『情熱』刊行記念対談 桜木紫乃×大竹まこと「情熱と分別の先にある、男と女のいい関係」

桜木紫乃さんの新作短編集『情熱』では、六十歳前後と思しき男女の内面――戸惑いや覚悟が細やかに描かれている。収録作の「ひも」は、大竹まことさんとの対話で「老人の恋」というお題が出され、作品世界を広げていったもの。常に桜木さんの創作意欲を刺激する大竹まことさんを対談のお相手に、創作について、また人生の後半に入った男女の幸福について語っていただいた。
構成/タカザワケンジ 撮影/露木聡子 撮影場所/文化放送
桜木さんと大竹さんの“ご縁”
――お二人の交流がどんなところから始まったのかうかがってもいいですか。
桜木 知人から紹介していただいたんです。初めてお会いした時に大竹さんにすき焼きをご馳走になったんですけど、緊張してなかなか食べられなかったですね。初対面で、正面に大竹さんがいらっしゃって。
大竹 すっかり忘れてました。言われてみればそうだったかもしれない。
桜木 最初はちょっと怖かったんですよ。でも、お話ししているうちに楽しくなってきちゃって。二次会でタブレット純さんを呼び出して、盛り上がりましたね。それも楽しくて。
大竹 そうでしたね。何年前だろうね。タブレット純がまだ食べられなかった時代かな。あいつもやっと食えるようになってよかったけど。あいつ、人の懐に入るのがうまいんですよ。俺抜きでも、桜木さんと会ったりしているんでしょう。
桜木 そうそう。北海道でお会いしました。江別まで来てくれたり。
大竹 俺たち、二か月に一回ぐらい飲み会をやっているんだけど、最初の頃はタブレット純が酒を飲みたいからという理由だったんです。大竹が金を出すから、タダ酒が飲めるというんでね。その飲み会に来たのが武田砂鉄とか、高橋源一郎とか。
桜木 錚々たる面々ですね。
大竹 何回かやってるうちに恒例になったんですよ。
桜木 タブレット純さんは邪心がないんですよね。ギトギトしてないですもん。
大竹 いや、裏は魂胆だらけだと俺は思ってるけどね(笑)。魂胆だらけなんだけど、それが嫌みじゃないというか。それで歌がうまいじゃない。
桜木 あの声を出せる人はあまりいないと思う。
大竹 そうなんだよ。歌わせると、なかなかの歌なわけよ。そのうちに、静かーに、静かーに人気が出てきてさ。加藤登紀子さんのリサイタルに呼ばれて歌ったりもして。
桜木 不思議ですよね。ご縁の賜物を見続けている感じがしますね。私も大竹さんにすき焼きをご馳走になった後、ご縁ができて、文化放送の「大竹まこと ゴールデンラジオ!」にゲスト出演させていただいて、いまもこうしてお世話になってます。
『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』が生まれた時
――ご縁といえば、桜木さんの新刊『情熱』の一編「ひも」が、大竹さんのお話からヒントを得たとうかがっています。
大竹 「ひも」、読ませていただきました。
桜木 ありがとうございます。
大竹 あんなじじいのヒモっている? 七十幾つだっけ、設定が。
桜木 七十四歳ですね。
大竹 しかも、老人ばかりのホストクラブがあって、店の名前が「老人俱楽部」。すごい設定になっちゃったなと思いながら読みました。
桜木 大竹さんに会うと、必ず何か、「あ、これ書けるかも」という小説のタネがいただけるんです。
大竹 それが不思議なんだよね。俺、ろくなこと言ってないよ。桜木さんのどこかに、俺のくだらない話の何かが触れるんだろうけど。
桜木 くだらなくないんですよ。大竹さんと会ってお話しすることが、小説のヒントをもらう目的になるのは嫌だなと思ってるぐらい、いつも刺激をいただいてます。お話しすることをお仕事にされているから、瞬間的に、話すことを振り分けていらっしゃるな、というのが分かるんです。
大竹 そんなことしてんの? 俺。記憶にない。
桜木 無意識なのかもしれないんですけど。
初めてラジオにゲストで呼んでいただいた時に、大竹さんが目で「いいか、次行くぞ、行くぞ」って問いかけてくるのが分かったんです。きちっと返さなきゃいけない、と。目を見て、ちゃんと返してこいよというのが伝わってくるんですよ。
大竹 いや、そんな脅迫みたいなことしてないよ(笑)。
桜木 もちろん脅迫じゃないですけど。これからどんな言葉が来るんだろう、「よしよし、絶対受けてやるぞ」って、レシーブの準備を心の中でしてます。それで、ある時に釧路の話になったんですよね。大竹さんが釧路にお仕事で来た話をしてくださったんです。
大竹 十八歳の頃ね。
桜木 たぶん「銀の目」だと思うんですけど、釧路に大箱のキャバレーがあって、大竹さんが十代の時に営業に来たと。ちょうどお正月を挟む期間で、東京に帰るわけにもいかないから、冬の海を見に行ったそうなんですけど、その時のメンツが「俺と師匠とブルーボーイとストリッパーの四人なんだ」って。
それを聞いてすぐに「すみません、そのタイトルで小説を書いてもいいですか」とお願いして、『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』という一冊になったんです。タイトルだけでもう小説になるなって。ありがたかったです。
大竹 あっという間に本になってびっくりしましたよ。『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』で、みんなで墓参り行くところがあったよね。名字が同じだからここでいいや、みたいなところをよく覚えてる。
桜木 名字が同じ他人の墓にお骨を入れるんです。名字が同じならいいやって。
大竹 そうだった。他人の墓にね。あのシーンは覚えてるな。くだらなくて。
桜木 あそこ、書いてて私も笑ってしまいました。
大竹 俺が話したのは、何にもない釧路の海を見に行って、三分で寒いって帰ってきちゃったという話じゃない。
桜木 そうそう。それを聞いてて、それはラストシーンだろうなと思いました。
大竹 すごいよね。設定はちょっと変えていて、地元の照明係の男の子の話になってたけど。すごく面白い小説でしたよ。
桜木 ありがとうございます。大竹さんと話すと、「こんな話どうだ」って内容を振られるわけじゃないんだけれども、引っかかる言葉がたくさんあるんですよね。「ひも」もそうでした。
大竹 「ひも」も、そんな大した話をしたわけじゃないんだ。

お金を渡した女のほうは後悔していない
桜木 私の『ヒロイン』が出たタイミングで「大竹まこと ゴールデンラジオ!」に出させていただいた時でしたね。収録が終わった後に、担当編集者と一緒にホテルのラウンジで、すっごい高いケーキをご馳走になったんです。
「大竹さん、次、私はどんな小説を書きましょうか」って言ったら、「うん、そうだな、老人の恋だな」って。「老人の恋かあ」「ヒモの話なんかいいんじゃないか」「分かりました。書きます」。
その時に横にいた編集者が喜々としているのが伝わってきました。「これ、絶対、桜木に書かせようと思っている」と。
大竹 よく覚えてないけど、俺がヒモだった頃の話をしたんだな。若い時、役者仲間はみんなアルバイトをしてから稽古場に来てた。俺はそれが嫌だったんだ。バイトしてから稽古なんて体力がもたない。女に養ってもらって、働かずに稽古場に来るほうが楽だから、女をつくっちゃおう。そんな甘いことを思ったんだよ。若かったから。
桜木 それ、本気で思ってたんですか?(笑)。
大竹 本気も本気。でも最低だったな。これは話したかどうか忘れたけど、ある日、女に「金」って言ったら、その女が東京オリンピックの記念千円銀貨を四枚出したんだよ。俺はそれでタバコを買ったんだけど、後で考えて、ちょっと待てよと。この金、あいつの最後の金なんじゃないか。
桜木 ああ……。
大竹 千円札が一枚もないからオリンピックの記念銀貨を出してきたんじゃないかって。その時は使っちゃったけど、「俺、最後の金をむしり取ったのか」と思って、「もうやめよう。これは駄目だ。幾ら何でもひど過ぎる」と思ったんですよ。
桜木 私、たぶん、次にそれをヒントに小説を書くんですよ。だって、ぞわってきてますもん。
大竹 もう男として最低だと思ったよ。
桜木 男って最低でいいんですよ。
大竹 俺が最低だよ。最低だったけど、いくら馬鹿でも、これが最後の金だっていうことぐらいは気がつくわけよ。オリンピックの記念銀貨四枚だから。
桜木 泣きたくなってきました。
大竹 もらったお金でパチンコに行ってたという。もうほんと馬鹿で駄目で、どうしようもなかったですね。
桜木 私はそこが好きというか。大竹さんに限らず、男の人のそういうところが男の人のかわいさなんだろうなと思うんです。後ですごく後悔するでしょ。お金を渡した女のほうは後悔していないんですよ。
大竹 渡した女は後悔してないの?
桜木 たぶんしてないですよ。私の場合、お金を渡して後悔するぐらいだったら、最初から渡さない。
大竹 俺、昔世話になった女を訪ねてって、お金を渡そうと思ってたぐらいだよ。やってないけど。
桜木 (笑)。それはなぜ?
大竹 いや、だって、お金をもらいっ放しだからさ。
桜木 週刊誌にネタを売られたら嫌だとか、そういうことではなくですか。
大竹 そんなんじゃない。ごめんなさい、ほんと図々しいんだけど、それは絶対ないんだ。
桜木 チクられない自信があると見ました。自信がある人とない人の違いって何でしょうね。
大竹 チクられるやつのことは知らないから、違いは分からないけど。
桜木 チクられないという自信の根拠は?
大竹 分かんないよ。でも、お金のこととは関係なく、ちゃんとしていれば大丈夫なんじゃないかな。たとえば別れ際に相手を無視したりすれば、それは恨みを買うに決まってんじゃないですか。
桜木 きれいな別れ方って、どうすればいいんでしょうか。
大竹 それはちょっと企業秘密ということで。想像していただいて。
桜木 お金じゃないところで解決するわけですよね。
大竹 そうそう。桜木さんは想像がつくと思うけども、たぶんそういうことだよ。お金じゃないよ。もちろん全員ときれいに別れたわけじゃないよ。汚い別れ方もすりゃ、ひどい別れ方もしてるけど、でも、なるべくきれいにという気持ちはあったよ。それともう一つ、あまりのだらしなさに女が愛想を尽かすというのもあったね。
俺ね、金もないし、顔も大したことないんだけど、若い頃、何かやりそうな顔をしてると言われてたんだよ。
桜木 (笑)。
大竹 自分でも分かってた。風間杜夫が電車に一緒に乗っている時に俺の顔を見て「おまえみたいな顔になりたい」って言ったんだ。すごい二枚目の風間がそう言うんだよ。
それは、何かやりそうな顔だという意味だと俺は捉えたのね。その頃の俺は、劇団でもぺーぺーじゃん。芝居も下手で、何にもないぺーぺーなんだけど、何かやりそうに見えたんだよ、たぶん。でも、女はしばらく付き合うと、「あ、こいつ何もないな」と判断する。「私の幻想だったんだ」って。そうすると女のほうから「もう結構です」と言われることもあったわけ。
桜木 「ご馳走さまでした」って相手に言わせる。
大竹 「ご馳走さまでした。あなたには結局何もありませんでした。さよなら」「私の目の錯覚でした」って女が思ったんだと思う。想像だけどね。
人生最後の恋をする前に
――桜木さんが大竹さんからもらったヒントから、大竹さんが想像していたのとはまた違う作品になっていると思いますが、いかがですか。
大竹 全然違いましたね。そこがすごい。どうやってこうなったの?
桜木 言葉の力だと思います。
大竹 言葉の力?
桜木 老人の恋って、私からは出てこない題材です。仮に自分から出たとしても、非常に切ない、読んでる人が目をそらしたくなるような話になると思うんですよ。でも、大竹さんからの言葉として広げていくと、泣き笑いになる。小説でやるにはかなり難しいところに挑戦せざるを得なくなります。
大竹 ああ、なるほど。小説は泣き笑いは難しいの?
桜木 難しいです。笑いはとくに難しい。泣かせたり怒らせたりはまだ動かしやすい感情かもしれないけれど、そこに、ちょっと笑いも入れようと思うと大変。この年齢にならないと書けなかったなと思います。「ひも」はとくに。
大竹 老人の恋だったね。
桜木 恋として認定していただけますか。
大竹 うん。老人のヒモを受け入れている女の人がさっぱりした性格の人だよね。
桜木 「北海道で雇われ店長をやってる美容師」というのがパッと思い浮かんだ時に、「ありだな」と思いました。慎ましやかなヒモの養い方をしている女性。江里子という名前は「ゴールデンラジオ!」でご一緒した阿佐ヶ谷姉妹のお姉さん、江里子さんのお名前からなんです。
大竹 そうなんだ(笑)。
桜木 「ひも」の江里子は、朗人をアゴで使っていますけど、朗人が履いているスノトレがくたびれているからって、ABCマートで買ってくるんですよね。夫婦が時間をかけて気遣い合うと、ああいう関係になっていくのかもしれないと思いながら書いていました。
大竹 気遣い合えばね。
桜木 目指すところですね。いい形の男女だなと思うんですけど。
大竹 でもね、年老いたヒモの話がこんなちょっといい恋の話になると思わなかったから驚いたんですよ。
桜木 どんな話を想像していらっしゃいましたか。
大竹 俺の同級生だった男がいてさ。俺のところに出入りしてたの。前歯がもうぼろぼろになっていて、もうほとんど歯茎で飯食ってるようなやつなの。そいつが、俺の番組のスタッフの若い女の子に恋をしたんです。ちょっとちょっかい出して、女の子が「やめてください」と言ったという話が俺のところまで伝わってきた。「何してるんだ!」と怒ったんです。「何してるんだ。おまえ前歯ないだろ」。
桜木 そこなんだ(笑)。
大竹 「二十歳かそこいらの女に、何してんだ、おまえ!」って怒鳴りまくったんだ。そしたら、そいつが「大竹、許してくれ。最後の恋だ」って言ったんです。
桜木 (笑)。
大竹 「最後の恋じゃねえ、ばかやろう! もう明日から来んな。出入り禁止だ」って言ったんです。
桜木 そういう最後の恋ですか。
大竹 だって女房いるんだよ、そいつ。
桜木 大竹さんの話を聞いてると、シーンが思い浮かんできちゃいます。
大竹 最後の恋の前に歯を治せって。
桜木 どっちが先かっていったら、歯が先ですね。
大竹 老いらくの恋ってそんなふうになるんじゃないのって想像していたんですよ。年を取った男の駄目な恋愛。だから、こんなふうなホストだったヒモが出てくるというのは想定外でした。
ヒモの話を桜木さんにした時に、桜木さんが「ヒントをもらった」なんて言ってたけど、こんなことになるとは。もう全然違う話だから。作家の想像力のすごさというのかな。ネタを提供したほうが驚きました。
男の肩にぴらぴら載ってるプライド
桜木 老人のヒモ、朗人という人物はどうですか。大竹さんから見て。
大竹 ヒモってさ、あんなに優しくないんだよね。
桜木 (笑)。根底から覆さなくても。
大竹 俺の場合はね。俺は威張ってるヒモだったから。ラーメン屋に入る前に、女に「財布」って言って財布預かって、俺がその財布からラーメン代を払って、チップもあげて、店を出てから財布を女に返していたからね。
桜木 職業ですね。ヒモという職業。大竹さんにとって、こうあるべきというヒモ像を演じていたわけでしょう。心がどこにあるかは別に置いておいて、ヒモをまっとうしようとしていた。
大竹 へりくだってたらヒモになれないと俺は思ってるわけよ。俺のヒモ道は。
桜木 ああ、ヒモ道。
大竹 でも、優しいヒモもいるんだろうね。そういえば、俺の知り合いに愚にもつかない駄目なやつだけど、女にモテるやつがいるのよ。それはもう優しさの塊みたいな男なの。顔がいいわけでも何でもないんだよ。でも、モテるんだ。女はそいつから優しくされることで、いままで生きてきて味わったことのない気持ちになっているんじゃない? そういうヒモもいるのかもしれない。
桜木 どこにでもヒモの働き口はあるってことですね。女が多様なので。
大竹 一つ言っておかないと。威張ってはいたけど、俺はやくざのヒモとは違うからね。やくざのヒモは、女を蹴飛ばして殴った後に、赤チン塗ってあげるようなところがあるじゃない。殴っておいて抱き締めるみたいな。
桜木 そうですね。いにしえのやくざ映画を観てると、そんな感じが多いですよね。私はさんざんやくざ映画を観てきたんですけど、なぜ「ひも」でああいう優しい男を書いたのか自分でもよく分からない。大竹さんからヒントを得たせいですかね?
それと、うちはいま私が生計を立てているんです。そのことがちょっと影響しているかもしれない。夫は六十六になったんですけど、最初の何年かは大変だったんです。つまらないことで何度も衝突して。やっぱり男のプライドがあったんだと思います。
大竹 大事だからね、男のプライドは。
桜木 男はプライドで骨格を保っているようなところがありますよね。
大竹 おっしゃるとおり。
桜木 夫がずっと家にいるようになって、最初の頃は「一緒に御飯を食べる時は仕事のことは考えないで」って言われていたんですが、そのうちに私が「そんなことできない!」ってちゃぶ台返ししたんです(笑)。どうやってこの関係の着地点を見つけようかと思っていたら、ある時急に夫が家事をすべてやるようになったんです。
大竹 ほう。
桜木 驚いたのが、彼は洗った洗濯物をちゃんと畳んでタンスにしまうんです。私、あんまりまめなほうじゃないんで、畳むのが面倒くさいって、下着を重ねたままでしまうこともありました。
お風呂に入る時に脱いだものをかごに入れておけば洗濯してくれるし、脱衣所にはきれいに畳まれた洗顔用のタオルやバスタオルが重ねて置いてある。ふっと思ったのが、ホテル住まいみたいだなと。その時、ああと思ったんです。彼はこっちにすることに決めたんだと。それから私は食事の後の洗い物をしなくなりました。私が洗い物をしたりすると、気を遣っていることになってしまうんで、夫に甘え切ることにしました。
大竹 なるほど。正しいですね。
桜木 ヒモじゃないんですよ、決して。夫は四十年間、公務員をやって、子供たちを大学へ行かせて、その後で私が小説で稼ぐようになったんです。
大竹 売れてるタレントの亭主になる男っているじゃない。それがADだったりすると、結局うまく行かないのよ。それはなぜかって言うと、女の稼ぎで食ってるから男のプライドがキープできない。プライドを持つことを諦められれば女房とうまくやれるんだろうけど。
桜木 諦めないと駄目なんですかね。
大竹 昭和生まれの男がバスタオルを畳めるようになるには、どこかで諦める、切り替える決断がないと。
桜木 うちの夫にはその決断があったんでしょうね。ある時、あれ? って思ったから。
大竹 男のプライドもね、考えてみれば大したことないのよ。プライドって言えるかどうか分からないぐらいの大したことないものなんだけど、自分の肩にぴらぴら載ってるわけ。捨てちゃえば何てことないのになかなか捨てられないんだな。
女優でも、お笑いタレントでも、食えない男とくっつく人がいるわけですよ。男は薄っぺらいぴらぴらを取っちゃえば本当に楽しく暮らせるんだけど、それがなかなかできない。専業主婦と同じだからできるはずなんだけどね。
桜木 家庭の中での役割を男女逆転した時に邪魔になるのが男のプライドだとすると、それって昭和を引きずっているってことですよね。私たちが形成されてきた昭和ってどんな時代だったかを、考えるきっかけにもなりますね。
大竹 男女関係なく、手があいているほうが家のことをやるというのが当たり前になっていくんだろうね。
桜木 うちの夫は家事労働ってこんなにあったのかって驚いてると思います。掃除だけでも居間、寝室、台所、水まわり、お風呂など。最近犬を飼い始めて、モルモットと犬がいるんですけど、私も含めて朝から晩まで誰かに餌をやってます。ありがたいです。

五十代の最後の三年間で書いた六本の短編
――『情熱』に収録されているほかの作品には、中高年が恋愛の手前で引き返しているような関係が描かれていることが印象的です。それはなぜでしょうか。
桜木 きっかけひとつ、っていうのを、何となく知ってる世代なのはたしか。女子大生とでも仲よくなれちゃったりするわけですよね、大竹さん。
大竹 うん。
桜木 何か自分にとってのスイッチというかきっかけがあれば、すーっと恋愛関係に行けると思うんですよ。ちょっとした踏ん切りというか。でも、この世代が恋愛に行かないというのは、分別じゃないかとも思うんです。
その分別は何に支えられてるのかなって、書きながら思っていました。恋愛になりそうな時に情熱と分別があって、ある程度の年齢になると、分別をちょっとだけ重くしておくことで自分が保たれるのかも。弱さとうまくつき合うというか、そういうことってないですか。あえて恋愛に行かないという。
大竹 行ってから考えたっていいじゃん。
桜木 えっ、まさかの反応。
大竹 「兎に角」だっけ。『情熱』の最初の一編。十代の頃に文通していた二人が、四十年経ってカメラマンとヘアメイクで再会するじゃない。でも恋愛に行かないよね。行って駄目になるほうがロマンチックじゃない? でも、四十年経って何事もないというのも、いい感じはいい感じなんだよね。
桜木 期待もほのかで、結果もほのかというのがいいなと思うんですよね。付かず離れずが何となくよろしいのではと。
大竹 たしかに「兎に角」は桜木さんのその書き方のほうが正しいと思うんだけど、『情熱』には恋愛に走ってしまう話は入ってないんだっけ。
桜木 入ってないんです。そういう話を若い頃から書いてきたんですよ。デビューした時に「新官能派」という触れ込みだったくらいですから。年を取って、やっと恋愛に行かない関係が書けるようになってきました。
大竹 クリント・イーストウッドが最後までプラトニックなままの関係を映画にしていたよね。あの方、年を取ってから、恋愛に行かない話をやってる。『ミリオンダラー・ベイビー』なんかね。
桜木 あの映画よかったですね。
大竹 男の側からは恋愛に行かない。女の人がどう思っているか知らないけど。
桜木 なだれ込まないんですね。
大竹 俺はもう年だから男の側が行かないのも分かるけど、自分だったら行くかもしれない、と思うだけは思ってる。行かないのは相手に失礼なんじゃないかと。
二人で飲んでいて、女の人から「じゃあね」って言われたら「あ、行かなくてよかったんだ」と思うけど、なかなか「じゃあね」って言われないと、誰が背中を押しているのかは知らないけれど、男から行かなきゃ、と使命みたいなものを感じる時もあるね(笑)。早く「じゃあね」って言ってくれよと思いながら。
桜木 受け身なんですか。
大竹 それは受け身でしょう。
桜木 女があっての恋愛なんですか。
大竹 そう。俺からは行かない。年食ってハンデがあるから、行かないというより、行けない面もあるけど。こいつ、「じゃあね」って言わないぞ、「またね」も言わない。じゃあ、どうすんだよ、終電の時間が過ぎたら行くべきなのか……と。
桜木 そうか、都会には終電があるんだ。そこがひとつの分岐点になる。
大竹 分別で行かない男はなかなかいないと思うけどな。
桜木 じゃあ、私の書いてるのは絵空事になっちゃうなあ。美し過ぎる話になってしまいますね。
大竹 分別じゃなくて、肉体的な条件とか、いろんな理由で行かないというのはあると思うよ。「ひも」の朗人みたいに性的なことが駄目になっているとか。
桜木 いましみじみ考えちゃいました。『情熱』は私の五十代、五十七から六十手前にかけての三年間に書いた六本なんですが、この三年間を振り返るに十分な六本だったなと思います。私、こういう穏やかな、心が波立たない老後を選んだんだと思いました。だから、書いていてどれも自分が見えてくるお話だったですね。
小説のように前後を考えて行動はできない
大竹 さっきの「兎に角」の話に戻るけど、恋愛関係に進めるのに行かないのはやっぱりいいよ。
桜木 いいですか。
大竹 それがいいよ。行っちゃったら身も蓋もない、やっぱり。
桜木 身も蓋もない。うーん。何か終わりを前提とした始まりにはなりますね。
大竹 こう言うのは失礼かもしれないけど、読みながら、恋愛関係になってから別れることになってもいいんじゃないかな、ともちょっと思ったのね。まだ遠い先の話だから、どうなるか分かんないじゃないですか。それはこっちの妄想だけど。
桜木 大竹さんは分別でなく、情熱派?
大竹 いやいや、情熱なんかはないけど。小説の中では、恋愛関係に進んだらどうなるかとか、いろんなことを頭の中で考えるだろうけど、ふだんはあんまり考えないからね。どうなってしまうかなんていう先のことは。小説にはことの前後が出てくるから冷静に読めるけど、現実では「とんでもないことになっちゃったぞ」って後で思うようなことをやらかしてしまう。「どうしよう」って後で思うんだけど。その場は考えられないんだよね。
桜木 後先のことを考えないという点では、私は男女のことよりも小説のほうがそうですね。これを書いたらあの人がどう思うかとか考えたら書けないので一切考えてない。ものを書く人って、何かを犠牲にしてまで書くとかそんな気負いはなくて、自然と書かなきゃいけないところに行っちゃうんじゃないかな、気持ちが。
大竹 それは使命なのかなあ。
桜木 そういうふうになっちゃっているんだと思います。もう習い性というか。書かないと前に進めないような気がするんですね。
大竹 もう全身小説家じゃないですか、それは。前を向いて歩いてればネタに当たる。それが小説になるわけだから。
桜木 気をつけてくださいね。小説家と付き合ったら、ケツの毛まで抜かれますよ。
大竹 あ、そう?
桜木 では私も、大竹さんと終電を逃してみようかな。
大竹 俺、もうあんまりケツ毛も生えてないんですよ。
(2025.6.20 浜松町にて)
プロフィール
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桜木 紫乃 (さくらぎ・しの)
1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール讀物新人賞を受賞。07年同作を収録した単行本『氷平線』でデビュー。13年『ラブレス』で第19回島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で第149回直木賞、20年『家族じまい』で第15回中央公論文芸賞を受賞。著書多数。
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