ヘルマン・ヘッセの『デーミアン』を「初めて読んだ」友人は、こんな感想を口にした。
「わたしは、ヘルマン・ヘッセよりヘッセ以降の小説家たちのほうがすごいと思う」
「どうして?」
「この小説を読んだうえで、さらに小説を書こうって思えるなんて。どう生きるべきか、この本に全部書いてあるのに!」

 いかに強烈な印象を受けたかが伝わってきた。友人にこの小説を読むきっかけを与えたのはわたしだ。30歳のころ『デーミアン』を「再読した」わたしは、あまりのすばらしさに、暇さえあれば『デーミアン』の話をし、友人もつられて読むことになり、そしてこんなにも熱い感想を聞かせてくれたのだ。

古典とは、人々が「わたしは……を再読している」とは言っても、「わたしは今……を読んでいる」とはけっして言わない本のことだ。

 イタロ・カルヴィーノが著書『なぜ古典を読むのか』で述べた言葉だ。

 人々はなぜ、わたしのように「再読」していると言うのだろうか? カルヴィーノによると「有名な著作をまだ読んでいないことを恥じる人々のつまらない見栄みえのせいだ。わたしもときどき自分の見栄を自覚することがあるが、『デーミアン』に限っては見栄ではない。本当に幼いころにこの本を読み、長いあいだデーミアンが主人公だと思い込んでいて(主人公はシンクレアだ)、あらためて再読した際に本来の主人公を知ると同時に感動までしたのだから。

 

 それにわたしは、古典をあまり読んでいないことを恥ずかしいとも思わない(本当に!)。古典と呼ばれる本を全部読んだ人なんて、果たしているのだろうか? とはいえ、『デーミアン』のようにわたしの内面を熱く燃え上がらせてくれる本にまた出合ってみたいという欲望が、あるにはある。

 イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』で、「古典は、わたしたちが何者であり、どこからやって来たのかを理解できるよう助けてくれる」と述べている。けれど、いかに古典が偉大だとしても、古典だけを読むべきだとはわたしは思わない。逆に言えば、古典ばかり読む人たちは本当にすごいと思う。

 たとえば、わたしがサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を読んだとしよう。この本を最後まで読み、内容を吟味するのに少なくとも一週間、いや二週間はかかるはずだ。そして、おそらく数年間は、誰かを待つことで生きながらえていた主人公エストラゴンとヴラジーミルを時折思い出すことだろう。やがてある日、わたし自身も何かを待つことで日々を耐えている、という事実を自覚するのだ。二人はわたしの記憶に一生残るかもしれない。

 そんなふうに自分に深い影響を与える本を、人生とは何かを洞察した重厚な本を、立て続けに読む自信も能力も、わたしにはない。だからわたしは、古典を読んだあとすぐにまた別の古典を読むことはしない。古典が自分の中で消化されるのを待ちながら、古典ではない本を読んでいく。そうして「そろそろ読みどきかな」と感じたら、ヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』やアレクサンドル・ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』といった本を取り出して読む。

 カルヴィーノも、古典しか読まない読書に慎重な姿勢を示していた。彼は「古典を読んで最大の成果を得るには、同時代に誕生する数多くの物語も適度に摂取しながら読む必要がある」と述べている。「古典を読むためには、それを『どのような観点で』読むかを設定しなければ」ならず、その観点を提供してくれるのが同時代の本だということだ。

 古典ばかり読んでいると、過去の時空間に閉じ込められ、今いる場所で道に迷うかもしれない。一方で、古典でない本ばかり読んでいると、生の根源から遠く離れたところで、上辺だけにとらわれてさまようことになるかもしれない。古典と、古典でない本をバランスよく読まなければならないのはそのためだ。

 以下は、『なぜ古典を読むのか』の中でわたしが一番大きくうなずいた文章だ。古典については人それぞれ意見があっても、この文章を否定する人はいないのではないだろうか。

誰もが認められる事実はただ一つ、古典は、読まないより読んだほうがいいということだ。

つづきは書籍版でお楽しみください。

※本記事は、3月5日発売予定『毎日読みます』の校正刷りから一部を抜粋した試し読み版です。実際に刊行される内容とは異なる部分がございます。

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