二つ目の傷痕

 デスクの上の彼女の手が小さく震えている。私は彼女の右斜めからその様子を見守っていた。私たちが座る二脚の椅子は、九十度の位置、デスクの隣り合う辺に向いている。私の左に彼女。彼女の右に私。直接、視線が合うことがないこの着座位置が、カウンセリングには適した座り方だとされる。実際、彼女は、時折、私のほうを見はするものの、大抵は正面にある窓へと視線を向けていた。
 私は彼女の表情に注意を移した。
 この部屋に入ってきたとき、彼女は意外なほど落ち着いていた。
「高階唯子(たかしなゆいこ)さん。唯子さんって可愛らしい名前ですね」
 私の名刺に目を落とし、そう微笑んでさえ見せた。が、私が改めて自己紹介をして、自分の守秘義務について説明し、同意書にサインをもらい、この三週間の生活ぶりを聞いている間に、彼女の表情は失われていった。それがおかしなことだとは思わない。事件からまだ三週間。普通でいられるほうがどうかしている。ずっと平静を装っていた彼女が、徐々に素顔を見せている。私はそう受け取った。


 五歳になったばかりだという娘について、彼女はぽつりぽつりと話していた。娘の花梨(かりん)ちゃんは、体が弱く、病気がちだという。その言葉に頷きながら、私は彼女を注意深く眺めた。きちんとしたメイクと身だしなみが、逆に彼女の動揺を暗示している気がした。それは人からおかしく見られないように、あるいは自分は大丈夫だと自身に言い聞かせるために、念入りに整えられたものに見えた。二重のぱっちりとした目と大きめの口が印象的で、本来はきっと表情の豊かな人なのだろうと思わせる顔立ちだった。
「今、特に困っていることはありますか?」
 話が一段落したところで私は尋ねた。生活全般について聞いたつもりだったが、やはり母親の思考は子どもが中心になるようだ。保育園が事情を汲んで親身になってくれているというようなことを彼女は話し始めた。
「体が弱い子なんで。すぐにお腹を壊したり、あとは頭がぼーっとするってよく言うんです。保育園の先生たちはそのことをわかってくれているので助かります」
 そう語る彼女の声に力はない。
 この三週間、彼女はとてつもなく目まぐるしい時間をすごしたはずだ。警察の聴取、葬儀の準備、マスコミへの対応。突如として膨大に押し寄せてきた様々な事象は、煩わしく、ときに腹立たしいことも多かっただろうが、事件から一時、気を逸らす役は果たす。それらが一段落した今がむしろ、気持ちが落ち込み始める時期だろう。
 まだ震えているその手を取ってあげたい衝動に駆られた。が、それは私の仕事ではない。そうしてくれる人がいるのか、確認した。
「では、娘さんは、花梨ちゃんは、今まで通り保育園に預けられるんですね? それとは別に、今、どなたか頼れる人はいますか?」
 彼女が正面から右四十五度に視線を移した。窓から私へ。ぼんやりとした眼差しは、質問をうまく理解できていないようだった。
「深い意味ではないです。ちょっとした用事をお願いできる人。ふとしたときに愚痴を言える人。その程度の意味です」
 私がそう補足すると、彼女は少し首を傾げて考え込んだ。
「派遣の仕事先には、そこまで親しい人はいないです。お隣の……住んでいるマンションのお隣の竹内(たけうち)さんはよくしてくれます。だいぶ年上のご夫婦ですけど、花梨のことも可愛がってくれて。ちょっとした用事なら、ええ、頼めると思います。ただ、愚痴とか、そういうことになると……」
「そうですか」と私は頷いた。「では、たとえば」
 彼女を何と呼ぶかについては少し悩んだ。事件の性質を考えると『奥さん』や夫の姓である『浜口(はまぐち)さん』と呼ぶことには抵抗があった。『あなた』という呼び方も教科書的にはありえるが、年齢の近い同性が使うにはふさわしくないだろうし、そもそも私はクライエントをそう呼ぶことをあまり好まない。考えた末、今回は下の名前で呼ぼうと面談前に決めていた。
「たとえば、有美(ゆみ)さんの、お母さんはどうです?」
「お母さん」とその意味を確かめるように小さく繰り返し、彼女は首を振った。「いるけど、遠いですから」
 事前に書いてもらった問診票には両親は健在となっていたが、住所までは記されていなかった。この状況で、今現在、彼女のそばにいないということは、相当、遠いところにいるということか。
「遠いというと?」と私は尋ねた。
「岩手です」
「ああ。確かに遠いですね」
 確かに遠い。が、もちろん、娘のもとにこられない距離ではない。それでもこないのは、距離とは違う事情があるということか。母親を呼び寄せるよう助言していいかどうか、即断はできなかった。
「ご実家がそちらなんですか? 有美さんも岩手の出身?」
 微笑みかけた私に彼女も微笑み返してくれたが、それは反射的な表情模倣だ。人は目の前にいる人間の表情を無意識に真似ようとする。私に対する親近感や安心感の欠片と受け取るべきではない。
「いえ。私は全然。行ったこともないです」
「そうですか」
 私が頷いたとき、靴音が聞こえてきた。近づいてきた硬質な靴音が部屋の前を通りすぎていく。最上階にあるこの部屋は警察署内とは思えないほど静かだった。が、フロアが無人なわけでもない。私は靴音が聞こえなくなるのを待った。その間に彼女の意識が私との会話から逸れたのを感じた。彼女はデスクの上にある自分の手を見ていた。やがて両手をゆっくりこすり合わせる。靴音が完全に聞こえなくなっても彼女はそうしたままだった。
「いきなりのことでした」
 不意に彼女が口を開いた。事件のことに話が飛んだのかと思ったのだが、違った。
「六十五まで働いて、会社を退職したと思ったら、すぐ二人で岩手に引っ越しちゃって」
 親の話らしかった。
「そうですか」と私は相づちを打った。「すぐお二人で」
「ええ。定年後はこっちでゆっくりするんだろうと勝手に思い込んでいたんですけど、会社を退職した途端に、いきなり岩手って」
 唇の端がわずかに歪んだが、はっきりとした表情になる前に、吸い込まれるようにどこかへと消えていった。
「岩手。どうして岩手だったんです?」
「二人とも歴史好きなんです。休みのときには、そういう、お城とか、お寺とか、歴史を感じられるところによく旅行していて、それで気に入ったらしいです。岩手の一関です」
 知っているかと問うように彼女が私を見た。
「平泉の近くですね。奥州藤原氏」と私は言った。「中尊寺金色堂とか」
「先生も、歴史、詳しいんですか?」
 クライエントから『先生』と呼ばれるのはクライエントを『あなた』と呼ぶのと同じくらい私の好みではなかったが、今はそれを指摘して、会話の流れを妨げたくなかった。
「ああ、いえ。特に歴史好きというわけではないんです」
 私の歴史知識の大半は受験の際に教科書から得たものだ。いわば知識のための知識で、広がりはない。そう言おうとしたとき、彼女が背後の椅子においていたバッグが目に留まった。私は言葉を換えた。
「そこを舞台にした漫画があって。それで知った程度です」
 うっすらと浮かんだ笑みは、今度は本物の感情の表れに見えた。
「ああ、漫画。漫画は私も好きです」
 そうなのだろう。彼女のバッグには有名な漫画キャラがモチーフになったチャームがついていた。まだ二十代の可愛らしい雰囲気をまとった彼女には似つかわしいものにも思えたし、もう二十代も終わろうとしている一児の母には似つかわしくないものにも思えた。漫画という淡いつながりから緊張がほぐれることを期待した私の言葉は、期待以上の効果を発揮した。私が思ったよりずっと彼女は漫画に詳しかった。平泉を舞台にしたその漫画のタイトルを当然のように言い当てた。
「よくご存じですね。漫画、本当に好きなんですね」
「ええ。中学生のころに少女漫画にはまって、そこから何でも読むようになって」
 それからしばらく、彼女が好きだった漫画についてのやり取りが続いた。年齢は私が三つ上なだけ。接してきたものは大きくは変わらない。彼女が挙げた漫画のいくつかは私も読んでいた。が、中にはタイトルすら初めて聞くものもあった。彼女はそのあらすじをわかりやすく教えてくれた。彼女の手の震えはいつしか収まっていた。
 話が逸れてしまうことは仕方がない。もとより、この面談に本筋の話などない。まずはなるべくリラックスして、彼女に多くを話してもらうこと。それが大事だった。
「ずいぶん読んでますね。それだけ読んでいると、漫画本、すごい量になってませんか?」
「ええ。家に大量にあるんで、広也(ひろや)にもよく文句を言われました。この一年で一度も読み返さなかったものは全部売り飛ばせって言われて、それで言い合いになったことも……」
 その言葉から夫婦の微笑ましい日常が思い浮かんだ。が、言いながら、彼女は喪失を改めて思い知らされたようだ。中途半端に言葉を切ると、表情をなくしてうつむいた。
「何で……」
 うめくように絞り出し、彼女は唇を結んだ。
 心は過去の思い出に飛んだのか、強い悲しみにとらわれているのか。彼女は言葉を切ったまま、動きを止めた。嗚咽はなかった。部屋に沈黙が満ちた。沈黙は悪いことではない。普通の生活の、普通の時間は、沈黙を許さない。沈黙が生まれれば、人はすぐに言葉や行動で埋めようとする。だから聞き逃してしまう。その沈黙のあとにこぼれ落ちる一言を。
 私は黙って彼女が戻ってくるのを待った。やがて彼女が顔を上げた。
「痛いですよね。きっと、痛かったですよね」
 苦しげに歪んだ表情で、あえぐように彼女は言った。
 彼女の夫、浜口広也さんは、三週間前、自宅近くの公園で刺し殺された。彼女より四つ上。まだ三十三歳。胸の傷は深く、肺にまで達していたという。
「何を考えたでしょうね。広也、死ぬときに何を……痛い、痛いって思いながら死んだんですかね」
「ほぼ即死だったと聞いています。長くは苦しんでないはずです」
 即死だったこと。それが慰めになる死に方もある。ひどい話だ。
 彼女が右手を胸に当てた。感情が高ぶり、胸が苦しくなったのかと思った。が、違った。
「傷を見たんです」
 胸に当てた手をぎゅっと握りしめて、彼女は言った。
「傷を?」
「広也の胸の」
「ああ、広也さんの胸の傷ですね」
 生々しい傷痕そのものを見たはずはない。彼女が見たのは、司法解剖を終え、整えられた遺体だったはずだ。それでも縫い合わされた傷口は嫌でも目に入っただろう。
「料理が……できなくなりました」
「料理、ですか?」と私は聞き返した。
「野菜ならいいんです。トントンとかコンコンって切れるものなら。でも、ぐにゅって刃が入るようなものは、ダメです。切れなくなりました。切り落としならまだいいんですけど、ブロック肉はダメです。鶏のもも肉なんかも全然ダメで、こう、刃の入る感じが」
「そうですか」
「花梨は……娘は唐揚げが好きなんです。でも、ダメですね。しばらく作ってあげられそうにないなって」
「そうですか」
「こういうのって、いつか治りますかね。考えないようになりますかね」
 犯罪による死別でPTSDを発症する遺族は少なくない。彼女の訴える症状がやがて消えるものなのか、もっと強い症状の前兆なのか、今は何とも言えなかった。
「有美さんの感じ方は決しておかしなことではありません。無理に考えないように、感じないようにと気を回す必要はないです」
 今の私にできるのは、クライエントが感じているその不快感がなるべく早くなくなるよう、手助けをすることだけだ。
「そうですか」と有美さんは力なく頷いた。
 その後、生活全般に対する不安などを聞き取り、初回九十分のカウンセリングを終えた。二週間後にまたここで会うことを約束して、彼女を警察署の外まで送り出した。
 私は警察職員ではない。大学に籍を置くただの研究員だ。カウンセリングは県警からの委託だが、県警にだって私のデスクはない。本来、被害者へのカウンセリングは県警警務部警務課の被害者支援室が当たることになっている。が、そこに警察職員として雇われている専門のカウンセラーは一人だけ。対応能力には限界があり、必要に応じて私のところにも依頼がくる。依頼を受けると、私はこういった所轄署の一室を借りてクライエントと面談をし、警務課長宛に報告書を提出する。だから、クライエントとの面談が終わると、途端に私の居場所はなくなる。面談室として使っていた部屋も、本来は会議室だ。面談が終われば、いつ追い出されても文句は言えない。早めに自分用の面談記録と提出用の報告書をまとめてしまおうと会議室に戻ると、クライエントが座っていた椅子に仲上(なかがみ)が腰を下ろしていた。
「ああ、久しぶり」と私は言った。
 刑事とはいえ、仲上がいるのは県警の捜査一課だ。所轄署で会うことは予想していなかった。二カ月ぶりに見るその姿に少し動揺してしまう。
「さっき見かけたから寄らせてもらった」
「部屋、よくわかったね」
 この階だけで会議室は三つある。他の階にもあるはずだ。
「適当に会議室を覗いて回ってたら」と言って、仲上は入り口近くに目を移した。
 カウンセリングには使わないデスクと椅子をあらかじめそこに寄せておいた。デスクの上には私のトートバッグがあり、その隣にはスプリングコートが畳んである。どちらかを私のものとして記憶していたのだろう。
「そう。何? 悩みがあるなら聞くよ」
 軽い口調で言って、私はさっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。個人的な話をしにきたのか、仕事の話をしにきたのか、仲上の表情からは読み取れない。刑事としては優秀なのだろうが、男としてはやっかいな部類に入る。知っていたら付き合わなかった。
「一緒にいたのは被害者の奥さんだよな?」
 さっき有美さんを送り出す私を見かけたということだったのだろう。
「そう。浜口広也さんの事件、関わったの?」
「ああ」と仲上は頷いた。「住宅街で起きた殺人事件で、当初は通り魔殺人も視野に入っていたからな。重大事件として捜査本部が設置された」
 捜査本部が立てられると、県警から捜査員がやってきて、所轄署員と合同で捜査に当たる。仲上はその一人だったのだろう。
「事件から三週間くらいか。被害者の奥さん、有美さんだったよな。大丈夫そうか?」
 仲上は隠語を使わない。ガイシャは被害者。チョウバは捜査本部。ヤマは事件。言い換えると何かがすり落ちる気がすると、以前、話していた。そんな仲上が真っ直ぐに聞いてきたのだから、真っ直ぐに答えるしかない。
「大丈夫かどうかはわからない。私にできる限りのことはする」
 にっと仲上が笑った。笑うと途端に子どもっぽい顔になる。
「唯……」と言いかけて、仲上はすぐに言い直した。「あんたがそう言うなら大丈夫だ」
 よかった、と一人で頷いて、仲上は椅子の背もたれに体を預けた。ギイと椅子が鳴り、私はスーツの中にある仲上の筋肉質な体を思い出した。太くはないが、何かがみっちり詰まったような体だ。何か……仲上という人間の意思のようなもの。私にはそう思えた。
「何かあるの?」
「あー、ん?」
「捜査は終わってるんでしょ? 県警の捜査一課が所轄に何の用?」
 犯人が逮捕されれば、間もなく捜査本部は解散し、応援にきていた刑事たちは警察本部へ戻っていく。
「事件はもう検察に移ってるんでしょ?」
「それが被疑者がごねだしているみたいでな」
「ごねる? 自供を引っ繰り返して、無実を訴えているとか?」
「いや、犯人はあの女で間違いない。それは動きようがないんだが」
「何?」
「誰にも言うなよ」
「口の堅さだけは信頼してくれていい」
 瞬時、虚をつかれたような顔をした仲上が「おっと」と苦笑し、「そうじゃないよ」と私は仲上をにらんだ。
 仲上との付き合いを誰かに話したことはない。仲上は望まないだろうと思ったし、私自身、私との付き合いを知られたら、刑事としての仲上の評判を落とす気がしていた。けれどもちろん、今、そんな話を引き合いに出したつもりはない。
 場違いな軽口を咎めた私に、詫びるように仲上が小さく頭を下げた。
「それで?」と私は話を戻した。
「計画性はないってな」
 筋をほぐすように一度首を倒した間に刑事の顔に戻り、仲上は私を見据えた。
「検察ではそう言っているらしい」
「は?」と私は思わず声を上げた。
 浜口有美さんへのカウンセリングを引き受けるに当たって、事件の概略は聞いていた。
 犯人である清田梓(きよたあずさ)は、被害者・浜口広也さんの会社の一年後輩だ。かつて二人は付き合っていた。破局し、やがて広也さんは有美さんと出会って、結婚する。が、子どもが生まれ、しばらくしたころ、燃えかすだった棒っきれに再び火がついた。よくある話だ。
 女には真剣な付き合いだったが、男は口先だけだった、というのは、女の一方的な言い分だ。仕方がない。死人の口は開かない。男がどれほどズルかったか、どれだけ噓を重ねたか。女の主張だけが調書に残ることになる。
 無情に背を向けた男を、女は追い回し始める。度を越したしつこさに男が困り果てていたのは、同僚の何人かが知っていた。おかげで女はすぐに捜査線上に浮かんだ。任意の聴取で女はあっさり落ちる。その供述によれば、逃げ回る男に業を煮やした女は、男の自宅近くで待ち伏せ、通りかかった男を公園に誘い込み、その胸にナイフを突き立てたという。
「被害者を待ち伏せてナイフで刺し殺しておいて、計画性がないって? もう計画性って何、ってことにならない?」
「それがな、ナイフは自分のものじゃないと主張している」
 清田梓が主張しようとしている状況が見えなかった。
「自分のじゃないって、ナイフは公園にたまたま落ちていたとでも言っているの?」
「覚えていないんだそうだ」
「覚えていない?」
「どこで手に入れたのか、覚えていない。被害者を待ち伏せたことも覚えていない。被害者を刺したことも覚えていない。意識が戻ったのは、被害者を刺したあとだってな。その間、意識がなかった。そう主張している」
「そんな……」と私は絶句した。
 仲上がデスクに肘をついて身を乗り出した。
「そんな、のあとを聞かせてくれるか? そんなことは起こりえない?」
 感情論ではなく、専門家としての見解を聞きにきたということか。
 床に向けて一つ息を吐き、私は顔を上げた。
「意識をなくしている間に自らの望む違法行為をしたっていう話なら、ありえない。そんな症例は聞いたことがない。でも、殺人を犯したあとで犯行時の記憶が失われたっていう話なら、ありえないことではない。精神的にひどくショックを受けたあと、記憶障害が起こることは一般的に言ってありうる」
 解離性健忘、ということになるのだろう。その健忘がどの範囲で起こるかは、個々のケースによる。凶器を手に入れてから被害者を刺し殺すまでの記憶がすっぽり抜け落ちるというケースも、絶対にないとは言い切れない。
「だけど……」
 あまりに都合がよすぎる。逮捕から時間が経ち、気持ちも落ち着き出して、自分になるべく有利な状況を作ろうと、供述を変え始めた。そう考えたほうがはるかに自然だ。
 言わなくとも、わかったのだろう。
「ああ。だけど、だよな」と頷いて、仲上は聞いた。「清田と面談したら、それが噓だと立証できるか?」
「無理でしょうね」
 解離性健忘と詐病との区別は困難だ。
「個人的な心証としては判断できたとしても、裁判で証言することはできない」
「安曇先生では?」
 仲上は大学の心理学科で教授をしている私の師匠の名前を挙げた。安曇教授ならば、これまで刑事裁判で精神鑑定の手伝いをしてきた実績もあるし、刑務所での受刑者のカウンセリング経験も豊富だ。犯罪者との面談には慣れている。それでもその供述が意図的な噓なのか、心因性の症状なのか、強い思い込みなのか、区別するのは困難だろう。
「難しいと思う。それよりナイフを買った店を探したほうが早いんじゃない?」
 どう考えてもそちらのほうが確実だ。が、仲上は冴えない表情で首を振った。
「だって、捜査したとき、凶器の出所くらい調べるでしょう?」
「ナイフは自分で買ったという清田の供述は取れていた。それ以上突っ込んで調べるほど、凶器の入手ルートがテーマになる事件には思えなかった」
「今からでも調べたら? それとも、大量生産品であとを追えないとか?」
「いいや。凶器は刃渡り十二センチほどのいわゆるサバイバルナイフだ。注文を受けて国内で生産された。柄に貝殻がついた装飾性の強いもので、生産数は五十前後。たいした数じゃない上に、注文者が直接ネットと自分の店舗で売っただけで、他に卸したりはしていない。このたび遅ればせながら調べたよ。ネットで売れたのが三十余り。それらの買い手に清田との接点はなかった。店頭で売れた二十前後については、ほとんど買い手を追えていないが、店主の記憶によれば、多くが男性で、女性の買い手はほぼいなかったらしい。唯一、年寄りの女性が買っていったのが記憶に残っているから、若い女が買っていれば覚えているだろうと言っている」
「そんな記憶、絶対じゃないでしょう? 検察はまさか犯人の言い分を信じているわけじゃないよね?」
「もちろん信じてない。ただ、そのナイフは八年前に製造されたもので、ネットと店頭を合わせて二年ほどですべて売り切ったらしい。それ以降は造られていない」
「だから?」
「だから、少なくともそのナイフは今回、被害者を刺すために購入されたものではない」
「ネットのオークションとかフリマアプリとかで買った可能性は?」
「清田のスマホやパソコンを調べた限りでは、そういう痕跡はなかった」
「だからって殺人の計画性を否定するものでもないでしょ? その店主の記憶が間違いで、もともと凶器を持っていたなら、改めて買い直す必要はないわけだし」
「その通りだよ。だが、それを立証できない。立証できなければ、こっちは弱い」
 疑わしきは被告人の利益に。裁判上、立証できなかった事実は被告人に有利なように解釈される。
「犯人の言い分が通ったら、どうなるの? この事件に計画性がないってなったら」
「一割は減るだろうな。十三年が十一年ってとこじゃないか」
「十一年」
 短すぎる。
 もちろん、何年なら十分ということはない。それどころか、見当違いだと私は思う。
 人を故意に殺したのなら、その犯人も殺すべきだ。私は本気でそう思っている。だって、命だ。それは大事とか大切とかいう次元のものではない。唯一であり、すべてだ。自分の大事な人が殺されたと想像してみればいい。誰かの身勝手な都合で、感情で、思い込みで、大事な人の今が、将来が、完璧に消滅する。その人が持っていたありとあらゆる可能性が、完全になくなるのだ。それはもちろん、犯人が死んだところで大事な人が生き返るわけではない。自分の心が安らぐわけでもないだろう。けれど、差し出した両手に載せられて、受け取りうる代償があるとするなら、犯人の命、それしかない。それを年月に換算して満足するのは社会の都合だ。そこには被害者の思いも、遺族の思いも込められていない。込めようがない。私はそう思う。
「殺人犯なんて死刑でいいよ」
 思わずぼそりと口から漏れた。
「面倒な女だよ」
 声に顔を上げた。仲上がじっと私を見ていた。
「思い込みが激しいし、依存心も強い。誰かのためのふりをして、いつも自分のために怒っているような女だ」
 仲上の視線は痛いほどだった。
「え? 何?」
「清田梓だよ」
「あ、ああ」
「憎むべき犯人だ。だが俺たちと同じ人間だ。鬼でも化け物でもない」
 思い込みが激しく、いつも怒っている。私と同じ人間。
 虚しさを覚えて、ため息が漏れた。
「まだ小さい子どもがいる。五歳になったばかりだって」
「わかってる」と仲上は頷いた。
 その声の苦さに思い当たった。今日、初めて有美さんと会った私とは違う。仲上は実際に浜口広也さんの遺体に対面し、有美さんから話を聞き、私が『家族欄』の字でしか見たことのない一人娘の『浜口花梨』ちゃんにだってたぶん会っているのだろう。
「そういえば」とぐったりした気持ちのまま私は言った。「有美さんにカウンセリングを勧めてくれたのはあなたね? 親切な刑事さんが教えてくれたって言ってた」
 警察は世間的にはいろんな批判もある組織だろうが、内部で働いている個々の警察官たちは純粋な正義感に裏打ちされている人が多いのも事実だ。仲上もその一人であることは私も知っている。
「『手引』を渡すときに付け足しただけだ。いいカウンセラーがいるから、遠慮なく頼ってくれって」
『手引』というのは犯罪被害にあった人やその遺族に渡される『被害者の手引』という小冊子だ。犯罪加害者に比して、犯罪被害者の権利がないがしろにされているのではないか。そんな社会の声を受けて犯罪被害者等基本法が成立してから、かなりの時間が経つ。犯罪被害者や遺族へのフォローが十分になったとまでは言えないが、それでも以前に比べればずっと目配りがされるようになっている。犯罪被害にあった人たちに渡すための『手引』も、今ではほとんどの警察本部が作成しているはずだ。そこには、犯人逮捕後の刑事手続きの流れや、そこでの注意事項とともに、被害者が利用できる支援制度などが書かれている。カウンセリング支援についてもそこで紹介されている。
「奥さんの次の面談は?」と仲上が聞いた。
「二週間後にここで」
「近いうちに検察が話を聞きたがるだろう。俺たちにしたのと同じ話をまたさせられることになる。力になってあげてくれ」
「わかった」
 仲上は椅子から立ち上がり、私に手を上げて、ドアに向かった。ふと二カ月前のことを思い起こした。別れを告げた私に、もの問いたげな顔はしたが、結局は何も聞かず、仲上はただ微笑んで背を向けた。私にとってそれは、とてもありがたい対応であり、同じくらいとても寂しい対応だった。身勝手な話ではあるけれど。
 その日と同じように、今日も仲上は振り返らずに部屋を出ていった。

 自宅の賃貸マンションに帰ると、祐紀がきていた。私が鍵を預けている唯一の人だ。が、それは私に不測の事態があったときのために預けているだけで、勝手に入っていいという許可を与えたつもりはない。
「お帰り」と麵をすすったままのポーズで祐紀は私を迎えた。
「ああ、うん、ただいま」
 我ながら殺風景な部屋だ。家具らしい家具なんて、食卓用のテーブルと椅子の他には、ほぼソファになることのないソファベッドと小さな戸棚ぐらいしかない。私は食卓テーブルの向かいに腰を下ろした。テーブルに置いたスマホをちらちらと見ながら、祐紀(ゆうき)はカップラーメンをすすっていた。あごだし。しょうゆ味。男にしては薄い唇。髪が金色から銀色に変わっていた。よれよれの長袖シャツを着て、だぼだぼのパンツをはいている。
「おいしい?」と私は聞いた。
 ずるっとすすった麵を口から垂らしたまま、祐紀が、うん、うんと頷く。耳に銀のピアスをしていた。
「そっか」と私は頷いた。「私の晩ご飯はおいしいんだね。なら、よかった」
「ん?」と最後まで麵をすすり上げ、もぐもぐやりながら祐紀が顔を上げた。「イズ、ディス、晩ご飯? ノット、非常食?」
「ザッツ、マイ、晩ご飯。でも気にしないで。おいしく食べてくれればそれでいいから」
「いや、そんなこと言われて、向かいでじっと見られたら、おいしくはなかなかいただきにくく……えっと、食べる?」
「今更、いらないよ」
 私は言って、立ち上がった。凍らせてあった一膳分のご飯をレンジで温め、台所の棚からサバ缶を取ってテーブルに戻る。
「それ、晩ご飯?」
 ぱかりとサバ缶を開けた私を見て、祐紀が聞いた。
「だから、晩ご飯はそっちだって。こっちは非常食」
「相変わらず貧乏なの?」
「臨床心理士なめんなよ。時給に換算すればほとんど変わらないから、シフト入りを熱望されるコンビニバイトくんのほうがたぶん高給取り」
「だって、頑張って大学院だって出たし、何とかって国家資格も取ったんだよね?」
「公認心理師」と私は言った。
「それでも貧乏なの?」
「貧乏、貧乏、言わないでよ。生活はできてます」
「なあ、マジで、面接、受けてみない? いい店、紹介するよ。週三の八時から零時で、月三十は保証する」
「あんたが私にそういうことを言うかな」
「何で? ダメ?」
「ダメって……だって弟がホストで、姉がホステスじゃ、何ていうか、切ないでしょ?」
「そうかな。俺は俺だし、姉貴は姉貴だ」
「いや、そういうことじゃなくてさ」とは言ったものの、それじゃどういうことなのかは自分でもわからず、私はサバをつつきながら話を変えた。「で、今日は何? また女の子と何かあった?」
 祐紀がうちにくるのは決まって自分の部屋に帰れないときで、それはだいたい女の子絡みの話だ。
「俺は何もしてない。相手がルール違反をしたんだ」
「ルール違反。ああ。あんたに惚れた?」
「うん。好きだって。店に落とす以上のお金を払うから、店の外で会ってくれって。なぜかマンションがばれて、前の道で張られてたから、裏口から脱出した」
「適当にあしらいなよ。それも含めてホストの腕前でしょ」
「適当にあしらうなんてできないよ。俺は本当に彼女が好きなんだ」
「ああ、はい、はい」と私は受け流した。
「はい、はいって何だよ」と祐紀は不満そうにこぼした。
 絶対に俺を好きにならないで。その代わり、俺が全力で君を好きになるから。それが俺を指名する条件だ。
 どの客にも最初にそう宣言するらしい。
 何ていけ好かないホストだと避けられそうなものだが、夜の街は不可思議だ。歌舞伎町で三本の指に入る人気店で、『ユーキ』は三本の指に入る人気ホストなのだそうだ。
「気をつけてよ。間違っても刺されたりしないでよね」
 今日の面談を思い出して、私は言った。こじらせた感情と一本のナイフで人は死ぬ。手を震わせていた有美さんのことを思った。会ったこともない花梨ちゃんのことを思った。今、二人は何をしているだろう?
「しないよ。そんなことになったら、彼女が捕まっちゃうだろ」
「私はあんたのことを言ってんの」
「俺は大丈夫だよ。俺、たぶん、不死身なんじゃないかと思うんだ」
「はあ?」
「だって、ほら、これまでずっと生きてて、まだ一度も死んだことないし」
 祐紀はへらへらと軽薄に笑う。
「あんた、もうじき三十でしょ?」
 私は呆れて言った。
「あー、まだ来月で二十九だよ」
「だから、もうじき三十じゃない」
「ああ、そういうスパンの話? あ、そろそろホストから足を洗え的なご提案?」
「考えないわけじゃないでしょ?」
「そりゃ、まあ、考えなくもないけど」
 祐紀はスープを飲み干して、口を手のひらでぬぐった。
「でも、カップラーメンが夕食って生活はなあ」
「もっと稼げる仕事はあるよ」
「だろうね。でも、それを言うなら、高卒の俺なんかが今より稼げる仕事は少ない」
「だって、長くは続けられないでしょ?」
「俺はそんなに遠くまで見えないよ」
 まずは今日を生き延びる。そんな毎日だった。あのころと比べれば生活環境はずいぶん変わった。それでも、私たちの本質的な心持ちは今も変わっていないと思う。
「母さんに、仕送り、続けてるの?」と私は聞いた。
 核心をかすめるようなことを先に言っておきながら、祐紀は聞こえなかったふりをして立ち上がった。
「ごちそうさん。もう行くよ。彼女、店にはきてないみたいだから、途中で服を買って、そのまま出勤するわ」
 店の誰かとそのやり取りをしていたということだろう。手にしたスマホを軽く振りながら言うと、祐紀は玄関に向けて歩き出した。私も立ち上がって、あとを追う。
「あんたにはあんたの、私には私の人生があるんだよ」
「あー、あるの?」
「あるよ。当たり前でしょ?」
「姉貴の話だよ」
 瞬時、返答に詰まった。
「ある」と辛うじて一瞬の動揺を誤魔化せるくらいのタイミングで私は返した。
「じゃ、何で……」と言いかけてから、祐紀は「あー、やめ、やめ」と首を振った。
「この仕事は好きで選んだ。あんたから見れば貧乏生活かもしれないけど、やりがいを感じながらやってる」
「うん。わかってる」と祐紀は頷いた。
 その後の「でも」は押し殺したのだろう。
 でも、もしもあんなことがなかったとしても、今の仕事を選んでいた?
 そう聞かれたら私は答えようがない。もしもあんなことがなかったら、とは死ぬほど何度も想像した。けれど、その先にいる、『もしもの自分』を想像したことはない。『もしもじゃない自分』が惨めになるだけだ。それは祐紀だってわかっているのだろう。
 かがんで、かかとに指を入れてスニーカーをはくと、祐紀は立ち上がった。
「じゃ、また」
「ああ、うん」
 祐紀は部屋を出ていった。にこりと最後に見せた笑顔だけは、昔から変わらないあどけないものだった。
 テーブルに戻り、残りのサバ缶とご飯を食べ終えると、私は浜口有美さんの面談記録の残りをつけるために、ノートパソコンを開いた。
 面談記録は二つの時間でつけるようにしている。面談の直後と、その日のうちの時間をおいてからと。直後の記録だけでは思い入れが強すぎる可能性がある。かといって、日をまたいでしまうと記憶が曖昧になるおそれがある。その日の最後の仕事として、二度目の面談記録をつけるのが私のやり方だ。
 私はもう一度、今日の面談を思い起こした。語られた言葉だけでなく、出で立ち、メイク、表情、仕草、思いついた点を記録していく。今日という一点で見たことに多くの意味を見いだそうとするのは間違いだ。ただ今日の有美さんの有り様を確認しておくことはとても大切だ。髪の長さや口紅の色、その他、些細な情報でさえ、将来的には大事な要素になりうる。たとえば、今日はパンプスをはいていた彼女が、次にスニーカーをはいてきたら、その理由を聞いてみるべきだ。仮に明確な理由がなかったとしても、触れておいて損はない。少なくとも、そのときも、今も、私はちゃんとあなたを見ていますよ、というメッセージにはなる。
 今日はスニーカーなんですね。
 そんな些細な質問から、思いがけない話が聞ける可能性だってある。
 直後につけた面談記録も読み返しながら、今日の有美さんの様子について思いを馳せる。もとより普通の状況ではない。おかしかったと思えばすべてがおかしかったようにも思えるし、こんな状況にしては理性的であったとも思える。
 クライエントとの面談は、特殊な事情がない限り録音はしない。加えて私は、メモすらほとんど取らない。こちらが手を動かせば、クライエントはそれを意識する。こちらの興味を見極め、それに沿った答えをするおそれが生じる。だから、有美さんとの面談は記憶を掘り起こすしかない。
 娘、花梨ちゃんへの言及が多かった。これは当たり前だろう。父親が殺された。それだけでもショックだが、殺したのは不倫相手だ。事情がわかる年齢になれば、さらに傷つくことになる。母親として、子どもの現在と将来を何より心配するのは当然だ。
 それに比べると、被害者である夫、広也さんへの言及は少なかった。漫画本で言い合いになった。生きている広也さんに言及したのは、このときだけだ。次に出てきた広也さんはすでに死体になっていた。
 評価が定まっていないということか。
 愛すべき伴侶だったのか、憎むべき裏切り者だったのか。不倫相手に殺された広也さんをどう捉えるべきか、有美さん自身が決めかねているという可能性がある。これは今後の面談のポイントになるかもしれない。
 私は遅くまでパソコンに向かった。二週間後、今日と同じ所轄署の同じ会議室で行われる有美さんの二度目の面談のために。が、その当ては外れた。初回の面談から三日後、有美さんは自宅で自殺を図った。

 最初にあったのはもちろん驚きだ。が、それから覚めると、私は深い混乱に襲われた。
「すみません。突然、ご連絡してしまって」
 病院の廊下で有美さんの父親に頭を下げられ、「こんなものしかありませんが」とお手製らしき名刺を渡されたときも、私の混乱は収まっていなかった。
 面談時の有美さんは、自殺を図るようには見えなかった。それが私の未熟さによる間違った判断だったとしても、彼女にはまだ小さな子どもがいるのだ。夫が殺され、自分まで死んでしまったら、子どもはどうなるのか、母として考えないわけがない。これが、無理心中を図ったという話ならまだわかる。娘を殺し、自分も死のうとした。ひどい言い方だが、それならば私は納得しただろう。自分の未熟さを恨み、取り返しのつかない結果を悔やんだだろうが、たぶん納得はした。が、これは到底、納得できない。
 それでも、これが現実だった。自宅で自殺を図った有美さんは、救急に運ばれ、処置を受け、今はドアの向こうの病室で眠っている。救急車を呼んだのは、マンションで隣に住む竹内さん夫妻だったという。深夜、突然、聞こえてきた子どもの泣き声は長らくやむことがなかった。不審に思った竹内さん夫妻がインターフォンを鳴らすと、玄関を開けたのは泣いている子ども本人だった。訳がわからぬまま中に上がった竹内さん夫妻は、キッチンで血だらけになって倒れている有美さんを発見する。有美さんはすぐに救急搬送された。有美さんの父親のもとに病院からの連絡がきたのは、今朝早くのことだ。意識を取り戻した有美さんが、連絡先として父親の電話番号を言ったそうだ。父親は早朝の新幹線ですぐに岩手からやってきた。
 受け取った名刺には『藤田芳樹(ふじたよしき)』という名前と携帯の番号があった。私は目を上げて藤田さんを見た。長身で瘦身。生真面目そうな顔をした人だった。名刺に書かれた団体名から想像すると、地域の文化財保護のボランティア活動をしているようだ。
「私の連絡先はどうやって?」と私は藤田さんに尋ねた。
「ああ。これです」と言って、藤田さんはポケットから別の名刺を取り出した。私の名刺だった。「私がここにきたとき、お隣の竹内さんご夫婦と花梨ちゃんがいて、花梨ちゃんがこの名刺を渡してくれました」
「花梨ちゃんは今は?」
「竹内さんに甘えて、いつもの保育園に送っていただきました。場所は聞いてありますので、夕方には私が迎えに行きます」
「花梨ちゃんは、なぜ私の名刺を持っていたんでしょう?」
「わかりません。黙って渡されただけです。とにかく連絡をと思って、電話させてもらいました」
 名刺にあるのは大学の研究室の電話番号だ。たまたまきていた院生が電話を取り、私に連絡してくれた。
 その院生からおおよその話は聞いてはいただろうが、私は自分が大学の研究員であり、犯罪被害者ケアのために県警から委託されたカウンセラーであることを改めて説明した。
「四日前に初回の面談をしたところでした。こんなことになってしまい、本当に申し訳ありません」
 私が頭を下げると、藤田さんは慌てたように頭を下げ返した。
「とんでもないです、こちらこそご迷惑をかけてしまって」
「今は、有美さんは一人ですか?」
 藤田さんの名刺をしまって、私は聞いた。
 ドア脇の名札のスペースは一つ。個室なのだろう。医師が室内にいるのか、いるなら何科の医師なのか。それが気になった。
「ええ。今は一人です。さっき先生が診てくださいました。傷は深いけれど、命に別状はないそうで」
 外科、もしくは救急の医師のことだろう。それ以上を言われる前に、私は聞いた。
「会えますか? 中、入っても?」
「ああ。まだ薬で寝てますが、入ってもらう分には、ええ」
「ありがとうございます」と頭を下げ、私が動こうとしたとき、藤田さんの後ろからきた白衣姿の中年男性が声を上げた。
「まだ眠ってますか?」
 藤田さんが振り返り、彼に頭を下げる。
「あ、はい。まだ」
「そうですか」と彼は言った。
「あ、こちら」と言いかけた藤田さんを制するように、彼が口を開いた。
「浜口さんの精神科の担当となります、池谷(いけたに)と申します」
 ネックストラップについた身分証を示すようにして、彼は軽く頭を下げた。身分証には『精神科・池谷譲(ゆずる)』とある。通常、自殺企図患者には、体の治療とは別に精神科や心療内科の医師がつけられる。それこそが私が恐れていたことだった。できることなら、それを知る前に有美さんに会っておきたかった。
 彼のほうは私を親族だと誤解したようだ。いたわるような微笑みを浮かべている。
「あの、それで、こちらが」と言って、藤田さんが私の名刺を池谷医師に渡した。
「高階唯子です」と観念して私は頭を下げた。「浜口有美さんのカウンセリングをしているものです」
「臨床心理士、公認心理師」と受け取った名刺を読み上げるように彼は言い、顔を上げた。その表情は先ほどとは一変していた。「なるほど。そうでしたか。では、もう結構ですので、お引き取りください」
「あ、え?」
 戸惑ったように、藤田さんが池谷医師と私を見比べた。が、私にしてみれば、ある程度予想していた反応だった。
「ご面倒でしょうが、有美さんと面談する許可をいただけませんか? お願いします」
 ひたすら下手に出ることに一縷の望みをかけて私は頭を下げた。戻ってきたのは、とりつく島もない言葉だった。
「許可しかねます。お引き取りを」
 多様な知識と経験を要求されはするが、制度としていうなら、臨床心理士という資格は一つの民間資格にすぎない。多くの臨床心理士にとって、国家資格化は悲願だった。その思いを受けて作られたのが、公認心理師という資格だ。が、この国家資格は生まれる際に大きな枷をかけられた。公認心理師法第四十二条第二項。クライエントに主治医がいるとき、公認心理師は『その指示を受けなければならない』。つまり、ひとたび担当医がつけば、公認心理師はその医師の指示のもとでしかクライエントと接することができなくなる。この条項が加えられたことについては厚労省、ひいては医師会の要請があったと言われる。その後に運用上の配慮を求める通知が出されたりもしたが、制定された法律にこの条項がある以上、現場における医師の優位性は揺るがない。池谷医師に拒まれれば、今、私は有美さんと面談することができない。
「浜口さんはあなたのクライエントだった。にもかかわらず、こうなった。そうですよね? 今、あなたが浜口さんのためにできることがあるとは思えません」
 そう言われてしまえば一言もない。正直なところ、今、私が有美さんにできるのは謝罪くらいだ。それが自己満足で、クライエントに何の利益もないと言われてしまえば、それはその通りだと私自身、認めざるをえない。
「このあと、有美さんは、どうなりますか」
 尋ねた私を冷ややかに一瞥し、池谷医師は藤田さんに向けて言った。
「外傷は心配ありません。問題は気持ちのほうです。もうじき、午前の間に、外科の診察があるはずです。午後には精神科のほうへきていただくことになると思います」
「その後で構いません。話をさせてもらえませんか」
 割り込むように私は言った。
「許可しません」
 池谷医師が事務的に返した。
 精神科医も、カウンセラーも、患者やクライエントのためを思って行動することに何の違いもない。が、その方法論が決定的に違う。精神科医は患者の異常状態を是正するために、多くは薬を使いながら、患者を正常化することに力を注ぐ。我々カウンセラーはクライエントの今の状態を受容し、今現在クライエントに生じている様々な不都合や生きにくさをつぶしていくことに力を費やす。今、患者に必要なのは十分な休養と有効な投薬治療だ、と彼は信じているだろう。それと同じくらい、今の有美さんに必要なのは、彼女に寄り添おうとする傾聴者だと私は信じている。私が有美さんに詫びたいと思うのも、その一点だ。四日前、私は有美さんが語るべき言葉を聞き逃してしまったのですね?
 だったら、今からでも聞かせてほしいと私は願う。けれど、そう言っても池谷医師には通じないだろう。
「今後、あなたが浜口さんにコンタクトを取ることがあったら、あなたが持っている国家資格が危うくなると思ってください」
 私が強引に有美さんに会い、彼がそれを非難すれば、私は公認心理師の名称使用停止、最悪の場合、登録の取り消しを命じられるおそれがある。
 藤田さんに挨拶をして歩き去っていく池谷医師を私は黙って見送るしかなかった。

「なるほど。それで荒れているわけですか」
 自分のデスクの前に立った私を見据えて、安曇教授は言った。
「荒れてますか?」と私は聞いた。
 昼すぎにようやく研究室に出勤してきた教授に、私としてはこれまでの経緯をきわめて理性的に説明し、もともとは教授の紹介で委託されるようになった県警からの業務が今回は遂行できなくなったことをきわめて淑女的に謝罪したつもりだった。
「大荒れでしょう」と言って、教授は私の体を避けるようにひょいと首を傾け、私のデスクに視線を向けた。「だって、ほら。アザラシとチョコレート」
 自分のデスクを振り返った。パソコン画面には流氷の上に寝転ぶアザラシの動画が一時停止されていて、キーボードの横には明治の板チョコがかじりかけのまま置いてある。教授が研究室にくる前まで、私は自分のデスクでアザラシ動画を見ながら、チョコレートをがりがりと食べていた。どちらも私の精神安定に寄与するものだ。大学院からだから、もう十年の付き合いになる教授は、そのことを十分承知している。
「まあ、荒れていたかもしれません」と私は認めた。「あの縄張り主義は何なんでしょうね。医師と公認心理師、ともに手を携えてやっていけばいいだけなのに」
 そう言ってから、目の端に含み笑いを見て取り、私は教授に向き直った。
「青臭いですか?」
「正論ですが、青臭いでしょう」
 含み笑いのまま教授は頷いた。ぽてっとした丸顔につぶらな目。童顔が年を取って、年齢がわかりにくくなった典型例のような顔だ。そんな教授の顔は、ときにいたずら好きのヨタカみたいに見える。ときに思慮深いフクロウみたいにも見える。今はヨタカの顔で含み笑いをしていた。
「青臭くても何でも、クライエントにとって、ベストな選択をするべきです。我々とドクター。どちらか一方より両方いたほうが、できることは多いでしょう」
「我々は異端なんですよ。まずはそれを自覚することです」
「異端?」と私は言った。
「ええ、異端。ああ、これはごく私的な持論です。授業では口にしません」
 その前提で聞け、と教授が言っているようだったので、私は頷いた。
「はい」
「近代以降の自然科学というのは、基本的に博物学です。まずはいくつかの原理、原則を抽出する。そしてそこから漏れる例外を探していく。次にその例外を系統立てて位置づけていく。そして、そこから漏れる例外を探していく。その例外をさらに系統立て、そこから漏れる例外を探していく。原理、原則と、そこから漏れる例外。それを繰り返し腑分けしていくのが、自然科学の原則なのです。それは物理学でも、化学でも、生物学でも、その一部である医学でも同じです。さらにその一部である外科も、精神科もそうやって成り立っている。けれど、我々はそこからはみ出しています。我々は、今そこにあるそれを、そのまま受容し、是認する。それはそれであり、原則でも、例外でも、例外の例外でもない。そういう意味では、我々の有り様は宗教的ですらあり、自然科学の学徒たちには許しがたい立ち位置に見えるのですよ。彼らが我々を嫌っている、というのは我々の立場からの見方です。彼らにしてみれば、先につばをかけたのは我々のほうだ、ということになるのだと思いますよ」
 わかるような、わからないような話だった。ただ、それは個別の問題ではない、と言われたことで、わずかに気が軽くなった。
「けれどクライエントと接触すらできないというのは、やはり困ります」
「それは、そうですね」と教授は頷いた。
 主治医から面談の許可が下りなかった。県警の警務課にそう報告すれば、私の役目はそこで終わりになる。県警にとっては、担当が、自前で用意したカウンセラーだろうが、病院でつけられた精神科医だろうが、被害者遺族の心理ケアという点がクリアされていれば、どちらでも構わない。私は役を降ろされるだろう。有美さんから聞き損ねた言葉は何だったのか、知ることは金輪際、ないだろう。
「聞いていいですか?」
 自分のデスクに戻り、私は教授に言った。
「何です?」
「先生が公認心理師の資格を取らないのは、臨床心理士としての矜恃ということでしょうか? 医師の風下には立てなかった。ご自分の中で、その立ち位置の違いを明確にしておきたかったから。そういうことですか?」
「買いかぶりすぎですよ。この年で新しい資格を取るのが億劫だっただけです。それでがっぽり稼げるようになるわけでもなし」
「そうですか」と私は頷いた。教授の真意は読めなかったが、最後の部分は同意できた。「まあ、ごもっともです」
 いつまでもアザラシ動画を見ているわけにはいかない。私が自分の席について、ブラウザを閉じたときだ。
「クライエントにはお子さんがいるのですよね?」と教授が言った。
「はい?」と私は教授を見た。「あ、浜口有美さんですか? ええ。娘さんが一人」
「父親が殺され、母親は自殺未遂。今、その子はどうしているのでしょう?」
「今は保育園に。その後は当面、有美さんのお父さんが面倒を見るのだろうと……」
「とすると、今この時点での保護者はそのお父さんということになりますかね」
「まあ、そう言えなくはないですね」
「とするなら、そのお父さんの許可があれば、クライエントの娘さんと面談することは可能でしょうね」
「え? だって……」
 その後に言えることならいくらだってあった。
 だって……カウンセリングの途中で母親に自殺未遂されてしまったカウンセラーが、その娘のカウンセリングをするのは道義上、問題があるんじゃないですか?
 だって……今は入院中だとはいえ、娘の唯一の保護者は母親であり、既知のその母親に許可を求めずに娘のカウンセリングをするなんて、だまし討ちのようではないですか?
 だって……今の状況でその子にカウンセリングをするのなら、通常、それは児童相談所の管轄で、その児相に介入する暇を与えずに出しゃばっていくというのなら、私はいったいどんな立場でその子のカウンセリングをすればいいのでしょう?
 だって……何より、私は児童心理の専門家ではないですよ?
 が、私はそのすべての『だって』を吞み込んだ。保護者として機能している藤田さんがいる以上、ただでさえ忙しい児相が人員を積極的に割いてくれるとは思えない。有美さんには事後報告になってしまうが、藤田さんから伝えてもらって、有美さんが私を拒否するというのなら、その時点で善後策を考えればいい。児童心理の専門家でない私にも、ケアの必要性をはかるくらいのことはできるし、必要だと感じれば強引にでも専門家へつなぐ手立ては考えられる。名刺を渡してくれた縁もある。私が今の時点で花梨ちゃんに会わない理由は、むしろない。
「ごもっともです」
 教授に言うと、私は連絡を取るべく、藤田さんからもらった名刺を取り出した。

 花梨ちゃんに会わせてほしい。正式なカウンセリングという形は取りにくいが、どんなケアが必要か、会って現状を知っておきたい。
 私の申し入れは、藤田さんにとっても、渡りに船だったようだ。
「そうしていただけると助かります。これから花梨ちゃんとどう接していいか、私も困っていたところだったんです」
 藤田さんはあの後、しばらく病院に詰めていたが、目を覚ました有美さんに頼まれ、当面、花梨ちゃんを預かることにしたらしい。今はホテルから荷物を引きあげ、有美さんの家で簡単な掃除をしていたところだという。
 私は藤田さんが花梨ちゃんを保育園に迎えに行くときに、合流できることになった。
「奥様は、有美さんのお母さんは、こちらにいらしてるんですよね?」
 駅前で待ち合わせ、保育園への道を歩きながら、私は藤田さんに尋ねた。病院で会ったときはたまたま藤田さんだけだったが、保育園の迎えには奥さんもくるものだとどこかで思い込んでいた。が、駅前に現れたのは藤田さん一人だった。
「ああ、いや、妻はこちらにはきていません。有美と妻とは折り合いが悪いんですよ」
「ああ、折り合いが。そうでしたか」
「折り合いが悪いというか、相性が悪いというか、いいえ、最初から相容れないというべきですね」
 そう言って、藤田さんは私を見た。探るような視線だった。成長するにつれて折り合いが悪くなる、もしくは相性が悪くなる親子は珍しくないが、最初から相容れない親子というのは少ないだろう。そして今、藤田さんはそのことについて話したがっていた。
「つまり、普通の親子関係ではないんですね?」と私は水を向けた。
 頷いた藤田さんの目に暗い影が差した。
「有美と妻の間に血縁はありません。有美が十四歳のとき、私は今の妻と再婚したんです」
「そうだったんですね」
 家族欄には、同居してなくとも両親については記すよう求めている。両親がどんな人だったのか。かつてはどんな関係で、今現在はどんな関係なのか。それらがクライエントに与える影響は少なくない。カウンセリングを始めるにあたってまず親子の関係性から確認するカウンセラーもいるくらいだ。が、実際の血縁関係があるかどうかまで家族欄からは知りようがない。
「浜口さんの事件のことは、もちろんご存じだったんですよね?」
「ニュースで知りました。驚いて有美に連絡したのですが、連絡がついたのは事件から四、五日あとでした。実際、私は事件についてマスコミ報道以上のことは知らないんです」
「失礼ですが、ずいぶん疎遠にされていたんでしょうか?」
「疎遠」と藤田さんは言って、苦い笑みを浮かべた。「ええ。そうですね。十八で家を出て以来、有美とはほとんど会っていません」
「それは、またずいぶんと……」
「無理もないんです。まったく、無理もないんです」
 藤田さんは言葉を選びながら話し出した。
 今の奥さんと付き合い出したとき、藤田さんは有美さんの母親とまだ婚姻中だった。しばらく不倫関係を続けたあと、藤田さんは有美さんの母親と離婚して、今の奥さんと結婚したということらしい。
 だったら、有美さんが藤田さんの今の奥さんを恨むのも仕方がない。母親から夫を奪った女だ。苦しい状況でも、そばにいてほしいとは望まないだろう。同様に父親も、有美さんにとっては自分の家族を壊した裏切り者だった可能性がある。
「でも」と思いついて、私は聞いた。「十五年前、その状況で、親権は藤田さんが持ったんですか? そのケースなら、普通、有美さんの親権者は母親になりませんか?」
 離婚の原因がどちらにあるかにかかわらず、子どもの親権は母親が持つ場合が多い。父親の不貞が発端の離婚なら尚更だろう。
「母親が親権を望まなかったということですか?」
 暗澹として私は聞いたのだが、藤田さんはすぐに否定した。
「いえ。そういうことではないです。彼女も親権を望んでいたと思います。有美のことは本当に溺愛していましたから。ただ……」
 藤田さんは言いにくそうに言葉を濁した。道の先に保育園の門が見えていた。
「有美は話さなかったんですよね」
 その場に足を止めて、藤田さんは言った。
「何をですか?」
 私も足を止め、そっと切り込んだ。わずかの間、うつむいた藤田さんは、意を決したように顔を上げた。
「前の妻は、今の妻を刺したんです」
「刺した」
 咄嗟に繰り返した私と視線を合わせ、藤田さんは小さく二度、頷いた。
「今の妻は重傷を負いました。今でも満足に歩くことができません。前の妻は直後に現行犯で逮捕されました。私たちの離婚は勾留中のことです。前の妻にしてみれば、親権を主張できるような状況ではなかったんです」
「でも、不倫が原因の傷害事件ですよね。情状酌量の余地はあったかと思いますが」
「傷害事件ではありません。殺人未遂事件です。前の妻は殺人未遂事件の被告人として裁かれました。彼女が殺意を否定しなかったからです。それどころか、殺してやるつもりだったと、殺せなくて残念だと、裁判中にも主張しました」
 事件直後だけではなく裁判中にもそう言ったというのなら、その心はかなり病んでいたのだろう。父親の立場からすれば、そんな女性に親権は渡せない。裁判所だって認めないだろう。
「その人……有美さんの実のお母さんは、今、どうされているんです?」
「事件は十五年以上前のことです。実刑八年で、もうとっくに出てきているはずですが、どこで何をしているのかは知りません」
「そうですか」
「十八になるとすぐに有美は私たち夫婦のもとを離れました。大学在学中は仕送りもしていたのですが、卒業後は関わりがなくなってしまいました。浜口さんとの結婚も事後報告です。私が連絡すれば、辛うじて返事はきましたが、それもこちらから五回連絡すれば一回返ってくるかどうかという程度です。返事の内容はいつも同じです。連絡はどちらかが死んだときだけでいい、と。花梨ちゃんに会うのも、実は今回が初めてだったんです」
「そうでしたか」
 ならば接し方に戸惑うのも無理はない。私の申し出を受けてくれたのは、そういう事情もあってのことか。
「浜口さんのご両親が花梨ちゃんを養育することになりかねないと有美は心配しているようです。そのまま浜口家に子どもを取られてしまうのではないかと。そうでなければ、私に連絡はこなかったでしょう。とにかく自分が退院するまで花梨を頼むと」
「そうですか」
 私は面談のときのことを思い出した。
『定年後はこっちでゆっくりするんだろうと勝手に思い込んでいたんですけど、会社を退職した途端に、いきなり岩手って』
 あのとき、有美さんの唇の端がわずかに歪んだ。思えば、私が母親について聞いたにもかかわらず、途中から話は父親のことにすり替わっていた。
 昔は家庭を壊した。今は勤めがなくなれば、私の近くから逃げていく。
 あれは父親に向けた嘲笑だったか。
 逆に言うなら、有美さんは父親を求めていた。そのことに、おそらく藤田さんは気づいてもいない。
 促すように保育園の門を見てから藤田さんが歩き出し、私はその後ろに続いた。

 花梨ちゃんの緊張はなかなか取れなかった。無理もない。花梨ちゃんにしてみれば、ファミリーレストランのテーブル席で、向かいには今日初めて会ったお祖父ちゃんが座っていて、隣にはまったく知らないおばちゃんが座っているのだ。目の前にフルーツパフェがやってきたぐらいで和めるものではない。
「ありがとうね」と自分のスプーンを手にして、私は花梨ちゃんに言った。
 花梨ちゃんが目を上げた。くりっとした愛らしい目と元気な声で笑いそうな大きめの口はお母さん譲りだ。が、その顔立ちが雰囲気と合っていない。体が弱いと有美さんも言っていた通り、線は細く、顔も青白い。日陰でけなげに咲いているヒマワリ。それが花梨ちゃんを最初に見たときの印象だった。
「私の名刺、紙の、カードね、お祖父ちゃんに渡してくれたんだって?」
 クリームを口に運んで言うと、花梨ちゃんはしばらく考えて、おずおずと頷いた。
「それから、お隣さんにも。えらかったね。花梨ちゃんが知らせてくれたから、お母さんを病院に連れていけたんだもんね。花梨ちゃん、お母さんを助けたんだね」
 花梨ちゃんはうつむいて、何も言わなかった。
「食べよ」
 促して、私はパフェを食べた。花梨ちゃんは動かなかった。藤田さんは何かを話しかけようとしたが、言葉が浮かばなかったらしい。助けを求めるように私を見た。今は無理に話しかけなくていいと私は目顔で伝えた。
 私たちの前の席に、親子連れが座った。小学校低学年くらいの男の子とお母さんだ。男の子はメニューを見もせずにスマホをいじっていた。お母さんは少し疲れた様子で、男の子にメニューを向けた。
「ママ」
 花梨ちゃんがぽつりと言った。そのまま消えそうになった言葉に、私は問いかけた。
「ママ?」
 花梨ちゃんが私を見上げた。
「どこ?」
 声とまつげが震えていた。パパを失って、まだひと月も経っていない。不安になって当たり前だ。
「まだ病院だよ。でも大丈夫。もうよくなってるから」と私は言って、藤田さんを見た。
「ああ。明日には会えるよ。お医者さんもそう言っていた。明日、お祖父ちゃんと一緒に病院に行こう。ね?」
 花梨ちゃんの表情が少し柔らかくなる。
「食べよ」と私がもう一度促すと、花梨ちゃんはようやくスプーンを手にした。
 先ほどよりは少しだけ穏やかな空気の中で、私たちはパフェを食べた。
「そういえば、花梨ちゃんはお姉さんの名刺、紙のカード、どうして持ってたんだい?」
 先にパフェを食べ終えた藤田さんが尋ねた。それはひょっとしてよくないことだったのか。そう恐れるように、緊張した面持ちで花梨ちゃんが藤田さんを見た。
「おかげで私もお祖父ちゃんも、とっても助かったんだよ」と私は言い添えた。「ありがとうね」
「ママが見てたから。ずっと」と花梨ちゃんは答えた。
「そう。ママがずっと見てたの」と私は言った。
 花梨ちゃんがこくりと頷く。
「寝る前に、花梨ちゃん、見た」
「うん。寝る前に、見たのね」
 気長に耳を傾けていると、おおよその状況が見えてきた。
 有美さんは、夜、いつも花梨ちゃんをベッドで寝かしつけていた。その日、花梨ちゃんとベッドに入る前、有美さんは一人で私の名刺をじっと見ていた。花梨ちゃんが何かを感じるくらいには、強い思いを込めて見つめていたようだ。だが、特には何もせず、いつも通り花梨ちゃんを寝かしつけた。子ども心に不穏な予感があったのか。夜中に目を覚ました花梨ちゃんは、母親の姿を捜してベッドを出る。そしてキッチンで血だらけで気を失っている母親を見つけ、泣き叫んだ。
「そう言えば、ダイニングテーブルの下に有美のスマホがありました」と藤田さんが言った。「キッチンの、有美が倒れていたその痕があった隣に」
 歯切れの悪い言い方で、その痕、というのが流れた血の痕のことだとわかった。今、家に掃除をする人はいない。家を訪ねた藤田さんが見たのは、まだ生々しい痕跡だったはずだ。簡単な掃除をしていたところだと、先ほど連絡をしたとき、藤田さんは言っていた。考えてみれば、きて早々に、初めて訪れる娘の家を掃除するというのもおかしな話だ。それはその痕跡を拭っていたところだったのだろう。キッチンに広がる血痕。その隣にスマホが落ちている図を私は想像した。
 有美さんは自分を切りつける寸前まで、私に連絡するかどうか迷っていたのだろうか。もしそうなら、私は何としても有美さんの言葉を聞かなくてはいけない。なのに、それができない現状がもどかしかった。
 パフェを食べ終えると、私は二人とともに有美さんの家があるマンションへと向かった。
「そばをゆでるので、是非」と藤田さんに言われ、花梨ちゃんにも乞われたので、夕食をご馳走になることにしたのだ。もちろん、相手が子どもとはいえ、通常のクライエントなら、この距離はありえない。住所はもとより、携帯番号だって教えないのが常だ。有美さんに対する申し訳なさ。それを償うための出すぎた行為であることは自覚していた。それが正しいことであるのかどうかは、もはや判断することを諦めていた。カウンセラーというより一人の人間として、今、この祖父と孫とを放ってはおけない。そんな思いだった。
 浜口家は古びた大きめのマンションの一階にあった。藤田さんが早速キッチンに立つ。
「どうぞ、くつろいでいてください。すぐにできますから」
 面談で話していた通り、家には大量の漫画があった。が、その扱いは普通の漫画好きとは違っていた。本は本棚に並べられるわけではなく、テーブルの上や床に積み置かれていた。家のあちこちに漫画の山があることになる。これでは夫である広也さんが文句を言いたくなったのもわかる。
『中学生のころに少女漫画にはまって、そこから何でも読むようになって』
 キッチンの藤田さんを盗み見た。花梨ちゃんにせがまれて、冷蔵庫から出したジュースをコップに注いでいるところだった。
 今から思えば、有美さんにとって中学生のころというのは、母親が逮捕され、父親と元不倫相手との家庭での暮らしが始まったときだ。自分の家庭を壊した二人との生活。しかも元不倫相手は自分の母に刺され、障害が残っている。多感な時期の少女には、受け入れがたい生活環境だろう。漫画が好きだったというより、フィクションの世界に逃げ込んだということだったのかもしれない。だとするなら、父親の元を離れ、自分の家庭を築いた今も彼女が大量の漫画に囲まれているのはどういうことか。この家もまた彼女にとって満たされる場所ではなかったということか。
 リビングの戸棚にはウェディング姿の二人の写真が入った写真たてがあった。写真下の日付からすると、結婚したとき、有美さんはまだ二十三歳。大卒なのだから、卒業後、ほどなく結婚したことになる。有美さんはそれほどまでに家庭を、自分の居場所を求めていたと考えるのはうがちすぎだろうか。写真の中の広也さんはとても優しげに微笑んでいた。けれど、もちろん、すべての優しい男が女を幸せにするわけではない。飾られて、長らくそのままになっていたのだろう。写真たてにはほこりが溜まっていた。
 藤田さんが料理を始め、私と花梨ちゃんは花梨ちゃんが毎週見ているというテレビアニメを一緒に見始めた。花梨ちゃんは、それがどんな話なのかを一生懸命、私に教えてくれようとする。物語の世界観が私にもわかり始めたころ、インターフォンが鳴った。訪ねてきたのは隣家の竹内さん夫妻だった。
「お帰りになったようだったので」と玄関に応対に出た私に、奥さんが言った。「花梨ちゃん、大丈夫ですか?」
「ええ。今は少し落ち着いて、テレビを見てます。しばらくは有美さんのお父さんが花梨ちゃんの面倒を見ることになっていて」
 説明しながら、どう自己紹介したものか迷っていると、藤田さんがやってきた。
「ああ、これはこれは。こちらからご挨拶にうかがうべきところを。今日は大変、お世話になりました」
 何か手伝えることがないか。あるようならば遠慮せずに言ってくれ。
 夫妻は親切にそう申し出てくれた。
「花梨ちゃん、体が弱いから、有美さん、いつも気をつけていて。いろいろな病院を回って、花梨ちゃんの体が少しでもよくならないかって、それはもう一生懸命で。えらいねって、うちでもよく話していたんです」
 朝、お出かけする二人の様子。休日、近所の公園やスーパーで見かけた二人の様子。
 有美さんの母親ぶりを二人が褒めれば褒めるほど、夫である広也さんの不在ぶりが浮き彫りになる。やはり広也さんは、いい夫、いい父親ではなかったのだろう。
 必要なときには遠慮なく助けてもらう、という藤田さんの言葉に、必ずですよ、と念押しして、竹内さん夫妻は隣へ帰っていった。
「保育園の先生にも言われたんですよ」と玄関先で立ち尽くして、藤田さんが言った。「浜口さん、体の弱い花梨ちゃんのために、いつも頑張っていたって」
「そうでしたか」
「有美は頑張っていたんですね。夫とうまくいっていない中で、親の手も借りられず、たった一人で頑張っていた」
「今は頼りにしているじゃないですか」と私は言った。「これをきっかけに変えられることもあると思います」
「そうでしょうかね」と藤田さんは力なく笑ってから、頷いた。「そうですね。そうしないと」
 その後、藤田さんが作ってくれたそばを三人で食べた。花梨ちゃんもおいしそうにそばを食べていた。さっきのアニメについての話も弾んだ。今度は二人で藤田さんにストーリーを説明してあげた。とんちんかんな藤田さんの受け答えに、二人で声を上げて笑った。
「今日は、花梨ちゃん、元気だから、お薬、いらない」
 食後に花梨ちゃんが言い、私と藤田さんは顔を見合わせた。
「何か聞いてますか?」
「いや。言ってなかったな」と藤田さんは言い、花梨ちゃんに聞いた。「花梨ちゃん、いつも、お薬飲むの?」
 花梨ちゃんがちょっと首をひねった。
「いつもじゃない」
「そのお薬、どこにあるかわかる?」
 花梨ちゃんはふるふると首を振った。
「探してみましょう」と私は言った。
 花梨ちゃんにはまたテレビを見せて、私と藤田さんは手分けして薬を探した。
 リビングに薬箱はあったが、入っていたのは大人用の市販薬ばかりだった。藤田さんがキッチンの周りを探し、私はその他を当てもなく探した。こんなところにはないだろうと思いながらも、洗面台の下の引き出しを開けてみる。中には洗剤の買い置きや詰め替え用のシャンプーが入っていた。その奥にあった紙袋の口を開いて、中を覗いたときだ。
「これじゃないですかね」という藤田さんの声がキッチンから上がった。
 私は返事ができなかった。
 藤田さんが近づいてくる気配がした。
「それらしきものがあったんですが、これでしょうか」
 藤田さんが洗面所にやってきた。手にはファスナー付きの透明の保存袋がある。中には折り畳んだ紙がいくつか入っていた。
「冷蔵庫の、野菜室の奥にありました。ただ、これ、いったい何の薬なのだか。漢方薬でしょうか」
 私は膝をついたまま、畳んだ紙の一つを藤田さんから受け取った。薄紙を開くと、中には白い粉末が入っている。
「どうかしましたか?」
 藤田さんが聞き、私は立ち上がって、場所を譲った。私がいたところに藤田さんがしゃがみ、洗面台の下の引き出しを覗く。
「これは……え?」
 洗剤の買い置きの後ろに隠すように置かれた茶色い紙袋の中には、同じ小瓶が五つ入っていた。その一つを藤田さんが手にする。
「風邪薬ですよね? 何でこんなに同じ瓶が……」
 私はリビングに戻った。花梨ちゃんはテレビでバラエティ番組を見ていた。
「花梨ちゃん。いつも飲んでるお薬って、これかな?」
 私が畳んだ紙を掲げると、花梨ちゃんが頷いた。口から出かかった質問は喉に押し込む。
「わかった。でも、今日はお薬、飲まなくていいよ。そのテレビ終わったら、歯磨き、しゃかしゃか。一人でできるかな?」
 当然、というように花梨ちゃんが頷く。
「えらい、えらい」と私は微笑んだ。
 本当は確認したかった。
 調子が悪いから、ママは花梨ちゃんにお薬飲ませてたんだよね? でも、花梨ちゃんの調子が本当に悪くなったのは、お薬を飲む前? それとも……飲んだあと?

 病室にはまだ先ほどまでの和やかな空気が残っていた。
「先生にまでお世話になったみたいで」
 ベッドで上半身を起こした有美さんが、ベッド脇の椅子に座る私に小さく頭を下げた。
「先生はやめましょう」と私は言った。「普通に名前で呼んでください」
 有美さんがちょっと首を傾げた。
「高階、さん?」
「ええ、それで」
「高階さんにまでお世話になったみたいで」と有美さんは冗談めかした口調で言い直した。
 さっきまで花梨ちゃんと藤田さんも病室にいた。しばらくしたら有美さんと二人にしてくれるよう、私は事前に藤田さんに頼んでいた。売店でアイスを買ってこよう。藤田さんが花梨ちゃんにかけた言葉を、有美さんも額面通りには受け取っていないだろう。
「昨日、夕飯におそばをご馳走になりました。そのあとで、飲んでいる薬があると花梨ちゃんが教えてくれて」
 手の内を隠すつもりはなかった。私は持ってきたトートバッグを引き寄せ、中からファスナー付きの保存袋を取り出した。
「これが花梨ちゃんに飲ませていた薬ですね? 中身は大人用に市販されている風邪薬。錠剤をすり潰したものです。瓶のラベルには、十二歳未満には飲ませないよう注意書きがありました。一回に服用させていたのは、成人が飲む三回分。副作用として考えられるのは下痢や眠気でしょう。お腹を壊したり、頭がぼーっとしたり」
 有美さんの視線が急速に温度をなくした。
「何の話でしょう? 私、わからないです」
 代理ミュンヒハウゼン症候群。池谷医師に話せば、そんな診断が下るだろう。周囲の関心や同情を引くために、病気を装ったり、自傷行為に走るのがミュンヒハウゼン症候群。自分自身ではなく、自分の代理者を傷つけるのが代理ミュンヒハウゼン症候群。
 有美さんは頑張ってきた。だから、それを認めてほしかった。そして、保育園の先生も、隣家の夫婦も、認めてくれた。『体の弱い』花梨ちゃんの世話を頑張ってしている、立派なお母さんだと。
 それがかろうじて有美さんの毎日を支えていたのだろう。夫は家庭を、妻を、顧みなかった。唯一、彼女を認めうる肉親であった実の父親は、認めるどころか見る気さえないと言わんばかりに遠くへ越してしまった。
 有美さんはいい母親だと周囲に認められることで、どうにか今の暮らしと折り合っていた。そんな中、夫が不倫相手に殺された。
 私は有美さんの左腕を見た。自殺未遂。そう聞いていた。私は当然、手首を切ったのだと思った。が、包帯が巻かれているのはもっと上。肘の近くだ。殺人事件被害者の遺族。そんな先入観から、自殺未遂だとみんな思い込んだ。けれど、今の私には、それは過剰な自傷行為に見える。かろうじて保たれていた彼女のバランスは、夫が殺されたことによって崩れた。満たされなくなった承認欲求は、より強い行動を彼女に促した。それで誰の関心を引きたかったのか。父親だろうか。現に彼女は意識が戻ったあと、父親に連絡を取るよう頼んでいる。あるいは私かもしれない。彼女は腕を切りつける寸前まで、私に連絡をするべきか悩んでいた。
 有美さんは冷たく張り詰めた目で私を見ていた。薬の入った保存袋をトートバッグにしまい直し、私はその視線に微笑みかけた。
「今日、実は池谷先生の許可をもらっていないんです」
 有美さんがわずかに怪訝そうな顔をした。
「聞いてませんか? 私が有美さんに会うには、本当は池谷先生の許可がいるんです。だから、私が邪魔になったら、池谷先生を呼ぶようナースに伝えてください。たぶん野良猫より手ひどくつまみ出されます」
 脇にあるナースコールを見た有美さんの表情が少しだけ和らいだ。その状況を想像したということもあるのだろうし、この場を終わらせる権限が自分にあると知ったこともあるのだろう。私は有美さんを責めるためにここにきたわけではない。仮にそんなことをすれば、すぐ有美さん自身に追い出される。少なくともそれは理解してくれたようだ。
「まずは謝らせてください」
 有美さんを緊張させないよう、なるべく穏やかな口調で私は言った。
「面談のとき、私は有美さんが自傷行為に走るとは思いませんでした。そこまで苦しんでいるようには、いえ、そういう苦しみ方をしているようには見えなかったんです。もっと注意深くあるべきでした。すみませんでした」
 私は深く頭を下げた。
「自傷行為?」と有美さんが呟いた。「ああ、これはやっぱり、自傷行為になるんですか」
 さすがに意外な言い分だった。私は頭を上げた。彼女が戸惑うように薄く笑って、自分の腕の包帯を見ていた。
「それは自傷行為ではないんですか?」
 有美さんが私を見た。しばらく私を観察したあと、また腕の包帯に目を移した。その視線が私の元に戻った。彼女の口が開きかけたときだ。ドアがノックされた。応答も待たずにドアが開き、池谷医師が顔を覗かせた。私の顔を認めると、彼の表情が強ばった。彼が言葉を発する前に、私は言った。
「面談中です。今はご遠慮ください」
 瞬時、面食らった池谷医師は、すぐにきつい口調で言い返してきた。
「面談を許可した覚えはありません。そちらこそ、お引き取りください」
 長いやり取りにしたくなかった。
「カウンセラーとして強く要請します。出ていってください」
「浜口さんは病気です。それは適切な投薬治療で治ります。けれど、病気から目を逸らし、小手先のカウンセリングで誤魔化そうとすれば、治るのにかえって時間がかかります。あなたの面談は、こちらには迷惑です」
 今の彼女は病気だ。そうなのかもしれない。それは治すべきだ。そうなのかもしれない。だとしても、今の彼女が間違った彼女であるわけではない。治すにしてもその前に、今の彼女の言葉を誰かが聞くべきだ。
「お願いします」と私は言った。「出ていってください。面談の邪魔です」
「邪魔って……」
 強ばった彼の表情が歪んだ。
「公認心理師の登録取り消しを要求しますよ」
「構いません。今はただ、出ていってください」
 私たちの視線がぶつかった。あなたがそうであるように、私もこの人のためにここにいる。それをわかってほしかった。私は何の役にも立たないかもしれない。それでも、ここから引くわけにはいかない。今、自分にできると信じることを、精一杯やるしかない。それはあなただって同じでしょう?
 時間と言葉を費やせば、説得できないことはないだろう。が、今はそんな暇はない。池谷医師が自分自身に費やしてきた時間と言葉に頼るしかなかった。彼は何を思って医師になり、医師としてどんな経験をしてきて、その経験から何を考えたのか。その時間と言葉とが私の今の思いとかみ合わなければ、私はここから追い出されるだろう。
 しばらく無言でにらみ合った。絡んだ視線を外したのは、彼のほうだった。くるりと私たちに背を向ける。ドアが乱暴に閉じられ、足音が不機嫌に遠ざかっていった。
 彼がどういうつもりで立ち去ったのかはわからなかった。思いが通じたのか、機嫌を損ねただけか。今は前者だと願うしかない。
 視線を戻すと、有美さんはまた自分の包帯を見ていた。
「やはり、病気なんですよね。私、おかしいんですよね」
「人は誰だっておかしいです。普通の人なんて、実のところ、どこにもいません」
 私が発した取るに足らない一般論は、彼女の胸には引っかからなかったようだ。さっきは何かを話そうとしたようにも見えたが、すでにその気配は有美さんから消えていた。
「その傷、自分で切ったのだから、自傷行為ではあるんですよね。でも、ただの自傷行為ではない、ということですか?」
 有美さんは答えなかった。もう私に視線を向けようともしなかった。
「切ったことには特別な理由があったということでしょうか?」
 重ねて問いかけたが、反応はなかった。
「私の名刺を持っていたと聞きました。私に何か話したいことがありましたか?」
 そう促してみても同じだった。有美さんはただ自分の腕に巻かれた包帯を見ている。彼女の作った沈黙が逆に彼女を閉じ込めているかのようだった。分厚く、固い沈黙だった。
 どうやったらそこから彼女を連れ出せるのだろう、と私は考えた。
 カウンセラーとして、と池谷医師には言ったが、私はもうただの傾聴者とは呼べない。その領域はずいぶん踏み越えてしまった。かといって、有美さんの友人になれたわけでもない。では、今、私は何者なのか。何者であれば、有美さんの言葉を聞けるのか。
 教科書的にはいわゆる「Iメッセージ」を発する場面なのだろう。あなたはこうするべきだとアドバイスをするような「You」を主語とする伝え方ではなく、自分の思いを、自分を主語にして伝える言葉は「Iメッセージ」と呼ばれる。私はあなたの言葉を聞きたいと思っている。あなたの言葉を聞けたら、私はうれしい。
 けれど、そんなメッセージではこの沈黙を通り抜けて有美さんに届く気がしなかった。
 有美さんは包帯から顔を上げて、自分の正面を見た。何もない。白い壁があるだけだ。その白い壁に彼女は、今、何を描いているのか。過去に見た思い入れのある情景か。ふと浮かんだ取り留めのない心象風景か。いずれにせよそれは、決して他者と分け合うことのない、彼女一人きりのものなのだろう。
 不意に私は気づいた。
 沈黙を破る必要などない。むしろこの沈黙を守ることが、今の私の仕事なのだ。
 私は有美さんから視線をずらし、窓の外を眺めた。中庭の向こうにある別の病棟が見えた。そのまま有美さんが作った沈黙の中に身を沈める。
 廊下を行き来する足音。ストレッチャーや医療用ワゴンのキャスターの音。抑えた話し声。無遠慮な笑い声。ナースコールの呼び出し。それに応える声。水面でさざめいていた雑多な音がふっと凪いだ。
「罰です」
 深い水底から水面にぽつりと浮かんで弾けたような呟きだった。私は有美さんに視線を戻した。
「罰、ですか?」
「ええ。罰です。私にはどんな罰がふさわしいのか。電話をして、高階さんに聞いてみようかとも思ったんです。高階さんの他に聞けそうな人が思い浮かばなくて」
 けれど、結局は誰にも聞かず、彼女は自分を罰したということか。それにしても……。
「それは何の罪に対する罰なんでしょう?」
「何の罪?」
「罰の前には罪がありますよね?」
「それはあの人が、広也が刺された罪です」
 おかしな言い方だった。刺した罪ならあるだろう。が、刺された罪とはどういうものか。
 ふと思いついて、聞いてみた。
「広也さんが刺されたことについて、有美さんに罪があるということですか?」
「そうです。その通りです」
 犯罪被害者やその遺族は、犯罪に巻き込まれたことについて、何ら非のない自分を往々にして責める。やりきれない思いで私は言った。
「広也さんを刺したのは清田梓です。有美さんではありません。清田梓が犯した犯罪のうち一パーセントだって有美さんに責任はありません。もちろん罪もありません」
 断言した私を有美さんは奇異なもののようにしばらく見つめた。やがてその視線が私の目から離れた。
「だいたい有美さんは、広也さんの不倫を知らなかったんですよね? 清田梓の存在すら有美さんは……」
 少し下に落とされていた有美さんの視線が私の目に戻った。
 ああ、と私は思った。
「知っていたんですか。広也さんの不倫のこと」
「はい。広也が話してくれました。事件の三日くらい前です。気の迷いで昔の彼女に手を出した。しつこくつきまとわれて困っているって。相手がエスカレートしてきていて、ひょっとしたら私や花梨に何かをしてくるかもしれないって」
「そうだったんですね」
「気をつけてくれって言われて、私、ものすごく腹が立ちました。あなたが何とかしてって、私、言い返したんです。私や花梨に何かをしてくるようなこと、絶対させないように、お願いねって。でも、何だか頼りなくて。広也は流される人なんです。簡単に流される人で、私と結婚するときだって、私の言うがままに結婚したような人で。優しくて、自分の気持ちを強く持てない人で。たぶん、その人との関係だって、そうだったんだと思います。でも、今回は、これだけはちゃんと頑張ってって、そう言いたくて、だから、私、ナイフを渡しました」
「ナイフ? 広也さんが刺された、あのナイフのことですか?」
「そうです。会社に持っていっている鞄に私が入れました。ここに入れておくから、その女が花梨や私に何かをしそうなら、あなたが私たちを守ってって」
「凶器のナイフは……あれは有美さんが渡したものだったんですね」
「ええ。私が母からもらったナイフです」
 母?
「それは、岩手のお母さんではないですよね」
「ああ。父から聞いたんですか?」
「有美さんの実の母親のことですね? 実刑判決を受けたという」
「最後まで反省はしなかったようです。身元引受人もいなくて、結局、刑を満期までつとめたそうです。出所後、私を捜し当てて、一度だけ会いにきました。六年前のことです。そのときの手土産です」
「手土産」
「私はもうじき結婚するっていうときでした。母は出所してから苦労したみたいです。ずいぶん惨めな恰好をしていました。後悔しているって母は言いました。あの女を殺せなかったこと、後悔しているって。でも何より後悔しているのは、あの人にやらせなかったことだって。あの女を刺すべきだったのは私ではなく、あの人だったって」
 そりゃあ、そうでしょう、あんた。
 久しぶりに会った母は、記憶にある母の面影を宿してはいなかった。見知らぬ醜い女が、彼女に言った。
 あいつの間違いなんだから、あいつが正せばよかったのさ。
 醜い女は、美しいナイフを一本、差し出した。
「何でナイフを?」
「母の母は、嫁入りのときに短刀を持っていったそうです。だからそれは……」
 結婚するって聞いたからね。あんたの嫁入り道具だよ。
「それは、私の唯一の嫁入り道具でした」
 頼りない夫をたしなめるために、有美さんはその嫁入り道具を渡した。夫なら、父なら、その女を、家庭を壊そうとする外敵を、追い払え。ましてやそれは自分で招いたものではないか。責任をもってどうにかしろ。そんな思いを込めて。いや、有美さんの生い立ちを知った今、それはもっと悲痛な叫びだったようにも思える。かつては、父も、母も守ってくれなかった。今、せめてあなたくらい、家庭を、私を守って。
 女が男を待ち伏せたのは、そんな状況下でだった。感情的になった女を前にして、男は持たされていたナイフを取り出した。いったい何をするつもりだったのか。本気で刺すつもりはなかっただろう。女を脅すつもりだったのか。自分自身を鼓舞するつもりだったのか。自分の覚悟を示すつもりだったのか。が、凶器を出されて、女は猛った。刺すなら刺しなさいよ、刺してみなさいよ。女が男に詰め寄る。男ともみ合いになったのなら、その痕跡が残るはずだ。女に詰め寄られて、男はなすすべなくナイフを手から離した。落ちたナイフを女は拾い上げた。もしくは男からあっさりとナイフを取り上げた。そのときにはもう女にもわかっていたのだろう。自分と男との先に未来などないことを。
「有美さんが渡したナイフで広也さんが殺されたのだとしても、その罪は犯人が背負うべきものです。有美さんの罪ではないです」
「でも、刺されたときに広也が感じた痛みは、私の罪です。あれは私のナイフですから」
『痛い、痛いって思いながら死んだんですかね』
『ぐにゅって刃が入るようなものは、ダメです。切れなくなりました』
 そうだった。有美さんが終始気にしていたのは、広也さんが死んだことではなく、広也さんが刺されたことだった。
 その罰として、有美さんは……。
「だから、刺したんですね。罰として、自分の腕を」
 誰かの気を引きたかったわけではなかった。彼女は、深夜のキッチンで、一人、静かに自分を罰したのだ。気を失うほどの痛みが、自分に与えた罰だった。
「刺してみてわかりました」
「わかった。何をですか?」
「刺されたとき、私と結婚したこと、広也はすごく後悔しただろうって。あんな女と結婚しなければ、こんな痛い目に遭わずにすんだのにって思ったはずです。私、腕に刃を押し込みながら、広也に何度も謝りました。ごめんねって。ごめんね、痛かったよねって」
 有美さんは右手で左腕の包帯を覆った。たぶん本当に覆いたかったのは、広也さんの胸の傷なのだろう。
 もしも父親が不倫をしなければ。もしも母親が不倫相手を刺さなければ。もしも多感な時期を父親と不倫相手との家庭ですごさなければ。そうだとしたら、広也さんに不倫を告白されたとき、有美さんは違う形でその問題と向き合ったのかもしれない。そしてそうだとしたら、広也さんが刺されることはなかった。けれど誰も『もしもの自分』になれたりはしない。そこにいるのはいつだって、『もしもじゃない自分』だけだ。
「もう有美さんは罰を受けました」
 自分が今の自分であることの罰を彼女は下した。
「これで終わりにするべきです」
 有美さんが私を見た。
「私はそう思います」と私は頷いた。
 顔を伏せた有美さんの肩が震え始めた。小さな嗚咽は、少しずつ大きくなっていった。私はその様子をただ見守っていた。こんなにも簡単な言葉が有美さんの心にこんなにも響いた。ひょっとしたらそれは、有美さんが初めて聞いた赦しの言葉だったのかもしれない。私は人に赦しを与えられるような人間ではない。それでも私の言葉がそう響いたのなら、今はそれでよかった。
 有美さんが泣き止むまでにはしばらくの時間が必要だった。大きくなったときと同じように少しずつ嗚咽を収めていった有美さんは、やがて涙を拭って、私を見た。
「これから……どうしたらいいでしょう?」
「近いうちに検察から話を聞かれるはずです。今の話をするかどうか、決めておいたほうがいいです」
 有美さんが意外そうに私を見た。
「しないのも、ありなんですか?」
「もちろん、ありです」
 彼女がそうするなら私も誰にも言うつもりはない。仲上にも話すつもりはなかった。
 有美さんはしばらく考え、聞いた。
「犯人は何で言わなかったんでしょう? ナイフのこと」
「認めたくなかったんでしょう。広也さんが自分にナイフを向けたことを。あるいは、人には知られたくなかったのか」
 だから最初は自分のものだということにした。それでは犯行に計画性が認められて刑罰が重くなると知り、それでも広也さんが持ち出したものだと認めることはできなかった。それであんな奇妙な供述を始めたのだろう。
「だったら、それ、認めさせたいです」
「そうですか」と私は頷いた。
「あのナイフは広也がその女に向けたもの。家庭を守るために、広也はその人にナイフを向けた。みんなの前で、それを認めさせてやりたい」
「刑期はたぶん、短くなりますよ。正当防衛とまでは言えないでしょうけれど」
「それでも、広也がそのとき、どんな風にナイフを手にしたのか、裁判で明らかになりますよね? 私は知るべきだと思うんです。そこには必ず私たちへの、私と花梨への思いがあったはずですから」
「そうですか」と言って、私は頷いた。「そうですね」
「他に私がやるべきことは?」と有美さんが聞いた。
「花梨ちゃんに関してはしばらく児相の支援があると思います」
 有美さんの表情が沈んだ。
「母親の資格、ないですもんね。私、花梨に……」
 確かに、ひどいことをした。が、今朝方、時間をかけて花梨ちゃんから聞き取ったところによれば、有美さんが花梨ちゃんに薬を与えた回数は数えるほどでしかない。むしろ、お腹の調子が悪いんじゃないか、頭はどうか、としつこく聞くことで、花梨ちゃんに暗示をかけてしまっていたような節がある。無論、それも含めて許される行為ではないが、今後の母子の生活を一概に否定するほどでもないだろう。どこにどんな報告を入れ、誰にどう動いてもらうか、ずいぶん頭を悩ませたが、教え子をはじめとする教授のコネクションを使えばどうにかできそうだった。
 誤解なく伝わるよう私はゆっくりと有美さんに言った。
「心配しないでいいです。花梨ちゃんを取り上げられるようなことはありません。母親として、きちんと花梨ちゃんと向き合うためのリハビリのようなものだと思ってください。花梨ちゃんの母親は有美さんしかいません」
「それでいいんでしょうか。私、また花梨に……」
「そうならないために、有美さん自身のカウンセリングも継続しましょう」
 じっくりと考えるような間を置いてから、有美さんが頷いた。
「わかりました。また、よろしくお願いします」
「ああ、いいえ。私は、もう有美さんを担当できません」
 有美さんが傷ついたような顔をした。が、これは譲れない。今回、私は有美さんに対して、適切な距離を守れなかった。有美さんというクライエントに、カウンセラーとして向き合うことは、もうできない。
 私は有美さんにそのことを説明した。理解できたかどうかは別として、そうせざるをえないことはわかってくれたようだ。
「私が未熟だったせいで、ご迷惑をかけてしまいました」と私は頭を下げた。
 有美さんはゆっくりと首を横に振った。
「高階さんでなかったら、私、こんな話、できなかったと思います。たった二回、会っただけの人に、ここまで話したこと、自分でもびっくりしてます。高階さんは優秀なカウンセラーです」
 それは違う。
 私が優秀なカウンセラーだったら、今、彼女の腕に包帯はない。カウンセラーとしてではなく、私個人が持っている属性が彼女の中の何かと共鳴したのだ。罪悪感とも少し違う。この世界に自分がいることについて抱く、どうしようもない違和感のようなもの。いや、だったらそれはやはり、罪悪感なのだろうか。
 ふとそのことについて、彼女に話してみたい誘惑にかられた。
『私の父は、人を殺したんです』
 そう切り出したら、彼女は何と応じるだろう。
 もちろん、そんなことはできなかった。未熟で役立たずだったけれど、最後くらいはカウンセラーとして彼女の前を去りたかった。
「別のカウンセラーを派遣するよう、県警に伝えます。ここの池谷先生と協力して、有美さんのケアに当たることになると思います」
「わかりました」
「それでは」
「ありがとうございました」
 最後に小さく笑みを交わして、私は有美さんの病室を出た。少し離れたところで、花梨ちゃんと藤田さんが長椅子に座っていた。
「お待たせしました。話、終わりました」
 二人が立ち上がった。レジ袋を手にした花梨ちゃんが「溶けちゃうよ」と言いながら病室に向かって駆け出す。その背を見送り、藤田さんは私に視線を向けた。
「有美は大丈夫でしょうか?」
「ええ、もちろんですよ」と私は頷いた。
 ……大丈夫って、何?
「藤田さんと花梨ちゃんがいれば、有美さんは大丈夫です」
「でも、私は……私は何から始めたらいいかもわからないんです」
「唐揚げが好物だそうです」
「え?」
「花梨ちゃんです。作ってあげたら、喜ぶと思います。まずはそんなところから」
「そうですか」と藤田さんは頷き、やがて微笑んだ。「そうですね。そうしてみます。ありがとうございました」
 一礼した藤田さんに礼を返し、私は歩き出した。
 人の心を氷山にたとえたのはフロイトだ。心は氷山のようなもの、その七分の一を水面の上に出して漂う、と。人の心の七分の六は他人にはおろか、自分にすら見えない。他者とわかり合えた。そう思ったところで、それは七分の一だけのこと。私たちはいつだって得体の知れない七分の六を抱えて生きている。それでも「大丈夫」と偽りながら、日々をすごしていくしかない。
 病院の外に出た。今晩は贅沢な夕食を作ろう。ふとそう思い立った。そんなことだけで楽しくなっている自分がおかしかった。大学に戻るために駅へと歩きながら、どんなメニューがいいか、私は思いを巡らせた。
(「二つ目の傷痕」終)
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