恥ずかしい時、悔しい時、モヤモヤする時……思わずネガティブな気持ちになったときこそ、読書で心をやすらげてみませんか? あの人・この人に聞いてみた、落ち込んだ時のためのブックガイド・エッセイです。
第36回:この世の無常に打ちひしがれそうになった時
案内人 佐藤究さん
2024年11月15日
今さら言うまでもなく、この世は無常である。
天災があり、人災がある。たとえ大きな災いに巻きこまれずとも、あらゆる命には終わりがやってくる。大切な相手を亡くしたときの喪失感は、計り知れない。最近よく思うのは、「胸にぽっかりと穴が空いたようだ」という表現は、いったい誰が最初に使いだしたのだろう、ということだ。まさにそうとしか言いようのない感情の空虚がある。深い哀しみは、そんな空虚を私たちの内に残していく。そして私たちは胸にぽっかりと空いた穴を埋められないまま、日々を歩きつづける。

この世が無常であるのは、わかっている。わかってはいるのだが、折にふれてその現実に直面すると、私たちはあまりの虚しさに打ちひしがれそうになる。
しかしこういう状況は、冒頭に記した通り、今になってはじまった話ではない。
およそ800年前、方丈(約三メートル四方)の庵に暮らし、『方丈記』を著した鴨長明も、私たちと同じ無常を見ていた。現代とは社会構造や技術がまるで異なっていても、長明が身をもって味わい、眺めつづけた世の無常は、本質的に私たちが向き合う無常と何も変わらない。
『方丈記』のなかで、長明はかつて自分が目にしたさまざまな災いの記録を綴っている。天災には大火、辻風(つむじ風)、飢饉、大地震があり、人災には遷都がある。これは唐突すぎる都の移転計画が、大規模な社会的破綻と人心の荒廃を招いたものである。
上記のうち、特に大地震の描写などは、多様な情報を得られる私たち現代人の目から見ても、いかに長明が事実を誇張せず、ありのままを書いているかが感じられ、800年の時を越えて胸に迫ってくるものがある。

『方丈記』で過去の日本の無常を追体験したあとには、コーマック・マッカーシーの小説『ザ・ロード』をお薦めしたい。
舞台は荒廃した未来の北アメリカ、主人公はごく普通の父と幼い息子だ。善悪をふくめたあらゆる秩序が消滅した、文字通り無常と化した世界で、二人は懸命に生き抜いていく。物語のコアは、息子が崩壊前の世界の様子をまったく知らない点にある。つまり父親は、幾多の危機に見舞われながらも、無常の世でいかに人として生きるかを、わが子に伝えなくてはならないのだ。たった一人の手本として。
日本の小さな庵とアメリカの広大な荒野との差はあれど、『方丈記』と『ザ・ロード』はともに無常を旅する文学だ。そこに書かれた言葉にこそ、「人間」の意味があるのではないだろうか。
プロフィール
-
佐藤 究 (さとう・きわむ)
1977年福岡県生まれ。2004年、佐藤憲胤(のりかず)名義で執筆した「サージウスの死神」が第47回群像新人文学賞優秀作となりデビュー。16年、佐藤究名義の『QJKJQ』で第62回江戸川乱歩賞を受賞。18年『Ank: a mirroring ape』で第20回大藪春彦賞と第39回吉川英治文学新人賞を、21年『テスカトリポカ』で第34回山本周五郎賞と第165回直木三十五賞をそれぞれダブル受賞。他の著書に『爆発物処理班の遭遇したスピン』がある。
新着コンテンツ
-
インタビュー・対談2025年11月06日
インタビュー・対談2025年11月06日温 又柔×成田龍一「歴史の中の「私」と、私たち一人ひとりの「歴史」」
日本人である「私たち」を国家としての日本に縛り付ける「しがらみ。現代を代表する歴史学者と小説家による、「戦後日本」を解きほぐす対談。
-
お知らせ2025年11月06日
お知らせ2025年11月06日すばる12月号、好評発売中です!
新作小説は新崎瞳さん、上田岳弘さん、竹林美佳さんの3本立て。平野啓一郎さんの芥川龍之介についての講演録や温又 柔さん×成田龍一さんの対談も!
-
新刊案内2025年11月06日
新刊案内2025年11月06日これがそうなのか
永井玲衣
『水中の哲学者たち』で一躍話題となった著者は、ことばに支えられながら世界を見つめ続ける――。過去から現在までこの社会を考える珠玉のエッセイ集
-
新刊案内2025年11月06日
新刊案内2025年11月06日猪之噛
矢野隆
伝説の猪との対峙の先に見えるものとは。手に汗握る猟師と害獣の死闘を描く、著者初の現代小説!
-
お知らせ2025年11月05日
お知らせ2025年11月05日村田沙耶香さん『世界99』が野間文芸賞を受賞!
村田沙耶香さんの『世界99』が第78回野間文芸賞を受賞しました!
-
インタビュー・対談2025年10月30日
インタビュー・対談2025年10月30日赤神 諒×後藤勝徳(一般社団法人歴史新大陸 代表理事)「史実と創作が紡ぐ、もう一つの幕末物語」
主人公のモデルとなった幕末の武士・瀧善三郎。彼の生涯をめぐり、善三郎の顕彰活動や舞台化に取り組む後藤さんと熱く語りあっていただきました。