友らにもアカウントを知らせて回り、同期以外の“友だち”も増えた。既読機能は、案外気にならない。というか、LINEで雑談をするような相手は同期を含めて十人弱なので、気になるほどメッセージが来ないのだ。夫の「これから帰る」以外にメッセージを受信しない日も多い。連絡ツールとして使われているグループトークのほうは、参加者全員がなるべく発言数を少なくするよう心がけているので、こちらも非常に平和だ。
 この穏やかさを思うとき、私は自分が大人になったことを痛感する。思春期真っ只中に手を出していたら、絶対にやばかった。既読スルーにスタンプの使い方にグループからの無断脱会。どれだけ諍いを生み出していたか知れない。そう考えるようになってようやく、自意識が邪魔して半年近く設定できなかったアイコンに画像を登録し、スタンプを押せるようになった。
 人生、なにが起こるか分からないから、否定的な気持ちはなるべく自分の中に留めておいたほうがいい。それが、今回の教訓だ。

6 修行感を漂わせるスタイルが

 どこもかしこも、自分には遠い街だと思っていた。
 これまでにも触れてきたように、私は引っ越しの多い子ども時代を過ごしてきて、中学二年生のときに愛知の豊橋市に落ち着くまでのあいだに、小学校は二回、中学校は一回変わった。今の人間関係は一時的なものだという感覚が常にあり、また、前に住んでいたところにはもう戻れないと考えていた。私が暮らしたのは、愛知(尾張旭市)、埼玉(大宮市=現さいたま市)、京都(亀岡市)、岐阜(揖斐川町)、群馬(沼田市)、愛知(豊橋市)で、本州に収まってはいる。それでも、子どもが気ままに出掛けられるような距離ではなく、引っ越しはそれまでの街との決別を意味していた。
 高校三年生のときにかつての同級生とふたたび縁が繋がって、揖斐川町まで遊びに行ったことがある。久しぶりに踏んだ岐阜の地には、懐かしさよりも、今暮らしている街と本当に地続きだったのか、という驚きのほうを強く感じた。たった三時間程度で、絶対に戻れないと思っていた場所に行けた。行けてしまった。
 この、物理的な距離と心理的な距離の乖離は、いまだに私を混乱させる。同期とあちこち旅行していたときも、自分が北陸地方にいることに、青函トンネルを越えたことに、軍艦島に上陸したことに、内心いちいち驚いていた。お金と時間の都合さえつけられれば、人はどこにでも行ける。そんな当たり前のことが、私にとっては発見だった。

 初めて同期と泊まりがけで出掛けたのは、社会人一年目。二〇〇七年の一月だ。すでに小旅行の経験を積み重ねていた私たちは、いつしか本格的な遠出を考えるようになっていた。鉄道好きの山口と和田が立てた、青春18きっぷを最大限に駆使した計画に、橋本と矢田と私が、「それでいい! というか、なんでもいい!」と便乗力をフル解放。三連休初日の土曜、新宿駅を二十三時九分に発つムーンライトえちごに乗って、私たちは金沢に向かった。
 このときの旅の模様は、記録の魔術師、略して記録魔の私が、一言メモを添えた日程表と写真をHTMLでアルバムふうにまとめて、CD‐ROMに残している。偉い。唯一の欠点は、一言メモが一言すぎることで、意味不明なものが散見された。「山口、死体に間違われる」「矢田、口から白い液体を流す」「B‐boy との運命の出会い」ってなんだろう……。最後に至っては、覚えていない以上、まったく運命ではない。
 記録によると、新宿駅を出発したムーンライトえちごは、午前四時五十一分に新潟駅に到着した。次の電車の発車時刻は、五時十八分。その前に朝食を調達しようと、私たちは近くのコンビニを訪れた。一月の信越地方、しかも早朝の寒さに錯乱した私と山口は、カップ麺を購入してレジ横のカウンターで湯を注ぎ、けれども食べる時間を確保できなくて、容器を手に持ったまま乗車することになった。乗り換え予定の長岡駅までは、約一時間二十分かかるという。到着まで待っていては、麺がゲル状になる。私たちはそこそこ混雑した車内で、立ったままカップ麺をなるべく静かに啜った。
 この日は天気が荒れていた。電車は何度も緊急停止し、代行バスに乗り換える事態も発生して、直江津駅に着いたときには八時を過ぎていた。この騒ぎのうちに、橋本は携帯電話を紛失。また、直江津駅のホームでは、駅で買った柿の種チョコレートの美味しさに全員がパニックに近いレベルで興奮して、電車を一本逃したことも書き添えておきたい。
 富山でも乗り換えて、金沢駅に着いたのは、十一時十六分だった。回転寿司屋で昼食を摂ったあと、ひがし茶屋街を散策した。尾山神社で初詣も済ませた。金沢に旅行したことを告げると、兼六園や金沢21世紀美術館に行ったかとときどき訊かれるけれど、前者は横を素通り、後者は建物の中を歩いて回っただけ、というのが我々の答えだ。電車の遅延が影響して、美術館の前に着いたときには展覧会ゾーンはすべて閉まっていた。ほかにお客さんの姿はなく、階段下に設置されたデザイン性の高いベンチに、私たちはしばらく無言で座り込んだ。疲労がピークに達していた。
 居酒屋で夕食を摂ったのち、ビジネスホテルにチェックインした。当初は二人と三人で分かれるつもりでいたけれど、仲の良さがちょっとおかしなことになっていた私たちは、「できれば五人一部屋がいいんですけど」とホテルに願い出て、セミダブルベッドがふたつ置かれた部屋に、エキストラベッドをひとつ足してもらうことになった。セミダブルベッドを二人ずつ使えば、ひとつの部屋に収まる。エキストラベッドは体調を崩しかけていた矢田に譲って、私は和田と、橋本は山口と就寝した。
 同期と過ごすようになってから開花した私の性癖に、人が自分の近くで眠ってくれると嬉しい、というものがある。深夜まで喋っているうちに、眠気に負けて意識を手放していく同期を見るのが好きだった。電車でも、隣の乗客がうとうとしているときには、私にもたれかかってくれればいいのに、と思う。相手が著しく重かったり、体臭が強すぎたりする場合は諸手を挙げては歓迎できないかもしれないけれど、性別や年齢は関係ない。この人は私に緊張感を抱いていないのだなと思うと、自分の存在を丸ごと許されたような気持ちになる。
 この日も和田の寝息を聞きながら、私は眠りに落ちた。

 翌朝の月曜は、六時十五分に起床した。天気はさらに悪化していて、緊急会議を開いた結果、日本海側を避け、時間はかかっても東海道線で帰ろうという話にまとまった。真剣な面持ちで時刻表を睨む山口と和田。旅慣れている経験から二人を的確にサポートする矢田と、そばで呼吸をしているだけの生命体こと、橋本と私。その後、全員で帰り支度を整えて、忘れものはないかと散々確認しながら部屋を出たとき、私は橋本がホテルのスリッパを履いていることに気がついた。彼奴は靴を忘れて帰るところだったのだ! 一言メモによると、この一件には「king of freedom事件」と名前がついている。想定の斜め上を行く橋本のうっかりに、私を含む四人は度肝を抜かれたのだった。
 八時四十一分に金沢駅を出て、十時二十七分に福井駅に着いた。ここで昼食を済ませて、それからは延々と電車に乗った。会話は自然と消滅し、ある者はイヤホンで音楽を聴き、ある者は携帯ゲーム機で遊び、ある者は眠った。またある者はお菓子を食べて、ある者は本を読んだ。居合わせた人には、仲の悪いグループに見えていたかもしれない。
 この日、唯一立ち寄ったのは、私の出身地である豊橋の駅ビルだ。めちゃくちゃ美味しいソフトクリームが食べられることを思い出して、途中下車を提案した。ついでに同じビルに入っている服屋も覗いた。ギャル系統のショップで年始のセールで売れ残ったと思しきアクセサリーの福袋を発見した私たちは、誰一人華やかな服装を好まないにもかかわらず、勢いでそれを買った。次の電車でジャンケンをして、勝った人から好きなものを取っていくというルールで中身を分配。実際は、ほぼ押しつけ合いだった。
 住んでいた千葉の街に到着したのは、二十三時ごろだったと記憶している。通過した都道府県の数は十三。金沢に滞在していたのは十三時間で、そのうち六時間はベッドの中にいたことを考えると、観光したと言っていいのか分からない。総乗車時間は三十五時間だった。
 この、ほんのり修行感を漂わせるスタイルが、私たちの旅の基本になった。

 次の修行……違う、旅行の機会は意外と早く訪れた。青春18きっぷは利用期間が決められていて、「次は三月だけど」と言う山口に、「行こうよ!」と四人の声が揃ったのだ。「雪に囲まれた露天風呂に入ってみたい」という私の希望が受理されて、行き先は秋田の乳頭温泉になった。ちなみにこの旅以降、記録の魔術師は、思い出をきちんと形にまとめる働きを一切果たしていない。一度やって飽きたか、もしくは面倒になったか。たぶん、その両方だと思う。
 具体的な計画は、また山口が立ててくれた。ふたたび夜行列車で新潟駅まで行き、そこから田沢湖駅に向かった。東京には春が訪れつつあったけれど、ようやく到着したその街は、白一色に覆われていた。自分の背丈を優に超す高さに積もった雪を、私はこのときに初めて見た。
 まずはバスに乗り、降りたバス停から雪の壁に挟まれた道を数十分歩いた。目的の温泉施設はその先にあった。混浴だった。四十代ほどの男性二人が先に浸かっていて、当時二十代前半だった我々はさすがに気恥ずかしく、「あの人たちが出たら入ろう」と脱衣所で待機していたのだけれど、いくら待ってもその気配がない。屋外に簡単な衝立だけで作られた脱衣所はとても寒くて、私たちは次第に、裸を見られることがなぜ恥ずかしいのか分からなくなった。
「まあ混浴だし」
「もう二度と会わない人たちだし」
 そう言いながら服を脱いだ。温かい湯に浸かると、どうでもいい思いはさらに加速した。気がついたときには、身体を隠すことを全員が放棄。男性二人はいなくなっていた。
 そのあとは、夕食と朝食用に惣菜やインスタント食品をスーパーマーケットで買い込んで、ホテルにチェックインした。今回のホテルは、おそらく修学旅行や合宿にも対応している施設で、広々とした和室を五人で使わせてもらうことができた。「一人一枚布団があるね!」と喜んだ。
 この旅の最大の思い出は、夕食のときに並べた惣菜のカツに、誰一人手をつけなかったことだ。銘々が食べたいものを買いものカゴに入れたはずで、一切れも減らないのはちょっとおかしい。当然のように浮上した、一体誰がカツを選んだのかという質問に、橋本は寂しそうな顔で小さく手を挙げた。
「ごめん、みんなが喜ぶと思って……」
 帰りの電車にて、橋本は小腹が減るたびにリュックサックからカツを出して食べていた。私はこれを「カツ事件」と呼んでいる。

 次の旅行は、四ヶ月後の七月。東北の恐山に行くことになった。なぜか。私たちの十八番である、「動機が分からない」がここにも当てはまる。霊山という響きになんとなく重々しい想像を抱いていたけれど、到着した霊場の地面は白っぽく、宇曽利山湖がすぐ目の前に広がり、共同浴場もあって、すこんと開けた気持ちのいい場所だった。曇天だったせいか、夏とは思えないほど寒くて、私は翌日穿くつもりだったレギンスを急遽首に巻いた。
 その後、電車で函館に渡った。青函トンネルをくぐりたかったのだ。この間、私は切符を紛失して、みんなに迷惑をかけている。思い出してしまったので書いておく。はあ。函館では五稜郭に行ったような覚えがあるけれど、日記にも写真にも残っていないので、立証はできない。私の思い込みかもしれない。寒さに耐えかねて、年配の方が日常的に利用しているようなショッピングセンターで上着を購入したことは確かだ。服には暑さ寒さから身を守る役割があるということを、あのとき久しぶりに思い出したのだった。
 この日は函館で一泊した。予約を入れたドミトリーに着くまでに、私たちは軽く道に迷った。まだスマートフォンが普及していないころで、山口が印刷してきた地図だけが頼りだった。目的の宿の名前「○○シル」から、いつしか全員の語尾には「シル」がついて、「まだシルか」「もう疲れたシル」などと喋りながら、夜の街を一時間弱歩いた。これも今ではいい思い出シル。
 翌日は市場で朝食を済ませたのち、本州に戻った。今度は津軽半島に足を運び、日本で唯一車が通れないと言われている階段の国道、339号を下りて、龍飛岬で「津軽海峡・冬景色」を三回ほど大合唱。山口と和田の憧れだったという、五能線のリゾートしらかみに乗った。ウェスパ椿山という駅で降りて、黄金崎不老ふ死温泉を堪能した。ここは海に面した露天風呂になっていて、大自然の中で裸になっている開放感がすさまじかった。あ、混浴ではないです、男女で分かれています。
「不老不死になりたいかー!」
「おー!」
 という和田の発明したコール&レスポンスが、しばらく私たちの中で流行った。
 帰りは仙台から新幹線に乗った。下北半島、函館、津軽半島と回ったため、さすがに普通と快速列車だけでは連休中に千葉に戻れなかったのだ。青春18きっぷに縛られすぎなければ、もっと遠くに行ける。さらなる旅の可能性に、私たちが気づいた瞬間だった。

このような旅の話が、私が行けなかったものを含めてあと十一……え、十一も? ある。青春旅行篇、続きます。

(※続きは本書でお楽しみください!)