地を這うようにして、近づいてくる。
ほとんど気配は発していないし、闇はその姿も吞みこんでいるように思えた。
それでも人は息をするし、姿を完全に消すこともできない。
テムゲは、胸から腹のあたりまで、地に埋めるようにして、草原に伏せていた。草は、硬い茎だけを、地表にちょっと出している。あとは、羊が食い尽したのだ。
戦のぶつかり合いを避けて、遊牧民は遠くにいるように見えるが、実は敵の十里以内には、食えそうな動物など一匹もいないのだ。
戦場が動き、敵の位置が変っても、同じことだ。
七万の軍の陣というのは、いまのテムゲの感覚から言うと、とてつもなく広い。ほとんど限りがない、と思えるほどだ。その陣の外側に、大きく囲むように位置しようというのは、正気の沙汰ではなかった。
しかし、テムゲはそれを命じた。
ジョチは、啞然としていた。四千騎を率いる戦が、食われて短くなった草になるような、それこそ想像もできないことだったのだろう。
それでも、不平は吐かなかった。軍は命令がすべてであるということは、ジョチが幼いころからその身に叩きこんできた。兵は知らず、将軍や上級将校という連中は、テムジンの長男だからと、手を緩める者などいなかった。むしろ、テムジンの長男であるというだけで、同じ歳ごろの者たちより、ずっとつらい思いをしてきたはずだ。
それが土にまみれ、岩に張りつき、二日も三日も動かない、というような闘いだったのだ。
ひと月ほど経つと、ジョチの表情は明らかに最初と違ってきた。頰が削げ、眼が飛び出したように見える、というだけではなかった。荒涼とした心が、表情に出てきてしまっているのかもしれない。
同じ日々の繰り返しで、もう三月以上が過ぎた。
その間、カサルの率いる本隊一万七千騎は、衝突を続けていたが、機敏に動き、敵に追われながらも、犠牲は最少に留めていた。
テムゲとジョチの隊は、昼寝をしているタルバガンを追い、夜になると動き回る野鼠を素手で捕まえるようなことばかり、してきたのだ。
時には、這ったまま三日も移動を続けることもある。
今夜のようなことは、まだ数度しか起きていなかった。
敵の兵站部隊が、およそ三千ほど移動していた。それも、馬でも輜重でもなく、ひとりひとりが兵糧の袋を担いでいるのである。
五名、二十隊という数で放っている斥候から、そういう報告が入ったのは四日前だった。
テムゲはすぐに、六百の迎撃隊を編制した。
それだけ集めるのも至難だった。たまたま、近くにジョチが率いる二百がいたのだ。
テムゲの隊もジョチの隊も、馬を降りていた。馬を降りることを決めた時だけ、ジョチは異議を出した。兵たちが見ている前で、テムゲはジョチを打ちすえた。
「あと二里で、敵はこの前を通ります。距離およそ半里。きわどいところです」
斥候隊を五つ指揮している将校が、這ってきて自分で報告した。
馬はすべて離れた場所で、ハドの牧の者たちが管理している。
伝令用に、騎乗の兵を五十ほど残しているが、それは常に敵の斥候隊と遭遇し、討たれる危険に晒されていた。草原の中では、馬はよく見える。地を這うしか、テムゲは自分の闘い方を見つけられなかった。
「一刻というところか」
「一刻以内に、通過します。ここへ来て、敵も歩速を上げています」
長い道のりを、兵糧を担いで歩いてきた。ようやく、味方に届けられる、というところまで来たのだ。歩速は、上げたのではなく上がったのだろう。
ほんとうに、一刻も経たないうちに、敵の影が通過しはじめた。
部下の四百は、息を殺している。三千の兵站部隊は、昼間は岩の間などにじっとしていて、夜だけ動いていた。だから、四日前まで発見できなかった。
ジョチの百人隊二つが、勝敗を左右しそうだった。自分の隊の四百だけなら、かなりの部分を、通してしまうかもしれなかった。
テムゲはジョチに、この先の岩山で待て、と命じた。敵の陣がずいぶんと近くになるので、三日前の夜、ジョチは岩山に這い登り、そこで岩と同じように静止している。
敵が、目前を通っていく。
どこを襲撃の契機にするかは、ジョチが決める。できるなら、岩山の真下に来て、テムゲの前は三千名すべてが通りすぎているのが望ましい。
その機が摑めるかどうかは、運でもなんでもなく、ジョチの軍人としての資質だった。それを試すべき時がいまだと言っても、兄二人は反対しないだろう。困難なところでこそ、それは試す価値のあるものになる。
そばにいた将校が、あるかなきかほどの、息を吐く音をさせた。敵が通りすぎてしまっていた。
テムゲは、なぜかそれほど緊迫したものには襲われず、落ち着いて闇を見ていた。
ジョチの軍人としての資質を、信じていた。いや、違う。テムジンという兄を、すべてのことで信じていた。
(『チンギス紀 九 日輪』「蒼氓を離れて 二」より一部掲載)