“元寇”がこの国の歴史を大きく変えた。
文永11(1274)年の「文永の役」と弘安4(1281)年の「弘安の役」、二度にわたる元(蒙古)軍の日本襲来をあわせて「元寇」という。
宋に代わって中国の覇者となった元は、当時ヨーロッパや西アジアにまで勢力を伸ばすほどの一大帝国であった。東アジアにおいてもすでに13世紀半ば、朝鮮半島の高麗を服属させている。日本に対しては、高麗を通じてたびたび国書を送り服属を求めていたが、鎌倉幕府はこれを無視。蒙古軍の侵攻は避けがたいものとなった。
文永の役では約2万8000の蒙古・高麗の連合軍が来襲。対馬、壱岐を攻略したのち、九州本土に上陸して、松浦郡、博多、箱崎、赤坂などで戦った。戦術の違いや、見慣れない新兵器(蒙古軍は火薬を用いた)のために、日本側は大いに苦戦を強いられるも、暴風雨のため辛くも勝利を得た。文永の役の後、蒙古からはさらに使者が送られてきたが、鎌倉幕府はこれを斬首している。
弘安の役では、前回をはるかに上まわる十数万の大軍が来襲。蒙古・高麗の連合軍(東路軍)は、対馬、壱岐を襲って、すでに元によって滅ぼされていた南宋の降軍(江南軍)と合流、本土上陸の機会をうかがっていた。しかし、再度おとずれた暴風雨によって元軍は壊滅的被害を受け撤退。この激しい戦闘の様子は、肥後の御家人・竹崎季長によって残された絵巻『蒙古襲来絵詞』に見ることができる。
元寇によって大きな負担を強いられた御家人たちは、それに見合うだけの恩賞を得ることができなかった。そのことが社会の地盤を揺るがせ、ひいては鎌倉幕府崩壊につながるのである。元寇はそれからの日本の歴史を変えてしまうほどの一大事件だった。