洋服を買いに行った時に「これならちょっとしたパーティーなんかにも着ていけますね」というすすめかたをされることがある。長年「ちょっとしたパーティーってなんだよ、そんなの行く機会ないよ」と思っていたのだが、小説を書くようになってはや十年、私はついに気づいてしまったのだ。今の自分って「ちょっとしたパーティー」に行く機会がけっこうあるかも、ということに。たとえば文学賞の贈賞式だとか。

 招待状はいろいろなところからいただくが、これまで出席したことはない。たいてい平日の夕方に開催されるし、会場は東京である。私は大阪に住んでいるので行けない。いやがんばったら行けるのだが、そこはがんばるところじゃないだろという思いがある。しかし、たとえば、自分がその賞の受賞者になったとしたら話は違ってくる。

 ここ数年、毎年のようになんらかの賞の候補に選出していただく機会に恵まれてきた。いきなり受賞の連絡が来るタイプの賞もあれば、「あなたの本を候補にしまっせ」という連絡が来たのちに選考会がおこなわれるタイプの賞もある。この後者のタイプに、私は縁が薄い。候補にはなるが賞はもらえない。2020年から2024年のあいだにこれが四回もあった。最初は「候補になれただけでじゅうぶんです」などと殊勝なことを言っていたが、だんだん疲れてきた。賞の候補になるのはほんとうに嬉しいし名誉なことだと思う。でもあの選考会を待つ期間というのがとにかく辛い。

 べつに賞に執着とかないし、という人は平気なのかもしれないが私は喉から手が出るほど賞が欲しかったので、候補の発表から選考会までの期間はいつも気分が落ちつかなくて夜七時間しか眠れないし、ごはんも一膳ぐらいしか食べられないしで、とにかく辛かった。

 今年の四月に、友人とふたりで買いものをしていた。また賞の候補になったんだよーなどと話していた時、一着のワンピースが目に留まった。黒い、ごくシンプルな形状で、胸から裾にかけて青い花が描かれていた。「これ、買うたら」と彼女は言った。授賞式で着たらええやんと、まるで賞をもらうことが決まっているかのように、じつに軽やかに。

 そして、私はそのワンピースを買った。ちょっとした願掛けみたいな気持ちもあったのだと思う。でも普通にだめだった。だめだったことにショックを受けたというより、またかよ、もう疲れたわ、と思って泣いた。父親の葬式でもあんなに泣いてないと思う。

 泣いて泣いて泣いたその三日後に、そのワンピースを着て外に出た。いつものショッピングモールの、いつもの書店で本を買い、いつものコメダ珈琲で食事をした。家に帰ってきてから、どんな服着て、どこに行ったっていいんだな、と思った。ちょっとしたパーティーじゃなくったって、着たい時に着ればいいんだと。いつもよりすこしきれいなかっこうでいつもの場所を歩くのは、なんとなく気分のいい行為だったのだ。

 好きな服を着て好きな場所に行くように、好きな小説を書いてみよう。そう思った。喉から手が出るほどの執着心をいったん手放して、自分はどんな小説を書いていきたいのか、ということをあらためて考えてみよう、と。

 おかげで、と言ってしまっていいのかどうかはわからないが、今は小説を書くことがものすごく楽しい。今がいちばん楽しいかもしれない。

 悩みがなくなったわけではないけれども、いろいろなものを手放したことで身軽になった。これからまた新たに抱えこんでしまうかもしれないけれども、その時はまた好きな服を着て、好きな場所に出かけようと思う。