2018年に数学者の情熱と苦悩を描いた『永遠についての証明』でデビューした岩井圭也は、返還前夜の香港を舞台にした社会派ミステリー『水よ踊れ』(’21年)、北海道の水銀鉱山で巻き起こる昭和史とマジックリアリズムの交錯『竜血の山』(’22年)など、このところ”大きい”物語を相次いで発表してきた。本誌に’19年から少しずつ書き継がれた短編をまとめた連作短編集『生者のポエトリー』は、現代日本を舞台に、登場人物たちの人生が「詩の朗読」を通してつながる群像劇だ。物語の構えは一見すると”小さい”のだが、小説家としての「青春期」の終わりを告げる、飛躍作となっている。創作過程の足跡を辿った――。
取材・構成/吉田大助 撮影/山本佳代子

共鳴する表現とポエトリーの可能性

――岩井さんはデビュー以来、一作ごとにガラッと作風を変えてきました。ポエトリーリーディングがモチーフの今作もこれまでと違った味わいなのですが、数学を題材にしたデビュー作『永遠についての証明』との共鳴も感じたんです。

岩井 重なっていますね。数学は、普段使っている日常語では表現できないものを表現するための手段だと思うんです。そういった手段は、ある人にとっては詩であるし、また別のある人にとっては小説だったりするんですよね。

――登場人物たちにとっての数学や詩は、岩井さんにとっての小説でもある?

岩井 はい。その意味では、今回の作品で細かく描写した登場人物たちが詩を書き出す際の初期衝動だとか、それによって人生が変わっていく様子は、私自身の実体験にかなり近いですね。例えば、登場人物たちは詩を書いたり、それを人前で朗読したりすることに最初は恥ずかしさを感じますが、私も自分の小説を人に見せることを恥ずかしく思う時期がありました。でも今は、小説を書くことでしか表現できないものがあることを知っている。恥ずかしい気持ちがゼロだとは言いませんが(笑)、堂々と自分の小説を世に送り出すことができています。
 それと、私は子供の頃から小説を書きたかったんですが、書いても書き切れないというか、物語を終わらせることができない時期が長くて。それが24、25歳の時に、初めて短編小説を一本、書き上げることができた。その時の達成感や、小説という表現手段を自分のものにできたという実感、これがあればこれから自分自身をもっともっと表現できるぞという前向きな気持ちは、今回の作品にはっきり反映されていると思います。

――第一話「テレパスくそくらえ」の初出は本誌2019年6月号、デビュー作の刊行からほんの数ヶ月後ですよね。デビューほやほやの喜びや初期衝動が、刻印された一編のようにも思います。

岩井 実は、これが雑誌に掲載された初めての短編だったんです。『永遠についての証明』を読んでくれた編集者から、一話読み切りの短編を、と依頼があった時はすごく嬉しかったことをよく覚えていますね。その当時、ポエトリーリーディングのことが気になっていたんです。もともと詩自体は自分にとって身近な存在というか、井坂洋子さんとか最果タヒさんとか、好きな詩人も何人かいたんですが、「詩のボクシング」や「ポエトリースラム」のようなイベントも開催されていて、プロはもちろん、アマチュアの人たちが自作の詩を朗読するというのは、これまでなかった新しい表現形式として世の中に根付いていくかもしれない。これをうまく取り入れることができたら、新しい小説の形になるのではないかという予感がありました。言ってしまえば目新しさから選んだ部分も大きかったんですが、実際に書いてみると、この題材の奥深さに気付きました。編集者に「連作化しませんか?」と言われた時は、我が意を得たり、と(笑)。

――第一話の主人公は、言語能力はあるのに、特定のシチュエーションで言葉を発することができなくなってしまう「場面かんもく症」を発症した25歳のフリーター、佐藤悠平です。〈わかってる。わかってるよ。でも、自分の言葉で話すのが怖いんだよ。/根性とか人見知りとか、そういう問題じゃない。/動けと念じるほど、舌が、唇が、喉が動かないんだ〉。濃厚な心理描写に胸打たれました。

岩井 数年前にテレビで場面緘黙症のドキュメンタリー番組を観て、喋りたい、言葉を伝えたい意思はあるのに体が反応してくれないというのは、苦しみの極致だろうなと思って。そのことがずっと頭に残っていたんです。それがある時、場面緘黙症を発症しても、書かれた文章を読むことなら難しくないケースもあるという事実を知って、そこから物語を組み立てていきました。

――悠平は、声に出せず心にまっていってしまう言葉を、詩に変換することで生き延びてきました。そしてある日、アルバイトで知り合ったキュータというバンドマンに、半ば無理矢理引っ張り出されるかたちで、聴衆の前に立ちます。緊張と恐怖のなかで自作詩「テレパスくそくらえ」の朗読を終えた瞬間、〈僕は今、言葉を発することができる。朗読という形で〉と喜びを噛み締める。クライマックスに至る一連の場面、興奮しました。

岩井 ポエトリーリーディングが、場面緘黙症を発症した方にとって辛い状況を打ち破る手段になり得るかもしれない。ひょっとしたらそれは小説の中だけでしか起こらないことかもしれないんだけれども、でもその希望はしっかり書き留めておきたいと思ったんですよね。

岩井圭也

詩の「連鎖」と作中詩に込めた願い

――続く第二話「夜更けのラテ欄」の主人公は、大学三年生の千紗子。文化祭の実行委員をするなど活発な彼女は、高校生の頃から詩を書いているんですが、そのことは周囲にひた隠しにしています。

岩井 第一話の悠平とは全く違うタイプにしたいなと思った時に、いろんな意味で満たされていそうに見えるリア充大学生なんだけれども、実は深い懊悩を抱えているという人物像が浮かびました。

――目下の悩みの種は、恋人の祥吾です。彼は「ポエムとか、キモくね?」と、詩をバカにする。なぜか日本に蔓延している、詩(ポエム)に対するネガティブな風潮が、祥吾の言動に象徴されているのではないでしょうか。

岩井 詩をバカにしたり、詩をむことは恥ずかしいことだよねとされる今の日本の風潮は取り上げたいと思いましたし、違和感を表明したかった。この小説を書くにあたり、いくつかポエトリーリーディングのライブに行って肌身で感じたのは、詩を詠むって決して恥ずかしいことではない。めちゃくちゃカッコいいことなんですよ。そして、ズルいなぁと。

――ズルい?

岩井 ある日のライブに「オープンマイク」という一般参加型のコーナーが組み込まれていて、バンドの演奏をバックに会場のお客さんが飛び込みでポエトリーを披露していくんです。勢いに任せて日頃の鬱憤をぶちまけ続ける人がいたり、事前にちゃんとノートにしたためてきた反戦メッセージのような詩を朗々と読み上げる人がいたり、皆さん、もうほんとにフリースタイルというか、巧拙を超えた十人十色のパフォーマンスを繰り広げていて。それを観ながら、ズルいなぁ、いいなぁ、自分もやってみたいなぁ、と。誰かが詩を朗読している姿を見ることは、自分も同じことをやってみたいと思う一番の起爆剤になる。現場で得たそんな実感が、二話目以降を連作化していくうえでの礎になりました。

――第一話の主人公・悠平が初めて詩を朗読した現場に、千紗子はたまたま居合わせていたんですよね。〈あの時抱いた高揚感と敗北感は、まだ尾を引いている〉。その感触が、千紗子がのちに意外な選択をする遠因となっていく。第一話の悠平が言うところの「無限に続く詩の連鎖」が具現化したかたちです。そして、その「連鎖」は第三話以降も続いていく。

岩井 第三話(「最初から行き止まりだった」)はポエトリーリーディングの親戚とも言える、ラップを取り上げてみたいというところから構想を始めました。『フリースタイルダンジョン』も好きで観ていましたし、何より磯部涼さんの『ルポ 川崎』を読んだ衝撃が大きかったんです。あの本の中に出てくる川崎出身のヒップホップ・クルー「BAD HOP」のメンバーたちは、もともと地元で有名な不良少年です。でも、暴力や犯罪によって自分の存在を認知させるのではなく、ラップで自分を表現する方法を見つけ、そこから身一つ、言葉一つ、才覚一つで現状を打破して成り上がっていった。そうした現実を背景に、刑務所から出てきたばかりのラッパー・拓斗の物語を書いていきました。内容的に暗かったぶん、終盤ではより反動を付けられたんじゃないかなと思っています。

岩井圭也

――比喩表現などはほぼ使わず、自分が陥った現実をダイレクトに反映した拓斗のラップ(詩)がリアルでした。全六話はいずれも終盤で、主人公の自作詩が作中に現れる構成を取っています。作中詩のクオリティが担保されていなければ、物語は瓦解してしまう。詩と物語は、どちらを先に考えていったのでしょうか。

岩井 毎回、物語が先でした。詩としてのクオリティはもちろん重要ですし、高めなければいけないところではあるんですけれども、今回私に求められていたのは、詩人としての詩ではないんですよね。あくまでも主人公たちが自分の心情を吐露するための詩なので、まずは物語を通してどれくらい心情が丁寧に描けるか。その上で、うまいへたではなく、それぞれが感じていることを詩でどう表現するかが一番大事だと思っていました。

――客観的な判断をすれば、つたない出来なのかもしれない。でも、決して恥じたりすべきものではないし、何より「自分の詩が好きだ!」と。主人公たちによるこうした主観の獲得が、朗読パートの爆発力を導いているように感じました。

岩井 自分自身のことをそこまで愛せる人間ではなかった人たちが、たとえ周囲からどんなにネガティブなことを言われたとしても、「でも自分は、自分の詩が好きなんです」と言い切れるようになる。その時点で、詩を書いた目的を100%達成していると言ってもいいと思うんです。そこもまた、ポエトリーリーディングのライブを観ながら私自身、勝手に想像したり実感していったところでした。ズルいしうらやましいし、「みんなめちゃめちゃカッコいいよ!」と(笑)。

自分の表現が未来の誰かに繋がる予感

――第四話「幻の月」の主人公は愛妻を亡くした72歳の山田公伸、第五話「あしたになったら」の主人公は、外国ルーツの生徒たちを受け持つ40代のボランティア教師・聡美。登場人物の年齢や属性の幅がグッと広がっていきますね。

岩井 それまで書いたことがない年代の主人公を書いてみたい、チャレンジしてみたい気持ちが強かったんです。それに、そもそも詩を書くことや詠むことは、若い人だけがやることではない。第四話では72年間まったく詩に触れてこなかった人が、自分の人生を詩で振り返っていくというか、詩で総括する。彼にそんなことをさせてしまうぐらい、詩の力は強いものなんだと思いながら筆を進めていきました。第五話ではブラジルからやって来たばかりの、日本語もおぼつかない小学五年生の女の子の心情をみ上げたうえで、なおかつその子が書きそうな詩を書かなければならなかった。作家としての技量が最も求められた話だったと思っています。

岩井圭也

――各人の詩をそれぞれの人間性込みで読む楽しさは、小説でしかできない、小説ならではの醍醐味でした。そうした営みが積み重なっていった先に最終話が現れるのですが、連鎖の果てに待ち受ける展開に驚きました。群像劇の締めくくり方として二重三重のたくらみがありますね。

岩井 たとえ詩人が死んでも詩は残るし、残された詩を読むことならいつだってできるじゃないですか。でも、詩を書いた本人が自らそれを詠み、他者に聞かせることができるのは、その詩人が生きている間だけなんですよね。タイトルに掲げた「生者」の一語には、そんな意味を込めているんです。ただ、インターネットによるアーカイブ化が発達した現代では、ポエトリーリーディングの現場にいなくても、ライブの擬似体験をすることはできます。そうした現実を出発点に、第六話のイメージを固めていきました。
 第一話で主人公・悠平の踏み出した一歩が、どんどんどんどん連鎖していって、最終的にどれほど遠くまで届くことになるのか。あなたが踏み出した一歩はもしかすると自分には小さな一歩にしか見えないかもしれないけれど、自分が知らないところで実はすごく大きな足跡になっているかもしれない。その可能性を最後に示すことが、この物語にとって相応しいんじゃないかと思ったんです。

――その可能性もまた、ご自身が小説家として書き継いできた実感と無縁ではないのではないでしょうか?

岩井 実感というより、願望に近いですね。名前も顔も知らない誰かが私の小説を手に取って読んでくれて、例えば「面白かったな」だけでもいいんです。感情の揺れをさざ波程度でも起こせたら、その人の何かをほんの少し変えることに繫がっていくかもしれない。それはものすごく大きな希望だなと、私自身は思っています。一方で、私は最初の本を出してからもうすぐ丸4年つんですが、小説を書くことってそんなに楽しくないなと思うこともありますし、面倒くせぇなあみたいな日も時々あります(笑)。でも、「自分が思い付いたこの物語は、自分が書かなければ誰も書かないんじゃないか?」と。そこから「やっぱり自分が書くしかないよね」となることも多いんです。先人たちの書いた小説に導かれて、岩井圭也という小説家が生まれたのと同じように、もしかしたら自分の小説が、未来の作家や作品に繫がっていくのかもしれない。その予感が実感に近いものとして感じられるようになったからこそ、『生者のポエトリー』の、特に最終話はこんな形になったのかもしれないですね。

――第一話には、デビュー直後だったからこそ出せたリアリティがあった。でも、最終話は、プロとして書き続けてきたからこそ出せるリアリティが宿っていったわけですね。

岩井 もしも第一話を書いた1年目に全編を書いていたら、まったく違った話になったと思います。時間をかけて書き継いできたからこそ、デビュー当初の初期衝動から今の自分が抱えている使命感がグラデーションで繫がっていく、約4年間の作家としての足跡を残すことができた。この小説を書き終えて思うのは、物語の構えが”大きい”とされる『水よ踊れ』でも、逆に”小さい”構えの『生者のポエトリー』でも、自分の小説に共通するものがあるんじゃないかな、と。「人が、人生をより良くしていくにはどうすればいいのか?」というテーマです。これからもそのテーマをいろいろな状況の中で考え、何かしらの前向きな提案をできるような小説を書いていきたい。結果、今まで以上に作風はバランバランになっちゃうと思うんですけどね(笑)。

岩井圭也

「小説すばる」2022年5月号転載