なにかが、近づいてくる。それが敵だというのはわかっているので、なにか、などと考えるのはやめよう、とダイルは思った。
問題は、どれほどの敵が、どういうかたちで攻めこんでくるか、ということだ。
三つの砦は、すでに戦闘態勢をとっている。考え得るかぎりの防備は、整えたのだ。
それぞれの砦に、七百近い守兵がいる。
鎮海城の武器倉に、厖大な量の弓矢があった。直接攻められることになったら、チンカイは闘うつもりだ。以前は、人を守るために逃げると言っていたが、人も城も守るという考え方に変ったようだ。
鳩を放ってスブタイに危急を知らせたのは、三日前だった。そろそろ、陽山寨に到着している鳩もいるだろう。すぐに援軍が出せるかどうかは、知りようもない。即座にスブタイが援軍を組織して進発させれば、五日で到着する。ダイルは、五日間はここを守り抜いて、鎮海城に敵をむかわせないつもりだった。
ぎりぎりの事態だった。不測のなにかが起きれば、それで潰える。たとえ小さなことでも、潰える。
一千騎で来ていたスブタイの部下が、三日前に鳩を放ったのは、いい判断だった。これも、ぎりぎりであろう。ダイルは早すぎると思ったが、こういう時の判断が、自分はいつも甘い。
しかし、スブタイは援軍を出せるのか。数カ月前から、雪を衝いて西夏軍が不気味に動いているようだ。
金軍も、騎馬隊を整え、歩兵も集めはじめている。連合しているわけではなくても、それぞれの動きを細かく見つめ、自分の動きを決めているのかもしれない。
西の部族と西遼の動きは、それを見ていたと考えると頷ける。
つまり、どこも手一杯なのだ。
最も東にいるカサルの軍には余裕があるが、会寧府に数万の金軍が集結している、という情報もある。もしそうなら、大興安嶺の山なみを越えて、いつでもモンゴル領に侵攻してくるということで、カサルも手一杯になる。
ダイルは、それ以上、援軍について考えるのをやめた。とにかく、五日だ。
三つ並んだ、真中の砦にダイルはいる。騎馬隊の一千は離れていて、攻撃が厳しいところの敵を、崩すことになっていた。
「見事な防御ですな、ダイル殿」
ヤクの声だった。
「私でさえ、教えられていなかったら、かかったかもしれませんよ」
砦のまわりには、思いつくかぎりの罠が仕掛けてあり、外へ通じる道が、二本作ってあるだけだ。
罠にかかったとして、最も大きなもので十数名、小さなもので一名、殺せるぐらいだろう。全体から見ると、わずかな数だ。
砦をかためるだけかためてしまうと、あとはやることがなく、周囲に罠を作った。部下と一緒に智恵を出し合ったが、高が知れていた。
戦としての罠は、埋伏とか奇襲とか、そういうものを言う。もともと軍人ではないダイルには、知識も経験もなかった。
「陽山寨のスブタイへの連絡が、鳩とはな。俺たちは、ずいぶんと通信網を作ってきたつもりだったが、それ以上に、領土は広くなっていたのだな」
「鎮海城が、おかしな位置にあるのですよ、ダイル殿。謙謙州をやがてとりこむことを考えれば、絶好の場所ではあるのですが」
「おまえも俺も、歳をとった。通信の拠点をもっと作ろう、という根気もなくなった」
「私はともかく、ダイル殿は忙しすぎましたね。逃げるようにして、この地へ来られた」
「実際、逃げてきたのさ」
「ならば、虎の毛皮の上で酒でも飲んでいればいいものを」
虎の毛皮は、ダイルのわずかな贅沢のひとつだった。片手の指で数えられるほどしか、贅沢はしていないが、それでも気後れはあった。
「狗眼は、もう若い者の時代だろう。おまえが頭領を退こうとしないから、力を出しきれていないのではないか」
「そうかもしれませんね。しかし、私は退きませんよ」
「なぜだ。なにが、おまえをそうさせる?」
「面白いのですよ」
「戦がか」
「いや、チンギス・カンという人が。近すぎて、ダイル殿は気づいていないのです。あなたも、私と同じはずです」
チンギス・カンが面白い。そんなことが考えられるのか。テムジンのころは、どこまで大きくなるのか、面白がっているところがあったかもしれない。それも、若いテムジンのころだ。
いまは、測りきれない。気づくと、心の中にいる。それはすさまじいことだ。そばにいるのではなく、心の中にいるのだ。
(『チンギス紀 十二 不羈』「風を見る 二」より一部掲載)