本を読むときだけはすんなり集中できていた。勉強を含むほとんどのことは、グッと集中するのは最初だけで、すぐに気が散ってしまっていたが、読書だけは違った。ひとたび入り込むと、何時間でも本の中で考えにふけっていた。本を読んでいるときは誰かに呼ばれても耳に入らず、近くで大声で呼ばれて初めて、びっくりして顔を上げるという具合だった。

 ところが、いつのころからか、本を読むときも集中しにくくなった。早く本の中にどっぷり浸りたいのに、思うようにいかない。本にもなかなか手が伸びないし、読んでいてもすぐに「ほかの事」をしてしまう。読書は、わたしが自由自在に集中できるほぼ唯一のことだったのに、以前のように自由ではいられなくなったのだ。

「ほかの事」のほとんどはスマートフォンをいじることだ。メッセージが届いたわけでも、アラームが鳴ったわけでもないのに、意味もなく、習慣のように触ってしまう。そうやって5分、10分とスマホの中で時間を過ごしたあと、また本に戻ってくる、というのを繰り返す。しきりにスマホに気を取られてやりたいことができないので、自分に腹が立つことも多い。

 今や読書が一種の勝負になってしまった。どうすれば集中して読めるか、あれこれ作戦を練り、戦略的に本と向き合う。毎回、ハラハラするような接戦だ。それでも、何日かに一度は完読の喜びを味わえるので、勝負をおろそかにすることはできない。勝利したあとの爽快感は何物にも代えがたく、一日に何度も、いそいそと勝負に挑む。

 どうしてわたしは読書に集中できなくなったのだろうか。『ネット・バカ:インターネットがわたしたちの脳にしていること』でニコラス・G・カーは、それはインターネットのせいだと言う。インターネットの情報提供の仕方に適応すると、わたしたちの脳は散漫になり、表面的な思考をすることに慣れてしまうという。インターネットを使えば使うほど集中力が失われていくということだ。

 生きているあいだ、わたしたちの脳には構造の変形が持続的に起こっている。変形は、肉体的、精神的な経験が繰り返された場合に起こる。これを脳の可塑かそ性という。習慣が生まれたりなくなったりする理由、同じ状況でいつも同じ選択をする理由、午後3時になるとチョコレートが食べたくなり、夜10時になるとドラマが観たくなる理由は、いずれも脳の可塑性による。『ネット・バカ』の中でフランスの科学者レオン・ドゥモンは、脳の可塑性を「流れる水が掘った水路」と表現している。

流れる水は、より広く深くなるにつれてみずから水路を作り出す。時が経ち、再び水が流れるときは、以前掘ったその水路をたどる。それと同じく、外部の物体から何らかの印象を受けると、わたしたちの神経体系の中に、それに適した道がどんどん作られていく。そうした「生きている」通路は、しばらく詰まっていても、同じような外部刺激を受けるとよみがえる。

 インターネットの経験が「流れる水」だとすると、インターネットを使えば使うほど、わたしたちの脳に「散漫さの水路」がより広く深く掘られていくということだ。散漫さの水路は、思考全般にわたって影響を及ぼす。読書や勉強のように集中力が必要なことをしようとすると、脳はわたしたちを妨害し、散漫さを誘発する。やがて脳はその意図どおりに、わたしたちを本から引き離す。散漫な脳が楽しく遊び回れるスマートフォンへと、わたしたちを誘導するのだ。

 それゆえ、読まなければという意思だけでは、本を読むのは難しい。なぜ以前より本が読めなくなったのかも考えてみる必要がある。おもしろい「おもちゃ」が増えたという理由もあるだろうが、インターネットがわたしたちの集中力を奪っていったせいでもある。つまり、本と親しくなるにはインターネットを遠ざけねばならない、ということだ。本の中でニコラス・G・カーは、わたしたちの脳に「集中力の水路」を掘る方法も教えてくれている。ずばり、読書だ。本を読めば読むほど集中力が高まるという。

※本記事は、3月5日発売予定『毎日読みます』の校正刷りから一部を抜粋した試し読み版です。実際に刊行される内容とは異なる部分がございます。

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