第二章 特ダネで世界を出し抜く

田舎者と猫背の男

 誰もが予想するとおり、西四十三番ストリート二二九の〈ニューヨーク・タイムズ〉本社は素晴らしい建物だ。タイムズスクエアはその名前を、かつては街で二番目に高かった、近隣にあるこの新聞社の旧社屋から取った。新しい社屋は、権力と威厳を見せつけていた。それは石灰岩とテラコッタの“お城のような”建造物で、十一階建てを誇る。〈ニューヨーク・タイムズ〉が発展し続けるにつれて、新聞のオーナーたちは階や翼棟を建て増し、とうとう〈ニューヨーク・タイムズ〉は“世界一の完璧な新聞社”だと宣言した。
〈ニューヨーク・タイムズ〉の本社と通りを隔てた場所に、まったくちがう仕事をする出版社があった。〈ニューヨーカー〉誌の本社だ。近隣の大手出版社とはちがい、〈ニューヨーカー〉のオフィス――西四十三番ストリート二五の建物のうちの数階――は、誰が見てもお粗末なものだった。

「社員たちは、不潔なことに一種のプライドを感じていた」と、古くからの〈ニューヨーカー〉の寄稿者は言った。「あの雑誌は、オフィスを美しくする余裕がないとわかったら、逆にできる限り汚くすると決めたらしい」ときどき天井から漆喰が落ちた。壁のペンキが渦状に剥がれていた。作家や編集者は、中央廊下に沿って並んでいる“荒涼としたペンキの剥がれた小さな独房”のような部屋で働いていた。

 

 エレベーター・ロビーには、煙草の吸いさしと丸めた断わり状が詰めこまれた真鍮製の灰皿があった。多くの作家や芸術家が〈ニューヨーカー〉の寄稿者になりたいと望んだが、なかなか採用されなかった。才能と、ある種の賢明さが、ここでは必要不可欠だった。この雑誌は、万人に読まれるものを目指してはいなかった。〈ニューヨーカー〉の創設者であり編集者のハロルド・ロスは、読者数が三十万人を超えたときにはパニックを起こしただろう(「読者が多すぎる」と、ロスは言ったことがあった。「何か間違いを犯しているにちがいない」)。最初から彼は、この雑誌――もともとはユーモア雑誌として創刊された――は都会の教養人だけに向けたものだと公言していた。一九二五年にロスが言ったように、“ドゥビュークの老婦人”の田舎の感覚は、入念に避けられた。

 

〈タイム〉誌とヘンリー・ルースから自由になって、ハーシーはどの出版物にも書くことができた。
彼は〈ニューヨーカー〉を望み、幸運なことに〈ニューヨーカー〉も彼を望んだ。ハーシーはルースが、宣教師の子どもである後継者が〈ニューヨーカー〉に鞍替がえしたと知ったら怒るだろうと承知していた。〈タイム〉社の社長とハロルド・ロスは、お互いに嫌い合っていた。ルースの愛国的な方針はロスの反感を買い、ルースのところの編集者が記者に求める“タイム風の文体”もまた同様だった。その文体は大げさでわざとらしく、頻繁に前に戻って読ませる風変わりな文章を用いると、ハーシーも認めた。機知に富む〈ニューヨーカー〉にとって、ルースも〈タイム〉風の文体も、ロスや仲間の作家たちが得意とする風刺の格好のターゲットだった(“頭が混乱するまで文章を遡って読み直させる”と、ニューヨーカー〉のある寄稿者は〈タイム〉のパロディー記事の中で書いた。“最終的にどうなるのかは、神のみぞ知る!”)。

 

 じつはハーシーは、まだルースから報酬を受けていた一年前に、〈ニューヨーカー〉に初めての記事を載せていた。ジョン・フィッツジェラルド・ケネディという名前の若い海軍中尉の紹介記事と、彼の快速哨戒魚雷艇が日本の駆逐艦に襲撃されて真っ二つにされ、部下が二人殺されたという、ソロモン諸島での体験についての記事だ。艇長であったケネディは乗組員救出の陣頭指揮を執り、自ら負傷者たちを近くの人気(ひとけ)のない島へ運んだ。

 

 ケネディはたまたま、ハーシーの妻であるフランシス・アンの元恋人で、二人は恋愛関係を解消したあとも友人どうしだった。一九四四年二月のある夜、ハーシー夫妻とケネディはマンハッタンのおしゃれなナイトクラブで会い、そこでケネディは自分の体験談を話した。ハーシーはすぐさまケネディに、彼の体験を記事にしたいと伝えた(“彼は[前]駐英大使の[ジョセフ・]ケネディの息子で、そういう意味で報道価値のある人物だった” ハーシーはのちに回想し、そのうえでつけたした。“ケネディという名前があろうとなかろうと、それが良い記事になるとわかっていた ”)。五年間の従軍記者としての経験を経て、ハーシーは極限状態での生存と人間の強さに魅了され、記事を書いてきた。彼はまずケネディの紹介記事を、やはりルースの刊行物である〈ライフ〉誌の編集者に持ちこんだ。驚くことに、そこでは断わられた。

 

 これはルース側のチームにとって、とても残念な判断だったことになる。これをきっかけにハーシーは、新たな版元とつながるからだ。彼はこの記事をほかに売りこむ許可を受け、〈ニューヨーカー〉でハロルド・ロスの下で副編集長をしていたウィリアム・ショーンに見せた。ショーンはすぐさまこの好機に飛びついた。じつのところ、彼は二年間も、ハーシーから記事をもらおうとしていたのだ。ロスはケネディの父親、ジョセフ・ケネディにすぐに報告し、ようやく一つ記事を入手した満足感を噛みしめた。

 

〈ニューヨーカー〉はこのとき、最小限の戦時の社員がいるだけだった。多くの作家や芸術家や雑誌の編集者たちは、戦地に派遣されたり入隊したりしていた。ロスとショーンは週に六日も七日も働いて、雑誌に掲載するあらゆるノンフィクションの記事に目を配った(ロスはある作家に、首まで熱湯に浸かっているようだとこぼした)。これはハーシーにとって、業界内でもっとも興味深い“おかしな二人”とともに働く初めての機会だった。特にロスのほうが彼の興味を引き、面白がらせた。「彼は田舎者のような大きな口をして、顔の肌理は月面のようにがさがさで、大きな頭に生えている髪を五センチぐらいに刈りこんでいるので、髪はあっちこっちに立っている」と、ハーシーはのちに言った。“洗練された都会的な雑誌の編集者――夜遅く、たいていストーク・クラブの上席に案内され、それから街で一番おしゃれなナイトクラブへと流れる――が垢抜けない田舎者のような外見をしている”のが、ハーシーにはすてきな皮肉に見えた。

 

 ロスは悪態をつく才能のある、無茶な性格の持ち主だった。打ち合わせ中に編み棒をポインター代わりに振り回し、そのあげくに“けっこうだ……神のご加護を”というぶっきらぼうな一言とともに、手を振って作家を打ち合わせ室から追い出した。しばしば、作家の原稿の余白に何十もの質問や編集事項を書き入れた(ロスによる校閲は、“敵に刺し殺される”ような経験だったと、ある〈ニューヨーカー〉の記者は回想した)。ハーシーがケネディの記事をこの〈ニューヨーカー〉の編集者に提出したさい、彼の草稿は、余白にロスによる五十もの直しの指摘が書きこまれたうえで返された。

 

「質問を喚き立てられているようだった」と、ハーシーは回想して言った。「ケネディの体験記の最後のほうで、彼が地元民に遭遇してココナッツをもらい、そこに“メッセージを書いた”としていた。“いったい何で書いたんだ?”と、ロスのメモがあった。“血か?”」

 

 いっぽうウィリアム・ショーンは、まったく地味で内向的な人物だった。「わたしはそこにいるが、そこにいない」彼は〈ニューヨーカー〉の作家であり自分の愛人でもあった、リリアン・ロスに言った。彼はとても小さくて、小妖精(エルフ)のようだといわれることもあった。アメリカ政府がショーンを戦地に派遣しようとしたとき、ロスはホワイトハウスの役人にこの副編集長を“三十七歳で、扁平足で、猫背で、薬をたくさんのみ、タイプライターの前に座っている以外の仕事はまったくできない”と形容して、この動きをかわした。

 ショーンの態度は神聖でさえあったようだ。「彼は逆説的な意味で非常にカリスマ性があった」と、ある〈ニューヨーカー〉の編集者は回想した。「彼はきわめて恥ずかしがり屋で、きわめて恭しく、それでいてものすごい力を持っていた。彼と座って話をしていると、泣き出す者もいた。彼には……奇妙な存在感があった」作家たちは彼が不思議なほど、誰にでも同情的だったと書いた。彼にとっては、“あらゆる人間は、ほかの人間と同様に価値がある……すべての命は神聖なもの”だったと、リリアン・ロスは言った。彼女は、ショーンが本当にあらゆる人間の命の価値を信じているのかどうか、疑ったことがある。

「ヒトラーさえも?」彼女は彼に訊いた。
「ヒトラーさえもだ」ショーンは答えた。

 気質はちがっても、ロスとショーンは辛辣で鋭敏で、完璧な編集チームだった。二人とも臆面もなく、容赦なく完璧を求めた。熱狂的なまでに正確さを追求した。それぞれ若いころに学校の教室を捨て、ニュース編集室へと進んだ。

 第二次世界大戦では、二人は先を争ってニュースを追いかけた。ロスは長いことショーンに、“われわれはニュースを取材するのではない、ニュースと肩を並べるのだ”と指示してきた。だが十二月七日に日本が真珠湾を爆撃したとき、この方針は捨てられた。その後の何ヵ月か、そして何年か、〈ニューヨーカー〉は世界中の前線に記者を派遣した。この雑誌は“もぐり酒場やナイトクラブ、コーラスガールの世界”を掲載するために生まれ、成長してきた─だがロスは雑誌の初期から、厳粛さを求めてもいた。戦争が始まったとき、彼には二つの選択肢があった。突然時代と合わなくなってしまった、雑誌のもともとのふざけた調子を保持するか(彼は元妻で〈ニューヨーカー〉の共同創設者でもあるジェーン・グラントに、“今は誰も愉快な気分じゃない”と不満をもらした)、それともショーンがのちに述べたように、“報道機関にとって歴史上最大のチャンス”に乗じるか。彼らは歴史的チャンスに賭けるほうを選んだ。

 

 戦時の雰囲気の中、ウィリアム・ショーンは背中を丸めて、遠い場所に記者を送った。どんな記事が入手できるかわからないが――何かあるはずだということだった。そしてロスは、壊滅的被害を受けた戦地に他の記者たちが押しかけても、うまい具合に独占記事を手に入れた。一九四五年、〈ニューヨーカー〉の通信員ジャネット・フラナーはドイツのケルン――やはり“爆弾によって崩壊した”街─の廃墟から、ドイツ人によって捕虜に加えられた残虐行為について報告をした。別の通信員もフラナーとともにケルンにいたが、フラナーだけが丸見えの状態で隠されている記事ネタを手に入れた。これに続く彼女の一連の記事は洞察力のある印象的なもので、ロスはこれが誇らしくて有頂天になった。
「ほかのジャーナリストたちにも同じ事実が見えていて、同じチャンスがあるというのに、特ダネで世界を出し抜くのはなんて簡単なんだろう」彼はフラナーに言った。

 だが大喜びしていられたのも、そこまでだった。多くの戦争における大事件が語られずに済まされていることに、ロスは苛立った。新聞雑誌記者ならではのうっかりからか、残虐行為の記事が過剰にあるせいか、そのような記事を理解するための読者の処理能力が限られているせいか、あるいはその全部だろうか。戦争は終わり、“いくつもの本当に残虐な記事”が見過ごされ、忘れ去られていくだろうと、彼はフラナーに言った。

「〈ニューヨーカー〉が何か手を打たないかぎりはな」と、彼は言い足した。

 (以降略)