訳者あとがきより

「ここにある昆虫観察の記録は、観察者自身をも主人公とする、長期にわたる人間観察の記録でもある」――奥本大三郎

本書は、G.-V. Legros., La vie de J.-H. Fabre, Naturaliste: suivie du Répertoire général analytique des Souvenirs entomologiques(Delagrave, Paris, 1924)の全訳である。底本としてこれを用い、部分的にはSCIENCES NAT版(Paris, 1996)も参照した。
 著者のルグロは、フランス中部クルーズ県オービュッソンの出身で、パリの名門高等中学校リセ=ルイ=ル=グラン、パリ大学医学部を出た外科医師である。俗っぽい言い方をすれば、昔の日本で一高、東大を出たようなエリートということになる。そのエリートが、貧困と階級差に生涯苦しんだ南仏ルーエルグ出身の、ファーブルの伝記を書いたのである。
 しかもルグロは、特に昆虫に興味があったわけでも、プロヴァンスの民俗や文芸復興運動に加わったわけでもない。ただただ、ファーブルの著作を読んで感動し、直接会って彼の人物に尊敬の念を覚えた。そして、ファーブルの、いわば押しかけ弟子となった人である。
 彼は、『昆虫記』の著者が、晩年を迎えて、不当にも理解されず、あたかも貴い碑(いしぶみ)が苔(こけ)むし、人に読まれぬまま忘れられそうになっていること、それどころか、一時窮乏生活に陥っていたことを憂慮し、というよりは一種の義憤を感じて、その顕彰のために全力を尽くした。
 ルグロは、のちには国会議員になったが、ファーブルの「荒地(アルマス)」がパリの国立自然史博物館の分館となって保存されているのは、彼の尽力のおかげであると言えよう。
 また、書簡などの資料が散逸しないうちに、そしてファーブルゆかりの人々が生きているうちに、綿密な調査によって、その生涯の記録をこのような形でまとめたのは、彼の大きな功績である。
 もっとも、『昆虫記』の中には、すでに著者自身の筆によって自伝風の物語が巧みに織り交ぜられており、それが実はこの十巻の書物に永遠の命を与えているのであって、これがもし単なる観察記録だったら、今はもう専門家以外の人には用のない、データの古い参考文献ということになっているであろう。
 しかし、ファーブルの著作は、その面白さ、読みやすさのゆえに、「なに、あれはエッセイですからね」と一部の学者に軽んじられてもいる。文学と自然科学の幸福な調和などという博物学の理想は、世界文明が急速の進歩をとげるというよりは、終末に向かって秒読み態勢に入っているかのような現代においては、どこにも居場所の見出せない、たわごとのごときものであるのかもしれない。 『昆虫記』という日本語の題名は、大杉栄によるもので、簡潔な、優れたものであるが、『昆虫学的回想録』(Souvenirs entomologiques スーヴニール・アントロモジック)という原題は、長ったらしいし、しかもentomologique(昆虫学的)などという言葉は普通のフランス人には見慣れないものである。だから最初のうち、この本は売れ行きが悪かったようである。しかし、この書名は、その実まことによく本の内容を表していると思わざるを得ない。なぜなら、ここにある昆虫観察の記録は、観察者自身をも主人公とする、長期にわたる人間観察の記録でもあるからである。ハチとその獲物の行動を観察しているファーブルの精神は、ときおり肉体から遊離して、観察している自分自身を観察しているかのようである。そして、その記述こそが、心理小説の天才プルーストや、あの血の通った哲学者ベルクソンの興味を惹いたのであろう。
 一九一〇年四月三日、南仏オランジュ近郊の小さな村、セリニャンのカフェの広間で祝宴が開かれた。それは村はずれに隠棲する博物学者、ジャン=アンリ・ファーブルの功績を称える会で、主唱者は、のちに本書を書いたルグロであった。
 ルグロは、作家であり、詩人でもあるエドモン・ロスタン、メーテルリンク、ロマン・ロランらに呼びかけて、この式典を企画し、執り行ったのだが、四月三日の式に実際に出席した人の数は多くはなかった。セリニャンは何と言っても辺鄙な村であったし、ファーブル自身が学者としてまだあまり認められていなかったからである。しかもその同じ時期に、あのモナコ公国で、巨費を投じて豪勢な海洋博物館開館の式典が開かれ、名のある学者たちはそちらの方に招待されていた、ということもあった。

一九一〇年のその会から数えて七十五年後、一九八五年の五月に、パリ、次いでアヴィニョンでファーブル記念の学会と式典が開かれた。
 そのために尽力したのは、パリの国立自然史博物館教授でハサミムシが専門のコーサネル教授、スカラベなど甲虫のイヴ・キャンブフォール教授、セミのベルナルディ教授、多肉植物のイヴ・ドゥランジュ助教授らであった。この時を機に、筆者は、ファーブルを大切に思うパリの学者らと知り合うことができた。南仏セリニャンのファーブル記念館館長ピエール・テオッキさんとはすでに親しかった。セリニャン村の広場では、若者たちが民族衣装を着て伝統音楽を奏で、ドーデの風車小屋だよりの時代のように、輪になって踊ってくれた。
 本書の翻訳、注釈に関しては、集英社クリエイティブ翻訳書編集部の仲新氏に、大いにお世話になりました。付記して感謝の意を表します。本書はまた『完訳 ファーブル昆虫記』(全10巻20冊、集英社刊)の仕事と切り離せないものでもあり、その時のスタッフの皆様にも、ここで深く感謝いたします。

                       二〇二一年五月吉日   ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」にて