誘っている。
五日ぶつかり続けて、スブタイはほとんど確信した。
チンギス・カンに、アラーウッディーンを追って、討ち取れと命じられた。
カラ・クム砂漠の戦で、戦場を離脱したアラーウッディーンを、チンギス・カンが追い、スブタイも追った。追いつき、討ち取れる位置だと思った。
しかしチンギス・カンは涸川を前にして動かず、スブタイも戦闘の構えだけとった。
アラーウッディーンは、わずか五千騎ほどだが、駈け去っていった。
涸川から、五、六万の軍が姿を現わし、ぶつかる構えをとってきた。スブタイは、チンギス・カンが出るなら、自分が出ようと思った。埋伏の五、六万にはただならぬ闘気があり、それがチンギス・カンを止めた。気軽にぶつかっていい相手だと、思わなかったのだろう。
スブタイも、出合い頭にぶつかっていい相手とは感じなかった。
もともとウルゲンチにいた、トルケンという太后の軍だったようだ。
不仲と噂されている母と子が、強烈な罠を仕掛けていた、ということだった。
数日遅れで、二軍が追ってきた。ジェベとバラ・チェルビである。
ホラズム軍は、潰走しながらも、数日で再集結し、いまアラーウッディーンの指揮下に五万騎ほどがいた。
それを三万騎で、粉砕しようとしていた。
しかしアラーウッディーンは狡猾な動きを見せ、たえず軍を二つに分け、挟撃をかけようとしてくる。それをかわすと、軍を退げ、守りの構えに入る。
そうやって、砂漠を十日ほど移動した。
無理にぶつからなかったのは、どこかに埋伏の気配があったからだ。トルケン太后の軍が、どこへ消えたかはわからなかった。
ウルゲンチで、チャガタイの軍を罠にかけ、かなりの犠牲を出させたのと同じ軍なのかどうかも、わからない。
敵地の、奥深くだった。砂漠にどれほどの軍が散っているのかわからず、ホラズム軍全体が、
どれほどの規模なのかも、見えなくなっていた。
寿海の西の地域、さらに大海の北や南や西の諸国の兵も、参戦している気配はある。
西の地方がどれほど拡がっていて、どれほどの人々がいるのかは、商人などの情報で、ある程度はわかっていた。
チンギス・カンが、寿海よりさらに西、そして大海のむこう側まで行こうとしているのかどうか、スブタイには正確に読めなかった。どこまでも進攻するというようなことは、考えないだろう。慎重に、どこまで行けるか見きわめ、その手配を怠っていない。場合によっては、ホラズム軍より兵站が充実していることさえあるのだ。
武器の損耗など、闘えば闘うほど大きくなるものだが、数十名の鍛冶の者たちがいて、いつでも修繕はできる。新しく作ることもできる。
ホラズムへの使節団が、オトラルで惨殺された。そこから、モンゴル軍の進攻は開始されたのだ。否応なく、戦に誘いこまれた、と見ていた幕僚たちが多かった。四人の息子たちは、トルイを除いて、強硬な主戦派だった。
チンギス・カンが、それらをどう見ていたのか、わからない。主戦派をたしなめることはせず、自ら闘いの意思を示すこともなかった。
わかっていて誘いこまれた、とスブタイは進攻が決定した時に思った。その考えは、いまも変らない。
全軍でのぶつかり合いの終りに、アラーウッディーンを追って討てと、チンギス・カンはスブタイに命じた。
(『チンギス紀 十六 蒼氓』「烈火にて 一」より一部掲載)