わたしたちの恋っておとぎ話みたいだね。
あなたといると身体が焦がれて痛くなる。
あなたがいないと心が涙で痛くなる。
ほかの誰かとなら、こんなに傷つくことはないのかな。
でもね、たとえそうでも思っちゃうんだ。
それでもやっぱり、あなたがいいって……。
第一章 空色の笑顔
「あなたの足に触らせてください!」
夕陽色に輝く放課後の廊下に夏目歩橙の声が響き渡ると、それまで楽しげに談笑していた生徒たちが驚きの表情で振り返った。突然の変態の登場に辺りは異様な空気に包まれる。興味津々の様子でこちらを見ている男子生徒。何事だと眉をひそめる真面目そうな女子生徒。そんな視線を一身に集め、歩橙は身体を直角に折り曲げる。そしてもう一度、あらん限りの声で叫んだ。
「どうしてもあなたの足に触りたいんです!」
特殊性癖を告白された女の子は当然のことながら困惑している。
真っ白な頬がだんだんと血の気が引いて青色に変わると、ようやく生徒たちの注目を集めていることに気づいたらしい。今度は顔を真っ赤にして、陽光に照らされたセミロングの黒髪を振り乱しながら頭を激しく右左に振った。絶対絶対絶対にイヤ! とでも言いたげな様子だ。
しかし歩橙はそれでもめげない。
「どうしても、どぉぉぉしても、あなたの足じゃなきゃダメなんです! だってあなたは――」
ごくんと唾を飲み、彼女に顔を寄せた。
「あなたは僕のシンデレラだから!」
バチン! と黄色い火花が目の中で弾けた。ビンタをされたのだ。
ほっぺたを押さえて呆然とする歩橙。我に返ると、目の前には唇をきゅっと結んだ彼女の顔がある。茶色がかった瞳が光を吸った琥珀のように輝いている。その顔を見て、歩橙は思った。
か、可愛い……。スマホで撮りたい。いや、違う! 怒らせてしまった!
「き、気持ち悪い……」と彼女が涙声で呟く。
歩橙は首がもげて生首が廊下を転がり回るくらいの勢いで頭を激しく振り回し、
「違うんです! 誤解なんです! 僕はただ、あなたに靴を─」
夕陽射す廊下の向こうに彼女の背中が小さく見えた。
逃げられてしまった……。歩橙はがくりと首を垂らした。
渡良井青緒―─。彼女のことがずっとずっと好きだった。入学したあの日からずっと。
隣の隣のクラスのあの子のことをいつも目の端で追いかけていた。小動物を思わせる小柄な身体。雪のように白い肌。目はアーモンド形でくりくりしていて大きくて、唇は優しい桜色をしている。髪は鎖骨の辺りまである艶やかな漆黒。控えめな印象の落ち着いた顔立ちの女の子だ。
彼女は目立つタイプじゃない。いつも派手な女子生徒たちの陰で、コソコソ身を隠すように学校生活を送っている。その姿は屋根裏部屋でひっそり暮らすシンデレラみたいだ。
彼女に初めて目を奪われたのは、入学式に向かう桜並木のことだった。
世界中の青という青をかき集めたような晴天が頭上に広がっている。魔法にかけられたシンデレラのドレスみたいな鮮やかな青空。その青の中を薄紅色の桜の花びらが朝日を浴びて気持ちよさそうに泳いでいる。新入生たちの靴音が耳に心地よい。真新しい革靴が奏でる音楽には、これからはじまる高校生活への期待と不安がありありと込められていた。
そんな色とりどりの靴音を聞きながら、歩橙が校門までのゆるやかな坂道を上っている。
昨日は遅くまで製靴書を読んでいたので、ものすごく眠い。中学生の頃から靴作りを独学することが彼の日課だった。だから昨夜もつい夜更かしをしてしまったのだ。
ふわぁ〜と大きくあくびをしていると、誰かと肩がぶつかった。
「あ、すみません」と反射的に謝った刹那 、腹に巨大なミサイルでも撃ち込まれたのかと思った。
紺色のダブルのブレザーに赤と青のストライプのリボン。チェックのスカートが目に眩しい。黒髪に桜の花びらをひとつ載せ、彼女はそこに立っていた。
それが渡良井青緒だった。
まず目についたのはローファーだ。靴作りの勉強をしているからついつい靴に目がいってしまう。甲の部分を覆うアッパーに穴の開いたベルトが付いたペニー・ローファーだ。革はキップだと思う。生後六ヶ月から二年の牛革で丈夫で質がいい。なかなか高価な靴のようだ。しかし、つま先には無数の擦り傷がある。ヒール部分の色落ちも激しい。ようするにボロボロなのだ。誰もが真新しい靴を履く中で、彼女の靴だけがやけに古ぼけて見えた。
入学式なのに……。そんな心の声が聞こえたのか、青緒は頬を紅色に染めて恥ずかしそうに逃げてしまった。その背中が「見ないでください!」と言っている。歩橙はひとり佇み、桜舞い散る坂道を駆けてゆく彼女の背中に、いつまでもいつまでも、見惚れていた。
入学初日にボロボロのローファーを履く女の子。彼女の姿が目に焼きついて離れなかった。
渡良井青緒は、いつも走っている。帰りのホームルームが終わると荷物をまとめて一目散に廊下へ飛び出す。友達も作らず、部活や委員会にも入らず、どこかへ急いで走ってゆくのだ。
そんな彼女を見つめながら、歩橙はその背中にそっと訊ねる。
渡良井さん、そんなに急いでどこへ行くの……。
渡良井青緒は、いつもひとりぼっちだ。校舎と校舎の間の薄暗い中庭で、毎日ひとりで昼食を摂っている。しかもコンビニで買った一袋百円程度のスティックパンだ。それをちびちび食べているのだ。真似してみたが、とてもじゃないが足りなくて身が持たない。
ぽつんとひとりでパンを囓る彼女を見ながら、歩橙はその背中にそっと訊ねる。
渡良井さん、もっと食べたいって思わないのかな……。 渡良井青緒は、いつも下を向いている。誰かと話す姿はほとんど見たことがない。笑ったところなんて多分一度もないと思う。大きなその目に寂しさを湛え、毎日下を向いて歩いているのだ。
そんな彼女の背中を見るたびに、歩橙はどうしようもなく思ってしまう。
渡良井さん、君の笑顔が見てみたいな……。
だから歩橙は決意した。
彼女に靴をプレゼントしよう! 僕の作った靴で彼女を笑顔にするんだ!
しかし靴を作るには必要なものがある。詳細な足のデータだ。
オーダーメイドの靴というのは、その人のためだけに作られる特別な一足だ。作り手と履き手が〝対話〟をしながらひとつの靴を作り上げることから『ビスポーク(Bespoke)』と呼ばれている。
そして今日、歩橙は二年半熟成させた想いを胸に、彼女に対話を試みたのだが……。