『言の葉は、残りて』で第32回小説すばる新人賞を受賞した佐藤雫さん。
 このたび長編第2作となる小誌連載作『さざなみの彼方』が刊行されることになりました。  
 今作の主人公は、茶々(淀殿)と大野はるながの二人。度重なる落城の憂き目をともにしてきた二人は、激動の時代の中で、許されない思いを互いに抱いていきます。
 二人の心情を余すことなく書き尽くした今作についてお聞きしました。

戦国時代への新たな挑戦

――『言の葉は、残りて』で第32回小説すばる新人賞を受賞されてから、長編第2作となる今作。今作は第1作とは時代も異なり、「茶々」と「大野治長」の二人が主人公の物語です。織田信長の姪でありながら豊臣秀吉の寵愛を受け、豊臣秀頼の母として人生を終えた茶々と、彼女の乳母児であり、生涯茶々に仕えた治長。まずこの二人を書こうと思ったきっかけをうかがえますでしょうか。

佐藤 私は平安時代や鎌倉時代が好きなので、2作目を執筆するにあたって、まず幾つかその時代をテーマに考えていました。ただ『言の葉は、残りて』で一番好きな人物は書いてしまっていて。そこで担当編集さんから戦国時代や江戸時代の物語に挑戦してみてもいいのでは? というご提案をいただいたんです。しかしながら、戦国も江戸もあまりなじみがなくて……。そこで、まずは高校の日本史の教科書や資料集を読み返しました。その中でふっと「大坂の陣」の配陣図にある、大野治長の名前に目が留まりました。ここまで一切名前がないのに、急に総大将のような立ち位置で、歴史の表舞台に出てくる。この人は一体誰なんだろう、と思ってそこから調べ始めたのがきっかけでした。

――治長が出発点だったんですね。そこで、治長と茶々の関係を描こうと思われた。

佐藤 歴史に詳しい方は知っていると思うんですが、ネットで「大野治長」と検索するとたいてい「豊臣秀頼の本当の父」という説が出てくるんです。もちろん、一番主流なのは秀吉が父である、という説ですが、歴史学者の間でも秀頼の本当の父には幾つか説があるようで。
 乳母児である治長と茶々が密通したという噂が当時も流れたことは事実だった、と知って、私の中で二人の姿が膨らんでいきました。大坂の陣の図は、大名たちがみんな徳川方についてしまう中で、最後まで茶々のそばにいたのは、生まれた時から一緒にいた治長だったということを示しているのかな、とか。いわゆる不義密通というゴシップ的な顚末ではなくて、互いを思い合ったがゆえの結末を書きたいと思いました。

――それは、治長と茶々の恋愛を描く上で、ということですか?

佐藤 『言の葉』の時もそうだったんですが、私は恋愛小説を書こうと思って書いている訳ではないんです。源実朝が好きで、彼のことを書きたくてその人生を書いていくうちに、最終的には夫婦の愛の物語になった、という感じでした。
 今回も、治長と茶々の人生を解釈していくうちに、愛の要素が大きくなっていったんです。乳母児という関係は当時であればそれほど珍しくはないので、幼少時からの絆というものはいわばありふれていたと思います。ただ、この二人は男女で、度重なる落城を一緒に生き抜いて、そして最後はともに死ぬ。こういったところにより強い、二人だけの感情があったのではないかなと想像したんです。

――今作は、その治長と茶々を描く上で、多くの人が知っている著名な人物たちも大勢出てきます。茶々の伯父である織田信長、そして夫となる豊臣秀吉、治長と茶々を翻弄する徳川家康などなど。彼らを改めて小説で描くことについてはいかがでしたか?

佐藤 小説に限らず、様々な形で描かれている人物だとは思いますが、私は歴史の教科書から再スタートしたくらいだったので、本当に事前知識が高校生レベルで……(笑)。逆に、先入観はあまりなく書けたのかなと思っています。
 勿論もちろん、小説を書くにあたって、きちんと資料を読み込んで、戦国時代の勉強をしました。ですが、歴史上の人物であっても、感情を持った一人の人間であるということは大切にしたかった。この時、この人はどう思ったのかなとか、何でこういう行動をとったのかなとか、何でこんな事件が起きちゃったのかなっていうのを、その人の立場になって考えるのが好きなので。
 例えば、秀次一家が処刑されるシーンですが、資料からこの事実を客観的に知った上で、秀吉はなぜ秀次一家を処刑する、という決断に至ったのかを、私が彼だったら、と置き換えて考えました。彼にとって、秀次に何を言われたくなかったのか、それを言われた時、彼はどう思ったのか。秀吉の中に渦巻く屈折した感情のくらさを、じっくりと想像していきました。

――史実を描きつつ、人間として現代にも通ずるところがたくさんありますよね。歴史に名を残す人物たちもみな人である、といいますか。

佐藤 今回は特に肖像画が残っている登場人物が多かったので、肖像画とたくさん睨めっこしましたね。例えば織田信長。よく見ると、彼、眉間にしわが寄っていて。実際にこの人が上司だったら、と想像してみたり。史実の信長の激しい行動とあの風貌を思うと、もし、異動した先の上司が信長だったら……なかなか苛酷な労働環境になりそうだな、と。

――歴史上の人物たちを現代に置き換えて、実際にその世界で生活したら、と想像を働かせるイメージでしょうか。

佐藤 ちょっと話は変わりますけれど、有名な信長・秀吉・家康の三人の武将はそれぞれの魅力がありますよね。でも、やっぱり「株式会社家康」が一番安定感はあるな、なんて思ったりして。周到に、それこそ外堀を埋めながら心を摑んでいく、籠絡していく家康の姿から想像するに、福利厚生とかまでしっかりしていそうですよね。  天下を取る前の秀吉は上司だったら面白そう、と思いました。勿論、事実は違うでしょうけれど、「何でもやってみよう!」と部下に自由に働かせてくれる余裕と勢いがある人物だったのかなとか……。理想の上司は誰かみたいなヘンな話になってしまいましたね(笑)。

主人公にも容赦をしない

――そして物語の主人公の一人、大野治長。彼は茶々の乳母児でありながら、彼女を深く愛した人物でした。度重なる落城をともに生き延びた治長ですが、彼はずっとこの「上司」たちに翻弄されていきますね。特に秀吉との対峙の中で、治長は自らの罪業のかげを背負いながら生きていくことになります。この二人の関係を書くにあたって意識されていたことはありましたか?

佐藤 やはり小田原城攻めのシーンでの秀吉と治長の対峙は、書きながら熱くなりました。治長も、秀吉も、互いに相手の存在を消してしまいたいくらいに思っていながら、茶々や立場のことを思ってそれができないでいる。このもどかしさはとても大きいなと。
 密通という過ちを書くにあたり、治長はかなり意識的にいじめてしまったな……というのが正直な思いです。

――治長を虐める……?

佐藤 はい、苦悩する治長の姿がどんどん愛おしくなっていってしまって……(笑)。というのは冗談半分、本気半分です。茶々と密通後の治長はずっと翳を背負っていきますが、特に鶴松の死のシーンは自分でも不思議なくらい筆が乗ってしまいました。彼の脳裏によぎったものは人の命への価値観が根本的に違ったであろう戦国の世においても、自らを否定せずにはいられないくらいのショックだったと思います。だから、治長が背負ったものは甘えず、容赦せずに書かなければと心掛けました。

――もう一人の主人公、茶々についてもおうかがいしたいです。治長が苦悩の底に沈んでいく一方で、彼女の立場もどんどん移り変わっていきます。しかし彼女は豊臣家の中で生きていくという覚悟を自ら決めることのできた人物でもありました。佐藤さんにとって茶々はどういう人物でしたか?

佐藤 同じ女性として茶々という人物を調べていったときに、彼女の意志はどこにあったのだろうか、ということが気になったんですね。二度の落城を経て、仇の秀吉の側室になる。その子を産み、最後は豊臣家として滅んだ。こう書くだけでも壮絶な人生であることは明らかなんですが、女性としてこの人生をどう感じていたのかは書きたいなと思っていました。
 一般的には、高慢や悪女のイメージがありますが、私の中ではそうではなくて。置かれた状況に、涙だって流しただろうし、逃げ出したくなっただろうし。それでも心折れずに「こうするしかない」という選択肢を自ら選び取っていった人物だと思ったんです。

――治長が、秀頼を抱える茶々を見て、茶々が変わってしまったことに愕然がくぜんとするシーンも印象的でしたが……。

佐藤 あのシーンの治長は、罪の意識と茶々への愛と、さらには秀吉への嫉妬で苦しみまくってます(笑)。
 治長が茶々の姿を見て愕然とするのは、治長には踏み込めない領域に茶々がいる、ということに気づいたから。それは、茶々が母親になったということ。治長にとっては母親になってしまった、というところだと思います。
 私自身も、例えば学生時代の友人が母親になっていることに動揺したり、変わってしまったなあ、なんて思うこともあったり。彼女自身は変わっていなくても、親になったことのない身にしてみると、学生時代は同じものを見ていた友人が、今はもう私の知らない景色を見ている、そんな気がして。
 それを治長と茶々の立場で考えたら、治長の苦悩は、いかばかりか。治長の知りえぬ秀吉の愛情によって、茶々は「母親」として秀頼を抱いている。治長はそれを認められない、認めたくない、そして独りで悶えていく。二度目の密通の後の、二人の心情のすれ違いは、書いていて難しい場面の一つでした。

――同じ女性の登場人物として、秀吉の正室であるねいはどういった人物でしたでしょうか?

佐藤 茶々と治長以外で一番思い入れがあるのは寧ですね。周りも自分も、おそらく秀吉の子ではないと察している子供を、茶々が出産する。でも秀吉は我が子として育てることを決めていて、なおかつ自分には実子がいない……。女性として、妻として、心中穏やかなはずがないですよね。

――ところどころ見え隠れする、寧の毒といいますか、怖さもありますよね。

佐藤 思うところはあるけれど、自分のきょうは守りたい。そして愛する夫、秀吉の気持ちを汲んでそれを表には出さない。この作品ならではの、秀吉と寧の深い愛情が描けたらいいなと思っていました。先ほど治長と秀吉の関係を話しましたけれど、一方で茶々は寧と対峙していく構図をイメージしていました。
 茶々との別れの盃を、さらりと「ああ、美味しい」と言っちゃう寧。愛らしいのに、毒気があって、書いていて「怖っ!!」と言ってしまいました(笑)。

――寧の茶々へ向けられた感情は秘められている部分も多くて、ゾクゾクするシーンが沢山ありました。そして、名脇役として、真田信繁もあげたいです。どこまでも格好いい人物だなと思ったんですが、元々信繁のファンだったりしたんですか?

佐藤 そんなことはないんですが、やたらとカッコよくなった人物です(笑)。治長と茶々の物語が余りにも苦悩に満ちているので、信繁とのシーンは爽やかなものであってほしいなという気持ちがありました。書いていくうちに治長のことがどんどん愛おしく、かわいそうになっていったので、彼にとって一息つける場面を作ってあげたかった。信繁がいるシーンは読者の方にも癒しのように感じていただけるのではないでしょうか。

美化せずに人の死を描く覚悟

――そして今作は戦国時代を描くにあたって、落城、そして戦の描写もとてもおどろおどろしいですね。

佐藤 前作ではあまり激しい描写はしてこなかったのでこれも初めての挑戦でした。初稿はもう少し控えめな描写だったのですが、担当編集さんから「もっと書いていい」と言われて。その一言で、私の中のセーブが外れましたね。血や、城が焼け落ちるにおいが立つように、そして命を落とす者がいるという現実が見えてくるように。私は、人の死を書くにあたって、それを美化するような書き方だけは絶対にしたくないなというのがあって、誰かが命を落とすのであれば、それはしっかりと書かないといけないなと思っています。連載というのも初めての挑戦だったので、担当編集さんの助言や率直な感想は、最終回までずっと支えられましたし、励みにしていました。

――まさに、小谷の落城から、大坂の陣まで、人の死から目を背けることなく書かれた作品ですね。それでは最後に、読者の方へメッセージをお願いいたします。

佐藤 私は作品を書くにあたって、歴史小説を読んだことがないような方でも楽しんでいただきたいという思いがあります。茶々と治長のことを知らないという人であっても、歴史小説と身構えずに読んでほしいなと思います。
 幅広い年齢の方に楽しんでほしいのですが、若い方々にも読んでもらいたいなと思います。この作品をきっかけに、少しでも歴史に興味を持って、ほかの歴史小説を読んでみようと思ったり、歴史上の好きな人物を見つけてくれたりしたら、何よりも嬉しいです!

「小説すばる」2022年6月号転載